第十一羽「庭師、立つ」

 

 

 

 

 庭師、立つ。巨石に立つ。左右一対へと分解した刈り込みばさみを構え、ビーガンはクアベルを睨みつけた。植物が彼の足元でうぞうぞとのたうち回り、やがてそのつるを触手のように伸ばしはじめる。

 アゾローチだ。魔素まそを吸収し、劇的な速度で成長する世界樹の近縁種。せいぜいが大きめの食虫植物ぐらいのサイズで、脅威になるとは思いがたい。クアベルは鼻で笑った。

「いいのか、オレを敵に回して。管理官に言いつけちゃうぜ」

「僕は仕事を果たすだけだ。管理官はそれがわからないほど馬鹿じゃない。お前と違ってな」

 腰元の霧吹きで水を吹きかけるビーガン。スポンジが水を吸うようにしてアゾローチが膨れ上がり、イソップ童話顔負けの巨木きょぼくへと変貌へんぼうする。触手のうねりが止まる気配はない。まるで巨人だ。樹の巨人。

 ──水じゃない……魔酒マキュールか。漂う果実の香りからクアベルは悟った。なるほどアゾローチの成長速度を速めるのにいい手ではある。巨石の魔力封じで圧縮されないギリギリの魔素濃度マソノード。これを見越した上で刻印が施されているといったところか。

 よく出来た手だ。最初から比翼者ヴァイカリオスの襲撃を想定していたのではと、邪推してしまう程に。

「クソ面倒な……」

 女相手に触手だと。今度はくつわに三角木馬か。クアベルは駆け出した。その後ろを無数の触手が追う。ビーガンはただ見ているだけだった。これが彼なりのやり方らしい。

 はさみはお飾りか。だったらやっぱり、庭師の風上にも置けないやつだ!

「テメー、卑怯だぞ庭師!」

狡猾こうかつと呼べ。その方が聞こえがいい」

 受け売りの常套句じょうとうくを、ビーガンは習いたてかのように吐いてみせる。

 羽。羽! 石の羽だ! クアベルは慌てに慌てた。冷静にと努めれば努めるほど足元が絡みそうになる。とにもかくにも石の羽がなくては勝負にならない。接近戦に覚えがないわけではないが、触手の動きがどうにも読み辛いのだ。

 右へ左へ上へ下へ、前へ後ろへ……アスレチックで遊ぶ子供みたいにぴょんぴょんと跳ねながら、クアベルは打開策に頭を巡らせる。が、どうにも触手の見た目が邪魔をする。

 血走り、うねり、どくどくと脈打つ触手。なんだか猥褻わいせつな感じだ。

 どこだっけ、どこかで見たことある──クアベルはどうでもいい方向に脳味噌を回した。

 ああそうだ、確かアゾキアにもこんな感じのものが……いやしかし、彼奴きゃつのアレはアスカ系だからということもあってか、こんなにうねうね曲がったりは……言ってる場合か!

 右。左。上。前方斜め左。後ろ。跳躍。前転。なんだかリズムゲヱムでもやっているみたいだ。右。右。左。上。側転。起きざま後ろ! そののち右、左……。

 盛り上がる巨石。下! 地面だ!

「のあああああ」

 巨石から這い出た一本のツタがクアベルの右足に絡みつき、その小柄な体躯を宙吊りにする。やられた。クアベルはスカートの裾を押さえ、血が上りきった頭で逆さまに庭師を睨んだ。

「最ッ低だ! この変態! 変ッ態庭師が!」

「お墨付きどうも」

 ビーガンの指の動きに応じ、触手の一本がクアベルの太ももへと這い上がる。ナメクジみたいにぬらぬらと樹液をてからせながら、そのままスカートの内側へ。

「おい待てちょっと待て! 嘘だろおまっいやぁー!」

 びょ、と再び這い出てきた触手。先端に何かがつかまれている。布切れだ。蒼い逆三角形で、小さなフリルらしきものがついている。

 回りくどい言い方はよそう。要するにそれはクアベルの鎧だった。紐の部分に小刀が括られている。最後の手段といったところか。

「はん。青」ビーガンは仏頂面のまま吐き捨てた。「気取りやがって」

「てめぇえ庭師ィイイイイイ」

 後ろの方でチネッタが引き笑いを浮かべた。何故ってビーガンは青が嫌いなようだし、チネッタも同じものを持っているから。決めた、あれは捨てる。

 ビーガンは触手の先で見せびらかすようにして下着をぴらぴらと回した後、飽きたと言わんばかりに放ってみせる。力なく地に落ちたそれをニチザツがとらえ、鼻の先でぐいぐいと擦り始めた。

「ああああああ」

 叫び声が出そうだ。頭を抱えたい。しかし、そうするとスカートがひっくり返る……。

 悩んだ挙句にクアベルは片方の手でスカートを押さえ、もう片方の手で頭を抱えた。

「オレのお気に入りが馬に……」

「よせニチザツ」ビーガンが愛馬あいばたしなめる。「不衛生だ」

「ぶちころがすぞぁ!」

 恥晒しのクアベルは思わず両手をあげて叫び、危うく恥以外の大事な部分も晒しそうになる。女としてはもうおしまい同然だ。馬にパンツをしゃぶられたなんて、間接的に強姦されたのと同じだ。いや、畜生の場合は獣姦と言うのだったか……どっちでもいい。

「大人しく降参しろ」ビーガンはこともなげに言う。「でなければこのまま……」

「はいそうですかで帰れるかぁ!」

 下着の色と反対にクアベルの顔は真っ赤だった。

「そんなところに隠しておくからだ」と、ビーガン。「見えてしまったものはしょうがない」

「おーおーそうかい。乙女の花園を見た感想を一言でどうぞ、童貞野郎」

「金をもらってもその庭の手入れはゴメンだな」

「テメー絶対殺す! このクソ庭師、クソ庭師! にわか仕込みのクソ庭師が!」

「安心しろ。女に興味はない。仕事だ、ただの」

「けっ」クアベルは口角を下げる。「割り切りいいですねぇ。流石は羽なし」

「お前とは割り切りでもゴメンだがな」

「こっちから願い下げだクソボケ。オレは男に興味ねーんだよ」

「なんだ、お前」間の抜けた目つきで言うビーガン。「か?」

「文句あるかコラ」

「おかしな話だな。この白亞はくあの天上においては、僕もお前も大罪人というわけだ」

「も?」

 ジズがぽかんとする一方で、チネッタの表情が曇ってゆく。やはりクアベルはそれを見逃さなかった。

 チネッタはどちらでもない。薔薇でもないし、百合でもない。この天上一面を覆えるほどの曇天具合は、この男がそっち側だからと言ったところか。まったく、少数派というのは厳しいさだめに置かれるものだ。

 ああ、知ってるさ。曇りのち雨だ。やはり、この庭師は殺さねばならない。物臭のクアベルなりにもこだわりはある。それは例えばリフターの部屋のカーペットだとか、サンクレールのカフェモカであったりとか──チネッタに関してであったりとか。

「口は悪いが中々キレてる奴だな。お前が男じゃなくてよかった。ああなに、勘違いするなよ。共感じゃない。羽なしだからな。共感なんて言葉は知らない」

「……」

「気兼ねなく半殺しに出来るという意味だ」

「……興味ないって、そういう意味かよ。てめえもピースのあまりってわけかい。一つ言っとくぜ庭師」

 クアベルはツタを握った。強く。

「オレはチネッタを泣かせる奴が大嫌いだ」

「悪いが」庭師の片眉が吊りあがる。「涙は信用しない主義だ。特に、女の涙は」

「テメーの主義なんか知るか、よ!」

 クアベルは一思いにツタをじ切る。似合わぬ怪力、というわけではない。雑巾を絞るのと同じ原理だ。掃除には無頓着だがやり方だけは心得ていた。

 びちゃり。びちゃり。またびちゃり。クアベルは服だの顔だのに飛び散った樹液(よりにもよって白い)に苦虫を噛み潰したような顔を作り、脈打つ触手の残骸をほうって軽やかに地面へ降り立った。

「うえぇ最悪……」

 油断もつか、彼女は機敏に駆けた。ビーガンがその指先をうごめかせるたび、触手のむちが彼女の軌跡を辿るように打ち込まれてゆく。どれも直撃には至らない。クアベルは縄跳びのように飛び跳ねながら、地を削るだけに留まるつるを笑ってみせる。

「おらおらどこ狙ってんだ! ヘタクソ庭師が! 夜もそんな調子か!」

「チッ」

 左方向、三シェール先。同時に前方、七シェール先。読まれた。右方向に四シェール修正。打てども打てども鞭はクアベルには当たらない。

「ほっほーい!」

 涼しい顔で跳ねるクアベル。野ばらを駆る兎に似た姿を見て、ビーガンは胸騒ぎを覚えた。

(……なんだ? なぜ仕掛けてこない。いくら魔力封じがあるからとはいえ、いくらなんでも防戦が過ぎるぞ。石の羽が使えないなら使えないなりに、こちらに攻めてきても良さそうなものだが──)

 一際ひときわ大きな触手の一撃。クアベルはまた身をかわす。巨石に刻まれたアルザル文字の一辺が断たれ、蝶の蜜壷に張り巡らされた〝聖域〟が霧散した。

「しまった」ビーガンは遅すぎた舌打ちをかました。「この女……!」

 どうにもちょこまか右へ左へせわしなく動くと思ったら。見くびりが過ぎたか。

 この女──触手に文字を削らせやがった。待っていたな、これを。

「よしっ」

 背中がと軽くなるのを感じ、クアベルは思わず笑みを漏らす。待つのが嫌いなクアベルにしては殊勝なやり方だったといえよう。再び険しい表情に切り替えて、彼女はジズに狙いを定めた。

 石の羽を全開にする前に、まずは軽いジャブを一撃だ。ウォーミングアップがてらに羽の先を丸め、ハンマーの先みたいに鉱石化。仔細しさいなし。特に後遺症はないらしい。

 遠心力にしたがって振り回された羽は、間抜け面でそれを眺めていたジズの方へ。つづいてチネッタが反射的にジズの前へと立ちはだかる。そうだ。チネッタはそういう女だ。無力ながらにかばおうというのだ。考えるよりも先に体が動く。

 クアベルはそこまで織り込み済みだった。一瞬だけ鉱石化を解除して羽をひねり、そして再び鉱石化。矛先を変えただいだい色のハンマーは、目視も追いつかぬままジズの後頭部へ。

 あれ。消えた。どこに行った? まるで手品でも見てる気分だ。少女達がと思った頃には、割って入ったビーガンのはさみが鉱石のハンマーを食い止めていた。

「下がれ!」

「はや……」

「下がれと言ってるんだチネッタ!」

「はっ、はいぃ……」

 余裕のない怒鳴り声にさえチネッタはだ。これがまた、クアベルを鼻持ちならない気持ちにさせる。なんだなんだ。どうしてそんな男に色目を使ったりするんだ。私にはそんな顔見せたこともないくせに。くそ。くそくそくそ。

 ジズはその目に見覚えがあった。ああ、あれは、嫉妬の色だ。

「ムッカつく……」

 そう、つぶやきを一つ。ぎゃ、とはさみを弾いて、クアベルは後ろへ跳ぶ。

「逆にすべきだったな。チネッタを狙えばジズじょうかばいに入った」

「てめえら羽なしの、そういうところが気に入らねえんだよ」

 クアベルはチネッタを誰よりよく知っている。ジズがいうところの十個ずつメソッドなどはお手の物だ。彼女の経験則によればチネッタは傷つくことよりも傷つけることを恐れる。まして自分をかばって誰かに傷つかれたとあれば、ざらめのこころが持ちはしまい。

 表面こそ鋼のような女だが、内心の強固さなどは片栗粉を溶いた水みたいなものだ。少なくとも、クアベルの中ではそんなイメージだった。

 しかるに、そういうやり方はクアベルの趣味ではない。趣味ではないのだ、ただ単に。

 再び迫る触手。二本、三本とそれを避け、木を蹴り宙へ飛び、とうとうクアベルは羽の名を口にした。

 

「────【女女女し殿下の放蕩娘エクリネ・クリシェマ・ネクレラクリス】」

 

 黄金色の閃きと共にクアベルの羽が伸び、鉱石となって硬く凝固する。ジズは目を見開き、その圧に戦き、なんとなく自分の背中の様子を窺ってみたりもした。

 羽。石の羽だ。ジャスパーや自分と同じ、なりそこなった者たちの証明。

「チッ」

 庭師の舌打ちから間髪空けず、クアベルの石の羽はごうと音を立てて地面に墜落した。舞いあがった土煙と突風がその鈍重さを思わせる。

 何が来る。金槌か。それとも鉄球? 何にせよ、この衝撃と振動からしてかなりの質量だろう。なるほど石の羽は宿主を表すものだから、横着者らしいと言えばらしい──

 ──軽い気持ちでそこまで考えて、ビーガンは我が目を疑った。

 鉱石化した左翼は、小振りな巨石一つ分はあるだろうか、目を疑うような大きさだ。しかもただ馬鹿でかいだけではない。その意匠いしょうがまた異様なのだ。

 クアベルの羽の姿はなんとも筆舌に尽くしがたかった。三つ首の人魚が、肩甲骨から生えている──そんな感じだ。ジズにはそう見えた。

 どうやら三つ首の怪物は黄玉トパーズで出来ているようである。これが彼女の意志の輝きというわけだ。黄、ないし薄い橙ぐらいの輝きを放ってはいるが、人をかたどっている癖に人間味が感じられない造型なものだから、どうにも気味が悪い。

 連なった三つの顔、その表情がまたけったいだ。拷問にでもかけられたように目を見開き、歯茎が剥き出しになるほど大口を開けている。

「……悪趣味な……」

 ビーガンはそう呟き、再び背後に触手を従えた。

 悪趣味なのはまあいい。人の趣味にどうこう言える立場でもない。羽の大きさも想定内だ。真っ向からとはいかないが、触手で縛ってしまえばわけはない。

 問題はあの大口を開けたクソ不細工な人魚姫だ。ビーガンはただでさえ面食いだし、それを差し引いてもあのデザインは頂けない。まだチネッタの方がマシだ。五割、三割、いや、二割ぐらいは。

 なによりあの歪な羽は──何の為にああも大口を……。

「さぁいけクリちゃん!」「名前まで悪趣味か!」

 石の人魚がぎょうと雄叫びを上げ、鉱石の両腕で地を掻きながら疾駆する。まるで暴走機関車だ。土煙と雑草が無茶苦茶に散らばり、巨石が大きく揺れ動いた。

「後ろにバラけろ!」叫ぶビーガン。「距離を取って散らばれ!」

 ジズらを護るよう立ちはだかり、ビーガンは触手を幾重にも束ねだす。螺旋を描いて絡まったそれらは巨人の右腕を形作り、そうしていびつな人魚姫へと拳を振り上げた。

 手加減なしの一撃だ、巨石が崩れてどうなるかなど後で考えればいい──そういう心づもりで放たれた拳を、クアベルの石の羽は容易く突き破った。植物由来の白い液体と触手の残骸が降り注ぐ中、放蕩娘ネクレラクリスは手綱の切れた馬みたいに暴れ回る。ニチザツとはえらい違いだ。飼い主も一緒になって暴れているというのだから、いよいよもってどうしようもない。

「駄目か……!」

「拳が甘いぜクソ庭師」手招きするクアベル。「パンチドランカーか?」

「劇薬みたいなオムレツのせいでな!」

「はっ!?」

 人魚の肩口でクアベルが動揺した。

「てめえ、チネッタの手料理食ったのか!」

「こらぁ!」チネッタが叫ぶ。「なんで今ので私だってわかんのよ!」

「えぁあ、いや、誤解すんなよチネッタ、オレは別にお前の料理がまずいなんて……」

「もぉーあッたまきた! いいわビーガン! 一回ギッタギタにしてやって!」

「そいつはかなり難しいな……!」応じるビーガン。「あなたに食える料理を作れと言ってるようなものだ!」

「あんたまで!」

 一重、二重、三重……いや、まだ足りない。四重だ。四重につるを絡めたものを左右から伸ばし、ビーガンは〝クリちゃん〟の拘束を試みる。

 クアベルはそれを見切った。よりにもよって最悪の場所で。

「はっほぉーい」

 地を蹴るトパーズの両腕。〝クリちゃん〟がぐるぐると回りながら宙を飛ぶ。つられてクアベルの軽い体も空を舞う。まるでハンマー投げを見ているようだ。

「馬鹿な!」ビーガンが頓狂とんきょうな声を上げる。

「左だクリちゃん!」

 地を這う影の矛先を見てビーガンは青ざめた。

 おい待て、そっちは──マダムの屋敷じゃないか!

「「あぁーッ!」」

 チネッタとジズが揃って叫ぶ。ビーガンは叫び声より早く地を走り、更に道すがら種を撒き、触手の腕で〝クリちゃん〟の巨大な質量を受け止めた。もちろん間一髪だ。

「さッ、せ、る、もンンのッかぁあああああああああ」

 〝クリちゃん〟の両腕が繊維を引き千切る。更に種を撒き腕を増強。もう一つ、もう一つ、もう一つ……そのたびビーガンにかかる魔素まその負荷が強くなる。額に血管を浮かべながら歯を食いしばり、彼は軋む腕を押し出し続けた。

「やらせるものか……! やらせてたまるものか! 冗談じゃないぞ! 家が潰れたら半殺しどころじゃすまない……! 僕はマダムの庭師だ! なにより……なによりなぁ……!」

 ビーガンが一歩踏み込む。優男らしからぬ根性の一歩だ。クアベルが押された。

「中にあるんだぞ……! マーコレツの優待券がまだ中にあるんだ! ここで負けるわけにはいかないッ! 庭師の意地とアスカ系美少年への情熱にかけてッ! ここだけはッ、やらせるわけにはいかないッッッ!!」

 そのまま押し潰されてしまえとチネッタは思う。安い意地もあったものだ。

「弾けろ女ァ!」「潰れろ庭師ィ!」

 拮抗する巨獣と巨木。種のストックもあと少しだ。補強なしではもうもたない。

 ビーガンは勝負に出た。巨腕を僅かに左へ反らす。〝クリちゃん〟の矛先も傾く。ここだ。螺旋状の腕を駆け上がり、刈り込みばさみで大きく一閃。

 庭師、つ。巨木を断つ。支えを失った〝クリちゃん〟が大口を開けたまま地面──というか巨石に突っ込み、シャベルで掘り進めるようにつぶてをめくり上げながら樹林へと激突した。

「悪いが負けられない」庭師は拳を握った。「マーコレツの一八〇分コースにかけて……!」

 庭師風情が高級娼館しょうかんでこともあろうに一八〇分コースだと。チネッタは引き笑いを浮かべるしかなかった。ジズにはそもそも一八〇分コースの意味が分からない。分からないので、隣のチネッタに問うてみる。

「ねえ、一八〇分コースってなに」

「あんたは知らなくていいことよ」

「だって一八〇分もあるんだから楽しいことなんでしょ」

「そんなの私が知るか!」

「知ってるんでしょ、教えてくれたっていいじゃん!」

「うっさいわね! あんた私が今どういう気持ちか……」

 轟音に阻まれる少女のさえずり。樹林を食い破って飛び出してきたクアベルの翼が、その勢いを殺し切れぬまま土煙を巻き上げ、黄玉トパーズの両腕で我武者羅がむしゃらに地を掻いて巨石を疾走した。

 三つ首の怪物、肩には物臭……進む先にはジズとチネッタ。異貌いぼうの羽のおどろおどろしさにされた二人は、互いにしがみついて叫ぶしかなかった。

「「ひぃやぁああああああ」」

「バラけろと言っただろ!」

 地を蹴るビーガン。庭師の艱難かんなんは雲河のごとく絶えず続く────

 

 

  ◆

 

 

「なぜ庭師を野放しに?」

 管理官室の片隅で問うウスターシュ。タロットみたいに書類の束を並べていたリフターが、その問いかけを目処に作業の手を休めた。

「庭師だからだ」

「意味を図りかねますな」

「言葉の通りだ、ウスターシュ。あれは懐柔かいじゅうできない。金、魔草マーブ、一等地の永住権、地位に、石……どれも手応えなし。そんな奴が一体ほかの何で動く? マーコレツの優待券でも渡してみるか?」

 最後のまさかの正答に気付かぬまま、湯気の立つ珈琲コーヒーを口にするリフター。

「奴は全てを仕事だと割り切っている。雇い主が誰であろうが関係はない。こちらとクリサリスていで仕事を掛け持ちしていようが、そしてそれがどちらにとって不都合であろうが、奴には関係がないのだ。ただシフトに応じて仕事をこなす」

「買いかぶりすぎでは?」

「で、あれば……それでもよい」

 リフターが卓上の魔装具マジェットに手を伸ばした。石から造られたタイプライターのようなものだ。ボタンが螺旋状に配置されており、ある種の植物のつるが──それらは金属や鉱石に植えることで成長し、通信ケーブルの役割を果たす──水晶テレビとの間を取り持つように植えられていることからも、この器具が〝監視カメラ〟の類であることは想像にかたくない。

 レバーで階層を、ボタンで地点を切り替えると、魔素まそを通じて中継された天上宮の映像が、入れ替わり立ちかわり再生される。

 リフターが再び螺旋状のパネルを弄ると、卓上の水晶テレビにログの一つが流れ始めた。

 深夜の空中庭園。男が二人。草花を手入れするビーガンと、寝付けずうろつくアゾキアだ。波を伝達するアンテナ──いわゆる水晶は天上宮のいたるところに設置されている。それはつまり、リフターの目と耳がこの施設中を監視していることに他ならない。

『闇? なんです、それは』

 画面の中のビーガンはとぼけてみせる。リフターがほくそ笑んだ。

「見ろ。悟ってなお沈黙を通す。バグリスは常に勝つ方の味方を選ぶから買収した。だがこの男は違う。どちらの味方にもならない。中立なのだ」

 なにより、と……湯気の温かみに鼻先をくぐらせるリフター。

「奴の魔吸器マスクは天上宮が貸与したものだ。カートリッジもこちらで配給しているし、定期的にメンテナンスも必要になる。こちらの手を噛めば生命線を失うのは奴自身だ。

 裏切りはありえない。だが……」

『犯罪でまかなわれた金で子供達を養うなんてことがあっていいわけがないだろう』

 ノイズがかった映像の中央、語気も荒げに詰め寄るアゾキアの表情を見るなり、リフターは形なき眉をひそめた。職員達が数え切れぬほど見てきた、ねずみを見下ろす目つきでだ。

「この男は、四層の担当だったかな」

 うなずくウスターシュ。

「リンシュヴァール=郷守さとがみ=アゾキア。実直な男です。しかしまだ若い。生真面目が過ぎる。たしか、クアベルと交際を」

「表向きはな」

「……アゾキアは男色なのですか?」

「逆だ」と、リフター。「クアベルが白い花を好む」

然様さようで」

「絵合わせのようだな。いっそ割り切りのいいもの同士、クアベルが庭師と人生を分かち合えば丸く収まったものを」

 リフターなりの偏屈な冗談だった。そもそも、クアベルは男に興味などないし、アゾキアと付き合いを続けているのも単なる惰性の結果だろう。どうせ興味がない相手ならば、わざわざ庭師に乗り換える意味がない。

 もっとも、そんな組み合わせは可能性として存在しないのだということをリフターは知らない。手っ取り早く言えば庭師の嗜好を知らないのだ。知らなかったのだ。

 知らなかったものだから、水晶から聞こえてきた台詞を受けてリフターは固まった。

『君が男しか愛せないように?』

『かもな』

 そう答えた画面の中のビーガンは涼しい顔のままだ。だが、目つきは真剣そのものだった。仕事中だからというわけではない。それがシリアスな問題であることを意味する目つきだ。

 つまりアゾキアが吐いた台詞は冗談などではなく、この庭師は本当に────

「はて」緩んだ喉から声を漏らすリフター。「聞き間違いか?」

「いえ、管理官。この老躯の耳でもしかと」

 ウスターシュは自分の耳元を指した。彼が老人に含まれるかはともかくとして。

「そうだ。そういえばそうだったな。ここは少数派のための施設だった。こういう者たちを救うための再統一ではないか。私としたことが。はっはっは。

 いや違うそうじゃない。尊重するが今は問題ではない」

 珍しく気難しい表情を作り、リフターは額をとんとんと叩く。 

「サン・クレール・マーケットに、エストリエ運送、ヨタヘジ魔装具マジェット店、スシ屋の紫蘇蔵鷺シソクラサギ、その他飲食店や娯楽施設、水晶コンピュータ関連にもいくつか……」

「それは……」ウスターシュが記憶を辿る。「クリサリスの投資先ですか?」

「そうだ。それと……」

「それと?」

「マーコレツ」

亞人あじん娼館しょうかん? なにか問題が?」

「亞人が選択肢にあるというだけで、通常の片翼者メネラウスや羽なしも在籍している。アスカもエウロパニアも問わずだ。そしてこの店は同性の指名を可能とし、それゆえ、表には名を出さない。きわめてグレーな店で、優待券を持つのは出資者のみ……」

 なるほど賄賂の手広さで言えばリフターに勝ち目はない。こればかりはアトラスいち手広く食指を広げるマダム・クリサリスに軍配ぐんばいが上がる。

「先手を打たれたか」

「……ああ。なるほど。クリサリスが庭師を?」

「可能性の話だ」

 事の次第とリフターの予想を理解したようで、ウスターシュは腕組みする。

「まだ懐柔されたと決まったわけでは」

「悪もまた急げ、か。こちらも対応を考えねばならない」

 再度、書類に目を通すリフター。職員の経歴書だ。彼は一ページ、また一ページと羊皮紙をめくり、アゾキアのページを開いたかと思うと、〝八分の一エル・ネイツェン〟と下線が引かれた部分をゆっくりなぞった。

「全ては駒か。いやはや容赦がない。まったくさすがだよ、マダム・クリサリスという女は」

 そして口元をひずめる。次の一手へと、小さく、されどしたたかに。

「私をこの世にひり出しただけのことはある」

 

 

  ◆

 

 

 畳に温泉、将棋に着物、果ては箸の使い方に至るまで、旧ヒノモト──つまりアスカの文化は、二千年を隔ててなおこの天上にまで受け継がれた。料亭〝ウーサヴ・ライニラル〟の座敷に設けられた〝掘り炬燵ごたつ〟もその一つだ。

 マダム・クリサリスは女将の後に続き、隅まで掃除が行き届いた木造の床を渡る。一歩踏むたび木が柔らかくしなるので、ワライシロマツの床は足裏に硬さを感じさせない。

 曲がり角には陶器の花瓶。スミレだか、ボタンだか、それらは行灯あんどんで照らされたのみである店内の薄暗さも相まって、闇の奥にひっそりと浮かび上がっているように見える。

 風情と呼ぶならそうだろうが、華美と悪徳の限りを尽くした老婆にはいまひとつ理解できぬ感覚だった。花瓶の入れ物がただの陶器なのも、恐らくはそのあたりが理由なのだと思う。

「こちらのお席になります」

 女将が障子を開く。四人がけの小さな個室だ。部屋の片隅にはまた小さな行灯。壁にはアスカ文字が描かれたカケジクがひとつ。

 杖をかたわらへ置いたのち、掘り炬燵に足を突っ込んで、マダムは女将に呼びかけた。

「もう一人来る」

「では、こちらにお通しするように……」

「構わない。直接ここへ来る」

「この席へ、でございますか?」

「そうだ」

然様さようで」

 女将は深くを問わず、和装に包まれたその姿を障子の向こうへと引っ込める。 

 ここはそういう店だ。誰が来ても、何が来ようとも深くは問わない。何が起きても明かしはしないし、明かされもしない。それゆえ密談にはおあつらえ向きの店だった。

 マダムは魔信機マシーバーを手に取る。旧時代戦争期に普及した旧式だ。黒電話に似たダイヤルを数度回し、八五〇〇MgHzマグヘルツへと発信。三度、四度とコールが鳴った辺りで粒子管が発光し、火柱のカーテンを裂くようにバグリスが──レイチェルと共に──現れた。

 それはそれは示し合わせたように、ちょうどマダムの対面の席にだ。

「ハイハイどーもどーも安全安心明朗会計のバグリス金融です! お呼び出しどうも」

「座りな」

「そりゃ座るさ。立ってろとでも?」

 よっこらせ、と大雑把に足を崩すバグリス。これでは店の情緒も台無しだ。レイチェルはと言えば、伏し目がちなまま微動だにしない。

「あんたも座りな」

「いえ。私は結構です。旦那様の隣に座るなど恐れ多い」

「こいつはそんな大層な奴じゃない」

「あまり隣に座りたくないというか」

「信用ないなあ」首の骨を鳴らすバグリス。「お酌させようってんじゃないのに」

 何か飲むかい、ここの酒はどれも──マダムがそう問うより早く、バグリスは呼び鈴を打ち鳴らした。呼び出されたにしては随分と横柄な態度だ。

「ご注文はお決まりですか?」

 ふすまを開けて現れた女性が、目を伏せたままそう問う。女将とはまた違う女だが、同じく慎ましやかなアスカの和装で、障子の白に紺色がよく映える。

 目元に火傷の跡がうかがえた。盲者だ。なるほど、顧客のプライバシーは完全に守られるというわけである。仕えるために盲者となったのか、それとも元から盲者だったのか。

「はいはいはーい決まってます」

 バグリスがけたけたと笑う。

「えーっとねぇ、なんだこれ……なんて読むんだっけな。アスカ文字の読み方なんかもう忘れちゃったよ。ニホンシュの……」

染肌蜜ソメハダミツですか?」

「いや、その隣のやつなんだよ」

銀供花宿ギンクゲジュクですね」

「そーうそうそうそれネそれ。それ三つ」

 あっけらかんと言うバグリス。続いてマダムに注文をうながすあたり、一人で三つとも飲み干すつもりらしい。

「お連れ様はどうされますか?」

「……ノミカレマスゴをひとつ。水割りだ」

「飲み涸れ枡後ですね。お食事はどうされますか?」

 マダムは首を横に振った。バグリスはそ知らぬ顔で──顔も何もあったものではないが──品書きの三点、四点を矢継ぎ早に口にする。どれも破格だ。なんとも金銭の悪魔らしい豪胆な頼みぶりだった。

「以上でお願いしマス!」

「かしこまりました。当店のお会計ですが……」

「あぁー大丈夫、知ってるよ。お金じゃ駄目なんでしょ?」

「失礼いたしました。それではごゆっくりどうぞ」

 障子が閉められるやいなや、マダムは不機嫌そうに葉巻へ火をつけた。

「あぁマダム」バグリスは火に油を注ぐ。「会計は君持ちだから」

「だと思った」

「僕はなにかを人と分け合ったりしない。支払いもそうだ。全て背負うか、でなければ相手になすりつけるかさ」

「殊勝なことで……」

 マダム・クリサリスはアトラス一の大金持ちだ。問題は金額ではない。単に、この男とこの場所に長居する気がないのだ。

「それで、何のお話かな? ロリィタ・ジズに何かあったという様子でもなさそうだが。僕ももう二〇〇〇歳超えちゃってるからねぇ、君のような小娘にはとても欲情など……」

 机に鍵束が放られる。なるほど冗談をかませる空気ではないらしい。そこを気にしないのがバグリスという手品師なのだが、今日に限っては物分りがいい様子だった。

「その鍵は」と、マダム。「ジズが持っていたものだ」

「あぁ。鍵。どれが彼女の心の鍵なのかな?」

「ジズ自身、ではないな。お前の目当てはこれか? より大きな富を生むか」

 バグリスが黙する。マダムは骨の奥を見定める。死人しびと相手ではこれが厄介だ。表情が判然としないうえに、どこまでが嘘なのか分かったものではない。

「君はいつも……大きな誤解をする」

 バグリスは机に両肘を突く。さて本腰、というところか。

「いいだろう、君の言いたいことは分かってるつもりだ。だから、先に答えておくが……僕はリフターの回し者じゃないぞ。劇場が天上宮と繋がってるのは事実だがね」

「昨日、バベルのやつが家に来てね。敷地を少し焼いた」

「だから言ったろ。必ず来ると。年の功ってヤツさ」

 こつこつ、とバグリスの人差し指が机を鳴らす。

「職員かい?」

「さぁ。私兵かもしれん。比翼者ヴァイカリオスだった」

「とんだ愚か者もいたもんだ」バグリスはせせら笑う。「君の庭で石の羽を使おうなど」

 障子が開いて料理が運ばれてくる。と言っても、隙間から無言で差し入れるだけだ。それも人ならざる毛むくじゃらの手で。全てを渡し終えたかと思うと、つたない言葉で「ゴユックリドウゾ」とだけ言い残して引っ込んでしまった。

「もう一度だけ聞く」マダムはグラス片手に言った。「お前の目当てはその鍵か?」

 バグリスは手袋越しの掌をくるくると回す。表も裏もありませんというように。

「まったく馬鹿な質問だな、マダム・クリサリス。僕はロリィタ・ジズに恋したのだ。彼女が持っている鍵だの鼠だのには興味がない」

「ならいい。疑った。許せ」

「疑われるのも手品師の仕事だ」

 二人はさかずきを交わす。加減もへったくれもない勢いで、バグリスが中身を流し込んだ。今度は箸を割ったかと思えば、マダムに取り分けるでもなく懐石料理を胃袋へ。

 箸先で裂かれて分裂するプラナリアンコウの引き締まった身を、バグリスは次々に引っ掴んで醤油皿へ沈めていく。豆つかみの競技かと思うような速さだった。

「んまい。故郷を思い出すなあ。レイチェル食べないの?」

 直立不動のレイチェルに、びちびちともだえるアンコウを差し出すバグリス。

「……いえ、このような店では…………とても……」

「何を言ってるんだ。それがここのウリじゃあないか」

「……ウリ……ですか」

 レイチェルの視線が真上にれる。天井の代わりに肉ひだがうごめいていた。胃酸に似た臭いが常に鼻を突いていて、懐石料理の繊細な味付けなど分かりそうにもない。

 早い話、ここは魔物まものの胃袋の中だ。ゆえに乱気龍の胃袋ウーサヴ・ライニラルと名付けられた。

 まったくどうしてこの店は、旧時代の遺物を丸呑みした魔物まもの……よわい、一〇〇〇とんで二〇のご老体のはらわたに、胃カメラでも仕込むみたいに店を建てようと思ったのか。

 普段は寡黙なレイチェルもこればかりは眉間にしわが寄りがちだ。それを察したマダムが彼女に問いかける。

「あんた、ここがどういう店だか知らなかったのかい」

「ええ。わたくしなどはまだ、旦那様にお仕えしてから七〇年しか経っておりませんので」

「一〇〇になる頃にはもう一度来ることになるだろうよ。そいつの奢りでね」

 いつもの茶化しだ。肩をすくめて閑話休題し、バグリスは箸を休めた。

「鍵の件は誤解だ。僕は今のところロリィタ・ジズにしか興味はないし──第一、僕の狙いがそいつだったら、あのを拾った時に拝借してるよ」

「この鍵をお前に預けたい」

「はん?」意外そうに問うバグリス。「僕に?」

「ジズに持たせておくわけにもいかないだろう。私が持ってたって同じことだ。お前の言った通りだよ。物量で押されたら、この老体じゃいずれ奪われる」

「分かってないな、マダム。預けたところで、リフターが君の家を燃やしにくるのに変わりはないぞ。落とした財布が空っぽで帰ってきたって誰も喜びはしない」

「……」

「奴らにしてみれば両方揃えて取り返すことに意味があるんだ。鍵とロリィタ・ジズ……どちらも比翼者ヴァイカリオスの監禁という完全犯罪をおびやかしかねない。どちらか片方しか手に入らないとなれば拷問してでも吐かせる」

「私が拷問で吐くタチだと思うかい」

 まさか、とバグリスは答えた。これは本音……というよりただの事実だった。

「だが人のこととなれば話は別だ。ロリィタ・ジズがお友達の鼠ちゃんに情けをかけたように……あるいは天上宮でジャスパー君を助けたように」

「例の、ジズの友達か」

 友達ね、と言葉を復唱するバグリス。

「本人は友達だとは思ってないようだが。ま、聞いた限りでも友達とは言えない微妙な関係だ。同胞はらからといったところかな。なんだっていいが──とにかくそれがリフターのやり口だ。

 そして、僕のやり口でもある。僕が彼の立場なら、君ではなくチネッタやロリィタ・ジズを拷問にかけるね」

「……」

「何故か? 君のことを知っているからだ。マダム・クリサリスという人間が、そんじょそこらの拷問で吐くはずはないと知っているからさ。吐く奴は爪か歯の二、三本……でなきゃケツ穴の洗浄なんかですぐ吐くが、吐かない奴は何をしたって吐かない。

 だから、そういう奴相手には他人を使う。不思議と大多数の人間というのは、他人が痛むと自分まで痛むものなのさ。そういうものだ。そういうものだった」

 それは、とお猪口ちょこを回すバグリス。揺れた水面に金箔が浮かぶ。

「〝ヴァイカリオス〟という言葉の真なるところ──生まれながらに誰もが持っている力だ。他人の経験を自分のことのように感じる……そうだな、共感の力と言っていい」

「我々アトラス民に最も欠けているものだ」

 マダムは神妙な面持ちで言う。頭蓋骨を叩きながら、バグリスが口を開いた。

「洪水から天上へ逃げ延びる最中さなか、幾度もくぐっただろう魔素まその乱気流……その影響で、君たちアトラス民の脳内、松果体しょうかたいに存在する生体水晶──つまり感情粒子を受け取るアンテナは──その力を失った」

「……」

「信じられるかい? 昔の人間は言動や仕草、言葉に滲み出る微細な抑揚なんかから、相手の感情を読み取れたんだよ。この人は機嫌が悪そうだなとか、退屈そうにしているなとか。実際、僕が人間だった頃はそうだった。こと、アスカの民はそれに長けていたね。

 だが、今やそんな魔法じみたものは昔話だ。君達はそれを読み取れない。他人の感情を読み取る、共感するという能力が著しく欠如している。こと君やビーガンのような羽なしは、そう──極度に淡白だ。割り切りがいいと言うべきかな」

「対して」マダムが割って入る。「比翼者ヴァイカリオスの生体水晶は、一般的な片翼者メネラウスの生体水晶と比べて四〇パーセント近く肥大している。極端に他人の感情を想像しやすく、また自身の感情も激しくあらわにする場合が多い」

「どうせオカルトかぶれの学者がのたまった狂言だろうが、事実なら実に人間らしいね。感情表現こそ人間を象徴する最たるものだよ。君らの進化の結果なんて、ただただ人間味を失っているに等しい」

 なんなら、と杯を口に運ぶバグリス。

「生き延びたことは非情の証そのものだ。そういう奴らばかりが生き残って、そういう奴らが繁栄した。生体水晶に魔気流まきるの影響を受けなかった個体は、逃げる方向を誤り、そして洪水に飲まれて死んだ。コンパスが狂ったようなものさ。

 昔いた、なんだ……キリンなんかもそうだろ。望んでみんなが首長になったわけじゃない。首の長い個体以外は淘汰されたというお話だよ」

「……淘汰、ね……」

「そうとも。皮肉な話さ。誰より感情的で人の気持ちを理解できたはずの者達が、生き延びる代償にその感受性を奪われてしまっただなんて。悲劇でなければなんなんだ?」

 口ではそう言いながら、相変わらずバグリスの口元は笑ったままだ。骨になってしまっては読み取る機微もない。

「僕の言わんとしていることが分かるか? マダム」

「脳味噌の石ころがどうだなんて」あてつけのようにマダムは続ける。「信じちゃいない。理解する気もないね」 

比翼者ヴァイカリオスが持つ、今となっては失われてしまった〝共感〟の力……他人の経験を自分のことのように感じる力だ。そいつは今や天上において、かせ以外の何物でもない。人を助けようなんて精神を天上の住民は持ち合わせちゃいないんだ。

 君やジズのような……広い意味で言えば、リフターも……とにかく、そういう考えの連中は少数派なんだぞ。雀の涙ほどのお人よしが奇跡的に生き延びて、たまたまそいつらが君たちの子孫だった──それだけじゃないか」

 バグリスは最後の一滴まで余すことなく銀供花宿ギンクゲジュクを注いで、一本目の徳利とっくりを空にする。

「君はどうして子供達を引き取る? 善意じゃないだろう?」

「善意であろうとはしているつもりだ」

「人間味を求めて?」

「好きにとらえろ」

「それが君の生きがいだと言うなら否定するつもりはないが、不必要に他人を救おうとするのはよせ。特に今回のようなケースだ。天上宮を敵に回してまでロリィタ・ジズを庇ったって、君が得することはない」

「損得でやってるんじゃないさ」

「羽なしなのにか?」

「羽なしだからだ」

 マダムの表情が一瞬和らぐ。油断も隙もない彼女にしては珍しい顔なものだから、バグリスは思わず二度見した。

「輝きを感じる」

「……」

「人の気持ちに没入するがゆえの葛藤と苦悩、矢継ぎ早に切り替わる表情……危うく、魅力的で、時に惨めにすら感じる、その感情表現に。羽の有無などどうでもよくなるような、良きも悪しきも心を剥き出しにした……その、生き様に」

 箸を置き、バグリスの眼孔を覗くマダム。

「なにが違う?」と彼女は問う。「お前がジズに魅せられたのと何が違う?」

「僕は、君とは違う。自分の生き方に足りなかったものを、愚かにも他人の生き方に見出し、あまつさえたっと寵愛ちょうあいするような──たわけた物の見方はしない」

「どうだかな。お前の人生にも愛と優しさが足りなかったんじゃないかね」

「ファー。さすが。子育てに失敗した人間は言うことが違うな」

「二の舞にはしたくない」

「それは、君が君自身の人生の穴を埋めようとしているだけだ」

「好きにとらえろ」

「そうさせてもらう。とにかく、鍵の件はおことわりだ。僕のしちに入れるということだろう? それでは解決の先延ばしにしかならない。君のため、なにより君がいう……〝家族〟のためにもやめておきたまえ」

 箸先で魚をせせりながら、バグリスは続ける。

「ロリィタ・ジズには弱点が多すぎる。生体水晶の順応期もそろそろ終わるはずなのに、あまりに情緒不安定だ。そのうち──羽に飲まれるぞ。

 多くの比翼者ヴァイカリオスが羽に飲まれたし、君だってその末路を見てきたはずだ。誰もが誰かのために傷付かぬうちに、手を引いたほうが懸命だね」

 煮付けの小皿からオオトビジャガイモの欠片が飛び跳ねる。バグリスはそいつを器用に箸で引っつかんで、怪物みたいに開けた大口へと放り込んだ。

「あいにく、僕はアトラスの朴念仁ぼくねんじんどもと違って感受性が豊かなのだ。まがりなりにも自分が競売を担当した子供達が、意味も価値も見出せないまま死んでいくさまなんて……そう見たくはない。僕に引き渡す気がないのなら、大人しくロリィタ・ジズを天上宮に返したまえ。君では護れない。手が届く範囲のものさえもだ」

 マダムは空息からいきを吐いた。ご大層な話だと思って聞いてみれば結局これだ。

 バグリスは恐らく手を貸すまい。自分のものにならないのならば誰のものにもしたくはないという、まさしく彼のその言葉通りにだ。

「では、いくらで買う?」

 言葉を変えるマダム。バグリスは怪訝けげんそうに問い返す。

「何を言ってるんだ、君は」

「お前に」マダムは鍵を持ち上げた。「これを売ると言っている」

「……」

「いいか、はした金じゃない。私とお前の間でしか動かせないような大金でだ」

「アイム・ソー・ソーリィ、マダム・クリサリス。僕は……」

「私と劇場シアトルは組んでいる。劇場シアトルと天上宮は組んでいる。だが、私と天上宮は組んじゃいない。なにか問題があるか?」

「無理な相談だよ。話は何も変わってない。真ん中の僕が悪者になるだけじゃないか」

「古今東西どんな神話でも、悪魔ってのは悪者になるモンじゃないのかい」

「ありゃ、エキストラみたいなもんさ。魔界まかいつうの間じゃ常識だ」

 バグリスは二杯目の銀供花宿ギンクゲジュクを飲み干した。

「何度も言わせないでくれ、マダム。僕が鍵を持っているとリフターに知られたら……」

「知られたら?」

 溜息まじりに徳利を手に取り、バグリスはゆっくりと中身を注ぐ。

「天上宮は劇場うちを襲撃して鍵を強奪した挙句、僕らと提携を切るじゃないかぁ」

「そうだ、提携を切る」

 おうむ返しにバグリスが固まる。言いたいところを察したようだった。なみなみとがれた銀供花宿ギンクゲジュクがお猪口から溢れ出し、テーブルを伝い、なおも机を蝕んでゆく。

「……どいつもこいつも」

 やっとのことでバグリスは腕を引き戻した。 

「あのねえ、マダム。そいつはつまり」

「お前が稼ぎ口を失うということだね」

 とんでもない提案だ。守銭奴にはこたえる話だった。さしもの悪魔も呆れたか、バグリスはひらひらと手を振ってみせる。

「冗談じゃない。よく言うだろ、金がないのは首がないのと同じだよ。僕にとっちゃそいつは事実だ。他の悪魔とは違って、粒子じゃなく現物を食べなきゃいけない」

「即物的な生き方の賜物たまものじゃないか。誇ればいい」

「分かっているのか、マダム・クリサリス。君は僕に死ねと言っているんだぞ。君は、僕に、リフターを敵に回せと、そう言っているんだぞ」

「御託はいい。白か黒かだ」

 お手上げだ。バグリスは天井を見上げた。

「問うぞ骸骨。お前はどちらの味方だ?」

「同じことをリフターにも聞かれたよ」

「なに?」

「さすがは親子だな」

 老婆は答えない。だが手品師の答えは決まっている。二の句を待つ必要はない。鍵に一目いちもくもくれぬまま、バグリスはさっさと立ち上がった。

「マダム・クリサリス。敗者に味方などいない。僕が七周にわたる人生から学んだ経験則だ。そして味方がいようがいまいが、敗者はなるべくして敗者となる」

「待てバグリス」

「時の流れに待ったはない。ロリィタ・ジズはがいただく」

 悪魔はマントをひるがえす。ほとんどの料理が平らげられ、ぽかんと寂しくなった大皿の上、炒められたヨサコイニンジンだけが滑稽な動きで踊っていた。

 右へ、左へ、右へ、左へ、繰り返し、ずっと、飲まれるまで、ずっと、ずっと──