第十六羽「亡者もうじゃズ・ジングシュピール」

 

 

 

 

 家が古ければ、家具まで古い。そういうものだ。

 遠い昔にいた香魔アロマの残り香が、シロマツの壁に染み付いている。歳とともに感性は移ろうというが、懐かしさまでもが薄れるわけではない。事実としてこの古い隠れ家を訪れた老婆の胸中などは、あの頃……魔女のほうきで酒場を飛び回り、飲酒運転の挙句に男をひっかけ回してただれに爛れていた頃……闇の湯船に肩口すら浸からずにいた、うら若き時分に帰ったようである。

 帰ったようでもあるが、同時にその望郷は年経としへたことを自覚させる。頬をしわばませ、かつてと同じように笑ってはみるが、昔ほど瞳は開かなくなった。

 戻れまい。過ぎたならば、もう誰も。出来るのはただすことだけだ。

 だが。

(手遅れか。私などは、もう)

 産廃同然の水晶テレビを眺めながら、マダム・クリサリスはひっそりと紅茶をすすった。

 贅沢は言わない。老婆の長きにわたる歩みにおいて、この程度の忍耐はごまんとあったし、闇に生きるとはそういうことだ。

(この子も……)

 杖をかざし、マダムはテレビのボリュームを上げる。この歳にもなると聴こえづらいのだ。己の縄張りを──闇をあばこうとする者の声が。

『誤解しないで頂きたいのですが』

 画面の中、リフター=レグレンターニは大げさに両手を広げた。討論会におあつらえ向きの胡散うさんくささだ。会場が講堂ということもあってか、宗教団体の公演と見紛みまごうばかりであった。

『私もこの通り一対の翼を持つ、いちアトラス市民ですよ。どちらかを極端に優遇するということではない。今現在、平等とは言いがたい写本の教えによってしいたげられている人々。

 とりわけここで訴えたいのは、片翼者メネラウスや、羽なしと呼ばれる者達です。彼らは異常者や社会不適合者などではありません。特別扱いしろというのではない。私はただ……』

『彼らにも我々同様、市民権が存在してしかるべきだと?』

 隣席の若者がリフターの言葉を遮った。コメンテーターの肩書きなどは、彼の知ったことではない。重要なのは、こいつの背に一対の隠翼衣デュラルケットがあること──すなわち、健常者であることだけだ。

 嫌いな顔だ。自尊の余りが透けて見える。だが問いはしない。リフターは続けた。

『それは、当たり前の話です。奪還すべきは権利のみではありません。社会制度として等しく与えられるはずの恩恵を享受きょうじゅした……ただそれだけなのに、彼らに差別的な目を向ける人々がいます。今でさえそうなのです。

 もし、ここに掲げたような社会が訪れれば、平等であること自体に異を唱える人々も出てくることでしょう』

『いえ。そもそも』また、若い男。『これが平等な社会かというところが疑問ですな。社会に貢献できない者に対して、なぜ我々が自らの血税で……』

 別の老人が咳払いし、話の舵を取りにかかった。ヨズナム=サンガコビスキー……アトラス一等区の現区長だ。剃刀かみそりの使い方を知らないのか、顎鬚あごひげが馬鹿に長い。

『いいかね? 話しても。リフター君、だったかな。知っているはずだろう。二〇〇〇年前の〝大災害ヴァスタレル〟……それに際する洪水により、地上とのコネクションが断たれて久しい。

 推定深度九〇〇〇シェール。地上から見れば上層雲に位置する部分……ロカノ・ゾリソーゾ空域くういきには未だ汚染の余波が残っており、我々は天上の他に生息地を持たない』

『ええ、存じ上げております』首をかしげるリフター。『事実であれば』

 ヨズナムの眉がとぼけるように上がる。

『続けよう。大前提として我々の母数は少ない。つまりは、より多くの子孫を残さねばならない。この、閉ざされた天上でだ。自分の面倒を自分で見られない人間を生かしておく余裕など……どこにあるのかね』

 リフターが答えるより早く、コメンテーターの男が割って入る。

『誰も言わない。言えないでしょう。正しさが常に糾弾きゅうだんの盾となるわけではない。だから私が言います。我々は、彼らのために血税が注がれることを快く思っていません』

 気分は国民の代表か。見ていたマダムも鼻で笑った。画面の中のリフターも、微笑みそうになるのをこらえて続ける。

『理解はできます。しかし、あなたが彼らの立場なら? さだめを選べるわけでもなく、片翼かたよくとして、あるいは魔力的ハンディキャップや、心と体の不一致を抱えて生まれた。ただそれだけで社会から爪弾つまはじきにされる。いち市民として社会に貢献しようとも、その社会自体がそれを許してはくれない。

 誰にもその人生を認めてもらえない。親にすら。もし、あなたが……』

『もしもの話ならなんとでも言えますよ。我々はそうはならなかった。ならば、考えるべきは自らが生きてゆかねばならない世界のこと、すなわち現実のことです』

『ならば』語気を強めるリフター。『尚更なおさらこの問題について解決策を講じるべきだ。魔気流まきるが一種の自然災害として発生する以上、魔力障害を抱えた子供達はこれからも産まれてくる』

『それは仮説です。大体、その対策の一環として、天上宮は植林活動を行っているのでは?』

『もちろん引き続き行うつもりです。しかし、あまりに時間がかかりすぎる。その間にも命は産まれる。ご子息はおられますか? 二児の予定は? あなただけではありません。あなたの親類縁者が授かった命においても──誰にでも、ある日突然にでも、起こり得る話だ。

 その時、どうするのです? 社会に貢献できないから、写本に〝なりそこない〟だと記してあるから、ふるい我々の始祖がやったように、地上へと投げ落とすのですか?』

『私はそれが正しいと思っていますから……』一度ためらって、『そうするでしょう』と男は続けた。『言えないだけで、多くの者がそうせざるを得なくなる』

 リフターは頷いた。飲み込んだわけではないが、いま焦点を当てるべきはそこではない。

『私が訴えたいのは、まさしくそれなのです』

『それと言いますと?』

『環境です。問題は、環境にある』

 したまま、リフターは背後の水晶板を指した。七つの条文が太字で強調されており、各項それぞれにびっしりと長文が刻み込まれている。

『仮に、この公約。私が掲げる公約が実現し、全ての者が恩恵を受けられるようになったとしても、人々が彼らに抱いた生理的嫌悪は拭えないでしょう。そして、形ある暴力も……形なき暴力も消えはしない。

 前提が間違っているからです。一対の翼を持たぬことは欠陥である、同性との姦淫かんいんは大罪であるなどという、ノキア写本がもたらした愚かなる前提が』

『いいえ。ノキア写本があろうがなかろうが、体の一部が欠損している人間を見れば、我々は言いようのない違和感を覚えます。同性同士で愛し合う者を見れば、自分とは違うカテゴリーの人間だと感じる。私はそんなことはない、だなどと……まさかそんな綺麗事を吐くおつもりではないでしょう?』

『感じること自体を否定してはいない。心も体も、誰もみな少しずつ違う。それだけのこと。いいですか、私は言葉の力を信じていますが、なにもかもを言葉にすればいいわけではない。

 あなたがた市民は、毒を吐くことに慣れすぎている』

『我々ではなく!』男は前のめりに言う。『女神ノキアがそう定めたんですがね』

『写本があろうとなかろうと……そうおっしゃったのはあなただ』

『写本の話じゃない。女神ノキアが創りたもうた我々の体が、神の意志が刻まれた体そのものが、身体の欠損や同性愛を拒絶すると言ってるんです。大多数の人間はそうなる』

 したり顔で片眼鏡を上げるコメンテーター。その仕草がどうもかんさわって、リフターは少し語気を強めた。

『では、なにか。そうでない者たちは異常者だと?』

『ええ、私はそう思いますよ。仮に母数が逆だったら、我々の方が異常だと思いますが』

『数が多ければ正義だというのか。それが誤った思想でも?』

『感情論ですよ、あなたが繰り出しているのは。社会は個人の集合体。一つの塊である以上、多数派が常識を形作るのは……当たり前の話ではありませんか?』

『あなたのような思想を持つ者が多数派であろうとそれは構いません。しかし、多数派であることは少数派をおとしめる免罪符にはならないというのです。数は正しさではない。

 正しければ、多数であれば、何を言ってもいいというものではないでしょう。少数派とて、それを振りかざしていいわけではない。どちらも等しく、人と言葉に敬意を払い、その尊厳を尊重しつつ接するべきです。見るべきは、人間だ』

 コメンテーターの男は落ち着きなく頭をかいた。平行線が続くのは明白だ。区長のヨズナムだって、それを理解しているから余計な口を挟まないのだろう。

『えっと、ね。意見としては受け止めますが──』

 男はそう言う。不満げなのは誰の目にも明らかだった。

『──リフターさん。あなたの言い分では、片翼者メネラウスのような障碍者しょうがいしゃとの共生は、健常者の忍耐それのみによって成り立つものだ。忍耐の限界が来れば、いずれはそういう子供達は捨てられるか──言葉は悪いですが──処分される。世間の目や、貧しさ……理由は数多あまたあるでしょうが、天上宮バベルを運営している以上、あなたも承知のはずですね?』

『理解しています。健常者の忍耐によって成り立つ世界。まさに、そうです。皮肉にも天上宮バベルは、この世界がいびつであるからこそ存在しているわけですから』

『で、あなたは我々に忍耐を強いる。そうすることが平等だと信じているわけだ』

『なにも肩を組んで笑い合えというのではありません。理解を押し付けたくはない。歩み寄る自由があれば、拒絶する自由もある。人々誰もに片翼者メネラウスや同性愛者と親しくなれというのではありません。ただ……』

『ただ?』

 苦渋の表情もそこそこに、リフターは声高こわだかに唱えた。

『認めてほしいだけなのです、その人生を……生存を。心や体の在り方が、あなたがたと少し違うからといって──異常だと感じるからといって、言葉や暴力で虐げられるいわれはない。

 そうでしょう? 先ほどあなたは、女神ノキアが今の世の根を定めたと言いました。もし、なりそこないが天罰を下されるべき者達であるなら、女神は彼らを産み出さなかったはずだ』

『通りませんよ、その理屈は。人の命を奪うような極悪人だって産まれてくるんですから』

 しくじった。れたか。自分の落ち度だ。リフターは小さく舌打ちして続ける。

『悪人として産まれるものなど、私は見たことがない』

『仮にそうだったとしても、羽なしは羽なしとして産まれつく。片翼者メネラウスだってそうでしょう。彼らのさだめは産まれた時点で決まっている』

『そうです。好きでそうなったわけではない。にも関わらず社会は彼らを弱者だと断じ、その生涯から一切の救いを奪い去る。そうして本当の弱者にされてしまう。だから、環境が問題だというのです。日陰者というさだめを強いられる、今の環境が』

 なるほど……と机を叩いて、お喋り男はまた舌を回し始めた。得意げな表情だ。

『ですからね、リフターさん。冒頭でも述べましたが、必要なのは住み分けでは?』

『あなたのいう住み分けとは?』

 カメラに向けて、線を引くように指で空を切る男。

『この、垣根かきねを……より明確にするんですよ。現在のアトラスは税金さえ納めれば、何等区に住もうとかまいませんが──障碍者のみの居住区を設ければよいのでは?』

『つまり、少数派を完全に隔離する?』

『そういうことになります。まさに今、あなたが天上宮バベルでやっていることだ。その方がお互い無用な忍耐もなく、気疲れなく生活できると考えますが』

「愚策だな」小声で呟くリフター。

『なんでしょう?』

『それでは根本的な解決にはなりません』

 リフターはヨズナムの方を見た。まだ彼が喋る気配はない。それとも、もはや口を開く意味もないと……諦観ていかんし、歩み寄りを拒絶しているのか。

 続きを促しているようにも取れる。やむなしか。また、リフターが弁舌を振るう。

『断言してもいい。もし、健常者と障碍者の居住区が完全に隔てられた場合……差別は今より一層激しくなりますし、新たに爪弾きにされるものが出てくるでしょう』

『何故そう思うのです?』

『健常者と障碍者……その領域をわける一本の線が、更に曖昧になるからです』

 たとえば、とリフター。

『人よりほんの少しだけ喋るのが苦手な子。受け答えが遅い子。人と比べて、ほんの少しだけずれている子供達……健常者の居住区内で、そういった者たちが差別の対象になるでしょう。そうして網目は狭く、狭くなり……弾き出された者達は、完全に行き場を失う』

『いえ、それは』

『障碍者の居住区内でも差別が始まる。住み分けたとて同じこと。どれだけ集団というものを小さくしようと、その中からはみ出る者が現れるのです。それに、居住区を隔ててしまえば、差別の目は居住区そのものに向けられることになります。どちらも個人としてではなく、集団として扱われる。

 そんなものは、応報戦争時代の亞人あじんゲットーとなんら変わりありませんよ。行く末は想像にかたくない。あまりに危険で、場当たり的。きわめて軽はずみな提案だ』

 男は押し黙った。自尊心に傷がついたか、耳が赤い。リフターは微笑んでやる。ますます耳が赤くなる。ヨズナムのひげさえ失笑に揺れる始末だった。

『一つの社会での共生──』

 男の焦りを浮き彫りにするため、つとめて冷静にリフターは続けた。

『──それが大前提だ。人の輪こそ社会であり、誰も穴にはなれない。なってはならないのです。同じ社会にあるからこそ、協調や歩み寄りが培われる。

 相手の気持ちを想像し、自分の体験のように感じることが……重要になるのです』

『では!』男は痺れを切らした。『お聞かせ願いましょうか? どうするおつもりですかね。福祉施設の運営者としては』

 ヨズナムの視線がリフターに移った。これが聞きたかったようである。

『この、公約の四番目』また水晶板を指すリフター。『少数派の為の労働組合を設立、および彼らの雇用推進を目的とした事業を展開します』

『事業とは?』

『多岐にわたりますが……』

『そこを聞きたいのです!』

 咳払せきばらいして、リフターはカメラの方を見た。この言葉は彼ら弁舌家の為にあるのではなく、市民の為にこそあるのだから。

『たとえば、魔力的な呼吸器障害を抱える者たち。彼らは極少量の魔素濃度マソノードの変化に敏感で、魔草マーブのテイスティングや、その生育を担うのに適しています。

 片翼かたよくの者たちは、空を飛んで移動することが多い両翼者ひとびとと違い、基本的には歩行や魔装具マジェット、ならびに羽馬はねうまが移動手段となります。そのため、魔物まものを用いた輸送関係や、その教育。また、交通機関の発展において、よりバリアフリーな提案を期待できるでしょう』

『つまり……飲食と、交通? イグナシア中央快速のような、いわゆる航空鉄道網の発展は、ご自身の公約の三番目に入っていますが……ここに雇用枠を設けるということでしょうか?

 自分達の移動手段を、自分達で発展させようと?』

『ええ。全ての市民がその恩恵に預かることになるでしょう。魔導蹄鉄組合マックニー・キャリッジや、アトラス鉄道とも連携していきます。現状、長距離間の移動は迅速とは言えない。

 もちろん、全ての少数派にこの事業を提案するわけではありません。それぞれの希望もあるでしょう。通常の飲食店や、運送業での労働を望む方もいらっしゃいます。そういった方々が不自由なく働けるよう、我々天上宮は最大限の支援を行います。その為の労働組合です』

『なるほど、なるほど』

 ヨズナムが腕組みをき、口を開く素振りを見せる。リフターのほうも彼の言葉を待った。

 少なくとも、この男は言葉に敬意を払っているようだから。

『君はまず』と、ヨズナム。『現在揶揄やゆされている少数派が社会に順応するためには、相応の労働環境が必要だと考えているわけかな?』

『もちろんです。働けるのに働かせてくれない。そうして社会的な生産性がないと看做みなされ、生きていてもしょうがないと言われてしまう……これでは、永遠に状況はよくならない。

 差別意識の解消も、私個人の公演で引き続き訴えていきますが──彼らが社会に充分貢献できるということを証明できれば、偏見がなくなる日は、より早く訪れると考えています。世の人々が思うほど、我々と彼らの間に大きな違いはありません』

 ヨズナムは小さく笑った。嘲笑か、それとも納得か……リフターにも判断がつかなかった。

 空気でわかる。この男、自分と同じたち・・の人間だ。心底やりづらい。

『しかしね』その点、お喋り男は実にやりやすい。『先ほども言いましたが、国民の血税で、少数派の雇用を解決するというのは』

『血税、血税と言いますが』

 切り出す。間は二秒。二秒溜めて、リフターははっきりと言った。

『私がいつ〝税金を投じる〟と?』

『はい?』

『なにか?』

『なにかって……』気の抜けた笑みをこぼす男。『じゃ、どうするんです』

『現状、詳細を申し上げることは出来ませんが──』

 横目でヨズナムを見るリフター。彼もまた、沈黙を貫きながらリフターを見ている。

 舌戦か。いや、心理戦だ。

『──力強い出資者がいる……というところです』

『いい加減な。同じことじゃないですか。その出資者の財産だって、本来はアトラスの経済を回すために使われるべきものでしょう』

『インフラストラクチアの発展が経済を回さずして、他の何が経済を回すというのです。その恩恵を受けるのは少数派だけではないと思いますが』

 お喋り男はいよいよ爆発しそうだ。リフターはダメ押しとばかりに畳み掛けた。

『区長になれば、区民の血税はアトラス全体の発展のために注ぎます。当たり前の話でしょう。現状、私は天上宮バベルを投資の配当で運営しています。そこに変化はありません』

『無茶苦茶を言わんで頂きたい。天上議会が許可するわけがないでしょう』

『何故? 法律上の問題はクリアしています。ヨズナム氏にタレントとしての活動が許可されているのと同じだ。政治資金を捻出するための活動であり、寄付を募るよりはよほど……』

 がちゃん、とガラスが割れる音。視線がヨズナムに集まった。

『失敬』濡れた袖口を見せるヨズナム。『水をこぼした。一言いいかな?』

 破片もそのままに、彼はテーブルへ両肘を突く。話の腰の折りどころを見つけたようだ。

『素晴らしいよ、リフター君。いい夢を聞かせてもらった』

『夢とは?』

『君やその投資家がどれだけ金持ちかは知らないが、あまり現実味のない話だ。どうも、君は社会構造だけではなく、個人が少数派に対して抱く感情、あるいはアトラス民が抱く選民意識……その根本となる天上法の思想そのものをあらためたがっているなあ』

 さながら、と……静かにすごむヨズナム。

『女神ノキアが我々に与えた言葉を──するかのようにだ』

『……』リフターは口をつぐんだ。『ご冗談を。陶酔とうすいが過ぎます』

 またヨズナムの口元が動きはじめる。なおも攻める気だ。

『気のせいかな。なにか、強すぎる意志を感じるよ。思想を解体し、あらため、そして再統一する……君がなりたがっているのは区長ではなく、もっと大きなものだ。

 そう、たとえば……神や、天使だとか言われる……絶対的ななにか一つ。人々の指針、基準となるなにか一つだ。そういうものになることで、君はこの世界を、人々の言葉を統一しようとしている。違うかね? それは……』

『それが神や天使にのみ許された行いだというのなら、統一するのは私ではありません』

『だとしても、物差しになるのは君の価値観だろう?』

『私だけが持つものではない。誰もが本来持つべきもの、持っているものだ』

 リフターは胸に手を当てる。そうして目を伏せた。

『愛と、優しさ──ですよ』

『……』

『神となるのは私ではない。誰もの中にそれは宿り、誰もが神となるのです。宗教的に言えばそういう象徴の一つはあってもいいかもしれません……が、私などには、とても』

『夢想家だなあ』苦笑するヨズナム。『精神性の上昇、というわけだ。天に近しくあるならばと言ったところだろうが……いずれにせよ、多くの現実的な壁が立ちはだかるだろう。

 どうにもならないことをどうにかしようとしてしまうんだなあ、君は』

『どうにもならない? そう思われますか? 現・区長殿』

『さて。風の噂通り、君が人身売買で巨万の富を蓄えでもしてるなら……』

 ヨズナムは禁忌タヴーに触れたのち、しまったという顔でリフターを見た。

 違うな────わざとだ。挑戦であることは明白だった。目尻に笑みが見て取れる。それを見逃すリフターではなかった。

(……老いぼれめ。面白い。アトラスの牛耳ぎゅうじるだけはある)

 講堂の中がしんと静まり返って、水晶カメラの記録係りが周りを伺った。演出家か、番組の支配人か、とにかくこの場を取り仕切っているであろう男が〝そのままで〟のハンドサインを出したものだから、テープは無機質に回り続ける。

 やってくれたな。生放送だぞ、これは。窮地か、それとも……。

『はっは!』リフターの哄笑こうしょう沈黙しじまを破った。『人身売買!』

『おかしいかね?』

『ええ、とても。失敬。こらえたのですが。あまりに荒唐無稽だったもので、つい』

 ヨズナムが顔だけで笑って、ローブのふところからシガーケースを取り出す。

 紙巻きの魔煙草マーガレットだ。この男もまた応戦するつもりらしい。

『区長。生放送ですよ』と、制するリフター。『好感度が下がります』

『いやあ、タレントはもういい。廃業だ。若いのに任せる』

 魔燐寸マッチを勢いよく顎鬚あごひげくぐらせ、ヨズナムは煙草に火を近づける。彼が一息吸った途端に、顔がすっぽり隠れるほどの火柱が上がった。煙草は二割ほどしか残っていない。マッチと草の魔素まそが反応して過剰燃焼したのだ。

『やっちまった』小さくき込んで、ヨズナムはぼやいた。『普通のマッチを持ってくりゃあよかったなあ、うん』

『……』

 極力顔には出さぬよう努めたが、それでもリフターの眉間にはいくらかしわが寄った。

 なんだこいつは。本当に人間か? たかだかひげの焦げつきがなんだ。声帯はおろか、肺まで焼けてたっておかしくはないのに。そりゃあ、言葉の覇者も黙り込むというものだ。

 当のヨズナムにとっては些事さじのようだった。煙を、ゆっくりと──それこそ、焼けたはずの肺まで深く吸い、そののち吐き出して言った。

『火のないところに煙は立たない』

『……』

『ああ、今のは私の好感度の話だよ』

『あなたは随分と……火の使い方が下手だが、言葉の使い方はお上手なようだ』

 どうかな、と目を細めるヨズナム。

『火も、うまく使うがね』

『……』

『だが嘘は苦手だよ。君と違って』

『では、似た者同士ということですね。私も嘘は苦手だ』

 あっけからんと言って、リフターはいつもの表情に戻った。こんなことでペースを崩されるほど若くはない。

『つまり、なんです? 人身売買で得た巨額の闇金やみがねで、私は天上宮バベルを運営している?

 もしそれが事実なら、この公約が実現すれば私は破産します。本末転倒だ。違いますか?』

『どうかな。そっちの事業が軌道に乗れば、人身売買に手を出す必要もなくなるよ』

『ありえませんよ。人身売買に手を出している人間に、誰が子供を預けたいと思いますか』

『なりそこないが、なりそこないであればこそ成り立つ話だ。ちょうど昨今のように』

『ええ。だから、本末転倒だと言うのですよ。むしろ、そういう人間に私が狙われる可能性の方が高いでしょう。たとえばこの、公約の七番目……』

 リフターが水晶板を指す。ヨズナムも納得したように頷き、また腕組みの姿勢に戻った。

 この男だってわかっているはずだ。暴かれるのが誰なのかぐらいは。

『いるのですよ、世の中には。弱者が弱者でなくなると、困る連中というものが』

『それが』ヨズナムは首をかしげた。『君の敵かね?』

『さあ。わかりあえると信じていますよ。言葉が言葉として届く限りは』

 そこから十五分。時折ヨズナムの相槌、それとお喋りコメンテーターのさえずりを挟みながら、リフターの遊説ゆうぜいは火のごとく続いた。

 火のごとく続いたし、それは実際に、暗がりへと火を放つようなものだった。

 

 

 

 火をつける方はさぞや愉快だろう。だが、悪戯いたずらに照らされた方は穏やかではない。陽の目を避ける老婆などはまさにその一人だった。

 リフターの言葉に一頻ひとしきり耳を通したあと、マダム・クリサリスは杖の先──円錐状の鉱石を水晶テレビに向け、諦めにも似た表情で電源を落とした。

「……」

 電源ののち、視線も落とす。老いた手元に便箋びんせん。差出人の名はない。だが、誰かはわかる。翼状のシールで留められた紙きれには、ふるい言語でただの一言。

 ────挨拶状グリーティングス。宣戦布告だ。攻防はすでに始まっている。

 ふう、と大息を吐いて、マダムは魔信機マシーバーを手に取った。

 誰もが亡者だ。を求めさまよう亡者。命がけはみな同じこと。伏せ札を暴かれた者がくじかれる。手つきの悪いものばかりだが、誰にもお手つきは許されぬ。こうなってしまえば、もはや悪賊あくぞくどもの姦謀かんぼうは加速するのみだろう。

 その、顔。世を欺く善人の仮面に、犯した狼藉ろうぜきの数だけ刻まれたもの──今まさに、冷笑にしわまんとする悪意のは、見開かれたまなこは、落着の訪れを待ち焦がれている。

「愚かな、わが息子」

 マダム・クリサリスは血など争わぬ。ただ、血で血を洗う。

 

 

   ◇

 

 

「──問うぞ骸骨。お前はどちらの味方だ?」

 時、さかのぼること三十六時間。リフターによるバグリスの〝買収〟は、クアベルが地中で失禁しかけた頃に行われていた。ぜにゲバ骸骨の粗末なオツムが確かなら、交わされた言葉はこれらですべてだ。ちなみにクアベルに必要なのはオムツだったが、まあ、今更どっちでもいい。

 手品師は庭師とは違った。転び得るのだ、どちらにでも。そしてその立ち位置は、金というなんとも単純なものによって決定づけられる。

「六〇〇〇万ねえ」

 小切手を手に取り、バグリスは品定めする。

「ロリィタ・ジズの落札価格は三〇〇〇万じゃ?」

くな。それは契約金だ。金で殴れるところは金で殴ろうじゃないか」

 バグリスは頷いてやった。良くも悪くもリフターらしい合理的な判断だ。信頼や忠誠が、義でなく金で保たれることをよく理解している。

 何も書かれていない小切手を新たに取り出し、リフターは指で弾いてみせる。

「オペラを連れて来い。成功すれば、倍の金額でここに署名しよう」

「管理官!」血相を変え、ウスターシュがたじろぐ。「それは……」

「控えろウスターシュ。宿願叶うか叶わざるかの分水嶺ぶんすいれいだ。蕩尽とうじんとあらばここをおいて他にはないぞ」

「しかし、一億二〇〇〇万ゼスタなどという大金……」

「金など」ざっくばらんに言うリフター。「どうせ生え変わる」

 やはり、と──バグリスは確信した。天上宮の資金源は人身売買だけではない。月に一人や二人の売買で、少数派の救済構造が保てるわけがないのだ。

 生え変わるというその言葉。石の羽を原石として宝石商に卸す……そんなところか。

 だが、妙だ。やりようによってはそれだけで切り盛りできるはずで、人身売買に手を染める理由がない。なぜ貴重な資源を手放すような真似を。

「交渉なら相手が違うぞ、管理官。ロリィタ・ジズの売買は成立した。マダム・クリサリスと話をつけるべきだ」

「無論、あの女ともテーブルは囲むつもりだ。が……望み薄なのは明白でね。あれもあれで、つぼみの先の花弁を数えるだ。手放しはしないだろう」

 テーブルを囲む、とは。随分と柔らかい。言葉で解決すると言わんばかりではないか。

 そんなはずはない。ないのだ。角なき言葉では届かぬものを無理にでも届かせようとするとき、人が使うものは限られる。

 最たるものは暴力だ。次に恫喝。マダム・クリサリスは両方において秀でている。

 だが、それは──こちらとて同じことか。

「やるつもりか? 彼女を」バグリスは問う。

「奴など歯牙の切っ先にはない。通過点だ。必要であれば排撃する。それだけのこと」

 だが、と口角を吊り上げるリフター。

「切って捨てるには、少々余るか」

「つまり、儲かるんだな? それなら一口噛ませて欲しいね」

「だから、噛ませたろう?」小切手を指すリフター。「金轡かなぐつわを」

 それなら……とバグリスが口を開きかけた矢先、彼の帽子の羽飾りが毛筋を伸ばした。

 受信だ。八五〇〇MgHzマグヘルツの周波数帯を通して、何者かがバグリスを呼んでいる。

「誰だ?」リフターが問う。

 羽飾りは帽子から浮き上がり、バグリスの掌に降り立ったかと思うと、石灰に似た白で文字を記し始めた。旧言語の三番目から始まり……早くもバグリスは溜息をつく。

「マダムだ」名前の完成も待たず、彼は羽飾りを帽子へ戻した。「さすがは親子だな」

「奴も貴様を買収しにかかるはずだ。流されるな」

「ノーノーノー、そんなことは関係ありまセントジョーンズワート。言っとくが、僕は儲かるほうにつくぞ」

「やめておけ。あの女の目論見など手に取るように分かる」

 引き出しから小箱を取り出すリフター。鍵を指し込み、蓋を開け……中から出てきたのは、鍵束だった。

「奴は鍵を持っている。これはスペアだが」

「次はどの箱を開けるんだ?」

「茶化すな。比翼者ヴァイカリオスを管理している部屋の鍵だ。奴はその所有権を貴様に託すだろう。そうすることで、貴様が自分たちの方へ寝返ったという既成事実を……」

「そうなったらぼかぁ、彼女と一緒にここを攻め落とすだけだが」

「合理的に考えろ」瞳を伏せて笑うリフター。「貴様ら劇場シアトルにとって、天上宮は商品の流通元だが、奴は単なる顧客だ。算盤そろばんぐらいは弾けるな?」

 バグリスは口を閉ざした。

 しゃくな話ではある。しかし事実だ。劇場シアトルが蝶々の販売所だとするなら、天上宮には芋虫が自らやってくるのだ。土を掘るのは億劫おっくうだし、虫の選別にも金がかさむ。費用対効果を考えれば、天上宮が存続するに越したことはない。

 ないのだが──

「即答はできない。時間をくれ」

 バグリスは焦らなかった。七度も人生を繰り返せば、いくら愚者でも経験に学ぶというものだ。とんとん拍子で進むと思っていたのか、リフターは姿なき片眉を吊り上げる。

「時間とは? 何のための時間だ」

「暴力には少し早い。そうだろう? 幸いにもまだ、君たちはお互い無傷だ。競売システムの崩壊は誰にとってもいい結果をもたらさない。彼女だって、天上宮から逃げ切れるとは思っていないだろうさ。

 僕がマダムに掛け合ってみよう。ひょっとしたら、ロリィタ・ジズを返してくれるかも」

「無駄だとは思うが。まあいい。もし奴が説得に応じないようであれば」

「あぁーいいとも。そん時ゃ僕だって腹をくくるさ」

 でなければ、と……リフターは頬杖を突いた。

「首をくくるかだな」

 

 

   ◆

 

 

 失策だった、と……料亭ウーサヴ・ライニラルでの会食を終えたバグリスは、あとの祭りのただ中にいた。いたが、切ってしまった啖呵たんかはどうしようもない。

 金に目が眩んだと言えばそうなるか。だが、今回に限っては、金よりもっと大きなものが、自分の目を掴んで離さないらしい。

「やっちまったなあ……」

 さて、金轡かなぐつわを噛まされた手品師が手元に揃えたのは、未署名の小切手に、競売の契約書……それと、自身の総資産を記した証明書。以上の三つである。

 劇場シアトルの舞台を一望する、有力者用の二階席──バグリスは、暗がりに冴え渡る白亞はくあの卓上にそれらのピースを並べ、顎骨あごぼねをさすりながら思索にふけった。

 リフターとの折衝せっしょう……その一部始終、交わされた一言一句を彼は反芻はんすうする。腹をくくるか、首をくくるか、それとも腹をくくった結果として首をくくられるか……いずれにせよ、頑丈なロープが欲しいところだ。

 六〇〇〇万ゼスタ。犯罪の露見を未然に防ぐという意味では、リフターとしては惜しくない額か。しかし。

「雲を、つかむようだ」

 バグリスの呟きを受け、手すりを拭いていたレイチェルが雑巾を折り畳む。

「リフター=レグレンターニのことですか」

「ああ。ちぐはぐなんだよな。天上宮から僕らのとこに卸される子供達ってのは、ありゃあ、競売に絶望したんだと思ってたが」

 バグリスは六角推の水晶記録媒体を取り出す。そののち映写機に指し込んで、暗幕目がけて映像を投射した。

 ノイズが走っている。ふるい映像だ。一〇年、二〇年……もっと前。競売の〝商品〟となった子供たちを記録したもので、片翼者メネラウスもいれば比翼者ヴァイカリオスもいる。中には、そうでないものも。共通しているのは瞳に光がないことだけだ。

 嫌味ったらしいほど長い足を組みなおして、バグリスは続けた。

「問題は、いつからこういう状態だったのか、だ。劇場シアトルに来たことによってこうなったのか、それとも、天上宮にいる時からこうだったのか。競売の前に身だしなみを整えられるだけで、もし全ての子供達がロリィタ・ジズ同様、劣悪な環境に置かれてるんだとしたら……」

「しかし……」ほこりが舞い上がり、むせるレイチェル。「……例えばチネッタ=ツェヴチーニのような、ただの片翼者メネラウスには……」

「そう。そんなきざしは見られなかった。てことは、だ」

 バグリスは写真を次々に切り替える。子供達の細部を見ているのだ。爪や、足裏。それに、毛髪の痛みなんかを。

「普通に育てられる子供達と、檻に入れられる子供達と……二通りある」

比翼者ヴァイカリオスかどうか、では」

比翼者ヴァイカリオスにだって、健康そのものだった子はいたさ。わかんないだよね、そこが」

 映写機から水晶が吐き出される。場内は再び暗がりへと戻った。

「檻の鍵があるってことは、他にもジズのような環境に置かれる子供たちがいるってことだ。そういう子供と、そうでない子供……なにが彼女らを分けた? なぜジズだけ……」

「……単に」ぱたぱたとモップを動かすレイチェル。「あの眉なしの趣味では」

「普通じゃない。犯罪の露見を恐れるだけなら、口止めすれば済む話だ。わざわざ六〇〇〇万なんて大金を、よりによって僕に積む必要はないだろう? 交渉するにしたって相手が違う。

 この小切手は本当なら、僕じゃなくてマダム・クリサリスに積まれるべきものだ」

 信用もへったくれもない紙ぺらを、バグリスはばらばらと数える。手持ち無沙汰なだけだ。本当のところ、増えようが減ろうが構わない。

「……〝問題は売ったことだ〟と……リフターはそう言った。拾ったことには感謝するとも。野放しじゃまずいが、売られてもまずい。

 つまり、困るんだ、リフターは。ロリィタ・ジズが手元にないと。彼を取り巻く状況は逼迫ひっぱくしている。マダムを敵に回すことも厭わないぐらいに」

「……何故です?」

「それがわかんないから困ってんだよなあ」

 バケツ目がけて雑巾を放るレイチェル。跳ねた水しぶきを受け、物陰の空鼠そらねずみがチィと鳴いた。片翼かたよくがもげているようだ。ジズの友達だろうか。それとも違う奴だろうか。レイチェルには区別がつかない。鼠なんてどれでも同じではないか。それとも愛着が湧けば、どれでもよくはなくなるのだろうか。

「……」レイチェルはそいつをつまみ上げる。「お前の力も借りたいところなのだけど」

 チィ。鼠は細いひげを揺らしながら、首を横に振った。ただ働きはしないようだ。仕方がないので、絵画の入り口に押し戻してやる。

「あのさぁレイチェル」座椅子の背もたれを大きく後ろに倒し、逆さまの顔で言うバグリス。

「遊んでないで考えてくんない?」

「いえ、鼠が……。苦手なもので」

「わかったよ、今度は猫を雇えばいいんだろ。それも雑食のやつだ」

 バグリスはいい加減に答え、リフターから受け取った資料を差し出す。

「これ、どう思う。お土産にもらったんだけど」

「……出資事業ですか、リフターの」

「選挙に当選したら、少数派をここで雇用するんだって」

 渡されたものだから、仕方なくレイチェルは目を通した。正直、文章を読むのは得意ではない。物語は好きだが、専門書じみた固い文字相手だと目が滑る。

「飲食に、交通……。服飾?」

「そう。片翼者メネラウスとか、亞人とか、比翼者ヴァイカリオスとか……とにかく少数派が働いて、装飾品を作っては売るんだと。石の羽をアクセサリーにしたり、片翼者メネラウスの羽でコートを作ったりなんかして」

「……少数派であることを付加価値にするなら、彼らが──いい意味でも、悪い意味でも──特別であるうちは、いくらか売れるのでは」

「だよねえ。けど多くは売れないし、長くはもたない」

 レイチェルも頷く。火を見るより明らかだった。結局、全てはリフターの地ならしありきの理想論で、地盤が整わなければ徒爾とじに終わるだろう。

 信念に盲目だ。そう映る。だが、成功を裏付ける何かがあるともとれる。事実だった場合、警戒すべきは全貌が掴めぬはかりごとの方だ。

「リフター=レグレンターニは、それを救済だと?」

「いやぁ、違うでしょ。こんなのは宣伝だろう、ただの。少数派のこと考えてますよってのを分かりやすく伝える……パフォーマンスだ。お喋りだからな、やつも」

 自嘲し、資料を畳むバグリス。

「これが最終目標なら、子供たちを檻に閉じ込める理由がない。なにより、ロリィタ・ジズにこだわる必要もなくなる。胡散臭さもストップ高だよ」

「ですが、この話を断れば……」

「報復、待った無しだ。どっちに転んだって、どっちかは敵に回さなきゃならない」

 バグリスは溜息まじりでそう言った。まぜてみただけだろう。彼が憂慮しているのは、いざこざによって受ける損害であって、彼らを敵に回すことそのものではない。

「しくじっちまったな」首を一八〇度曲げるバグリス。「マダムに取り入ったフリをしておくべきだったんだ。ロリィタ・ジズと鍵を揃えて唯一のチャンスだった」

「……選んでしまったものはしょうがありません」

「……」

「どのみち、あの女は疑い深い。この期に及んで旦那様があの子に接触するのを、そう易々やすやすと許しはしなかったでしょう。万全を期すだけの時間ができたととらえるべきです」

「やめてくれ、泣けてくる。自分の信用のなさに」

 レイチェルは背筋せすじを正す。今日はどの服を着ようかしら──そういう調子で悩んでいる時、人が覗くのは鏡と決まっているのだ。決めあぐねる主君の眼孔を、彼女は両の目で真っ直ぐに捉え、はきはきと言葉をつむいだ。

「信用は、香りとは違う。振りくものではない」

「……」

「あなたは劇場シアトルおさ。ならば、必要なのは劇場われわれの信用。私の中に疑いはありません。

 私が信用するのは、旦那様率ひきいる我らが劇場げきじょう……即興劇場アーコギャズ・シアトル……その一挙手一投足のみでございます。どうか、あなたを疑わぬよう」

 けた、と顎骨あごぼねが一度だけ鳴った。安堵あんどの仕草だろうか。まだ劇場シアトルに七〇年しか仕えていない彼女には判断がつかぬ。

絶頂不可避マーヴェラスだ。そんじゃあ僕の考えを言ってもいいかい?」

「どうぞ」

「耳を貸して」

 ひざまずくレイチェル。ゆっくりと長髪をかき上げる。細雪ささめゆきを思わせるうなじが姿を見せた。

 バグリスはその耳元に顔を近づけ──そっと息を吹きかける。

「っぁ……」

 ぞわりと鳥肌。たまらずレイチェルは耳元を押さえる。バグリスはけたけたと笑った。

 ちょっかいだ。巨大な場内の静寂に、二人だけの営みが吸われてゆく。

「誰にでも弱点が」ばちん。平手が一発。「……」

「しばきますよ」

「斬新だ。言葉が遅れてきた」

 明後日の方へ向いた首を直し、バグリスは咳払せきばらいを一つ。レイチェルは再びひざまずき、つとめて冷静に目を閉じ、されど耳周りの警戒はおこたらず、漂ってくるバグリスの香りを吸い込んだ。

 森林を見るような奥深いトップ・ノート。その中に、かすかに……腐臭だろうか、死を思わせるにおいがある。不快なわけではない。鮮やかな香りを引き立てるための影だ。

 薔薇でいうところの……いばら。好きなのだな、この香りが。我が主君は。

「────────」

 バグリスは何事かを呟きながら、レイチェルの香りを鼻腔びこうに取り入れた。整髪料か、入浴剤か、それとも香水か知らないが、とにかく花の香りだ。バグリスは庭の手入れなどしないし、花の種類にはうとい。かぐわしければ全て薔薇のようなものだと思っている。

 なんだっていいのだ。愛おしければ、なんでも。

「……なるほど」立ち上がり、レイチェルは続ける。「遅れを取り戻すおつもりですか」

 バグリスは答えない。そうすることで答えた。

「ああ、わかってる。欲を出すべきじゃあないよな。きっとタダじゃすまない。タダより高い物はないんだ。僕が一番よく知ってる。だが、そいつが世界で一番高いってんなら、金に目が眩んだ男としちゃあ、買ってみたくもなるだろ?」

「……あなたという人は」

「嫌ならやめてもいい。君には君の人生がある」

 そんなものはない。なくてもよい。一呼吸置いて、レイチェルは口を開いた。

「あなたが奪還したのです」

 面食らい、バグリスは固まった。言った甲斐があったというものだ。彼女は胸に指先を沈め、心臓の奥から言葉を引きずり出す。

「私の人生を買ったのはあなたです。売り払い、買い戻し……そうして、私に値札を貼った。劇場シアトルの使用人という値札を。私と同じ生涯を彼女に望むとあらば、おおせのままに。

 花はどれほど咲いてもいい。我らが劇場シアトルを、花園に」

 つば一つぶんほど黙ってみて、バグリスは「ブラボー」と、満足そうに言った。

「好きだよ、君のそういうとこ」

「真綿のようです。あなたの言葉は」目線を逸らすレイチェル。「軽すぎる」

「しっかり握っておけよ。吹けば飛んじまう」

 言われた通り、レイチェルは空の右手を握った。ぎゅっと閉じれば熱がこもって、ふと緩めれば冷たくなって。

 いじわるだな、言葉というものは。姿もろくすっぽ見せちゃくれない。

 晴れた休日の昼下がりはここで終わりだ。だらけるのはよくない。レイチェルは姿勢を正して、卓上の小切手を見やる。闇の訪れは思うより早い。あとは備えるのみだ。

 劇場シアトルは、どんな街の夜警ファロティエよりも早くランタンに火を灯す。

「提案します。〝蘇生〟に必要な金額は?」

「致命傷の場合」小切手を指すバグリス。「ざっとこのぐらい。即死の場合はその倍だ」

「では、古物商サソリに連絡を」

「勘弁してくれ。六〇〇年かけて集めたコレクションだぞ」

「いずれは泡銭あぶくぜに。どちらを取るかです。命か、富か」

「一本取られたな。そいつは難しい問題だぞ。僕ぁ、強欲でね」 

 まさに、と──バグリスは黒衣こくえひるがえした。

悪銭あくせん身につかず、だ!」

 で、あれば。悪銭で買われた私は、いずれ。

 レイチェルは微笑んだ。紅茶をれよう。さみしくなくたって、私はそうする。