第二羽「奇跡の速度を求めよ」

 

 

 

 

 マダム・クリサリスは金との別れを惜しまない。金の方が彼女との別れを惜しむのだ。
 だから、彼女がアトラス一等区ではなく辺鄙へんぴな巨石街に住んでいるのは、経済的な理由からではない。ただその方が落ち着くからだ。人の多い場所を好まず、かといって少なすぎるのも好まない。
 その癖、家は大きい方が好ましいというのだから変わっている。俗世と程よい距離を保ち、誰にも迷惑がかからない屋敷の中で、時折どんちゃん騒ぎなんかもしながら、理想的な余生を過ごしたいのだろう。
 別に性格診断を行ったわけではない。だだっぴろい草原の真ん中にぽつんと屹立きつりつしている、バロック様式の巨大な屋敷──老婆が一人で住むにはあまりにも度が過ぎた土地を見れば一目瞭然だった。
 敷地入り口の鉄格子を超えれば庭園が待ち受けており、魔薬草マーブと思しき無数の草花、それから天使を象った大理石の彫刻が、来る者の色彩感覚と現実感をグラつかせる。鼻孔の奥を突く香りはバニラ似て甘く穏やかでかぐわしく、目を閉じればそこは天国だ。
 来た者はみな一人の例外もなく、必ずマダムに「この草は合法なんですか」と尋ねる。愚かなりし質問だ。ここはマダムの庭であり、それ以外に法もルールも必要ない。如何いかな天上の法であろうと彼女を縛ることはできないのだ。
 だから、なんて馬鹿な質問だとは思いながら、その都度マダムは答えてやる。
「完全犯罪なんてのは、要はバレなきゃそれでいいのさ」
 マダム・クリサリスは自宅に帰還するなりそう言って、鉢植えの前にいる庭師の男へと声をかけた。

「同感ですが」と、男は真鍮しんちゅう魔吸器マスク越しに答える。「物には限度が」

「ビーガン。ここでは私が限度だよ。給料明細見ればわかるだろ」

「イエス・マダム。給金に不満はありませんよ。これが済んだら裏庭のほうを」

「よろしい」

 丸眼鏡のレンズ、そのオレンジの奥で瞳を伏せ、マダムは屋敷へと歩を進める。玄関が開く音を背に、庭師のビーガンは再び花壇へ向き直った。

 庭師、ビーガン……はたから見る限り、この寡黙な男は実に勤勉であった。

 魔力酔いを防ぐ為の粒子防護マスク──洪水時代の弩級どきゅうのヴィンテージ魔装具マジェット──を片時も手放さず、黙々と草花を手入れする姿は、まさに庭師のかがみだ。

 今この瞬間もそうだ。はさみ如雨露じょうろを器用にさばきながら絡まったつたを解きほぐし、あるべき形へと巻き直してやる。美しい所作には一切の無駄がなく、そこにはただ草花への愛がある。処女に触れるように彼は接する。

 それはそれは草花を愛しているのだろう。だから仕事に関して手は抜かないし、間違っても遊び半分で草を炙って香りに酔うみたいな真似はしないのだ。そうに違いない。

 マダムと共に屋敷に住む少女、チネッタ──彼女はまだ十七歳だ。男遊びを好む割には男の本質を知らない。それゆえ庭師ビーガンの本質など見抜けようはずもなかったし、彼の端麗な容姿に見惚みとれるのは無理もないことだった。

 マダムの後に続いて屋敷へ入る前に、少女チネッタは庭師ビーガンへと狙いを定めた。

 以前から時折見かける、このジレを着た優男の庭師に、ツバをつけておこうと考えたのだ。まさかマダムのお抱えということはあるまい。年齢という意味でもそうだ。

 ああビーガン、美しい手つき! 私も同じように優しく愛して! チネッタは自分の両腕がつたのように彼へ絡まるのを想像し、二つの髪束を揺らしながら、それはそれは軽快な足取りで彼へと歩み寄った。

 明るいのが自分の取り柄だ。チネッタはそう思っているし実際に明るい。ならば、繰り出す様子見の第一声──恋のジャブは、とびきりの笑顔で放たなくては!

「真面目なんですね!」

「あなたよりはね」

 そう淡白に返したきり、ビーガンはチネッタの方を見ようともしない。早くも不落の要塞を匂わせる。ジャブはあしらわれたようだ。彼女は躍起になって、右へ左へと逸れるビーガンの顔を覗き込んでみた。

「私、分かんないなぁ、そういうの。仕事なんてテキトーでいいじゃん」

「そういうわけにはいきませんよ。いい加減な仕事は出来ません」

「なんで? 草がかわいそうだから? 庭師のかがみじゃん、かっくいー!」

「違いますよ。しっかり仕事をしないと、マダムからお金がもらえないでしょう?」

「えー。私いっつもいい加減に仕事してるけど、ちゃんとお給料もらってるわよ」

「あなたと違って半日しか働いてませんから。お金がたくさん欲しいんですよ」

 ここだ! 攻め時だ! チネッタは目を光らせて詰め寄った。

「なになに? なんか欲しいものでもあるの? あっ、夢のためとか、そういう……」

「はぁ」溜息とともに、ツタを断ち切るビーガン。「馬鹿な質問しないで下さい」

 マスクで隠れた鼻から下は窺えないが、その冷たい目つきは疑う余地なくチネッタを馬鹿にしていた。出来の悪いテストでも見ているようだ。

 しかしチネッタは折れない。自尊心ならそこそこ培ってきたつもりだ。つもりだし、実際にそれに釣り合うだけのものはあると信じている。

「ねえ、なんで? 教えてよ。ねっ。なんでそんなにお金が欲しいの?」

 引く様子のないチネッタにうんざりしたろうに、ビーガンは親切にも答えてやった。

「お金がなかったら草が吸えないじゃないですか」

 なるほど流石に不落の要塞、真面目な顔して薬草中毒とは恐れ入った。これにはチネッタも不自然に頬を引きつらせる他なかった。雌猫の読みは外れたのだ。彼女には男を見る目が足りなかった。素晴らしきビーガン。庭師の鑑だ。マダム・クリサリスの庭においては。

「……ここで吸えばよくない?」

「吸ってますけど」

「……マスクしてるじゃん」

「これで吸ってるんですよ。不純物を取り除くんです。呼吸補助も兼ねてる。あげませんよ」

「いらないし……」

「本当は火で炙りたいんですが」ビーガンは残念そうに言う。「人の庭ですから」

「当たり前だし……」

 はぁあとチネッタが大きく溜息をつく。それはもうビーガンの溜息を五つか六つほど束ねて吐き出したような量の二酸化炭素だった。

「真面目な紳士だと思ったのに……」

「もう少し控えめに息を吐いて下さい。草花に毒だ」

「草花の毒吸ってる奴に言われたくねーよ」

 チネッタの見当はいつも外れる。こと、男に関して当たった試しは一度もない。天使の姿も知らぬまま天使を求めているようなものだ。当たろうはずがなかった。

「何が不満なんです。合ってるじゃないですか。私は真面目だし紳士だ」

「真面目な紳士が草なんか吸うか。あーあ。私ってやっぱ男見る目ないのかも……」

 ビーガンの目が尖った。

「何様なんだか」

 苛立ち、嫌悪感、敵愾心、不快感……そういう眼差しだ。チネッタはそういう機微を察することにだけは長けていた。男を見る目を養う途中で培われたものである。かといって、それが男を見ることに直結するわけではないから、さほど役には立っていない。見えてきた土気色の感情粒子は、ただ彼女の心を曇らせるだけだ。

 だからこそ彼女はドライなのだ。ちょうど枯れ草みたいに。ビーガンの趣味ではなかった。別に、彼が庭師だからというわけではなく。

「なに?」また、ビーガンの顔を覗きこむチネッタ。「怒った?」

「呆れただけだ」応じて庭師は顔を逸らす。「そこまで優しくはない」

 実際その通りなのだろう、ビーガンは草から視線を外さぬまま、伸びたつるを整えだす。

「人に値札をつけるのは結構。悪趣味でも、趣味は趣味ですから。ただその趣味は、あなたがよほど大層な人間でない限り、あなた自身に値札を貼ることになりますよ」

「はっ。なにそれ? ていうか、自分で自分に値札貼るのなんて当たり前じゃん?」

 チネッタは意地悪げに脂下やにさがる。ビーガンは押し黙った。

 暴力だった。たぶん、言葉の。いや、暴力というと少し違う──適切な言葉は見当たらないが、とにかく、一つの大きな衝撃だ。何かが、がん、と彼の脳細胞を殴りつけた。

「あなたは羽なしだから分かんないかもしれないけどさ」

 片翼者メネラウスのチネッタは、左肩の翼隠衣デュラルケットいじくりながら言ってみせる。見せつける仕草に負い目らしきものは窺えない。
 なりそこないが、二人か。面倒な。

「考えてもみなよ」と、チネッタ。「自分のことなんて自分ですら十も知らないのに、それを他人に知った風に百も二百も語られて、そのうえ値札まで貼られるとかワケわかんなくない? それこそ何様なんだかって感じっつーか……」

「……」

「あっ、ごめん……喧嘩したいわけじゃないんだ。私、いっつも思ったことすぐ言っちゃうんだ。それに言い方きつくって」

 治んないんだよね、と……治す気もなさそうにチネッタは言う。

「レッテルとか、そんなの気にするだけ無駄ってことが言いたかったの。別にあなたに値札を貼ったつもりじゃないのよ。私が勝手に期待して、勝手に落ち込んだだけだから。

 ごめんね。あんまり気にしないで」

 チネッタはそう言って微笑む。ビーガンはと言えばそれを受け、呆れたように目線を逸らすだけだった。

 鮮明な女だ。ビーガンはそう思った。これは決して良い意味ではない。かといって悪い意味とも言えない。言葉通りの意味合いだ。善悪も可否もなかった。

「難儀な人だな」ビーガンは呟く。「それもかなり」

「……」チネッタは間の抜けた顔を作る。「はあ」

 チネッタ。鮮明な女。恐らくこの女は私を殺す。ビーガンはそう思った。物理的な問題ではない。この女と話していると私が死んでゆくのだ。石。鮮やかな石。私の曇りを晴らしてあまりあるほどに輝きに満ちた石だ。輪郭がくっきりとしている。

 ただ一つ……この鮮明な女についてただ一つぼやけているのは、あの表し難き暴力のような直感。脳細胞まで突撃してニューロンにビンタをかました電気信号の正体だけは、突き止めるに至らなかった。

 それ以外はなんとなく感じ取れた。それでさえ充分過ぎるほどだった。

 自覚があるにしろないにしろ、この女はおよそ生き辛き女なのだ、と──ビーガンは彼女をそう見做みなし、そしてそれはその通りだった。

「よっぽど」軍手を外しながら言うビーガン。「自分に自信があるようで」

「まあね」

 チネッタは腰をひねって言った。

解語かいごの花って知ってる? アスカの言い回しなんだけどね」

「何が言いたいんです」

 予想はついた。返す答えも決まっている。なのに聞いてやるあたりビーガンはお人好しだ。とびきりキュートに微笑みチネッタは答えた。

「私ってさぁ、解語の花って感じじゃん?」

「正体見たりなんとやら……」

「誰が幽霊カレオヴァーナだ」

「あなたは」鋏をシースへ収めるビーガン。「徒花あだばなだ」

 捨て台詞のようだ。それだけ言って彼はきびすを返し、門の外へと出て行った。勿論もちろん、彼女には目もくれずに。

「はぁああああああああああああああ!?」

 どばん、とドアをぶち開けてマダムが顔を出した。

「さっさと来なチネッタぁ!」

「だってマダムあいつ私のことあだっ……あなだばって!」

「お前なんかアバズレで充分だよ、いいからさっさと来な!」

「……こんちくしょらばっちゃい」

「なんか言ったかぁ!」

「イエス・マダム」少女の口が尖った。「すぐ行きますぅー……」

 チネッタはマダムに頭が上がらない。誰だってそうだ。この屋敷で彼女に仕えているものは、みなマダムがイエスと言えばそれに従う。それが法に触れる草花とのお楽しみ会であったとしてもだ。

 マダム・クリサリスいわく──バレなければ、完全犯罪なのだから。

「これを」

 マダムはチネッタに木箱を渡す。札束しか詰まっていない癖にずしりと重い。どうやら庭師への給金らしい。チネッタのへそくりの半分ぐらいはありそうだった。

「またこんなに」

「彼はよくやってくれてる。一人オセロで窓拭きすらサボるお前と違ってね」

「やめてよ。友達いないみたいじゃない」

「お似合いじゃないか、彼と」

 ティーカップを口元へと運んだところで、曇った眼鏡を外すマダム。

「バベルでも働いてるぐらいの男だ。さすがに腕はいいよ」

「草を見る目がいいんでしょ」

「庭師には重要だ。それに彼には……清濁を併せ持つ度量がある。だからバベルも彼を」

 もっとも、とマダムは失笑した。

「許可するほうも許可するほうだが」

 清濁。傑作だ。チネッタは溜息をついた。

「ただ灰色なだけよ」

「どっちだっていいさ。伴侶として品定めするわけじゃあない。老齢としだからね」

 マダム・クリサリスは金との別れを惜しまない。それよりも魔薬草マーブとの別れを惜しむ。庭師にはそれだけの価値があるのだ。チネッタの好みに沿うかはさておき。

「私は少し眠る。その給金は後でお前が渡して来な。イイ感じなんだろ、やつは」

「そう思ってた」壁に肘をつくチネッタ。「五分前までは」

「十分もった試しがないね」

「インスタントが好きなの。だから手の込んだ食事は嫌い」

「朝食にはうるさいくせに」

「それはそれよ。だって、オムレツとトーストがない朝食なんて」

 マダムは小さく笑った。

「リフターもそうだったよ」

「そうよね。リフターは生活のセンスがいいわ。あれで眉があったら最高なんだけど」

「悪趣味まで奴譲りか」

 チネッタは仕方なく小さな羽根箒を拾い上げ、窓枠の埃を掠め取る。やらなければ金が貰えないからだ。顔にそう出ていた。

「まあ、ビーガンでも誰でもいい。さっさと男を作ってここから出ていっておくれ」

「なによ。お邪魔かしら」手を止めるチネッタ。「私を落札したのはマダムじゃない」

「そうじゃないが……お前は都会で暮らしたいんだろう?」

 顔に出てるよ、とマダム。図星だった。彼女の性格からして、辺鄙な田舎など好もうはずもない。チネッタはばつが悪そうな顔をする。

「別に、不満なわけじゃないわ。ただ……」

「ただ?」

「宝石店も劇場もないから」

「それを不満と言うんだ」

 チネッタは頬を膨らませる。

「私がいなかったら誰が世話すんのよ」

「心配ないさ。近々また競売けいばいがある」

「競売が? また?」

 そうとも、と……マダムは受信機のような黄金色の筐体を手に取る。

「あのイカれポンチから連絡があった。お前の友達が一人増えるよ、チネッタ」

「……別に、いらない。多くたって、疲れるだけだし」

「そうさね」マダムは神妙そうに言った。「友達ってのはあんまり多すぎると、あぶれた奴がただの知り合いまで追いやられちまう。だがまあ、ある程度の数はいた方がいい」

「どうして?」

「年を取ると段々減っていくのさ。生きてるにしろ、死んだにしろ」

「ふうん」

 年の功という奴だ。チネッタはそこから先には踏み入れない。人の陰りがよく見えるだけあって、そういう分水嶺ぶんすいれいを見極めるのはお手の物だった。

「私いっつも思うんだけどさ、直接買えばいいじゃん。オークションしたって、いっつも落札するのはマダムじゃない」

素封家そほうかには金が全てだよ。奴だって、ちょっとでも値段を吊り上げたいのさ。万に一つも私より高い値を出す奴がいれば、そっちに売るかもしれない。余計なリスクは避けるべきさね」

「そんな奴いないわ。マダム以上の金持ちなんていないもの」

「そうとも。だから言ってみれば競売のていよそおった──ただの個人的な人身売買だ」

「犯罪ね」

「完全犯罪さ」

 マダムは笑う。どこまでも灰色を好む女だ。歳を取ると常識の線引きまで濁るのだろうか。だからビーガンなんて草に溺れた色男気取りを雇っているに違いない。

「人身売買ってのはね、人に値札がつけられる場所なんだよ」

 出た出た。またこれだ。チネッタは肩をすくめた。

「これほど面白いことはないさ」

合点了解アイ・スィー。それもまた、悪趣味ってやつね」

 宝石店。ある時は服屋。命においても例外はなかった。

 マダム・クリサリスは値段を見ない。彼女が値段を決めるのだ。

 

 

   ◆

 

 

 〝男って生き物はどれも飽き性だ。そのうえ堪え性がない。甲斐性もない場合が多い。

 女のこととなると尚更そうさ。あしらわれている間は脇目も振らずに躍起になるのに、いざ手に入れたとなると渇望が熱量を失ってくる。薔薇より薔薇色だった情熱はやがて死蝋しろうに似た生気のない色に変わり、口から飛び出す言葉の色まで逆さまになってゆく。

 ああ、それこそ──煤ばんだ陰りの薔薇だ。

 言葉が段々すれ違って、後には誓っちまった永遠だけが残される。無限にすら思える永遠の監獄を、人は人生の墓場と呼ぶんだ。大概は男がそう呼ぶんだがね。

 だからジズ、用心おし。男というのはね、遊びや戦に穴があったなら、迷わずそっちと結婚するような生き物なんだよ────〟

 ジズはそう聞かされてきた。彼女自身にそういう経験があるわけではないが、それでも今の自分よりは、遊びや戦といった手合いの物の方が男心を掴むのには長けているのだろうと──切り結ぶ男達を見ながら漠然ばくぜんとそう思う。戦に穴があるかは知らない。

 繰り返される剣戟けんげきに、いい加減耳が馬鹿になってきた。飽き性で堪え性がないはずの生き物たちは、さっきから気でもたがえたように刃を振り続けている。

 老人の曲刀がジャスパーの翼を削るたび、彼は砕けた部分を補強して再度切り込む。堪え性の塊だ。どちらも遊びや戦と結婚する類のサガなのだろう。

「遅いぞ」

 炊きつける老人。ジャスパーが舌打ちする。また翼が砕けた。呼吸が荒い。疲弊が顔に出ている。彼の方が劣勢にあるのは明白だった。

 攻めの手が慎重になっている辺り、本人も自覚しているのだろう。老人はほくそ笑み、情け容赦なくそこを突いてゆく。大振りで剛健、されど油断なく的確な一撃で、確実に。

「ジャスパーと言ったな」

 また、老人の方から踏み込んだ。紙一重の応酬が始まる。

「君には悪いが私は幸運を信じない。全ては己の力で勝ち取るのだ。碧玉へきぎょくにはそういう意味もあったろう、今度からはそっちを信条にするといい。私の経験則だ。なにせ一四〇年モノだからな、信頼性があるぞ」

「ボケやがって。初対面のジジイと幸運の女神なんて比べるまでもねえだろが」

「そうは言うが──」

 ジャスパーの頬が裂ける。前髪も少し持っていかれた。命取りか、軽口さえも。

「──女神に会ったことは?」

「俺は追っかけじゃねえ」

 踏み込むジャスパー。競り合いだ。足技を一撃。老人の体が吹き抜けへ蹴り出された。
 羽撃きと共に舞い散る老人の羽根。宙へ飛んだか。畜生そのまま落ちてくれりゃ楽なのに、なんて考えたのも束の間、上空からの急襲がジャスパーの首筋に迫った。
「く……」
 やはり。空は奴らの縄張りか。アドバンテージとしては大きすぎる。ジャスパーに出来ることは、一歩踏み外せば奈落の底へと落ちそうな足場の上で絶えず攻め続け、この老人を空へと逃がさないことだけだ。
 見誤った。ジャスパーは素直にそう認めた。運だけではさばき切れない。彼は幸運を裏切りはしないが、幸運を妄信しているわけではなかった。その利口さが彼の生命線を此岸しがんふちで引き止めている。

「…………」

 ジズは待っていた。相変わらずただ待っているだけだった。石の羽のもろさを目の当たりにしたまま、いつ警邏けいらがやって来るかとびくびくしながら立ち尽くすだけだった。

 実際には一分も経っていないだろう。ジズの感覚が狂っているだけだ。しかし、散らばった碧玉ジャスパーの破片と高域が曇り始めた聴覚は、彼女をおかしくするには充分すぎる。

 なんだか責められているような気がして、ジズはあちこちへ目をやった。なんでもいいから何かしろと言外げんがいに言われ、そしてその通りにした。

 階段の上、正面の扉、逃げられそうなところへ次々と視線を巡らせ、結局そのどれもに立ちはだかる老人のビジョンを見て、しまいには翼よ石になれと願ってみたりした。しただけで、結果は言わずもがなだ。

「あぁもう……!」頭を抱え、ジズは地団太を踏む。「使えない羽!」

 卑屈になっている場合ではない。だが言うしかなかった。言ってやらねば気がすまなかった。鼠の方がまだマシな働きをするだろう。例えば檻の鍵を盗んできたり。

 結局彼女は待つしかなかった。だが時間は彼女と違って待つことを知らぬ。やがて階段の方から、応援と思しき無数の足音が響き始める。焦りと苛立ちとでジズは半泣きだ。泣いている場合かと突っ込んで更に泣きそうになる。

「ジズ!」ジャスパーが叫んだ。「出口を選べ! そこに逃げる!」

 ジズはびくりとした。苦肉の策だ。策ですらなかった。この手強き老人を背に逃げ果せようというのだ。それでは臭い物に蓋をしただけで何も解決しない。ジズみたいだ。

「そっ……そんなこと言ったって……」

「さっさとしろ!」

「間違ってたらどうすんの!」

「後で考えろ!」

 また衝突。緑が砕ける。ジャスパーは続けた。

「選ばねえよりはずっといい」

「……」

「ここで終わるか? 俺はごめんだ」

「わ、私だって……」

 とても覚悟と呼ぶには値しない……が、諦めと名付け、それでも腹を括るしかないのだろう。それが生き様になるにしろ死に様になるにしろ、檻の外に踏み出した以上、選ぶことは権利と同時に義務でもある。

「私だって……絶対やだ……!」

 意志を。ただ明確な意思を。口を開けて滴る雫を待ち、与えられるものを与えられるがままにむさぼる、染み付いた家畜根性に決別を。

 どれが出口かなどジズには分からなかった。自分のこと同様に見当もつかない。分からないままぐるぐると目を回し、階段の上へと望みを託した。

 そこに根拠はない。あそこが出口であればいいのにと──彼女はただ祈った。

「じゃっ、じゃあ上! 右の奥!」

 刃が拮抗きっこうし、そしてお互いを弾き返す。またも踏み込む二人。を描いた二振りが激突する寸前、ジャスパーが翼の鉱物化を解く。勢いよく空を切る刃の淵を翼がしなやかに掻い潜り、再び剃刀かみそりへと姿を変えて老人の背中をとらえた。

 これには老人も面食らったか、空振りの勢いのまま上半身を捻り、無理矢理に刃を防ぐのが精一杯だった。反動で曲刀が放り出され、腹部ががら空きになる。

 ここだ──ジャスパーの脊髄がえた。素手で剃刀はまい。碧玉の刃を振りかぶる。老人は後転する。最適解だ。そうするしかない。だからジャスパーは刃の背で力いっぱい床を穿ち、大理石を派手に散らしてやった。

 相手を殺すことは必要条件ではない。老人にしてもジャスパーにしても同じことだ。

 悲惨した破片と舞い上がった粉塵で、一瞬だけ老人の視界が奪われる。その一瞬で充分なのだ。後は翼を一振り回し、柱と天井を少し崩してやるだけでいい。大広間が小麦粉をぶちまけたキッチンみたいになる頃には、既に二人は階段の一歩手前まで来ている。

 ち、と──老人が小さく舌打ちを漏らす。が、老眼に怒りを覚えたわけではない。

 この男の目は若人より遥かに冴えている。耳もそうだ。落石の中で倒れ来る柱を切り伏せ、足音を頼りに二人の方へと石塊を投げつけた。勿論、翼がそれを弾く音も聞き漏らさないし、なんならその音でしかと見当をつけて足を速める始末だった。

 晴れ始めた煙の奥で切っ先が煌く。ジャスパーが足を早め、ジズもそれに続いた。

 赤絨毯に一歩踏み込み、もう目と鼻の先の出口を見やる。振り切るのは無理だ。ともすれば先に老人が追いつく。足が吊るほうが先かもしれない……あまりによくないイメージばかりが頭の中を回るので、ジズはぴしゃりと頬を叩いた。気休めだ。実際効果はなかった。

 捕まったらどうなるだろう。ご飯の量は減るだろうか。今度は用を足す小穴すらなくなるかもしれない。もう一回檻の中に戻されて、懲罰房で鞭打ちにされて、そうしたら……そうしたらまた黴臭い地下の鼠に逆戻り。閉じ込めてきた陰気な女と、再び顔を合わせることになる。きっと笑うに決まってる。なんせあいつは私なんだから。

 悪い妄想が留まるところを知らない。ああ、チィちゃん! こんな時チィちゃんがいてくれたら、さっと突破口を教えてくれただろうか? 傷付いた羽でふらふらと煙の中を飛んでいって、あの衰え知らずの老人の顔に張り付いて時間を稼いでくれただろうか?

 そうして再び戻した視線の先──踊り場の真ん中──ジズは鏡の中に天使を見た。

「また……」

 水晶の羽。捩れた髪の毛。いつぞやのおせっかいでうざくらしい女。くそ。どこにでも現れる女だな、お前は。よりにもよってこんな慌しい修羅場にまで。

 ざらめの女は何も言わない。裸婦スケッチみたいなポーズで爪先を眺めている。

 ちょうど劇場シアトルの夢で見た自分のように────

 ────劇場シアトル? あの時、私はどうやって外へ……。

「あっ!」

 直感。歓喜がジズの口を突いた。ごちゃごちゃした頭の中が、水晶の中みたいに澄み渡る。彼女は無我夢中でジャスパーの手を取り、直感の温度がほとばしる方へと駆けた。

「おいジズ!」「こっち!」

 既視感デジャヴが彼女を突き動かした。

 ここだ。ここしかない。ここでなければどこだというのか。

 絶望に出口などない。あるのは希望への入り口だけだ。しかもそいつは家畜のように、ただ口を開けて待っているわけではない。自分の足で飛び込まなければ、何一つ始まりはしないのだ。世に死の他に出口などない。全ては常に入り口だ!

「お前!」鏡へ走る。ジャスパーがぎょっとした。「とち狂ったか!」

「そうかも!」

 ジズは駆けた。階段をのぼり、踊り場に辿りつき、そして二人で活路へ飛び込む。

 忌まわしの象徴、鏡へと。

「馬鹿な!」老人が曲刀をなげうつ。ほとんど反射だった。

 剣先が届くより早く鏡は二人を飲み込む。やっぱりそうだ。知っている。いつだか味わった不可思議な感触。これは、通路なのだ。

 悪趣味な大鏡おおかがみは派手に砕けた。二人の背中を映したままで。

 

 

 

 

「ウスターシュ様!」

 羽音と共に追いついた警邏達が、大広間の惨状を見るやいなや硬直した。

「……なんだ、これは……」

 床に空いた大穴が鼠の仕業だとは誰も思うまい。同じことだ。やってきた十余名の警邏の内、これが翼による破壊の爪痕だと理解した者は誰一人としていなかった。

 砲弾か爆弾かそれともドぎつい魔法か、いずれにせよその類が使われたのだと疑わぬまま、みな地へと足をつける。ある者は唖然とした顔で瓦礫を拾い上げ、ある者は引き笑いを浮かべながらえぐれた床に触れた。

「……ひどいな……」

 他に物言いを失ったような声だった。ウスターシュの二分の一、ともすれば三分の一も生きていないであろう若き短髪の警邏が、瓦礫を踏み分けながら彼へと近付く。

「……ウスターシュ様、何事です、これは……。暖炉に魔酒マキュールでも?」

「ぼや騒ぎに見えるかね」

「あ、いえ……。まさか、このような……」

 刃毀はこぼれした曲刀を鞘へと収め、強靭なる老骨ウスターシュは苦笑した。

フクロウ眷族ダウシュタン・バロール大鏡おおかがみ」ウスターシュは言った。「よもや非常口を暴くとは」

「非常口……?」

 飛散した大鏡の破片を軽く足蹴にし、ウスターシュは続ける。

「状況は終了した。起こしてすまなかったな。あとは私が片付ける」

「は……?」若き警邏は詰め寄る。「お待ち下さい、ウスターシュ殿。事態はまだ……」

 残ったのは彼だけだ。他の警邏たちはウスターシュの言葉をそのまま飲み込み、寝ぼけまなこで槍の穂先を下げては、みな翼をはばたかせ階下へと飛び去った。

 ウスターシュは若人の顔を見た。誠実な瞳だ。職務を裏切らず愛と信頼を知り、世の何にも絶望を知らぬ目。神の教えを鵜呑うのみにする青い目だ。その輝きで分かる。

 何も知らないのは、彼だけなのだ。

「君、名前は」ウスターシュが問う。若き警邏は姿勢を正した。

「申し遅れました。リンシュヴァール=郷守さとがみ=アゾキアです」

「サトガミ。いい洗礼名せんれいめいだ。二分の一テュラヴァンツかね?」

「いえ、八分のエル・ネイツェンです。曾祖父ひそふがアスカの血を」

「なるほど。生真面目きまじめなのはそのせいか」

 ウスターシュはアゾキアの制服に視線を落とす。青く染まった小振りな羽根は、一般職員であることの証明だ。つまり、無辜むこであり、無知であることの……。

「君は四層の担当では?」と、ウスターシュ。

「は。六層の友人が急病のため、代理を」

「誰だ?」

「クアベルです。クアベル=ラズワイル。三棟四号室の」

「なるほど。血のせいではなかったようだな。よく聞け、アゾキア」

 ウスターシュはそうして溜息一つをひねり出し、真意の見えぬ質問に惑うアゾキアへ静かに告げた。

「このたびの警鐘は事故によるものだ。私が巡回ついでにこっそり魔酒マキュールを嗜んでいたところ、うっかり暖炉に落としてしまってね。お陰で大広間はこの有様だ。一体いくら自腹を切る羽目になるのか見当もつかん。やはり悪いことは出来んな」

 アゾキアはますます混乱する。とうとう目の前の老人が本当にぼけてきたのではとさえ疑い、一考してから邪推を払拭した。

 天上宮においては周知の事実ながら、ウスターシュという男は腐ってもこの老齢としで刀を握る猛者もさなのだ。それゆえ管理官の側近を担っている。

 そこいらの老人とは違う。ただの過ちで大広間を廃墟に変えたりはしない。百歩譲って過ちだったとしても、稚拙な冗談で恥の上塗りをするほど愚かなわけではあるまい。

「は……いえ、しかし先ほど……」アゾキアは言う。「ぼや騒ぎに見えるか、と……」

「見えたのだろう?」

「いえ、あれはその、万が一ということもありますから……」

「ではその万が一が起こったのだ。いいな?」

 アゾキアの目を覗き、それと、と……ウスターシュは念を押した。

「二度と代理は認めない。四層以下の者が上層に足を踏み入れるなどあってはならないことだ。次同じことをしでかしたら首を刎ねるぞ。そこにいるのが君であろうと関係ない。飛ぶのはクアベル=ラズワイルの首だ。奴にもそう言っておけ」

 アゾキアは生唾を飲んだ。ただごとではない。裏がある。ぼやにしては凄惨すぎる惨状が、駆け付けた警邏達が手にしていた槍が──そしてなにより、老いから来る過ちを誤魔化そうとしている老人には過ぎた眼光が──饒舌に語るか。

「お待ち下さい! 非常口とは?」

「忘れろ」と、ウスターシュ。「君は夢を見た」

「彼らはなぜ槍を!」

 それきりウスターシュは答えない。床に残った傷痕をただ眺めるだけだった。

「……」

 きびすを返したアゾキアの羽音を背に、ウスターシュは沈黙したまま傷痕を眺めた。
 事故、か。苦しい言い訳だ。爆発の痕跡には見えない。巨人の手刀でも叩き込まれたような──もはや、地割れと言って差し支えない大きさの亀裂……。こんな、人ならざる何かの力を否応なしに想起させる傷の前では、どのみち誤魔化しの言葉など無力だっただろう。

 魂というものがあるならば、あの一撃に……あの石の羽に、込められていたに違いない。

せぬ」

 淡白な一言だった。緑の散る大広間に一人、彼は力なく立ち上がる。

 差は一瞬だった。ほんのまじろぎほどでも投げるのが早ければ、彼の一手が鼠のくわだてをご破算にしていたのだ。どれだけ算盤を弾いてもそこには奇跡の二文字しか見当たらない。

 折れた柱。抉れた床と天井。潰れたシャンデリア。投げた石塊。散らばった鏡の破片。傍らには曲刀。判断に誤りはない。全てが最適解だった。

 経験を過信するほど若くはないが……何が結末を分けたという。

(……碧玉ジャスパー

 幸運が。

 幸運などという影も持たぬ天使が──鼠たちに味方したと──そう言うのか?

 あの瞬間──何が奴らに活路を見せた?

 あるはずだ。なにか……魔法のような、なにかが。

「……せぬ」

 奇跡の速度を求めよ老躯ろうく。汝、幸運を信じぬがゆえに。

 

 

   ◆

 

 

「わぁっ」

 ジズは派手に尻餅しりもちをつき、いやに冷えた大理石の上に吐き出された。鏡による不埒な感触はいつぞやの劇場にも増して丁寧で、出てくる頃には肩と腰、それからふくらはぎの凝りは綺麗さっぱりほぐされていた。

「でっ」

 打ち付けた臀部でんぶをさするジズへと、今度はジャスパーが降りかかってきた。よりにもよって膝からだ。それも相当に鍛え上げられた膝なものだから、ジズは理不尽にも彼の横腹を蹴ってどかし、次に顔をさする羽目になった。

「膝から落ちてくる奴があるか!」

「俺が知るか! 文句なら鏡に言え!」

 少し垂れた鼻血を服の裾で拭い、ジズは大鏡を見上げた。悪趣味だ。えらく派手だ。悪徳が誇る華美そのものだ。バベルの住人に相応しき華美と悪徳の鏡。

「……お前」ジャスパーが起き上がって言った。「よくあれが出口だって分かったな」

 勘。あるいは幸運。いや、きっとどちらでもない。

「……天使が教えてくれたの」

「はあ?」

 鏡の中にもうあの女の姿は見えない。ただ、ジズの相貌を映し出すだけだ。それがどうにも気まずくて、また彼女は目を逸らした。

「まあいいさ」と、ジャスパー。「出られたんならなんだっていい。急ぐぞ。次あのジジイとかち合っても勝てる気が……」

 振り返って、彼は絶句した。

「ジャスパー?」

 つられてジズも振り返る。突風が頬を撫でた。冷たく、爽やかだ。檻で浴びることのない、命の宿った風だった。思わず目を覆い、その鮮やかさに浸り、ゆっくりと目を開ける。

 そうして自由を見た。

 まがい物や気休めではない、本物の自由があったのだ。

「──ああ、そうだ……」

 ジャスパーは叫んだ。

「────ああ、ああ! そうだ! こんな色だ! 空は! こんな色だった!」

 眼下と頭上に広がる雲の海。中天太陽ソーラの輝き。白群はくぐんのシネマに散らばる綿菓子達は途切れ途切れでぐるぐると輪状に連なり、この塔の周りを際限なく囲っている。

 最上階だ。眼前には鉄格子など言わずもがな、壁すらないものだからえらく見晴らしがいい。これで床が大理石でさえなかったならば、バゲットを籠につめて、芝生の上に寝転がってる気分になれるのに。

 高望みはすまい。贅沢が過ぎるというものだろう。カビ臭い檻の日々からしてみれば、この天空の平原は二人で分けて配ってもあまりある。それをただ二人で分けようという。これ以上なにを望めよう。

「そら」

 気の抜けた声でジズは言った。

 いや、言ったのではない。口から漏れた。

「そらだ……」

 陽射しが目に染みた。

 涙がこぼれる。泣き虫なジズ。彼女は泣いた。ぼろぼろと泣いた。しばらく歯を食い縛っては耐えていたが、たまらず声を上げて泣いた。
 それはもう不細工な顔だった。ジャスパーに飛び込み、肩を抱かれ、嗚咽で息を詰まらせながらわんわんと泣いた。洪水みたいに止め処なく涙が出てきて、自分の中に宇宙を錯覚した。

 空だ。もう一度確かめた。滲んだ瞳にもはっきりと映った。出来の悪い絵画なんかとは違う、煉瓦でも鉄格子でもない、本物の空だ。

 この時ばかりはお喋りマシーンも黙っていた。絶景は彼からさえ言葉を奪ったのだ。

 地上は大洪水で滅んだと聞く。ともすればこんな風に、誰かの涙で滅んだのかもしれない。抱いた自由のスケールの大きさが疑いもなくそう思わせる。

「……宇宙がはじまるわけだ」

 ジャスパーも似たようなことを呟いた。

 翼も小さく震えていた。鉱石が波を受け取る性質を持つからか、はたまた、体の一部だから鼓動がそうさせるのか、もうそんなことはどちらでもよかった。今この瞬間においては、翼の数ですらどうでもよかった。

 身を縛るものが何もない。久しく忘れていた。空は青く、雲は白かった。

 月並みだ。言ってしまえばたったそれだけだ。たったそれだけのことが、ジズの心臓を息が苦しくなるほど締め付ける。今の今まで奪われていたものを、奪り戻したような感覚だった。

 心が躍る。冷たさに、気だるさに。痛みにさえ……。

「……私」ジズが漏らした。「私っ、私ねっ、ジャスパー」

 ぐじぐじと鼻水を啜り、目の淵を擦りながらジズは言った。言ったつもりだったのに上手く言葉にならないものだから、それがまた彼女を焦らせる。ジャスパーは黙って言葉を待った。尊重するだけの価値がこの時間にはあった。

「天使のなりそこないかもしれないけど……」

 そんなことはない、などとはジャスパーは言わなかった。言ったところでどうにもならない。彼女自身がその鋳型を曲げない限り肯定アレニョ否定ザレニョも意味を持たないのだ。

 いや、彼にも分からなかったのかもしれない。天使のなりそこないだと大仰に言うが、そもそも天使を見てみなければそんなことは分からないのだ。自分にしても彼女にしても。

「それでも生きたい……」

 ジズは、ぐちゃぐちゃの顔で言った。

「なりそこないなぞ何処にもいねえ」と、ジャスパー。「間に合う。なにもかも」

 相変わらず粗雑に吐き捨てて、ジャスパーは彼女に手を差し伸べる。

 今度は彼女が手を掴む番だった。隣人の手を取り、地に根を張ってしまいそうな尻を上げ、ジズは体に鞭打って立ち上がった。きっと一人では立ち上がれなかった。

 ちっぽけな自由を二人は分かち合う。繋いだ手と手の隙間に一瞬映った程度の……ほんの、フィルム一かけら分の大きさだ。

 ささやかだな。だが価値がある。それだけの幸福を彼らは掴んだ。
 無窮にすら思える空を前に、二人は今なら飛べただろう。
 確信があった。ともに片翼の天使ならば、手を取り合って飛べばいいのだという確信が。

「……」

 なにかを言葉にしようとジズが口を開きかける。
 ジャスパーが血を吐いたのはその直後だった。

「──────……ちっ」

 舌打ちが一つ。
 ジズは硬直した。なぜだかジャスパーが真っ赤に染まったものだから、ふっと視線を下げてみる。なんだこれは。棒切れ……槍? 槍。槍だ。長い槍。ジャスパーの腹から生えている。
 いや──貫かれて、いる。待って。刺されてるって、なんで。

「ジャスパー?」

 ジズは問うた。その服いいじゃんどこで買ったの、とか、明日の朝ごはんはオムレツでいいんだっけ、とか……服を畳みながら話半分に聞き返すような素朴さで彼に問うた。
 返事はなかった。苦笑を崩さぬまま、しかし彼は膝から崩れ落ちる。
 慢心……違う。ただ忘れていただけだ。絶望がそういう生き物だということを。奴らは鼠が残飯の中からかき集めた幸福を食い散らかし、足蹴にしては下卑たを浴びせる……。

 空は綺麗だ。今だからそう思うか。束の間の自由の代償だというのならそれもいいだろう。相応しい呼び名だ。たとえいくらか重すぎたとしても。

「おはよう」

 声がした。絶望のなんたるかを教えに来た、悪という観念の使者の声が。

 その男は、眉のない顔で笑ったのだ。