第八羽「グリザイユ」

 

 

 

 

 ジズは食が細いほうだ。菜食主義者ではないがそう多くの肉は食べられない。檻に入る前から胃袋は小さい方だったが、牢屋での生活でますます小さくなったように思う。

 反して、チネッタはよく食べる女だった。

 滅多に作られることのないマダムの手料理は、ほとんどチネッタの胃に収まってしまった。ジズが食べたものはといえば、せいぜい羽兎スクヴェイダーのローストとバゲットが四切ればかり……あとは器に半分ほどのスープだけだ。

 念を押すが、チネッタはよく食べる女だ。そして、よく喋る女でもあった。食べたぶんだけ喋って、喋ったぶんだけ眠る……そういう健康的な心の持ち主なのだろう。

「でね、服を買うにもお金が必要じゃない」

 そう言って、チネッタは部屋の扉を閉めた。

 マダムに、チネッタ……ほとんど初対面の人間に囲まれたジズのささやかな晩餐は、それは大層気まずいものであった。進まぬフォークが余計に進まず、沈黙を誤魔化すための飲み物ばかりが減っていった。

 そういう意味では、彼女はチネッタに──というより、彼女の性分に感謝するべきだろう。誰に指図されるでもなく、それじゃあ新しい家族として親睦を深めましょうぜヘイメーン……そんな調子でマグカップ二つを手に、彼女はジズを部屋へと招いたのだから。

「そんでマダムにお金頂戴ちょうだいって言ったら〝働けバカ〟って言われてさぁ。いやまぁ正論なんだけど。しょうがないから働き出したんだけどさあ。お店はサンクレールって言うんだけどね。あっ、サンクレール知ってる?」

「え、えー……うーん……」たじたじしながらジズは答える。「聞いたことないや」

「飲食店よ」

 ぶいぶい。知らぬと知るやチネッタのマシンガン・トークに拍車がかかる。

「なんていうんだっけな、チェーン? フランチャイズ? とにかく有名な店よ。四等区までなら大体どこにでもあるわ。も、そこが最悪だのなんのって。夜中の一時にクッソ寒い中配達させられるわ注文は多いわ先輩はクソ溜めだわでもう爆笑って感じ」

 っは、と鼻で笑うチネッタ。脊髄からそのまま言葉が飛び出ているようだった。

 怒涛のお喋りを鼓膜に浴びながら、ジズは小さくベッドの端に腰掛けている。どうも他人の部屋というのは……というより、他人と同じ空間にいること自体が落ち着かない……。

 哀れなり孤独をこじらせたジズ。こんなことでこの先やっていけるのだろうか。思慮する間にもチネッタはずだずだ機関銃を撃ちまくる。下手な鉄砲なんとやらとは言うが、チネッタは口下手な上にそもそも当てる気がなかった。

「歴史あるサンクレールの職員としての誇りがどーたらこーたら、もううるせーのなんのって。歴史で珈琲コーヒーの味が変わんのかぁ! みたいな。マジわかんない。労働なんてお金貰うためにやってるだけでそれ以上でも以下でもないでしょ。そりゃあそこにやりがいや使命感を見出すのはいいことよ。でもそれって表に出す必要ないじゃん。カフェモカが割引されるわけでもないし。そうだ、カフェモカ。あれにえらくこだわる先輩がいてさぁ」

 洪水は止まらない。話の四割をやんわりと拾い、六割を反対側の耳へと受け流し……ジズはコップの中のチョコレートに目をやった。絶妙な溶け具合だ。いい塩梅あんばいに胃の隙間を満たしてくれるだろう。

 まあ、これはこれで良しとしておく。沈黙が続くよりはましだ。ジャスパーよりほんの少し連射が早く、かつ意味がないだけで。

「そんでさぁ言ってやったのよね。珈琲なんて誰が淹れても同じ味だろーがーって」

「そしたら?」ジズはいい加減な相槌を挟む。

「明日からもう来なくていいって」

「それって解雇クビって言うんじゃないの」

「のんのん、考え方の問題よ。私は自らあそこを飛び出してやったの。自分の意志で一歩踏み出したのよ。これは偉大なる一歩だわ」

 寝巻きでベッドに転がって、溶かしたチョコレートをすすりながら言うチネッタ。まだ胃袋が鳴いているらしい。それとも別腹という奴だろうか。

「飛び出したって言えばさぁ、ジズ。あんたはなんでバベルから出てきたわけ?」

 どきり。ジズの心臓が飛び上がる。

「わっかんないのよねー。バベルから逃げてきたってのもそうだし、逃げてきたのに、なんで競売に出されたのかもわかんない。ねえ、なんで?」

 またジズの心臓がどきりとした。そろそろ心臓も慣れてくる頃だ。

「い、家出……的な……」

「家出?」

「閉じ込められるのが嫌で……」

「はぁ……」

 冷や汗が背筋に舌なめずりする。ふらふらと泳ぐ目玉はまるで熱帯魚だ。閉じ込められるのが嫌だから──嘘は言ってないのに、どうにも鼓動が速くなる。

「た、ただの……家出だよ」ジズは誤魔化すようにチョコレートを流し込んだ。

「ふうん。反抗期って奴ね。まあ分かるわ、私にもそんな時期あったもの」

 チネッタはへらへら言った。知っているぞ。これは何にもわかっていない顔だ。

「あなたは……」ジズは問うてみる。「えっと……」

「チネッタよ」

「チネッタは、家出したことあるの?」

「したわ。五分で終わったけど」

「家出じゃないじゃん」

「門のところで捕まっちゃったのよ。あれ悪趣味よね、そう思わない? なんていうの、華美と悪徳って感じで……」

 門の形などジズは覚えていない。遠い昔に一度見ただけだ。鉄格子と勝敗のつかぬ睨めっこを続けていたものだから、天上宮の景観すらあやふやになってしまっている。

 なるほど、チネッタと天上宮の話は出来そうにもないようだ。ジズの見立てによると、この女はどこかぬけているが馬鹿ではない。まさかこちらの相槌を一々数えてはいないだろうが、相槌にだってバリエーションは存在するし、ジズに相槌をコレクションする趣味はなかった。

「……ちなみに、チネッタはなんで家出したの?」

 嘘がバレる前に話の舵を取ることにする。ジズの質問を受け、チネッタは首をひねった。

「えぇー、なんでだったかな。もう覚えてないわ、だいぶ前のことだもん。でもまぁ、多分あんたと同じよ。閉じ込められてるみたいな気がしたの」

 同じじゃないけどな──ジズの黒い部分が笑う。顔に出ていたかもしれないし、上手く隠せていたかもしれない。かたわらの三面鏡が閉じられていて、自分の表情が見えなかった。

「ほら、お風呂の時間決まってるじゃない」と、チネッタ。「ご飯と、消灯時間も」

「そうだね」

 ジズはまたざっくばらんと首を縦に振った。そのあたりの事情など知りもしないのに。

「あと、行っちゃいけない場所とか、読んじゃ駄目な本とか多かったし。とにかく行動が制限されるのに……そう、ムカついてたのよ」

 まるで、とチネッタ。

「飼われてるみたいだったから。私はペットかっつー……」

「贅沢な文句」

 いばらがジズの口をついて出る。はっと口を押さえたころにはもう遅かった。悪いところ十個の内の一つだ。それも極めて重篤な部分。幸いにも、チネッタは一瞬きょとんとし、けたけたと笑うだけだった。

「そう、そうね! 今考えれば贅沢な文句よね。ご飯はちゃんと健康を考えて作られてるし、規則正しい生活を送れるし……でもそれが嫌だったの。あと、羽馬はねうまの貸し出し届を出すたびにいらいらしたわ」

「どうして?」

「だって、私たち翼がついてるのよ」

「でも片方だけじゃん」

「だからでしょ。片方ついてるのに飛べないってのがムカつくのよ。いっそ、一枚もなければ諦めついたのに。神様ってのは性格が悪いのね」

 ジズは絶句する。彼女も彼女で思ったことをそのまま口に出す方だが、この女はジズ以上に中抜きのないタイプらしかった。同じ台詞を庭師や老婆の前で吐けるのだろうか。

 いや、この女なら吐くに違いない。それが許される女なのだ。良くも悪くも。周りがどうという話ではない。他ならぬ彼女が彼女に許す。

兎に角ジャカロプそれで……」

「じゃかろぷ?」慣れない発音に、舌足らずで問うジズ。「なにそれ」

「あら。知らないの? うさぎつのよ、角兎つのうさぎ

「生き物なの?」

「そう。アルザルツノウサギよ。ジャッカロープ。とにかくってこと」

 ぴこぴこ。チネッタは結った一対の髪束を揺らしてみせる。ジズの反応がいまいち芳しくなかったのか、おほんと咳払いをして彼女は続けた。

「ま、兎に角ジャカロプそれで家出したの。思春期ってやつ。少女時代よ、少女時代」

 ありがちよね、と笑うチネッタ。

「私ってば、ぱんぴーだから」

「ぱんぴー?」

「そう。普通の奴ってこと。特に面白みもない、どこにでもいるような奴よ。あんたと違って石の羽? っていうの? あれも使えないし、飛べるわけでもないし、他に取り柄があるわけでもない。ただの、普通の、飛べないだけのなりそこないなの」

 ただ。普通。ジズはぎゅっと服の裾を掴む。苛立ちすら覚えた。脊髄からそのまま飛び出た言葉が、どれほど彼女にとって輝かしい物であるか。

 チネッタを責める道理はない。分かってはいる。いるのだけれど。

「んまあ、家出なら無理に帰れとは言わないわ。でもリフターはきっと探しに来るわよ」

「……」

「子供想いないい人だもの」

「……それなんだけど」

 一瞬躊躇し、ジズは地雷原に足を踏み入れた。

「リフターのどこがいいの?」

「全部よ」

「眉ないじゃん」

「あ、そこは除く。眉以外は全部いいと思う」

 何故だか得意げなチネッタ。全部などと随分軽々しく口にしたものだ。ふとロニアの言い草を思い出し、ジズは量の指を広げて言ってみた。

「じゃあ、良いところを十個上げてみて」

「そうねぇ。まず市民の為に天上宮を運営してることよ。これは外せない。立派だと思うわ。二つ目は自分の考えをはっきり口にすること。クールよね。男はあああるべきだわ」

 聞いてもいない解説を挟みながらチネッタは続ける。

「三つ目は誰にでも優しいこと。四つ目は意外に気が利くところ。五つ目は物事を途中で投げ出さないこと。六つ目は誇りをもって仕事に臨んでること。七つ目は整理整頓をしっかりしてること。八つ目は利口でしっかり先を見据えてるところ。九つ目は、そうだなぁ、人の才覚を見抜いて仕事を割り振るのがうまいところかな」

 チネッタの舌は一度も滞らなかった。よくもまあこう次々に出てくるものだ。尊敬すべきか敬遠すべきか悩みながら、ジズは十つ目の指を折った。

「じゃあ十個目は?」

「そうね、これが一番大事なんだけど」

 チネッタは両の指を合わせてハートの形を作ってみせる。

「彼は心が強いの」

「こころ」

「そう。信念? 美学? なんていうの、そういう感じ。自分の中に芯を持ってるっていうか、言動が一貫してるのよね。わかる? だから、リフターの言葉はみんなの心を揺らすのよ。カリスマ性っていうの? そういう、そういうあれよ」

「じゃあ」呆れ半分にジズは問う。「今度は悪いとこ十個あげてみて」

「ないわよそんなの」

 もう半分も呆れに変わった。

「ないわけないじゃん……」

「えぇ。だって、別に悪いところなんて……」

「無理矢理ひねり出してみて」

「うーん……まず眉よね。後は……えぇー……後は……なんだろう……規律に厳しい? でもこれは別に悪いことじゃないわよね、見方が違うだけで……。後はぁー……そうねえ、内装。内装の趣味が悪いの。思わない? さっきも言ったけど華美と悪徳って感じ」

「他には?」

「それぐらいじゃない? なんでそんな質問したの? 心理テスト?」

 夢の中で天使に教えてもらったなどと誰が馬鹿正直に言えよう。時には嘘も方便だ。ジズはクロスワードでも解くみたいにして、空白にいい加減なシチュエーションをはめた。

「バベルで友達に教えてもらったんだけど」

「友達? 誰? 私、知ってるかも」

 しくじった。これはなんとも深い墓穴ぼけつだ。またジズの目が泳ぐ。

「あぁー、えっと……私と同じぐらいに入った人だから、多分知らないと思う……。えと、その人が言ってたんだけど、良いところと悪いところ、どっちも十個ずつ知ってないと好きとは言えないんだって」

「はぁ。変わった奴もいんのね」

「そうなのかな。よくわかんないけど」

合点了解アイ・スィー。つまりその理屈だと私はリフターの半分しか知らないから、彼のことが好きとは言えないってわけね」

 チネッタがチョコレートを飲み干す。今度は彼女の番だった。

「あんたはどうなの?」

「私?」

「そう。あんたよジズ。挙げてみてよ、リフターの良いところと悪いところ」

 脳裏に眉なしの面構つらがまえがチラつく。ジズは目を曇らせた。 

「良いところなんてない」

「ないわけないじゃん……」

「少なくとも私は知らない。でも悪いところなら十個あげられる」

「へえ。興味あるわ。言ってみて」

 待ってましたとばかり、ジズは次々に指を折った。

「皮肉屋。お喋り。自信家。常に上から目線。口髭くちひげがダサい。言うことがいちいち回りくどい。嫌味ったらしい。相手の身になって考えることが出来ない。人が嫌がることを平気で言う。愛も優しさも慈悲もない」

 要するに、とジズ。

「クズそのもの」

 よくもまあこう次々に出てくるものだ。やっぱり私はこういう人間なんだな。

 今度はチネッタが呆れた顔で指を折りつくす。ジズの方はまだ言い足りないという顔だった。まるで泉だ。黒く湧き出る濁った泉。

「……それ、誰の話よ」チネッタが怪訝けげんそうな顔をする。「リフターと全然違うじゃない」

「私にとってリフターはそういう奴だから」

「どんな喧嘩したらそうなんのよ」

「別に喧嘩なんかしてない。そういう面しか知らないってだけ」

 吐き捨てるジズ。チネッタは呆れ顔だった。

「リフターとちゃんと話したことあるの?」

「話したくもない」

「なんだ。知ろうともしてないんじゃない。だったら知らなくて当然だわ」

 生涯の敵の何を知れと言うのか。ジズはたまらず顔をしかめた。

「嫌いな相手のことを知れって言うの?」

「だって、そんなの変よ。よく知らないのに嫌いなの? さっきのあんたの言い草にならえば、あんたもリフターの半分しか知らないってことでしょ。すなわち悪いところ十個。

 良いところと悪いところ、どっちも十個ずつ知ってないと好きとは呼べないっていうなら、嫌うにしたって同じじゃない?」

「…………」

「チハヴォスク=ゼロツフスキー著〝感情粒子論体系〟によれば、どの感情粒子も重さは同じなのよ。愛と憎しみ、どちらか片方だけが重いなんてことは絶対にないわ。あんびば……あんびばなんとか。比べるなら条件はフェアであるべきよ」

 そうなのだろうか。本を読まないジズには分からない。もじゃ毛の天使に聞いてみれば分かるかもしれない。

「でもまあ」と、チネッタ。「よくリフターのことを見てるのね。悪いところしか探してないから、悪いところしか見つかってないけど」

「……」

「思うにその〝十個ずつメソッド〟は、人を愛する時限定なのね」

「なんで?」

「だって、いちいち友達について良いところ十個悪いところ十個、なんて考える?」

「友達いないからわかんない」

 チィちゃんを頭数に含めずジズは答える。鼠に良いも悪いもあったものか。

「じゃあ、その変な友達よ。そいつについて十個ずつ、考えたことある? 言える?」

 ジズはロニアを思い浮かべる。あらなにかしらと首を傾げる様が見えるようだった。

「……ぱっとは出てこない」

「でしょ? 普段そんなこと考えないもん。人付き合いの度にそんなこと考えてるなんて、そいつはよっぽど自信がないんだわ。相手のことをよく知らなきゃまともなコミニュケーションが取れないのよ。でもって性格もそう良くはないな多分。上辺がいいだけよ」

「……」心がちくりとする。ジズはむっとして返した。「……なんでそう思うの?」

「女の勘」

 当てずっぽうにもっともらしく名前をつけ、すらりと言ってのけるチネッタ。同じ女の身のはずだが、そいつはどうやらジズには備わっていないようだった。

「だってさ、良いところと悪いところと、数えてどうすんの?」

 不思議でたまらないという顔で、チネッタは両の指を折っていく。

「どっちかが多かったら? どっちかが少なかったら? 友達の内の誰かが、どっちか片方だけ極端に多かったら? それか、少なかったら? 

 良いところが多かったら相手のこと大好きになる? 悪いところが多かったら嫌いになる? どっちも十個ずつ知らないとその人のことを好きとは呼べないなら、私のリフターへの感情はなんていうの?」

「……?」今度はジズが首をひねる番だった。「ごめん、よくわかんない。つまり?」

「好きって言っても色々あるってことよ」

 口休めとばかりにチョコレート──今度は溶かしてないやつだ──を頬張って、チネッタは続けた。

「恋人は好き、友達も好き、家族も勿論もちろん好き、画家も音楽家も小説家も好き。でも、別に十個知らなくたって好きにはなれるでしょ? 嫌いにもなれる。十個ずつメソッドが正しいのなら、私に友達なんて一人もいないってことになるわ。友達について良いとこ悪いとこ十個ずつ、なんて……わざわざ考えないもん」

 問題は、とチネッタ。

「良いところが悪いところを上回ったとき、あるいはその反対も……どっちがいくつあったとしても──そのときもう片方をどうするかよ。数じゃないわ。数えたことないから知らないけど。つまるところ、そんなのは人を好きになるか嫌いになるかなんてことに関係がないの」

「……」

「良いところが十個あったって悪いところ一つが我慢できなきゃ嫌いになるじゃん。逆に悪いところだらけでも、一つ良いところがあれば好きになれたりもするし。うん? いや、一つは厳しいかな、二つ……三つ? 何個でもいいや。とにかくそういう感じ」

 チネッタひらひらと手を振る。考えているようないないような、言いたいことが分かるような分からないような。ひどく曖昧な女だ。そのくせ自分の中で白黒はついているのだろう。

「んまあ、知ろうとするのは悪いことじゃないんじゃない? 私は面倒だからしないけど」

「しないの?」

 下の上でチョコレートを転がして、チネッタは「しないなあ」と呟いた。

「……後から悪いところが目に付いたら? その逆も」

「その時は考えを改めるのよ。それはそれ、これはこれよ」

 割り切りのいい女だ。本当に。良くも悪くも。良くも悪くも。大事なことだから二回言っておく。

「別に十個ずつメソッドを否定するつもりはないけど、そのやり方はとってもデンジャラスだわ。危険ってこと。時と場合を選んだ方がいいわね」

「……?」

「人は二〇なんて簡単な数で出来ちゃいないってことよ。二十個数えて、それで相手の全てを知ったつもりになってたら、いつか痛い目見るわ。

 十個目までは我慢できても、十一個目は我慢できないかもしれない。知らなかった十一個目が、自分とって耐え難いものかもしれない。

 そうなったらどうする? 釣り合いを取るために新しいところを見つける? ノートは何冊必要? 〝私の好きな人図鑑〟でも出す?」

 チネッタはシルクハットを被るような真似をし、にまりと笑って言った。

「大事なのはいつだってどちらか片方なのだよ、ロリィタ・ジズ」

 いない筈の骸骨の声が重なった気がした。ジズはベッドへと仰向きに倒れる。思考が渋滞していて上手く整理できない。

 チネッタの考えを理解することはできる。だが、ならおうとは思えない。彼女はよくも悪くも割り切りがよくドライな人間なのだ。ジズはここまで乾けなかった。

 良いところと悪いところ。どちらか片方だけで人を愛せるかどうかが決まってしまうなら、きっとジズにとってその片方は〝悪いところ〟の方だ。そして生涯ジズがジズを愛することは適わないだろう。

 片方では駄目だ。翼においても心においても。両方が必要なのだ。他人はともかく、少なくともジズがジズと相対あいたいする上では必要だった。

 バランスの問題だ、とジズは考える。ぴったりであればいいという話ではない。自分の中で釣り合いがとれるかどうかだ。その点だけはチネッタに賛成だった。その点だけは。

「チネッタにはわかんないよ」

 やっとのことでジズは言う。対話としては最悪の形だった。

「じゃあ」と、チネッタ。「あんたにも私のことはわかんないってことね」

「……」

「まぁ当たり前よね。私はジズじゃないし、ジズは私じゃないもの。それでいいんだわ」

 片手をついてジズへと顔を寄せるチネッタ。もう片方の手がベッドに沈む。触れそうなほど近付いた彼女の唇には、塗りそこなわれたショコラ色の口紅。

「チネ……」

「尖ったわね、言葉が」

「……」ジズは目をそむける。「……ごめん、今のは……」

「正直に答えて。私がリフターを好いてるのが不思議? それとも不愉快?」

 嫌いな女が二種類ある。嘘をつく女と約束を守らない女。どちらも自分の要素でありながら……いや、であるが故に嫌いなのだ。だから、ジズは正直に答えた。持てる限りのオブラート全てを使って。

「……不愉快まではいかない。でも、共感はできない」

「あんたが悪いところだけ見て人を嫌いになれるように、私は良いところだけを見て人を好きになれるの。お互い彼について半分しか知らないってことね。リフターについて議論するのは、私達が両方を知ってからにしましょ」

 その前に、とチネッタは続ける。

「お互いについて知るほうが先だけどね」

 どうにもばつが悪い。胃がぐるぐると唸る。チョコの所為ではなかった。

 ちらりとチネッタの顔を見る。まっすぐこちらを覗くその目がどうにも苦手で、ジズはまた布団の柄に目を逸らした。

「……ごめん」

「なんで謝るの?」

「気分悪くしたかと思って」

「ノンノン」

 チネッタの微笑みは箒だ。ジズの曇りを掃くように払った。

「お互い言いたいこと言っただけじゃん。私、物事をはっきり言うタイプの方が好きよ。白黒はっきりしてるのが好き。私も思ってることそのまま言っちゃうし」

「だと思った」

「そうそう。その感じ。あるがままが一番よ」

 良いところと悪いところ。きっと誰もが持つ二面性だ。だが、はたして奴にもその二面性は存在するのだろうか。眉のない男。服を着た絶望。奴が子供達に優しく微笑みを向けている? 福祉の為に身を尽くし、片翼者メネラウス達を救うべく果敢に雄弁を振るっている? 

 ジズには想像できない。想像に足るだけの材料を持っていなかった。脳味噌の隙間にへばりつくあの下卑げびた微笑み。後光は差せどジズに落ちるのは影だけだ。

 分かったのはたった一つだけだ。自分に関して、そして他人に関して。

 チネッタという女。ミドルネームは知らない。ジズは彼女が苦手だった。別に、リフターを信奉しているからというわけではなく。そんな浅い理由ではない。問題はもっと根深いところにあるのだ。それは即ち生まれと同じくどうにもならない部分に違いない。

 いずれは理解せねばならない。愛と優しさであろうとするならば、誰が強いるわけでもなく時は訪れるだろう。問題はそのとき彼女自身が飛び込めるかどうかだ。

(……むつかしいな)ジズはマグカップに口づける。(人と話すのって……)

 愛と優しさ。聞こえはいい。気品と高潔に満ちている。一度着こなせば誰だって別人になれるだろう。自分を変えるにはおあつらえ向きの服だ。だが、かくも難儀なものだとは。

 遠い。程遠いぞ、愛と優しさ。鼠の身にはお前が遠い。

 それはそう、まるで──この天上においてなお、雲を掴むような感覚なのだ。

 

 

  ◆

 

 

 喧騒を好む人間はそういない。一時だけならまだしも、夜中の二時、三時ともなれば室外機の音に耳を傾けながら眠りにつきたいものだ。いい歳の老婆でさえそうなのだから、物静かな庭師が静寂を愛することは何も不思議じゃない。

 せせらぎの中、ぱちぱちとつたを絶つ音が挟まる。いたずらに広い空間の真ん中、ビーガンは噴水にまで侵食したつると葉を整えながら、時折ときおり懐中時計へと目をやった。

 書類上は三時までが労働時間だ。もう八分も過ぎている。時間内に終わったためしはない。マダム・クリサリスの屋敷でのように契約外の仕事を任されているわけではないが、如何いかんせん天上宮は手に余る広さだ。庭師がもう二、三人いて丁度いいぐらいだった。

 雲海を踏んだ天上の宮殿、その中空に庭園とは恐れ入る。正しくバビロンの庭というところか。ビーガンはリフターに──思想や信条はともかく人としては──一定以上の敬意を払っているが、この悪趣味さだけは頂けない。

 庭師のビーガンは静寂を好む。広く言えばしとやかで落ち着いていて、主張の激しくないものを好むのだ。女にせよ男にせよ内装にせよそうだ。

 そういう意味で言うと、この天上宮は彼にとってチネッタと同じたぐいのものだった。口やかましく、饒舌で、見よ我こそは我こそはとうざくらしいまでに激しく自己主張する、品性と慎みに欠けた舌の根の渇きを知らぬ豚だ。

「……」

 庭師、絶つ。つるを絶つ。一つ終われば次の蔓へ。一段落する度に懐中時計を覗いてみるが、時の流れがいやに遅い。そのくせ睡魔だけは重くのしかかる。

「……」

 脳裏が騒がしい。一人の女がはしゃいでいる。回しても裏返しても噛み合わぬ女だ。野菜と果肉で出来たビーガンの脳味噌にありったけのチョコレートをぶちまけ、これが私流なのよと得意げにスプーンでかき混ぜてみる。いい絵面えづらだ。スプラッターだ。

 ビーガンは庭師だ。種を植えることもある。だが除くことはそうない。彼がどれだけ庭師として優れていようが頭痛の種までは取り除けない。

 育ってしまったが最後、そいつは怪物の触手がごとくつたを伸ばし、脳味噌が浸された溶液を吸い上げ、彼の頭をスポンジみたいに干乾びさせてしまう。庭師だから如雨露じょうろは持っているが、脳味噌を潤すために頭を切開するわけにもいかぬ。そんなことをする頃には既にの仲間入りだ。本当に実行したにしろ、実行しようと思っただけにしろ。

「……ちっ」

 ばちり。庭師は断つ。断ってはいけない花弁はなびらを断つ。手元が狂ったわけではない。苛立ちからそうしたのだ。干乾びていく脳味噌が彼を衝動に突き落とした。

「……チネッタ」

 徒花あだばなが頭を離れない。チネッタという名のいびつな花だ。名の意味は知らない。なにゆえ彼女がチネッタであるのかも知らない。だが、どうにも不愉快な響きだった。

 何故だ? あの女の何がそうもかんに障る? 何がここまで脳味噌を痺れさせる? たかだか二言三言交わした程度のよく知りもしない女が、どうしてこうも頭に過ぎる?

 言葉の所為だろうか? 自分の値札は自分で貼るものだと彼女は言ったが、そのたった一言でビーガンという男の脳味噌は狂ってしまったのだろうか? 正反対の価値観特有のざらついた耳触りが、およそ五秒足らずの──恐らくは何の気なしに放たれた世間知らずの小娘の戯言ざれごとが、庭師の心にひびを入れたのだろうか?

 おかしな話もあったものだ。ビーガンには到底信じがたい。何の毒気もはらんでいない言葉で傷付く心など、ひびが入る入らない以前に……真綿のようなものだ。

 あるいは自分が一枚でも翼を持っていて、そいつが石の羽だったなら、彼女の言葉に微塵も揺るがずいられたのだろうか?

「……馬鹿馬鹿しい」

 違う。答えはもっと別のところにある。心臓の奥底、雑草のように深く根を張った、どうしようもない部分にこそあるのだ。だが正体は掴めない。ほんの一瞬、脳天をぶち抜いた電流の正体が庭師には分からなかった。

「…………チネッタ」

 名を呼ぶ。意味はない。必要でもないだろう。少なくとも今は。

 不愉快な女だ。そのくせ思い描く時はいつも笑顔で出てくる。だから不愉快なのだ。

 甘く重苦しく時に苦い、ざらめのような細やかな粒子。

 ああ、知っている。脳裏に過ぎる耽美な桃色。認めたくないが知っている。

 チハヴォスク=ゼロツフスキー著〝感情粒子論体系〟にれば、このこまやかな感情の粒子の正体は────

「働き者だな、相変わらず」

 男の声だ。感心と呆れが同居していた。多分に含まれた低周波が空気を震わせ、そして静けさに飲まれてゆく。

 ビーガンは一区切りをつけてはさみを閉じ、声の主へと向き直った。リンシュヴァール=郷守=アゾキアの整直な面持ちへと。

「どうも。まだ寝てないんですか」

「ベッドが広くてね」アゾキアはそう答える。

 ローブと一対の翼隠衣デュラルケット。右手には大理石のコップ。寝起きで水を求めて彷徨さまよう姿そのものだ。別に酔っているわけでもなかろうに、アゾキアはどうにも彼らしくない足取りで、柱の隣に腰掛ける。

「良いことだ」と、ビーガン。「話に聞く限り、あなたの彼女の寝相がいいとは思えない」

「彼女は夜勤さ。つまり僕は一人ぼっちってワケだ」

 アゾキアはお手上げという様子で苦笑する。

「暇だろ? 少し話相手になってくれ」

「五分だけなら構いませんよ。ここの花壇で今日の分は終わりなので」

「仕事が早いな」

「庭師なもので」

 どことなく面倒の香りを嗅ぎ取り、ビーガンは一差しの造花に向き直った。

 知る限り、アゾキアは真面目な男だ。規律を重んじる。中身こそ違えどリフター同様に規則正しい生活を好むのだ。夢遊病でもなければ夜中に館内を徘徊したりはしない男だった。

 まさしく想像は彼を裏切らなかった。アゾキアはいつにもまして気難しい表情で、寝言を吐き出すようにして口を開く。

「君は、正義についてどう考える」

 秒針の進みが更に遅くなる。一つ増えた頭痛の種に困憊こんぱいし、庭師はいい加減に返した。

「さぁ。そんなの考えたこともないし、考えついたところで答えにはならないでしょう」

「何故?」

「付け焼刃じゃない」

「時間をかければいいってものでもないだろう?」

「彼女と喧嘩を?」

 ビーガンは核心を突く。残り時間が五分だろうが一時間だろうが同じように問うただろう。アゾキアがふっと息を吹き上げ、その前髪を揺らした。

「いや、喧嘩というか……意見の食い違いだ」

「正義について? とんでもないカップルだな。出来れば関わりたくないタイプだ」

「君は天上宮の闇を知っているか?」

 動揺はない。ビーガンははさみを止めなかった。

「闇? 何です、それは」

「さぁ。分からない。だが、クアベルはグレーな資金源だと」

剣呑けんのんな話ですね。まぁ確かに……天上宮は市民からお金を取ってませんから、疑いたくなる気持ちも分かりますが」

「彼女は物の例えに〝違法魔草マーブ〟の栽培を挙げた」

 またも花弁かべんを断ち切りそうになる。ビーガンは舌打ちし、魔吸器越しに呼吸を整えた。

 クソったれが。まったく、なんて面倒なことを。

「僕がここに魔薬草ハッパを育てに来てるとでも?」

「そうは言ってないさ。ただ一応聞いておきたかっただけだ」

「育ててますよ」

「は?」アゾキアが頓狂な声で返した。「なんだと?」

「勘違いしないで下さい、別にグレーなものじゃない。医療用の鎮静草、それから魔酒マキュールの原料なんかに使うもの……どれも合法です。違法な草はここでは育てちゃいない」

 ここではね、とビーガン。

「ビーガン、君は……」

「一分経った。あなたがしたいのはクアベル嬢の話でしょう。それとも僕の話を?」

「…………いや。今はいい」

 アゾキアは言葉を飲み込む。彼にしては偉大なる譲歩だった。

 わかっているだろう、彼自身。今、こころが求めているのは解決じゃあない。

「クアベルに言われたんだ。僕らの賃金や運営費、子供達を養うお金がどこから来ているか、考えたことはあるかと。それで、彼女はグレーな資金源があると言って……」

「あなたはそこに突っかかった」

「間違ってるか?」

「正しいでしょうね」

 だが、と……なんでもない風にビーガンは続ける。

「正しさだけでは生きてゆけない」

「僕にはそれが理解できない。いや、理解は百歩譲ってしたとしても……そこを割り切るなんてことは絶対にできない。ここは福祉施設だ。犯罪で賄われた金で子供達を養うなんてことがあっていいわけがないだろう。明るみに出れば市民が黙っちゃいない」

「市民が黙っているからこそ成り立っているのでは?」

 アゾキアは唇を噛んだ。よほど胸が塞がっているようだ。

「クアベルも」溜息ひとつ。「そう言ってたよ」

「義憤で糾弾きゅうだんするのは簡単です。だが、対案がなければ解決にはならない。仮にそのグレーをあなたが暴き、市民に公表し、そして天上宮が失墜したとして……その先はどうするんです? 子供達はどこへ? 天上警察が面倒を見るわけでもないでしょう」

「……ああそうだ、分かっちゃいる。けどそんなのは、他に選択肢がないから仕方なく飲み込んでいるだけじゃないか。割り切ったとは言わない。ただの……」

「……」

「…………妥協だ」

 妥協……よもや、つちかった美徳をなじられる日が来ようとは……ビーガンは空笑そらわらった。恐らくアゾキアという生真面目な男も、こういう気分を味わったのだろうが。

「どうして割り切れる?」

 アゾキアは問う。解決を期待したわけではなかった。

「物事は、白か黒かだ。グレーなんてのは妥協の結果に過ぎない。仕方なく選んだ選択肢でも運命は決まってしまうものなんだぞ。君たちは……どうしてそうも灰色なんだ」

「成り立つなら妥協でも構わない。クアベル嬢なら多分そう答える」

「……ああそうだ、その通りだ、くそ」

 それきりアゾキアは閉口してしまった。まさしくどうにもならないものに打ちのめされている様子だ。心同様、翼もへたれている。

 残り二分。仕事はもうじき終わる。義務から解放されるのだ。ビーガンが最後のつた周りに手をかけた頃、アゾキアはようやっと、虫の断末魔ほどの声で呟いた。

「君とクアベルが付き合えば良かったのかもしれないな」

 ああ、そうだな。そして代わりにチネッタという白黒はっきりしたツートーンの徒花をこの男に宛がえば良かったかもしれない。万事解決世はこともなし。口を開くたび衝突して互いの心をずたずたにするような愚か者達が、ほんの少しだけ世界に優しくなれたかもしれない。

 素敵だな。反吐が出る。夢と呼ばずして名はやれぬ。

「人はパズルじゃない」

 ビーガンは吐き捨てた。

「そんなものは生まれと同じく……どうにもならない部分なんですよ」

「君が男しか愛せないように?」

 対話の最後を飾るのが嫌いだ。静寂に責任が伴うから。だがアゾキアはもう何も言わない。ビーガンもそれ以上言及はしない。

 沈黙が残りの一分を平らげる。庭師道具をしまい終える頃には、生真面目きまじめな男は自室へと歩み出していた。

 

 

  ◆

 

 

 マダム・クリサリスは寝つきが良い方だ。雑念が働いたからと言って夜中に紅茶を淹れるような真似はしない。そしてその眠りは深く、安らかで、何者にも邪魔されてはならない尊いものだ。リフターでいうところの読書と絵画に相当する。

 それだけに安眠を妨害された彼女の怒りは深い。母なる海を全て収めてまだ余りある。

 時を選ばぬ天災と言えど彼女の安眠を妨げはしない。余震の一つも起こそうものなら彼女の怒りが本震となるからだ。神は彼女の恐ろしさをよく理解していた。

 しかし、悲しくも世には彼女の恐ろしさを知らぬ者が多い。恐ろしさを知る頃には、とうにこの世の者ではなくなっているから、当然と言えば当然だが。

 そういうわけで、そそのかされるがまま溜息混じりに老婆の隠れ家を訪れた怠惰な女──クアベルという世の中を舐めきった女が彼女の恐ろしさを知らなかったのは、無理もないことだった。

「クソッ。冗談じゃねえ」

 時告げの鶏にしては口が悪い。野ばらに響いたのはクアベルの声だった。

「なんなんだ、なんなんだあのババア! クソッ! 聞いてねえよあんなの……大体管理官はいっつも肝心なトコ話さねーんだよ……!」

 クアベルは舌打ちして暗天の平原を駆ける。来がけに羽馬はねうまの背で散々溜息をついたものだが、これでは完全につきぞんだ。返してもらうあてはない。

「めんどくせえッ……めんどくさすぎる!」

 無知は罪だし、時として罰にもなる。マダム・クリサリスの恐ろしさを知らぬ者は多いが、知らなかったではすまされない。

 それは音もなく飛来し、三つ、四つとクアベルの行く手を阻むように大地へ転がる。

「!?」

 なんだこれは。石? パイナップル? アスカのマツボックリに似ている。何かのインテリアだろうか? それも金属ではなく鉱石の? アルザル文字が刻まれている。

 違う、魔榴弾シュマプネル──炸裂。気付いたクアベルが芝生に転がる頃には、地面にぽっかりと四つの穴が空いていた。飛散した破片がアルザル文字の号令に従って燃え上がり、蝶の蜜壷の一角を火の海原へ変えてゆく。

「あまり騒ぐんじゃない。チネッタが起きるだろう」

 芝を踏み分け老婆は迫る。杖を片手に、ゆっくりと、ゆっくりと。

「……ババァ、てめえ只モンじゃねーな……」

「口の利き方を知らんクソガキだね。親の顔が見てみたいもんだ……。おっと、比翼者ヴァイカリオスだから母親は死んでいたか、失礼」

「口の減らねえ……!」

 クアベルは右肩の翼をかざす。石の羽だ。比翼者ヴァイカリオスのみに許された超常の力。闇に紛れてその姿は見えないが、巨大なハンマーか、芝刈り機、はたまた斧……とにかく大雑把な彼女のことだから、大雑把な見た目に違いない。

 いずれにせよ巨大にして強大な武器だ。老婆一人をつぶすことなど容易もあるまい。ここがマダムの庭でさえなかったなら。

 クアベルは羽の名を唱える。言霊に似た強固な意志だ。亞言者ゼノグロシアなら、誰もがこのプロセスを踏む。ジズもジャスパーも同じようにして羽の名を唱え、そして石にしてみせるのだ。

 一つの儀式でもある。古来、神が名を与え物事を物事たらしめたように、名付けることとは魂を与えることに等しい。古代アルザル語とはそういうものだった。

 しかし、どういうわけかクアベルの翼は反応しない。何度名を呼んでも、苛立ってみても、一向に石になる気配を見せなかった。石の羽など知りません、私はアトラスの住人誰もが持っている、極々有り触れた普通の羽です……そういう調子だ。

 神経が絶たれたわけではない。感触はあるし命令にも従う。羽の先だけを器用に広げることも出来る。ただ頑なに石になろうとしないのだ。丸っきり言葉を拒んでいる。

 一等イカれた手練てだれの老婆を前にして、クアベルは産毛に似た手触りのままの羽に、ああでもないこうでもないと文句を並び立てた。無論そんな場合ではなかった。

「……なんなんだよ、なんでだよ! クソッ!」

 樹に繋いできた羽馬が不思議そうに彼女を眺める。庭師の馬ほど利口ではないから、助けは期待できそうにもない。

「不思議そうだね」

「……そうでもねえさ」

 クアベルは歯を軋らせながら老婆を見返した。言わずもがな、丸腰だ。他に戦う手段は持ち合わせていない。せいぜいカフェモカの空き瓶ぐらいか。

 焦れば思う壺だ。ここが蜜壺だからという話ではなく。笑えない。

「顔を見れば分かる」マダムは笑った。「お前は物臭ものぐさだ。どうせろくすっぽ勉強もしてこなかったんだろう。アルザル語はただの言語じゃない。それそのものがソフトでありハード……この世界そのものさ。魔法と言えば、大層に聞こえるがね」

 さかる炎は衰えを知らぬ。照らし出された老婆の顔にしわ数多あまた見受けられ、その全てが灯りを浴びてくっきりと陰影を携えていた。不気味? 奇怪? どちらでもないが妙に気迫がある。マダムは隙のない身のこなしのまま、飛散した鉱石の欠片を手に取った。

 しくじった。クアベルは素直に己の軽はずみさを悔いた。

 この女は──ウスターシュと同じたぐいの人間だ。社会に馴染なじんではいけない人間なのだ。

「こいつは只の鉱石さ。火薬なんか使っちゃいない。だが炸裂する。何故か分かるか?

 アルザル文字がそうさせる。燃えろと石に刻めば燃えるし……光れと刻めば光る。冷蔵庫の中を覗いたことは? 水晶に文字列があるだろう。あれに冷やせと書いてあるから、冷蔵庫は冷蔵庫たりるんだ。魔算機マギコンにしても、魔航空機マグザグにしてもそうさ。文字列に従って粒子の力を運用しているに過ぎない」

「あぁ……?」

「誰もが持ち合わせ、世に満ち満ちている……魔素まそとは、万能のエネルギーだ。あらゆる力の源泉となる。はるか昔、どこだったか……旧グレートプレサピスより出土した魔陣まじんもそういう仕組みさね。アスカの〝オフダ〟を知っているか? あれも同じ原理だ。

 では何故お前の羽は石にならないと思う? もう分かるな?」

 マダムはふところから紙切れを取り出し、これ見よがしにひけらかす。

「こいつにそう書かれているからさ」

「思慮の浅いババァだ!」

 仕組みを理解するだけの学がクアベルにはないが、相手がご丁寧にも手の内をさらしたとあれば話は簡単だ。こういう時のクアベルは行動が早かった。

 普段ののろま加減からは想像しぬ速さで闇を駆け老婆の背後を取る。こればかりは若さの誇る武器だ。杖をつく老体で追いつける速さではあるまい。

 もらった……クアベルは手を伸ばす。ここにきて若さがあだとなった。老婆はほんの少し杖をひねり、その先端をクアベルの方へと押しやった。さして力は入れていないし速さも必要としていない。それでいいのだ。放っておけば相手の方から勝手に突っ込んでくるのだからこれほど楽なことはない。

 鳩尾みぞおちの少し下あたりに杖がめり込む。それはもう無茶苦茶な勢いで突っ込んだものだから、クアベルはたまらずえづいた。

「っうぇ……」

「思慮の浅い小娘だ。ただの紙幣だよ、クソバカ」

 畜生。畜生、畜生。クアベルはその場に崩れ伏す。しゃぶつが芝生を塗らした。胃液と少しばかりのカフェモカだ。おまけに吐いたはいいが息が吸えないときている。

 もはやクアベルは夜襲どころではなかった。カフェモカを胃袋ごと吐き出しそうになるのをこらえ、淡白に見下ろす老婆を睨み上げる。

「なにを睨んでるんだい。今のはお前の前方不注意だよ」

「……く……」

「リフターの回し者だな? いいさ、言わずとも分かるよ。夜襲とは、これまた完璧主義者のやりそうなことだが……あいつでも人選を誤ることはあるようだね」

「……この、老いぼれ……」

「そうだ、噛み付け。それは若さゆえの特権だ。だが同時に責任を伴う。わかるな?」

 わかんねーよクソ。くそくそ。クアベルの瞳に杖の切先が向けられる。鳩尾みぞおちの次は目玉か。いやいやこいつは大目玉。いよいよもって笑えない。羽馬はねうまはまだ怪訝そうにこちらを見ていた。

「私は平等が嫌いだがね」マダムは続けた。「死ぬことだけはそうあれと思うよ」

 クアベルは土の味を噛み締める。要するに、勝ち馬に乗りそこねたのだ。

 

 

  ◆

 

 

 貧富の差は絶対的だ。貧しさは心を曇らせ、希望をとざし、魂をかつえさせる。誰もが持つべき余裕をさえむしばむ。這い上がることは常に困難を極めるものだ。それは何もアトラスに限った話ではないし、アルザルに限った話ではない。

 アトラス六等区、クリセワム市第七トーチカ……崩れかけの鉱石と濁った石灰からなる、およそ〝底辺〟としか称しようがないこの場所から這い上がることは──それはそれは困難を極める。我武者羅がむしゃらに働けばそれで何かが解決するという話でもない。

 貧しい。だから働く。働きすぎる。そして身体を痛める。次は心だ。するとやがて働けなくなり、厚みを増した貧しさと焦燥感が心の退廃に拍車をかける。

 こうなればもう誰も抜け出せない。自らの強靭な意志によって絶望をねじ伏せるか……そうでなければ時の解決を待つしかない。

 さりとて大概の人間は、心が死してなお身体を奮わせるほどの意志など持ち合わせてはいないし──時ですら全てを解決してくれるわけではないのだ。

 一度落ちれば這い上がることは難しい。翼がなければ尚更なおさらに。

「えぇー! ママ、いっちゃうの?」

 少年はそう言って、母親の服の裾を掴んだ。九つ、十つにも満たぬだろうか、いずれにせよ悲劇を理解できる歳ではなさそうだ。母親は何も言わずにしゃがみ込み、少年の頭を慈悲深く撫でる。

 羽馬はねうまと職員たちを従えたリフターは、母親の背後に目をやった。

 粗雑な石造りの家……いな、家とは呼べない。小屋だ。天上宮の馬小屋でさえもう少し広さがある。部屋の奥には石畳の寝床と頼りない毛布。どちらも寒さをしのげる代物ではないだろう。中天太陽ソーラから遠く肌寒い六等区ではなおのことだ。壁も屋根もげている。馬を飼う余裕など見当たらない。

 少年は片翼者メネラウスだった。纏っているのは母と同じく薄汚れた襤褸ぼろ切れで、左肩の翼隠衣デュラルケットもほとんど衣服としてのていをなしていない。やや頬がこけており、時折こほこほと咳き込んでいる。

「こちらが」少年の頭を撫でるリフター。「息子さんですね」

「はい。魔素濃度マソノードが三八Mgマギオンしかなくて……ご存知の通り、六等区だと」

「バニョシレーナ大広雲海だいこううんかいに近いため、呼吸器に負担がかかる。そうですね?」

「お医者様には診てもらったんです。三等区まで昇って……でも、治療は……」

 言葉はそこで途切れたが、言わんとするところは誰の目にも明らかだった。この経済状況で投薬治療などできようはずもない。

「病状は?」

「第三種です。キョハ・リカデガ型の……」

「ご安心下さい。キョハの三種ならまだ回復の見込みはあります。完治は難しいでしょうが、四等区程度の濃度になら充分に順応が可能でしょう」

 リフターは管の伸びたマスクを取り出す。ビーガンのものと同じタイプだ。

「天上宮までは、この魔吸器マスクを装着して昇ってもらうことになります。館内の魔素濃度マソノード魔草マーブによって適正に調整されていますから心配ありません。フィルターを徐々に小さくしてゆき、長期にわたって魔素まそへの耐性をつけましょう。早ければ一年……最長でも三年あれば、呼吸器なしで生活できるようになるかと」

「……三年……」

 決して短くはない。待つ側となれば尚のこと。母親はうつむき、少年の肩に手を置いた。

「……ご婦人。魔吸器マスクは無償で貸与可能です。さいわいまだストックに余裕がありますから。もし別れが辛いようであれば、そのまま六等区でお子さんと暮らされても……」

「……いえ……それじゃ駄目なんです……」

 母親が少年の服をまくってみせる。背中一面に湿疹しっしんうかがえた。

「……見覚えがあります」リフターはない眉をひそめて呟いた。「アレルギーですね」

「はい……これが原因で、周りの子供達にいじめられていて……」

「……」

「限度を超えてるんです……! 軽い気持ちで魔草マーブかばんに入れられたり、魔素まその濃い物を無理矢理食べさせたり……日に日にエスカレートしてて……ついこの間もアゾローチを食べさせられて、一歩間違えれば死ぬところだったんです……! もうこれ以上は……」

「……がたい」

 リフターは怒気をあらわに言う。控えていた職員達は、この刃物のような男がこうも感情を表に出すものかと驚いた。彼らが五層より上の担当だったら、ああまたこれかと思っただろうが。

「ママ?」

 少年が首をかしげる。理解していないのだ。自分がこれからどこに行くのか、母親がこれからどうするのか、そして──何が原因で自分たちが離れ離れになるのかさえも。

 リフターは苦い顔をする。これもまた珍しい顔つきだった。

「ご婦人。あまり自分を責めぬよう」

「私……私っ……母親、失格です……だって……自分が……自分の命を賭けて産んだ命なのに……こんな……こんなの……」

「……聡明な人だ。息子さんもあなたに似て優しい」

 母親の手を取り、続いて少年の手を取り、リフターは二人の掌を合わせる。

「手を繋げば、心も繋がるものです」

「……」

「どうか、その鼓動を忘れぬよう」

 さすがに、聖者が過ぎるか──小さく咳払いし、リフターは続けた。

「なに、今生こんじょうの別れというわけではありません。面会の際はいつでもおっしゃって下さい。バベルの者を迎えに寄越します。いつか、心の準備が出来た時でいい。時間はかかるかもしれませんが……息子さんも必ず理解してくれる」

「……」 

「仕方のないことです。空を飛ぶ魔装具マジェットたぐいはほぼ現存していませんし……なにより高価だ。羽馬はねうまにしてもそうです。あなたが悪いわけではない。いわれのない中傷に惑わされぬよう、心だけは強く持たねばなりません」

「……じゃあ、誰が悪いんですか……?」

 母親はやつれた表情で問うた。過労と神経の衰弱がいちじるしい。正視に耐えうるとはこのことだった。リフターは何事かを言おうと口を開きかけ、改めて母親の言葉を待った。

 雄弁家と言えども状況は選ぶ。今は彼が話す時ではない。

「……この子が何したっていうんですか……? 私が……私が何かしたんですか?

 普通に生きたいんです……それだけなんです……それだけなのに……なんでですか?

 みんな普通に生きてるじゃないですか……どうしてこの子だけいじめられるんですか? 羽が片方しかないからですか? 魔素まそアレルギーだからですか? それとも呼吸器に障害があるからですか?」

「……」

「……そんなの……どうしろっていうんですか……。生まれる前に誰かが教えてくれるわけでもないのに……この子が何かしたわけじゃないのに……」

「……ご婦人、それは……」

「そんなの、そんなの……」

「……」

「どうにもならないじゃないですか……」

 母親の目に光はなかった。飲まれた者の表情……リフターが何度も見てきたものだ。

 そして、できればこの先も、長く──見たくないものでもある。

「ご婦人、誰が悪いという話ではないのです」

「……」

「誰も悪くないのに傷つくものがいる、その状況こそが問題なのです」

 言葉の覇者は口を開いた。母親の華奢きゃしゃな両肩に手を置き、真っ直ぐに彼女の目を覗く。

「天上宮は、植林活動も行っています。魔素まそが極端に濃い地域にはハルメシアを、極端に薄い地域にはエキオンを植え、大気中の魔素濃度マソノードを極力均一化することが目的です。

 無論これが達成されたとしても、残念ながら、片翼者メネラウスや魔力障害を抱える子供達の出生率が〇になるわけではありません。しかし、その頃には今より遥かに住みやすい環境が整っていることでしょう。

 我々天上宮の目指すところは、少数派が不自由なく暮らせる世界……人と人とが互いを思いやることが出来る、愛と優しさに満ちた世界です」

「……愛と……」母の目が子に移ろう。「優しさ……」

「ノキア写本による誤った教え……そして、それに対する人々の拡大解釈が、なりそこないを揶揄やゆ侮蔑ぶべつする今の風潮を創り上げました。

 根はあまりに深い。我々の祖先が天上に逃げ延び、ノキア涙海溝るいかいこうより写本がもたらされたその日から今日こんにちに至るまで、その根は広がり続けてきたのです。誰も疑おうとはしない。おかしいと思っても誰も口には出さない。出せないのです。少数派は常に迫害される」

「……」

「だが我々は違う。痛みを恐れるあまり正しき心を閉じた人々の盾となり、そして矛となります。我々が先駆けとなりましょう。

 天上宮は全ての罪なき子供達の為に存在します。決していわれなき差別などに屈してはなりません。必ずやノキア写本を改訂し、あなたがたのような、真に心の強い者が胸を張って歩ける世界を創り上げます。これはただの理想ではない。すぐそこまで来ている未来なのです」

 絶対に、と念を押すリフター。どこか暗示のようにも思えた。

「〝待て。しかして希望せよ〟……〝モンテ・クリスト伯〟の一節です。ご婦人、どうか……希望を見失なわぬよう。されど、その輝きに目を焼かれぬよう」

「……希望……」

 月並みな言葉だ。それゆえ人の心を打つ。ありふれた悲劇であればあるほどに。

 一差し。ほんの一差しだけ母親の目に光が浮かぶ。今はそれで充分だ。眉なしの背には飽きもせず後光が差していた。

 リフターは母親の頬にハンカチを宛がい、少年の方へと屈んで目線を合わせる。

「今日からしばらく、お母さんとは離れて暮らすことになるんだ。わかるかい?」

「わかるよ」リフターの手を取る少年。「お母さん、仕事があるから。残念だけど」

「聞き分けのいい子だ」

「どこ行くの? 雲の上の上?」

「そのまた上だよ。とてもいいところだ。きっと君も気に入る」

 そうして最後に再び母親へ向き直り、リフターは固く握手を交わした。

「いつか。あなたの希望と共に……天上宮でお待ちしております」

 微笑みに嘘はなかった。瞳に映る限りでは。

 

 

 

 

 一匹の羽馬はねうまを先頭に、翼で空を駆る職員たち。最前の馬の手綱を一人が握り、その後ろにはリフターが乗馬している。魔吸器マスクをつけた少年は一際ひときわ体格のいい職員に抱かれながら、雲海の絶景に言葉を失った。

「飛んでる……」気の抜けた声で、少年がぼやく。「魔法みたい……」

 無辜むこな瞳、無垢なる輝き。リフターがふっと微笑みかけたところで、手綱を引く職員の男が彼へと声をかけた。

「名演でしたね」

「演技をした覚えはないが」

「失礼しました」

 遠ざかるクリセワムの石畳を見下ろしながら、リフターは思い出したように呟いた。

「あの子の通っていた保育所は?」

「第四トーチカ、南クリセワムの一角ですが」

「いじめに加担していた子供の保護者を調べろ」

「何故です?」

「何故もなにもない」

 リフターは淡白に言った。

「殺人未遂で一人残らず天上警察にたたき出せ」

「は……」

「それとも私が出向くか?」

「……こ、子供たちはどうするんです。そんなことをしたら……」

「皆殺しにする」

「はぁ!?」

 何を馬鹿な。男は仰天した。危うく手綱を放り出しそうになる。

「正気ですか!」

「正気だとも。魔素まそアレルギーを有する子供に呼吸器もなく魔草マーブを宛がうなど犯罪に他ならない行為だ。死刑に値する。体か心か、どちらかは必ず殺さねばならない」

「こ、殺すって……まだ子供ですよ!」

「だから殺す」

「は……」

徒花あだばなの種からは徒花しか育たん」

「……」

「大人になられては──迷惑なんだ」

 冗談……にしては声色が尖りすぎている。それに悪趣味だ。内装の分を差し引いてまだ余りあるほどに。哀しき母親へ柔らかな言葉を投げかけていたリフター=レグレンターニと、同じ人間だとはとても思えない。オセロの駒がひっくり返ったみたいだった。

「……承服しかねます」

 男はそう口にする。持てる限りの全ての勇気を使ってだ。中身がアルであるにしろザルであるにしろ、とにかく口にしなければ背筋を這う寒気に潰されてしまいそうだった。

「とても正気とは思えない。天上宮は全ての弱き市民の味方です。そうあるべきだとあなたが説いた! 子供の時分の過ちなど誰しも一度はあるはずだ……!」

「心が未熟ならば」リフターは言った。「あやまちが許されるとでも?」

 男の肩にリフターの手が乗る。布越しなのにいやに冷たい。気のせいだろうか……それとも本当にこんな──およそ人の血が通っているとは思いがたい温度なのだろうか。

「子供の頃のたった一度の過ちだろうが、過ちを犯された方は憶えているものだ。傷を負えば尚更なおさらだ。それが体だけでなく心にも及べば、ただの記憶ではなくトラウマにもなる。

 では、その傷痕は誰が埋める? 大人になって、そのとき謝れば全て帳消しになるのか? たった一度の過ちだから、たった一度の謝罪で清算されるとでも? 

 闇や陰りはそんなことでは消えない。痛みは消えても、傷痕は決して消えないのだ。陰りとともに人格が培われ、陰りと共に生涯を歩むのだ。薔薇に育つはずだった種さえ煤ばむ。愚かさゆえに犯された、たった一度の過ちでだ」

「……」

「誰がそれを許す? 心が未熟だったから仕方がないと飲み下すのか? 自分が犯した過ちの解決を、犯された側の愛と優しさにゆだねるのか? そんなものは過ちを犯した側の自己満足でしかない。謝罪など無価値だ。毒にはなっても薬にはなるまい。傷が深ければ深いほど、その浅ましい自己満足の匂いが鼻につくものだ」

「……」

「私はな、子供だろうが大人だろうが、自らの意志で過ちを犯したのなら、それに対する罰は平等に受けてしかるべきだと考えている。人は経験にしか──真の意味では学べない生き物だ。重みを知れば軽はずみなことは口にしなくなる。出来なくなる」

 旧時代において、とリフター。

返報へんほうラスタバルカ帝國ていこくは復讐を火種とした戦争で滅んだ。法が法として機能していなかったからだ。裁かれるべき者が裁かれなかった。だから陰りを植えつけられた者達は、自らの手で応報することを選んだのだ。

 私にはどうにもそれが至極しごく真っ当なことだと思える。当然だろう。誰もが誰も愛と優しさを胸に抱いて天使がごとく生き様を歩めるわけではない。そんな悲劇を繰り返さない為にも……過ちは等しく裁かれるべきだ。

 そこに慈しみや哀れみは介在してはならない。いや、介在が許されるケースもあるだろうが……ひどく極端な例に限るだろう。どちらにせよ、悪意や差別意識をもって行われた嗜虐しぎゃくへの審判に、哀れみがかけられる余地などありはしまい」

 もっともらしいリフターの言葉に、男は飲まれかける。

 詭弁だ。極論に過ぎない。自分の主張を正当化するためにそれらしい言葉をコラージュしているだけなのだ。しかしどうにも頭に残る。信奉まではいかないが、根底にある価値観を揺るがせるには充分だった。

「……あなたは」男は恐る恐る呟く。「過ちを犯したことがないとでも言うのですか」

「ない」

 リフターは迷いなく答えた。 

「強いて言えば……この思想に気付くのが遅すぎたことが過ちだ」

「……失礼を承知で申し上げます」

「言ってみたまえ」

 声が震えているのが分かった。リフターにも伝わっているだろう。それでも男は口にした。眼下の雲海に頭から落とされぬようにと祈りながら。

「本気で言っているのなら……あなたは今まさに過ちの最中さなかだ」

 リフターは答えない。男は喉を鳴らした。肌寒いのは天上の空気の所為だけではない。沈黙も、肩に乗せられたままの右手も、後ろにリフターが乗っているという事実も……何もかもが彼の背筋を冷たくさせていた。

 しばを置き、リフターはやっとのことで手を離した。

「冗談だよ」

「は……」

 男のひたいからどっと冷や汗が吹き出る。リフターの表情はうかがえないし振り向く勇気もないが、ひとまず雲海に突き落とされることだけは避けられたようだった。

「勘弁してください……肝が冷えます」

「すまない。普段、あまり冗談を言わないものでね。不快にさせたな」

「いえ……自分も失礼な言葉を。すみません。冗談にしては真剣だったもので……」

「なりきってみただけだ」

「なりきる?」

「つい没入してしまった。極端な思想に駆られた、カリスマ気取りの革命家に」

 失笑ものだな、と実際に失笑するリフター。

「そんな過ちをさも正論であるかのようにのたまう奴こそ……裁かれて然るべきだよ」

「はぁ……」

 羽馬はねうま颯爽さっそうと雲を走る。リフターの目は笑っていなかった。