第十三羽「戦地センチ精神メンタルジャーニー」

 

 

 

 

 戦地、白群はくぐんのシネマが織り成すの中に感情ははじける。チネッタにとってそれは、まさに竹を割ったように訪れた出来事であった。

 ビーガンは白黒をはっきりつけることにした。いや──いつだってそうしてきたつもりなのだ。彼自身の中だけでは。狭義きょうぎなことである。だが、彼はそこにしか生きてこなかった。

「自分の為にせよ他人の為にせよ、自分が救いたいものがあって、それが自分の手が届く範囲にあるなら救えばいい。だが無理なら切り捨てるしかない。二つは取れないし、選ばないままじゃいられないんだ。それでもどうにかしたければ、自分の力で解決しろ」

 言って、ビーガンはチネッタに詰め寄る。彼女も負けじと睨みを利かせたが、今回ばかりはビーガンの苛立ち具合の方が上だった。いくら爪先を伸ばしてみても、ビーガンの圧には勝てそうにもない。おふざけの一つでもかませば火に油だ。

「私のことを灰色だと言ったな。自分の意志で物事を決められないのかと。人を勝手に値踏みするのも大概にしろ。思いあがりのかしまし女め。私は自分の立ち位置に基づいて答えを出しているだけで、決してなあなあで答えをお預けにしたりはしない。

 ああそうとも。興味がない女に告白されたら、その場ではっきり断ってやるぐらいには白黒はっきりしているつもりだ」

 チネッタの動揺は顔に出てしまった。瞳がて、口の中が乾いてきて、なんだか足元までうわついてくる。ビーガンはそれを見逃さない。確信した、という目つきだ。

「正直に言おうか。仕事中、たまにあなたを見ていた。どうにも頭に浮かぶんだよ。だがな、それが好意から来るものだと思っていて、それゆえ私があなたの頼みを断り切れないと思っているなら大間違いだ」

 びく、と揺れるチネッタの肩。ばつが悪くて舌の置き場を意識してしまう。

 ビーガンの言葉は的確だった。まさしくチネッタの中にはそういうおごりが存在した。

 仕方ないじゃないか。彼女だって、そこにしか生きてこなかったのだ。

「鼻につくんだよ」庭師は続ける。「頭の中がもやもやしてしょうがないんだ」

 ビーガンは湧き上がる怒りを、削ぎ落とすべき余りをさえそのまま言葉にした。もうそれが正しいかどうかは関係ないし、言わなければ収まりがつかなかった。

「はっきり言ってやる。私がなんでも言うことを聞くと思うな。私は男しか好きになれないし──いくらあなたが好意を持ってくれても、それにはこたえられない」

 庭師、つ。少女を断つ。好意を愛情を優しさを、慈悲も哀れみもなにもかも断つ。

 チネッタの手は震えた。言葉一つだ。一つが重すぎた。リングで拳を食らった気分だった。骨以外の全部がどろどろになってこそげ落ちる──そんな、乱気龍ライニラルの消化液に包まれたような、べたべたした感覚に彼女の肌は覆われ、平衡感覚が曖昧になる。

 それでも庭師はおかまいなしに続けた。

「その場の勢いとワガママを自らに許し、他人にもそれを許される……そういう環境に胡坐あぐらをかきながら生きてきた女が……人の好意を手玉にとって遊ぶ女が──そういう女が他人に好かれるべく振り撒く仮面のような笑顔が……私は心底きらいだ」

 

 〝あなたが好きよ、ビーガン。かわいい人。心底あなたを愛してる────〟

 

「大嫌いなんだよ……!」

 シネマ・回顧録かいころくを振り払い、ビーガンは軍手に包まれた拳をぐっと握った。

 この、ビーガンから滲み出る雰囲気の正体にデジャヴュを覚えたのは、誰あろう蚊帳かやの外のジズであった。

 陰りだ。なんだか悲劇のにおいがする。彼の中の闇から漏れ出している。きっと自分ではどうにも出来ないことだ。ジズもそうだった。だから葛藤している。

 この男もまた──すすがたき陰りを割り切るすべを知らないのだ。

 その正体まではわからない。発展途上のジズの脳味噌で思いつくのは、女にこっぴどく振られたとか、我侭わがままな女の言いなりになっていたとか、せいぜいその程度のものだ。

 だからといって抱えた闇に怯えて言葉を振り回していいわけではない。ましてやそれそのものを言葉の刃に変えていいわけがないのだ。それはジズ自身経験からよく知っていた。問題はそいつをどう乗り越えていくかだ。

 けれど、今の自分が言えた義理でもないので口には出さない。そうしたほうが懸命だ。

「最大限あなたのエゴには付き合ってきたつもりだ。オムレツの時も、今回も。だがもう無理だ。許容できるほどのうつわは私にはないし、そういう風には出来ていない」

 ビーガンは自分の意志でそう言った。突き放せるところまで突き放すつもりでそうした。

 それすら割り切りの一つだった。悪しように言われることに躊躇ためらいはない。ただ、勘違いされたままでいるのが気に入らないだけだ。

 耐えて、耐えて、溜め込んで、なあなあで誤魔化してきた庭師の本性が、ついに檻から飛び出してしまったのだ。

「だから──」続けるビーガン。「妙な感情を中途半端に抱くのはやめてくれ。面倒はごめんだ」

 居心地の悪さを溜息に変えて吐き出し、ビーガンはワライシロマツに背を預ける。

「あなたのワガママにこれ以上付き合うつもりはない。ジズ嬢を差し出せ。でなければあなたが奴を説得しろ。私は、庭師として出来る限りのことはやった」

 チネッタはうつむいたまま押し黙る。庭師の両腕はポケットに突っ込まれていた。いやいや差し出される私の気持ちはどうなるんだとジズは思ってみたりするが、とてもそんなことを言える空気ではない。そもそも自分が撒いた種だ。

「……性格など人の自由だがな、生理的に無理なものは無理なんだ」

 言い訳みたいに、ビーガンは付け加えた。視線の先はチネッタではなく、当て所なく漠然と広がる重厚な雲海の彼方だった。

「あなたのようなタイプとは合わない。どうしようもない部分なんだ。私は男しか愛せない。こればかりは……それこそ仕方がないことなんだよ」

「……」

「さだめが許したのなら──」

 ビーガンは失笑する。

「──あなたが男だったら、話は違ったかもしれないがな」

 これがになった。チネッタの心臓がばらばらになる。体中に散ったまま戻ってこない。脈拍もなんだか定まらない。頭のねじがガタガタに緩んで、脳味噌が沸騰して、どろどろに溶けて足の爪先まで行き渡って、そののち一気に冷え込む。

 庭師ビーガン。割り切りのいい男。突き詰めれば、どこまでも冷酷な男。刈り込みバサミで雑草を断つようにして放たれた言の刃は、チネッタが抱え込んでいた言の葉を──恋情をさえ許さなかった。

「……そんな言い方ないんじゃないの」

 ジズは言った。言ってしまった。気まずさからそうしたのか、それとも愛と優しさがそうさせたのかはわからない。同情か、義憤か……いずれにせよ、恐怖を跳ね除けて出てきた言葉であることは確かだった。

「わざわざ傷つけるような言葉を使わなくたっていいじゃん。自分を好いてくれてる人に……あんまりだよ」

 ジズは精一杯言葉を選んだ。刃こぼれしたナイフに触れるように、慎重に、臆病に。感傷の情に堪えぬチネッタのうつむき加減をうかがいながら、そろり、そろりとだ。

「決められないよ。みんながみんな、自分の力だけで全部解決できるわけじゃない。救ってほしいと思うことだってあるし……」

 ジズの頭にロニアが浮かんだ。何故かはわからなかった。

「この女は」言い返すビーガン。「依存してるだけだ。そういう自分に、それを許す他人に」

「だったらあなたは、今までなにもかも自分の力だけで解決してきたっていうの? 仕事も、それ以外のことも……言いたくないけど、そのマスクだって……さだめだって」

「……」

「誰かに頼らなきゃ、見つからない答えだってあると思う……」

 ジズはそう言った。それ以外に答えの形を知らなかった。

 ジャスパーに、ロニアに、チィちゃんに、レイチェルに、時と場合によってはバグリスに、それからマダム・クリサリス……ジズの答えは何もかも他人によって導かれたものであった。ジズ自身はそう思っていた。そう思うことに今のジズがあった。

 ビーガンは斜めがちに目を閉じる。理解できない、話す意味がない……そういう呆れの表れだ。

「共感を求めているなら無駄だ。人はさだめには勝てない。そういう風に生きてきたから、今あなたはこういう状況に立たされているんじゃないですか」

「……共感までしなくていいけど、理解してあげてもいいじゃん」

「苦しい話だな。大体、人の好意を利用することと人に頼ることは全く別の話だ」

 ビーガンは吐き捨てる。そこには共感も理解もなかった。

「……合点了解アイ・スィー」チネッタが静かに顔を上げる。「それがあなたの考えね。わかったわ」

 凛とした表情だ。潰れまいとしているのが見て取れた。目元を腫らしたジズから見ても、あまりに痛々しい顔つきだった。

「でも納得はしない」と、チネッタ。

「お好きにどうぞ」あしらうビーガン。

「それはそれよ。いいからさっさとここからどうするか考えて」

 いつもよりチネッタの言葉が早い。ビーガンが狼狽気味に細く目を開けた。

「正気か? いや正気じゃない。一体何を聞いてたんです?」

「聞いたところで私の考えは変わらない」

 攻勢は途端に始まる。チネッタがビーガンの胸倉を掴んだ。背丈の差は埋まらない。片方だけ残ったハイヒール、それから背伸び、羽の髪飾り……まだ足りない。残りはいつもの勢いで埋めることにした。

「私がそのぐらいで打ちのめされるとでも思ってんの? それこそ大きな勘違いね。人の力を上手く使うのだって自分の力のうちよ。それが私の解決法よ。なんか文句あんの? 

 あったとしてもどうなわけ? あんたの言葉で私が変わるとでも思ってんの? それこそつけ上がってんじゃないわよ。なめんじゃないわよ」

「……」

 チネッタはない胸を必死に張った。開き直らなければ塞ぎこんでしまうから。

「そーよ私はあなたが好きよ。ぶっちゃけ勝ち目あると思ってたわ。私、顔は悪くないから。だからって、それに胡坐あぐらをかいた覚えはない。期待するのは自由でしょ。好きな人になんとかしてほしいのは当たり前じゃない。そういう風に思わせる人だから好きになるんじゃない」

「因果関係が逆だ」

逆張ぎゃくばりの精神よ」

「それがわがままだと言っている」

「はぁ! わがまま! 私まだ十七なのよ。わがままで当たり前だっつーの」

「だから! 少女だからわがままが許されるという考え自体がわがままなんだ!」

「そのわがままを許すのが男でしょうが!」

「女が勝手に男のあり方を決めるな!」

「は? あのね? 男の相手は女なんだから基準は女が決めるに決まってるでしょ? 馬鹿なの? さてはお前バカだな?」

「差別主義者め。あなたはそういうさだめの元に生まれて、そういう世界で生きてきたんだろうな。だが僕は違う。さだめられた星が違うんだ!」

「んなこと私に言われたって知らないわよ。じゃなんで男同士や女同士で子供が出来るようになってないわけ? あんたがさだめに逆らってんじゃないの!」

 言葉がだんだんと鋭くなってゆく。ずだずだ撃ちまくるのはチネッタの十八番だ。

 さて、この珍妙な状況にクアベルは顔をしかめた。ジズを差し出せばそれで済むのに、何故だか庭師とチネッタが口論ときた。それも大層な過激さで。

「うぉーい」クアベルは声を上げる。「一分経ったぞ。出てこないなら……」

 チネッタの拳が樹を叩く。大した痛みではない。問題は身体にはないのだ。

「今大事な話してんだから黙ってて!」

「……チネ」

「うっさい!」

 クアベルはしぶしぶ口を閉じる。そんな場合ではないがそうするしかなかった。チネッタが見たこともない剣幕でえていたものだから。

 ずだん。樹を蹴っ飛ばしてチネッタは続ける。怒りはまだまだ収まらない。

「大体なに? これ以上は協力しない? それこそただのワガママじゃない。解決の放棄って奴よ。やっぱりあんたは灰色だわ。どこまでいっても灰色よ。ほんと……」

 チネッタはもう湧き上がる言葉を抑えられなかった。それは多分、ビーガン同様に。

「あんたたちゲイは女々しい上にワガママなのね」

「なんだと? それは明確な差別発言だ! 今すぐ取り消せ!」

「あーあーそうよね。私の前にいる男がたまたま女々しくてワガママだっただけだもんね! ごめんなさいね!」

「私が男しか愛せないことと、ワガママであることに因果関係はない! あなたのような差別主義者がいるから世の中から下らない差別がなくならないんだ! そもそも、男と女でペアになるのが普通だなんて発想自体が間違っている!」

「知らねーよそんなの! 私じゃなくて、写本を下さったありがたーい天使様に抗議しなさいよ! まあ天使様は男色じゃないし、おかげで同性愛は立派な犯罪だけどね!」

 火に油とはこのことだ。そこに小麦粉を足してもいい。ビーガンも負けじと樹皮に拳を叩きつけた。ワライシロマツも殴られ損である。

「いい加減にしろ! 私のことを悪く言うのは勝手だ、だが同性愛者をなじるつもりなら言葉が過ぎるぞ! 大体私が何をした? 表立って男同士でべったりしているわけでもない! 今の世においてそれが市民権を得ていないことは理解しているし、だからみ分けがなされているんだろうが!」

「馬鹿にしないでよ! わかってる! 言っちゃダメなこと言ってんのもわかってるわよ! わかってんのよ、全部ッ」

 また樹を蹴っ飛ばすチネッタ。ひらひらと落ちてきたワライシロマツの葉に視線を落とし、彼女は蚊が鳴くような声で呟いた。

「……男だったらとか、なによそれ……」

 性格への糾弾きゅうだんなど慣れっこだ。そこに後ろめたさは一つもない。チネッタはそういう生き方をしてきたし、彼女の人生はそれによって回ってきた。

 彼女のきずはそこにはなかった。生まれる前に神様が決めた、まさしくどうしようもない部分にこそある。

 少女の掌に爪が食い込む。深く、深く。きずより深く。

 わかっている。わかっていた。割り切れないのは自分のほうだ。しょうがないじゃないか。仕方ないで諦められることばかりなら、世の中はもっとハッピーだ。

「なにが優待券よ……浮かれてんじゃないわよ、馬鹿じゃないの……」

「……」

「わかってるわよ……。教えがそう決めただけ……男が男を好きになったって、女が女を好きになったって、誰も好きにならなくたって……それが自由なことぐらい、わかってんのよ……」

「……」

 踏み込みすぎた──ここでようやく、ビーガンは自分の発言に後悔を抱いた。勢いで吐いた言葉というものは大体そうさせるのだ。それがどんなに正しかったとしても。

 自らが彼女をそう看做みなしたように、ビーガンもまたむくいとして彼女にそう看做みなされた。互いが互いの超道義的迎撃指定対象となったのだ。なるべくしてそうなった。

 吐いたやじりが鋭さを増して返ってくることぐらい、どちらも知っていたはずなのに。

「……男だったら許されるの? 私がワガママなのにも目をつむれるの? 男か女かどうかで、人の中身まで変わるの? あんたそういう人間なわけ? 私の性格が悪くても、男だったらなんとも思わないわけ! なにそれ! 意味わかんない! わっかんないから教えてよ!」

 チネッタの声は震えていた。グラスになみなみとがれた水が表面張力を保つように、声が絞り出されるたび瞳の涙も揺れた。

 彼女もまた、我慢の限界を迎えたのだ。

「私は私よ。男か女かじゃない。気に入らないならその時にそう言えばいいじゃない。言ってくれなきゃわかんないわよ!」

 チネッタはきっと勢い良く顔を上げる。ジズはその仕草に覚えがあった。

 そうしなければ声の震えを補えそうになくて、惨めさに押しつぶされそうなのだ。

「そんなの卑怯よ……」

「……」

「男だからとか! 女だからとか! どうしようもないからとかっ! 生理的にとか! そんな言い草卑怯よ! 曖昧にしないで、自分の言葉で言いなさいよ……!」

 チネッタは叫んだ。それさえほころびの一つだった。 

「……そんなのずるいじゃん……」

「……」

「どうにもならないことがどうにかなったら、もしかしたらって、思っちゃう……」

 ビーガンには理解できない感覚だった。そうまでして何かを変えようとしたことが、一度もなかったから。人を、壁を、自身ですら。恐らくこの溝はその結果として生まれてしまったのだろうとも思う。そして、溝はこちら側が勝手に掘ったのだとも。

 それはまるで堀だ。城が攻め立てられぬようにぐるりと囲った。合わないものは合わないと切り捨てることで培ってきた、一つの防衛の手段。深入りはせず、また誰にもさせない。

 ある種、ビーガンはジズ以上に傷つくことを恐れていた。恐れてきたのだ。

 チネッタは続ける。

「逆の立場だったとして、同性愛者だからって理由で振られたら、あんたどう思うのよ……。それか、男の人を好きになって、その人が同性愛者じゃないからって理由でふられたら、どう思うのよ! どうしようもないことだからって、そう言われたら!」

「……それはまた話が違う」

「同じよ! 同性愛者であることもそうじゃないことも、女であることも、男であることも! 生まれ持ってか、そうじゃなくたって、変えなきゃいけないようなことじゃないじゃない!」

「……」

「だから断るのは自由よ……けど、好きになるのも自由じゃない……」

 ショコラ色の唇はわなわなと揺れた。

「……やめてくれとか……面倒とか……言わないでよ……」

 醜い。ビーガンはそう思った。行き場をなくしたワガママと自己愛。焦りと悔しさ。どうにもならないことをどうにかしようとした……してしまった人間の、顔つきだ。目元は赤く、涙と、鼻水も垂れ流し。エゴに飲まれた激情だけがしつこく美しさを主張する。

 わかっている。醜いのは彼女の所為じゃない。

 この表情を自分が与えたのだ。だからといって、どうというわけでもないが。

「庭師てめえ」クアベルが吼えた。「チネッタを泣かせやがったな」

「来ないで!」チネッタがそれを制止する。「邪魔したら絶交だから」

 クアベルもまた拳を握った。もう事態がややこしすぎてジズの頭はついていけない。なんとなく三角関係のようなものだとは察するが、あまり関わりたくないのが正直なところだ。

「……なんで……」

 泣きじゃくるチネッタを見ていると、なんだかクアベルまで泣きそうになる。自分の中にまで怒りが湧き上がってきて、切られたように肌がみた。

 なんでだチネッタ。なんでなんだよ。なんでそんな奴の為にお前が泣かなきゃいけないんだ。どうしてそんな奴の為に泣いてやれるんだ。

 オレの為に泣いたことなんて、一度だってないくせに。

「……ムッカつく」

 ──庭師を殺す。クアベルはそう決めた。もうリフターの言葉など頭にはなかった。

 ジズを除けばこの場にいる誰もが──いずれは、ジズにもそういう日がくるのだろうが──見蕩みとれた相手のことしか頭にないのだ。

 大いなる感情の怪物がそうさせる。子供であればなおさらに。

 恋。独占欲。執着心。一方的な愛情。言い方なんてなんだっていい。

 どうにもならないことをどうにかしようとしてしまう、最大級の我侭わがままな感情だ。

 チネッタはもう涙を抑えられなかった。拭うことさえ気後きおくれがちにそうした。

「……私のことが嫌いなら、それだけでいいじゃない」

 少女は顔を上げた。健気にも、みじめにも、哀れにも。

「他に理由をつけるのはやめて」

 チネッタはぐちゃぐちゃの顔で訴えた。これ以外に許される祈りがなかった。

 それでもビーガンの心に揺らぎはない。面倒なことになったとすら思うし、何故彼女が泣いているのかすら理解に苦しむ有様だったし、それが不思議だとは思えなかった。

 感情とは、ここまで人の心を丸裸にするものか──羽なしのビーガンは淡々と、徹頭徹尾、平常心でそう思った。ただ思っただけだった。羽なしだから心の作りもまあこんなものだろうと、それさえ言い訳のように。

「……言葉の選択に誤りがあったのは認めましょう」

 ビーガンはそう言った。極力内心を顔には出さぬよう努めた。別に、チネッタを気遣ってのことではない。ただこれ以上面倒な状況になるのを避けたかっただけだ。

 同情すべき場面だ。言葉を選ぶべき場面でもある。そう思ったからビーガンはそうするのだ。自分の中に同情があるかどうかなど関係がなかった。例題を解くのと大差はない。

 ビーガンは姿勢を正した。

「チネッタ」

 名を呼ぶ。意味はない。必要でもないだろう。少なくとも今は。

 いや──たとえ嘘でも、必要としておいた方がどちらかは救われたか。

「……悪いが理由までは変えられない。だが、今度は私の言葉で言う。

 私はあなたのようなタイプが……いや、あなたが好きになれない。それは生理的なものだ。私の過去に深く関わる」

 ビーガンは左胸を押さえて言う。実際に動悸をしずめようとしていた。

「昔、あなたによく似た女に殺されかけ──そして私は、実際にそいつを殺した」

 なんだそれはとチネッタは思った。そんなこと、私には関係ないじゃないか。私が一体何をしたっていうんだ。なんてわがままなやつ。

「トラウマを思い出すんです。どうしても無理だ。女性は恋愛対象じゃない上に、あなたが苦手だ」

「……」

「だから、諦めてくれ」

 ビーガンはそれで言葉を締めくくる。すまない、とは意地でも言わなかった。

 謝ってしまえば、本当に誰も救われなくなる気がした。

「……」

 チネッタはぐじぐじと目をこすった。

 トラウマ、生理的、昔の女、男だったら……。

 意地でも曲がらない言葉たちがチネッタの脳味噌をぐいぐいと押し固める。生まれだとか、引きずったままの過去だとか、そんなのどうしようもないじゃないか。面倒な男。私に一体どうしろというんだ。結局全部言い訳じゃないか。

 ただ諦めろと、そういうのか。

 そういうことなのだ。こいつはそういう奴だ。我ながら男を見る眼がない。

「……そう。そっか。それなら仕方ないわ」

 呟くチネッタ。ようやく終わったかとビーガンが胸を撫で下ろす。

「もっといい性格になれるよう努力する」

「は?」

 庭師の脊髄せきずいからそのまま言葉が飛び出る。安息は瞬く間に去った。

「さぁクアベルをなんとかするわよ」

「嘘だろ?」

「なにがよ」

 なにがもなにもない。いよいよビーガンは正気を疑う。自分のではなく、この女の。

「いや……いや、待って下さい。私は一体なんのためにあなたと対話を……」

「それはもう終わった話よ」

 舌打ちするビーガン。彼はふたたび食い下がる。

「いや駄目だ。ここで終わらせておかなければまた面倒なことになる。いいか、生理的に無理なんだ。あなたが嫌いだ。二度も言わせないで頂きたい」

「何度だって言わせるわ」

 エゴは惜しみなく振り撒かれた。

「生理的にとかトラウマとか言われたって、私はあなたの過去を知らないわ。あなた、一言もそんなこと言わなかったじゃない」

「……それは……言う必要がなかったからです」

「私はあなたの全部を知らない。そのトラウマがあなたの悪い部分に繋がってるのか、それともいい部分に繋がってるのかはわからないわ。だから、それを知ってから答えを出す。それで本当にどうしようもなかったら諦める。だからあなたも私を知って」

「無茶苦茶を言うな。よく知らなければ人を嫌ってはいけないというのか」

「だって、よく知らなければ人を好きになってはいけないんでしょう。あなたはそういう理由で私を振ったわ。フェアであるべきよ」

「違う! あなたが私のトラウマを知っていようがいまいが答えは一緒だ!」

「知れば変わるかもしれないじゃない!」

「それはただの仮定だ!」

「仮定が現実になったら未来も変わるわ! 私が男だったら付き合ったんでしょ!」

「だっ……からぁ! それとこれとは全然話が違うだろうが!」

 口撃は激化の一途を辿る。対話とは呼べない。癇癪かんしゃくのぶつけあいだった。

「結局あなたは自分の思うように結末を持っていきたいだけだ!」

「そうよ! なんか文句ある!? こんな終わり方で納得できるわけないでしょ! 本当なら告白だってもっとロマンチックにしたかったわよ! しなくたって良いのが私の理想なの!  そんなもの必要ないのに、あんたがなにもかもブチ壊したのよ!」

「ブチ壊せといわんばかりにこつこつひびを入れてきたのはあなただ!」

「だから! そんなのいきなり言われてわかるわけないでしょ!」

「あなたは羽なしじゃないんだから私が不機嫌なことぐらい察せたはずだ!」

「羽なしかどうかなんて今関係ないでしょ! なに? それじゃ言わせてもらうけど、あんたの言葉で私が傷ついてたかもしれないじゃん! 料理が下手なこととか、掃除が雑なことに、物凄いトラウマがあったら?」

「……」ここで初めてビーガンは言いよどんだ。「……あるんですか?」

「あるわけないでしょあんたバカ?」

「ならいいじゃないか!」

「仮に事実だったらどうすんのよ! 私がいきなり〝お前みたいな男はかんに障る〟とか言って怒りだしたら、なんだこいつって思うでしょ! 言わなきゃわかんねーしコミニュケーションなめてんのかって思うでしょ!」

「…………」

「私は今そういう気持ちなのよ!」

「気持ちなど知ったことか!」

 今度は庭師がシロマツを蹴っ飛ばす番だった。

「逆の立場、逆の立場、逆の立場! なにが逆の立場だ! ろくに言葉にもしてないくせに、あなたの気持ちを察しろというのか! 無理な相談だな! 女はみんなそう言う!」

「そっくりそのままあんたがやったことでしょーが! そんなら私だってあんたの気持ちなんか知ったこっちゃないわよ!」

「あなたは片翼者メネラウスだ! ただ飛べないというだけで、心に亀裂があるわけでもない! 健常者じゃないか! 生憎だがな、私達羽なしはそういう風には出来てないんだよ! どうにもならないんだ、そんなものは!」

「だったらどうして私があなたに気があるって分かったのよ!」

 ひるむビーガン。なおもチネッタは勢いを緩めない。

「なんでよ。答えてみてよ。ほら。ほらほらぁ!」

「……察したわけじゃない。ただ気付いただけだ。あれだけ色目を使われればどんなバカでも普通は気付くでしょう」

「それに気付けるのなら、あなただって人の気持ちを理解できるはずだわ。諦めそうな言葉を選んでぶつけてくるってことは、私の立場になって気持ちを想像できたってことよ。

 知ってるかしら! 人はね、相手を傷つけようとする時は、自分が一番傷つきそうな言葉を選ぶのよ!」

 二の句が継げないビーガン。言葉の選び方に関してはチネッタの推察通りだった。それが諦めてもらう為か、それとも単なる攻撃の為かは別にして。

「大体、マダムだって羽なしじゃない。でもちゃんと人の気持ちは汲み取るわ。羽なしかどうかなんて、人の気持ちを理解できるかどうかには関係ないはずよ。そんな見た目の違いが心の形まで決めていいわけがない」

「生物学でそう決められている」

「検証が足りなかったのね」

「……」

「昔の世界じゃ天動説が主流だったし、アルザルなんて存在さえ信じられてなかったのよ。

 学者がなによ。なめんじゃないわよ。私は自分で確かめたことしか信じないの」

 チネッタはそう言い切る。ビーガンの考え方とは真逆だ。だが本気でそう信じていた。

「私、まだ言えるわよ。あなたが傷つきそうなことたくさん言える。でも言ったりしないわ。あなたの気持ちになって考えてるもの」

「……ふざけるな。言えるものなら言ってみろ」

「いいのね?」

「言えと言っている! したり顔で値踏みされるのはごめんだ!」

 チネッタは一度ためらい、それからすっぱりと言ってやった。

「あなたは羽なしであることを理由にしてるだけ」

 ビーガンの手に握られた種子が見る間に成長する。彼の激情がそうさせた。意志の問題ではなかった。危うく目の前の女を絞め殺しかけた触手を制し、ビーガンはそいつを地面へと思い切り投げつける。

「お前に何が分かる……! お前が僕の何を知っているというんだ!

 ああそうさ、そんな話は一度もしなかった! 話すべきじゃないからだ! 話したくないからなんだよ! 誰にでもそういう領域はある! お前はそこに踏み込んだ! 人のトラウマを今まさに土足で荒らしているんだ。それがどれほど傲慢ごうまんな行いか分かっているのか……!」

 ビーガンの仮面は剥がれた。もはやそこに庭師としての彼はいなかった。血走った目、額に青筋。首の筋がいやに強張っている。

「……わかってるわ」

 触手がうぞうぞとのたうち回り、やがて元の種子へとしぼんでゆく。チネッタはそれを横目で見ていた。

「私にも、話したくないこと、あるもの。たくさん」

「なら……!」

「だからその辛さはよく知ってるつもり」

 チネッタは種を拾い上げ、ビーガンの方へと差し出した。 

「誰にも話せないってことは、あなた一人しか知らないってこと。一生自分の中だけでそれを抱えて生きていくってこと。その辛さを私は知ってる」

「……」

「そのせいで世の中とうまく交われない孤独も、誰でもいいから救ってほしいっていう、壊れちゃいそうなほど切ない気持ちも──知ってるはずよ。私も、あなたも」

 ビーガンの顔が軽蔑に崩れる。もう優男の表情ではなかった。

 馬鹿かこの女は。どうしてこの状況でそんな台詞が出てくるんだ。その顔はなんだ。

 哀れみのつもりか。それとも歩み寄りか。私の何を知ったつもりでいる。貴様の悲劇と私の悲劇をない交ぜにして語るな。一体どこまで勘違いすれば気が済むんだ。

 なぜ──なぜこの状況でこの女は、見当違いな愛と優しさを振り撒くのか。

「……なんなんだお前は。正気じゃない! なんなんだ! なぜ僕に立ち入る! 男など他に腐るほどいるだろ! なぜ僕なんだ! 僕が一体なにをしたと言うんだッッ」

 問うまでもない。見た目か声か、背格好……なんでもいい。とにかく一目で分かるものだ。一目惚れに大した理由などない。ろくに相手も知らぬ内から、この女は見た目だけで身勝手に人を値踏みし、そして見当違いだと言ったではないか。

 少なくともビーガンはそう思っていた。それが正解だと信じて疑わなかった。

「値札を……」チネッタがつぶやく。「あなたは私に値札を貼った」

 もの問いたげに目を細めるビーガン。 

「私と初めて話した時、あなた、私のこと〝難儀な人だ〟って言ったわ」

「……あぁ? ああ、言ったかもしれないな。だからどうした。それがなんだ」

「私もあなたのことそう思った」

 迎撃げいげきのチネッタ。庭師の心臓にクロスカウンターが決まった。

「生き辛そうな人だと思った」

 ビーガンは絶句する。言葉を失うという言い回しの意味を身をもって理解した。

 馬鹿な話だ。誰かに値札を貼るような行いをすれば、自らに値札を貼られることになると、そう彼女に言ったのは自分なのに。

 ああ。なにも間違ってはいない。全てはその通りだ。何もかも正しかった。

 貼った値札が──まさしく自分に返ってきた。

「お互い難儀で生き辛いなら、私達はきっと理解しあえる。たとえ、同じ方には歩いていけなくても」

「……それだけか……?」

 ビーガンは問うた。とても信じられなかった。チネッタの顔がぐにゃりとゆがんで、なんだか別の生き物のように思えてくる。

「たった……たったそんな言葉一つで……私の心を覗くのか」

「あなたが悪いところだけを見て人を嫌いになれるようにね、私はいいところだけを見て人を好きになれるの」

 庭師は呆然ぼうぜんと立ち尽くす。チネッタはその手に無理やり種を握らせた。

「ビビっときたって感じ」

「……」

「私はこの感覚を信じてる」

「……意味がわからない。なにがお前をそうさせるんだ」

「それを知ってもらう」

 ビーガンは爪先が冷え込むのを感じた。まさしく足が地に根を張っているようだった。

 何故だ。なぜこの女は食い下がる。なにがこうも頭を煮立たせる。なにゆえ私は、この女をなみする。癒えぬトラウマか、猜疑心さいぎしん……。

 違う。答えはもっと別のところにある。心臓の奥底、雑草のように深く根を張った、どうしようもない部分にこそあるのだ。だが正体は掴めない。ほんの一瞬、脳天をぶち抜いた電流の正体が庭師には分からなかった。

 刺すように冷たい風の中、雲の海が過ぎ去り、もやが晴れた。マスクの中に呼気がこもって、唇の周りが執拗しつようにべたつく。

 ああ、知っている。脳裏にぎる爛漫らんまんうぐいす色。認めたくないが知っている。

 チハヴォスク=ゼロツフスキー著〝感情粒子論体系〟にれば、このこまやかな感情の粒子の正体は────

 

 測り間違えたインピーダンス。この振れ幅は────〝同属嫌悪〟だ。

 

「……私は……」

 胸に手を当てるチネッタ。心臓から言葉を引きずり出しているようであった。

「私はチネッタ=ツェヴチーニ。十七歳。マダムの家の使用人よ。好きなものはチョコレート。嫌いな野菜は野菜。ボードゲヱムはオセロが得意。でも掃除は苦手」

「……最初と最後は知っている」

「それから、あなたのことが好き」

「……それもさっき聞いた。そして断ったはずだ」

「でもって私は、人と向き合う時はいつだって真剣に向き合う。そう決めてる。合う気がしない相手でも、理解しようとしてからそれを決める。私はそうやって生きてきた」

 馬鹿げた話だとビーガンは思った。

 この女は、この子供は、対話さえあれば──いや、究極は、対話を要せぬ理想の向こう側で万人が理解し合えると本気で信じている。

「……あなたの言う通りね」

 チネッタは肩を落として言った。

「人に値札を貼るような行いが、自分に値札を貼ることになる……」

 その言葉の鋭さは、誰よりもビーガンが痛感していた。

 因果は応報を迎える。視線はただぶつかった。

「謝るわ。あの時、知りもしない内からあなたを馬鹿にした。そういう人間だと決めつけたわ。だからあなたも私をそういう人間だと断じた。羽なしだからわかんないかも、なんて言葉も言った」

「……」

「無神経な言い方だった。ごめんなさい」

 だから、とチネッタはつけ加えた。

「私を知って。嫌いになるのは、それからでも遅くないはずよ。私もあなたを知る。私たちがお互いに値札を貼るのは、お互いの事をよく理解してからにしましょう」

 理解。重い言葉だ。難解なパズルに似ている。ビーガンにとっては一生の命題にしてもいいほど扱いに困る代物だった。

「……ふざけろ」ビーガンは吐き捨てた。「あなたがどうしようと私は変わらない」

「やってみなきゃわからない。やってみなきゃかわらない」

 チネッタはそう言い切ったし、実際にそうするつもりだった。

「人は、変わっていく生き物だもの」

 ジズがはっとする。もちろん誰もそんなことには気を留めなかった。

「変わらなければ?」

「その時はその時よ。考えを改めるわ。すっぱり諦める」

 なんて無茶苦茶な。信じられない。この女のメンタルは怪物か。かつて、地球上にここまで傍若無人でわがままな人間が存在したか。いやしなかった。していいはずがない。ビーガンが許そうとも地球のほうが菓子折り片手に土下座をかますだろう。

 ハウクレイゼーアバウチュー。どうにもこうにも割り切れぬ。地雷どころの話じゃない。

 こいつは魚雷だ。放っておいても飛んでくる。

 どうやったら──どうやったらこの女を頭から振り払える?

「……」

 庭師はノイローゼ寸前だった。こういう時こそ鎮静草が欠かせない。だというのに手持ちの種は残り一つ。おまけに頭痛の種は雨にも風にも負けず、どころか端然たんぜんと背筋を伸ばして萌え出づるではないか。

 がたく、ぎょがたい。この徒花あだばないたんだつぼみは、石をすら貫いて芽吹こうという。

「……あなたは」ビーガンは吐き捨てた。「やっぱり、徒花あだばなだ」

 喉がなんだかっぽい。ビーガンは考えるのをやめる。解決の放棄の極みと言えた。

 なにも物臭女クアベルならうわけではないが、それこそ面倒というやつだ。

 大体、貼った値札が返ってきたなら──自分が撒いた種じゃあないか。

「………………勝手にしろ。私の考えは伝えた。好きなだけ傷つくといい」

 ビーガンは折れた。それこそどうにもならないことに打ち負けるように折れた。ここで白か黒かを突き通せないところにビーガンがビーガンたる所以ゆえんがあった。

 結局、すべては自分のサガが背負い込んだ因果なのだ。

「言っておきますが、私はあなたに罪悪感など欠片も抱いていない。好意も同じくです。どうにもならないことだからだ。そして同様に、もうあなたのワガママに付き合ったりはしない」

「それでいいわ。私たちはお互いに対等ってことね」

「そうだ。そして、私はその対等の領分を既に果たした。だから今度はあなたの番だ。自分の行いのツケは自分で払ってもらう」

 ビーガンはクアベルの方を──ドス黒い粒子が立ち上る草原の一角を指した。

「するのはいいけど、庭師としての仕事はしてもらうわよ」

「……あなた次第だな、それも」

 大きな大きな寄り道を終え、ようやく事態は解決へ動きはじめた。

 教訓は一つだ。いかに腕の立つ庭師でも、道草だけは刈り取れない。

 

 

   ◆

 

 

 だだっ広い草原くさばらの中、ぽつんと一人立たされたクアベル。惨めさに握られた拳がぎりぎりと音を立てている。その心情はジズが想像するには余りすぎた。

「……お喋りは終わったかよ、クソ庭師」

 三つ首の怪物、放蕩娘ネクレラクリス──クアベルの石の羽が形を変え、つちに似た凶器の様相をした。

 先端だけが膨らんだ石の塊は、狐色をした黄玉トパーズの色合いもあってか、棒つきの飴を思わせる。しかし、金棒なんかによく見られるたぐいとげが生えていることからも、それが仇敵の頭をかち割るべく作られた殺意の塊であることは明らかだった。

 すなわちこの場合はチネッタを泣かせた男……庭師の頭をかち割るための、だ。

「テメーだけは殺しておかなきゃ気がすまねえ」

 ずりずり。ずりずり。巨大なとげつきハンマーをゆっくりと引きずるクアベル。

 目元は暗く、猫背気味。普段ならだらしない女にしか見えぬその出で立ちが、持ち物一つで頭のイカれた情緒不安定の通り魔に早変わりだ。

「やめてクアベル」チネッタが両手を広げて立ちはだかる。「おしまいよ」

「始まってもいねーよ! まだ話はなんにも進んでねーんだ!」

「ビーガンを殺したら私は悲しむわ。あんたを軽蔑する。誰も幸せにならない」

 もうジズは完全に蚊帳かやの外だ。誰も彼女のことなど頭にはない。すなわち彼女が幸せになれるかどうかはこの場においては何の関係もなかった。そんなものだ。それに気付けたらジズはもう少し気楽に生きられたかもしれない。

「……なんだよ」ぽつりと漏らすクアベル。「なんなんだよ。なんでなんだよ!」

 ひずむクアベルの表情。雲を払って巨石を打つつち。大きな振動が蝶の蜜壷ツェダフ・カヌナヌフ全体を覆い、地面に刻まれたアルザル文字の残りが大きくひび割れる。

「そんなにそいつが大事なのかよ」

「大事よ。うちの屋敷の庭師だもの」

「そういう話じゃねえんだよ!」

 クアベルはぼさぼさの髪の毛を振り乱して言った。

「……自分を泣かせるような奴を好きになってどうなるっていうんだ。辛い思いするだけじゃねーか」

「……今はね。でも、恋ってそういうこと」

 その台詞がまた未来を思わせる。自分がいない未来のことを。クアベルは唇を噛んだ。

「なんでそいつなんだよ! オレがチネッタのこと好きなの知ってるだろ! なのにあてつけみたいに目の前でこんな……こんなのあんまりだ」

「……」

「……どうしてオレじゃないんだよ」

 クアベルは言った。正視に耐えうる、とっ散らかった目元でだ。自分もこんな顔だったのかと思うと、チネッタは目をそむけたくなる。

「オレが女だからか? なあ、だから駄目なのかよ? それならそこの庭師とやってることは一緒じゃねーか!」

「違うわ」

 ちらと庭師に目線を送ったのち、チネッタは更に一歩踏み出す。

 なるほど、そういう手か。今しがた感情に振り回されたばかりの脳味噌なら思いつきそうなことである。ビーガンは妥協に妥協を重ねた結果、種を放る隙をうかがった。

「私はあんたのことよく知ってる」と、チネッタ。「男とか、女とか抜きにして、嫌いじゃないわ。好きよ。でも友達でいたいの。それだけ」

「オレはその先が欲しいんだ」

「……ごめんね。嬉しいけど、それにはこたえられない」

 言葉が誰もを貫く。誰もが誰かの言葉に傷つく。そこに悪意があろうがなかろうが。

 もし──もしこの言葉が実体を持ち、刃となって相手に切りかかったらと思うと……。

 ジズはぞっとしながら、涙目でうつむくクアベルを見る。この期に及んでなんだか可哀想だなどと思う自分がいた。

「……卑怯だ、そんなの」クアベルは力なく声を絞る。「自分は興味のない奴を簡単にさばくくせに、自分に興味がない奴には食い下がるだなんて……」

「……それは段階の問題よ。これから先、私とビーガンがお互いのことをよく知って、それでも興味がないって言われたら、私だってさばかれるしかなくなるし……」

「お前はオレの全部を知ってるのかよ! 良いところと、悪いところ……両方十個ずつ上げられるってのかよ! 両方知らなきゃ知ってるなんて言えない……!」

 聞き覚えのあるメソッドだ。思わずジズも指を折りそうになる。

「全部は知らないわ。でもどっちも知ってる。その上でこたえてるの」

「……人は変わっていく生き物なんだろ。オレのいいところが増えるかもしんないじゃんか。だったら……」

「その時はその時で考える。だけど今は無理なの。無理なのよ、クアベル」

「……」

「たとえ今すぐあなたが変わっても、いきなりあんたには振り向けない。日めくり感覚で器用に生きられるほど私はドライじゃないの。今は彼に恋してる。だから……」

 ばっかん。またクアベルが地面を叩いた。そののちビーガンを指して吼える。

「やめろ馬鹿、考え直せ。そいつはまともじゃない。どう考えたってロクな男じゃない。いくら相手を嫌ってるからって、普通、面と向かってそれを相手に言ったりしないだろ。そいつは──そいつは自分の言葉で相手がどれだけ傷つくかなんてまるで考えてない。協調性と、コミニュケーションの欠如の塊だ。自分のことはまるで話そうとしないのに、いざそこを突かれたら相手を見限るなんて虫が良すぎる」

 おおむねその通りだ。ビーガンは否定も肯定もせず、ただ魔吸器マスク越しに鼻で笑う。

 要するにそいつは、とクアベルは続けた。

「自分のことしか考えてねえんだよ……! そんな奴になんでお前が合わせなきゃいけないんだ。歩みよりもなしに自分の形を守ってきた奴と一緒にいたって、磨り減っていくのはお前の輪郭りんかくだけだ。お前が削れるだけだ!」

「……」

「目を覚ませ、チネッタ。お前は恋に恋してるだけだ。オレならお前を泣かせたりはしない。お互いに尊重し合えるはずだ。バベルにいた頃はそうだったじゃないか! なんでだよ、なんでそんな、合わないピースを無理やりはめ込むような真似……」

 血走ったクアベルの目はビーガンへと向けられた。

「なんとか言えよ、庭師。てめえみたいな自己中と割り切り上手を履き違えてるクソ野郎がいるから、羽なしは人の気持ちがわからねえなんて言われんだぞ……!」

「やめて」と、チネッタ。「仮にもバベルの職員がそういう言い方は駄目よ」

「お前だって……」

「羽なしかどうかは関係ないわ。ただ彼がそう生きてきただけ」

「そんなのわからないだろ!」

「それを確かめる。そのために彼を知る」

 一歩。また一歩……距離を詰めるチネッタ。気取けどられぬよう触手を地に這わせるビーガン。静かな攻防が誰もの胸中で行われた。

「生まれながらに冷徹な人間なんていない。羽なしだから人に共感できないなんてこと絶対にあるわけない。理解し合えるはずだわ。言葉はその為にあるんだから」

「その言葉がお前を傷つけたんだぞ!」

「そうね。私も彼を傷つけて、だから、おあいこ」

 言葉一つで薔薇は輝きも煤ばみもする。リフターの言った通りだ。それを自分が味わうことになったものだから、クアベルは歯痒はがゆいやら悔しいやらで、ただただ地面を見る。

「なにが言葉だ……やっぱり言葉なんていい加減だ。オレがお前を好きだって言ってもなんにも変わらない。だけどそいつがお前を好きだって言ったら、お前は跳ねて喜ぶんだろ」

 じわじわ、じわじわとクアベルの羽が黒ずんでゆく。ジズにも覚えがあった。

 あの煤ばみは心の陰りだ。石の羽には心の在り方がそっくりそのまま現れる。つまり今のクアベルは、チネッタから放たれた言葉によって、精神的な痛手を負っているわけである。

 難儀なものだ。これではどれだけ口で強がろうが心の弱さを見透かされてしまう。

 まるで石の羽という奴は、心が形を持ったようなものじゃないか。

「おんなじ言葉じゃないか。おんなじ言葉なのに……」

 クアベルはとうとう涙をこぼした。

「……お前にオレの言葉が届いてる気がしない……」

「なんですって」

 この言い草がかんに障ったか、それとももう一押しだと思ったかは定かではない。が、とにかくチネッタは追撃を決行した。常軌を逸した精神性でこそ成せるわざであった。

「じゃあ言わせてもらうけど、あんただって、私の言葉をないがしろにしたわ」

「え……」クアベルはずぶ濡れの顔を上げる。「オレが……?」

「手紙」

「手紙……」

「バベルを出る時に送ったのに、あんた返さなかったじゃない」

 手紙。はて。そういえばそんなものもあったような……。

「あっ……」

 思い出したのだろうか、クアベルはが悪そうな顔をする。そら見ろ、大体はサガのツケなのだ。まさしく今度は彼女が因果応報を食らう番であった。

 チネッタがわざとらしく雑草を蹴ってみせる。

「なによ、私のこと大好きだとかいい加減なこと言っといて……一番私を泣かせたのはアンタじゃない。私がバグリスに引き取られる時も、見送りにも来なかったじゃない。勝手に友達になって、勝手に仲良くなって、そしたら今度は勝手にどっかいっちゃって……」

 演技か本心かわかったものではない。ビーガンは恐怖さえ覚えた。

「馬鹿みたい……」

「……チネッタ……」

 土臭いローブの袖で涙を拭って、クアベルはしどろもどろに答える。

「……誤解なんだよ、チネッタ。オレ、ちょうどその日は仕事があって……。ほら、管理官の演説の護衛……。行かなかったんじゃない。行けなかったんだ。だから……」

「なによ」チネッタは切り札を切った。「仕事と私とどっちが大事なのよ」

「そ……いや、それは……」クアベルはたじろぐ。「それはぁ……」

「いいわよ言わなくても。えーえーわかってますとも」

 おしゃべりのチネッタは攻め立てる。彼女にとっては不本意だろうが、この手の口撃にかけて彼女の右に出るものはいない。リフターをすら凌ぐだろう。なぜってそりゃあ、リフターは男に生まれてきてしまったからである。

「そうよね。仕事よね。ここに来たのも、仕事だからだもんね。ジズを取り戻しに来たからであって、私に会いに来たわけじゃないものね。私のことなんてどうでもいいんでしょ」

「んぐ……」

 なんとも面倒な言い草だった。しかし、横着者の割には面倒だと切り捨てない──というか切り捨てられないあたり、クアベルもそうとう厄介な弱点を持ったものである。もちろんそれを知ったうえでチネッタは続けるのだが。

「見送りにも来なかったぐらいだし」

「だからそれは違うって!」

「いいわよ、もう。さっさとジズでもなんでも連れていきなさいよ」

「え?」ジズが耳を疑った。「嘘でしょ?」

「仕事なんでしょ。そのために来たんでしょ。さっさと終わらせて帰ってよ」

「……」

「見送りするほど暇じゃないから」

 クアベルがしかめっつらで石ころを蹴飛ばした。こんな当てつけみたいな言い方をされれば、流石の彼女だって愉快ではいられない。

「……なんだよ。そこまで言わなくたっていいじゃんか。オレだって色々事情があるんだよ。そんなのどうにもならないじゃんか……」

「私の為にどうにかしようとは思わなかったのね」

「……」

 やっぱり自分の見立ては間違ってなかったんじゃ……ビーガンはそんな風に再考証しながら、つるの触手を地に這わせ、あと一歩のところまで伸ばす。

「そもそもねえ、私が住んでる家に平気で夜襲かけるような奴を信用できるわけないでしょ。そんなやつ友達ですらおことわりよ」

「……それはぁ……」両手の人差し指をぶつけるクアベル。「そうだけどぉ……」

「私はあんたと友達でいたい。だから、もうこんな馬鹿な真似はやめて。じゃないと一生あんたを恨むことになっちゃう」

「…………」 

 クアベルははかりを持ち出した。もちろん心の中でである。片方にリフターからの叱責を、もう片方にチネッタからの軽蔑を乗せ、なんとか上手い具合にバランスを取れるところはないものかと、落としどころを模索する。

 もうこれ自体が面倒である。両方とも大事なものだ。どっちか片方なんて取れない。天上宮の職員である以上リフターの命令には逆らえないし、そもそもこの任務に失敗したら巨空鷲ハレハグラの餌にされるかもしれない。いやいやでもでもチネッタの信頼は、カーペットだのドーナツだのよりもっと大切だし……。だけど庭師はムカつくし……。

「……ん?」

 庭師。クソ庭師。庭師だと? クアベルは眉をひそめる。木陰にジズ。眼前にはチネッタ。なんだか頭数が足りない。おやおやどうしたちょっと待て。

 

 奴は────庭師はどこへ行った?

 

「──ッてめぇにわ」

 クアベルが体をひねる。一歩遅かった。しっ……と予想外の抑揚がついたあえぎ声が漏れて、彼女の肢体したいが水風船みたいに大きく跳ね上がった。

「えああぁああああ」

 流星よろしく尾を引く視界。胴体にざらりとした嫌な感覚。もちろん比翼者ヴァイカリオスは一人じゃ飛べないし、彼女の仕業でも魔法などでもない。何かに吊り上げられたのだ。

「クッッッソ庭師がぁあああああ」

 クアベルには予想がついた。ついたが一応胸元に目をやる。案の定、ツタが彼女の上半身を腕ごと縛り付けていた。またも庭師の術中というわけだ。

 こうなるともう、クアベルのらしくもないおセンチな心中は荒れたい放題だった。ついでにふわりと膨らんだローブからは尻も見えたい放題である。

「あうっ」

 びょん、と大きくバウンドして、クアベルはようやく逆さ吊りから解放される。だが身体は蓑虫みのむしみたいに拘束されたままだ。ちょうど提灯ちょうちんに似た形で、巨石の一角から伸びた触手の先にクアベルが縛り付けられていた。

「ッしゃあー!」

 天高く右拳を突き上げて、してやったりとばかりにチネッタが叫ぶ。それはもうここまでの鬱憤を天上に全て丸投げするかのような威勢であった。

「ざまぁみさらせこんちくしょらばっちゃーい!」

「卑怯だぞチネッタ!」宙吊りのままクアベルは叫ぶ。「騙したなぁ!」

「はぁあん? 卑怯もらっきょもありまっせーん!」

「チネッタのばか! 最低だ! オレの気持ちを弄ぶなんて! 本気だったのに!」

「あら、失礼ね。あんたが見送りに来なくて傷付いたのは本当よ」

 なんとも思わせぶりにチネッタは笑う。そういう女だった。

 いや──それが、強さか?

「私、根に持つタイプなの。好きな気持ちも、嫌いな気持ちも」

「……くそ、卑怯だ。そんなの卑怯だぞ! なにしても許されると思ってるんだろ!」

「怒った? じゃ絶交する?」チネッタは首を傾げる。「私はいいんだけどね?」

「そんなの卑怯だあ!」

 やいのやいのと騒ぎ立て、クアベルはなんとかもがいてみる。触手はほどける気配も千切れる素振りもみせない。石の羽でなんとかならないかと足掻あがいてはみるが、どうやら根元を背中に押し付ける形で縛られてしまったようである。

「……ちくしょう」クアベルは諦めた。「カナボーなんかにするんじゃなかった……」

 やはり感情に飲まれるとろくなことがないのだ。チィちゃんもジズの肩で元気なさげに唸ってみせた。鼠にさえ同情される始末である。

 荒れた草原の中、ビーガンが立ち上がって、ねじけた紅赤こうしゃく色の髪をかき上げる。魔吸器マスク越しで口元はうかがえないが、この疲れ具合と庭の有様から見るに、さぞや苛立ちが歯を研いでいることだろう。

「手こずらせやがって」吐き捨てるビーガン。「大人しくしてろ」

「死ね! クソ庭師!」

 スカした顔だ。その目元がどうにも気に入らない。チネッタに慕われているのはもっと気に入らない。じたじた足を動かしながら、クアベルは遥か眼下の庭師を怒鳴りつける。

「離せ! ほどけ! くたばれ! こんなやり方が許されると思ってんのかぁ!」

「なぜ私がお前に許しを乞わなければならない? それこそ逆の立場になって考えてみるんだな、比翼者ヴァイカリオス。得意なんだろう? そういうのは」

「カッコつけてんじゃねー! テメーは人のスカートの中覗いただけだろうが!」

 ビーガンが余計に伸ばしたつるが、うぞぞ、とクアベルの太股ふとももに絡みつく。それも限りなく猥褻わいせつに。

「ひぃやぁー!」クアベルは鳥肌と共に叫んだ。「やめろぉー!」

「口の利き方に気をつけろ。次なめた口を利いたら水晶カメラでアトラス全土に中継してやる。こいつは見ものだぞ。いや、見世物か」

「見世物じゃねー!」

 スカートにへばりついた土やら雑草を払いながら、チネッタがビーガンへ歩み寄る。ちょうど掃除の最中に見せる、ほこりにまみれたサッシ枠を眺める目つきでだ。

「……楽しそうだこと」

「だれがです」

「拘束に、下着なし。ほんといい趣味してるわね」

「いい加減にしろ!」

「引くわ……」

「…………」

「まあ」チネッタは渋々しぶしぶ指を折る。「それもあなたの一つね。覚えておくわ」

「不名誉な数え方を!」

 なんだなんだ。あてつけか。クアベルの心中も穏やかではない。下着は剥がれるわ宙吊りにされるわ、結局ここに何しにきたんだ。夜襲が聞いて呆れる。

 クアベルはジズを見下ろした。相変わらず間の抜けた表情だ。緊張感が見られない。挙句に肩口には鼠だと。羽の代わりに物寂しさを埋めたつもりか。馬鹿馬鹿しい。

「テメー覚悟しとけよおチビちゃん、後で絶対づらかかすからなぁ!」

「お尻丸見えだよ」

「うるせー! 尻の一つや二つで今更騒いでられるか! こちとらなぁ、てめえを連れ戻しに出てきた時からずっと……」

 クアベルはそこで言葉を止めた。

 ちょっと待て。なにか大事なことを忘れてはいまいか。なにか、そう……夜襲がどうとか、リフターがどうとかじゃなくて、もっと生理的に大事なことを──

「……あっ?」

 ぞぞ、とクアベルの下腹部を違和感が這い回る。戦火の渦中で意識の外に置いてはいたが、一度意識してしまうともう駄目だ。動くまいとする度もじもじ動いてしまう両足と、その都度膀胱ぼうこうを刺す衝撃。

 そうだ────トイレに行きたいんだった。

「あっちょっと待ってほんとに漏れそう!」

 クアベルは今日一番の大声で叫んだが、そんなことは庭師には関係がなかった。

「馬鹿が。そんな手に乗るか」

「ちっ、違う! ほんとのほんとに漏れそうなんだっ」

「知ったことか」ビーガンは鼻で笑った。「尿意と違って僕は待つタイプだ」

「ああああああ」

 ぁ、とクアベルの声が途絶える。つまり彼女の膀胱は我慢の限界を迎えた。

 後回しにする癖というのは厄介なものだ。大概そのツケは自分に回ってくる。仕事であるにしろ、勉強であるにしろ、はたまた排尿であるにしろ。

 どんな面倒くさがりだって、大体は一度痛い目を見れば懲りるものだ。毎回ギリギリでなんとかなってしまうから、本当の意味でやらかしたことがないから、いつまで経ってもそういう悪癖が治らないだけで。

 クアベル=ラズワイルは尿意の爆弾を抱えたまま夜襲へと飛び出す。それが爆弾だとは知らなかった。本当の意味でやらかしたことがなかったから。

 人は変わっていく生き物だとチネッタは言った。その通りだ。そうあれば誰もが救われる。そう信じよう。

 願わくば、この天上に降った黄金こがね色の雨を期に──物臭ものぐさな女の悪癖が治らんことを。

「うわぁああああん」 

 開放感と共にクアベルは叫ぶ。なにも排尿音を誤魔化しているわけではない。生まれて初めて心の底から彼女は泣いたのだ。仔細しさいに記すにはあまりに猥褻が過ぎるゆえ、明言はしないが──天上には暖かい雨が降り、クアベルの足元には虹がかかった。

「漏れそうだってっ、漏れそうだって言っだのにっ……」

 クアベルはずびずびと涙を垂れ流す。上の栓まで緩んだようだ。おっと失敬。

 とにかく彼女は赤子も顔負けの泣きを披露し、涙を拭うことも──ついでに言うなら太ももを滴る尿を拭うことも出来ぬまま、ただただ持てる限りの恥をさらした。

 全てはサガのツケだ。石の羽を持つ者は、みなその石のツケを支払わされる。なるべくしてそうなったのだ。その痴態は雨が降るがごとく与えられたものであった。

「よりにもよって、チネッタのっ……チネッタのまえでぇ……」

 クアベルの頬はいちごのように赤かった。

 こうなっては威厳も品格もあったものではない。あんまり悲惨で哀れなものだから、ジズは気まずそうに目をそらして耳を塞いでやる。チィちゃんもそれを真似した。

 ビーガンはただ眺める。ただただ眺める。いつ終わるか計っているようにさえ見えた。

 チネッタはどうしていいやらわからなくて、おろおろしながら声をかける。

「だ、大丈夫よクアベル……」

「なにがどう大丈夫なんだぁ!」

「どうにもならないことだから……」

 気休めだ。彼女自身も言っている意味がよくわからなかった。

 そのうち、事の次第を中空で見守っていた庭師の愛馬──ニチザツが颯爽さっそうと草原に降り立ち、湯気の立つクアベルの陣地に鼻先を近づけた。

「よせニチザツ」ビーガンは淡白に言う。「不衛生だ」

「クソ庭師が、絶対に殺す!」

 今度は本当に不衛生なので言い逃れができない。いっそ殺してくれとクアベルは念じたが、誰も答えてはくれない。ジズに至っては耳をふさいでお空の彼方を眺めている始末だった。

 はた、とチネッタが右眉を吊り上げ、ビーガンの隣に立ち並ぶ。

「ほーうほうほうほう」

「……なんです?」

「やっぱり馬は飼い主に似るのかしら」

「は?」

 ついに頭がおかしくなったかと、ビーガンは彼女を見返す。手袋越しの人差し指が下に向けられていた。地面を見ろということだろうか。

 いや、違う。彼女が指しているのは──

「ばっ……」

 ズボンに出来あがった凸面を見るなり、ビーガンは頓狂とんきょうな声を上げた。

「馬鹿な!」

 そこには堂々と屹立きつりつする白亞はくあの巨塔……品がある言い方をすれば庭師の天上宮バベルが存在した。ちなみにこれは完全犯罪ではなく公然猥褻という名のただの犯罪であった。

「こんなはずが……私は、私は男以外には……」

 庭師──庭師、つ。痴態に勃つ。

「変態」

 チネッタはビーガンの耳元まで近付いて、もっとよく聞こえるよう言い直してやる。これは親切心と愛と優しさからなる敬虔で善良な行いであった。

「変ッ態」

「ちっ……違う! これは生理現象だ! 決して興奮を覚えたわけじゃ……」

「いやー、これはしかたない。実にしかたないですなあ」

 チネッタは嫌味たっぷりに言った。

「やっぱりあんたはそういう趣味なのね」

「ちがう! 誤解だ! これは……ええい、とにかく誤解だ!」

 いきり立つ愚息を鎮めようと前かがみになるビーガン。しかし、中々どうして馬のようにはいかないようである。しかし馬の扱いが上手いのであればこちらの方も……おっと失敬。

「えぇ、えぇ、ちゃんと覚えておくわ。悪いところの一つとしてね」

「だから、不名誉な数え方をするな!」

 腰が引けた体勢では言葉も鋭さに欠ける。情けない上にみっともない庭師の醜態をにまにまと眺め、チネッタはいやらしく笑った。

「それから……女の子に興奮はできるんだってことも……覚えておくわ。なるほど、そう。そうなのね」

「疲れてるからだ、性癖じゃない。たまたまだ! おい、いいか、たとえそうでもな、私の恋愛対象は男だ! 聞いてるのか!」

 それはある種の宣戦布告であった。これに限っては布告の隙を与えた方が悪い。

 ビーガンは反論を諦めた。目の前にうずも高く積まれた厄介ごとから目を背けようとしたが、右を見ても左を見ても土地は荒れたい放題だ。振り返ってみれば屋敷も半壊。

 いざ冷静になってみれば、チネッタとの問題などは二の次だった。

 差し当たり考えねばならないのは──うまい言葉の使い方だ。

(最悪だ、なにもかも……)

 マダム邸宅の住人は護った。守護者ガードナーとしては文句なしだ。だが庭師ガーデナーとしては頂けない。肝心の庭はなんとか死守できたものの、吹き飛ばされた魔草マーブがあまりに多く、景観もへったくれもあったものではなかった。

 はたしてこの惨状をマダム・クリサリスにどう説明しよう?

 土を耕せとは言われていないし、耕したにしてもやりすぎだ。家の屋根もところどころ剥がれていて、庭のオブジェなどガラクタ同然。

 図太くいってみようか? 元からこうだったとでも説明するか? なにかの間違いでは……とか、だいぶお疲れのようですね……とか、草のやり過ぎでは……とか。

 望み薄だ。こればかりは、マダム・クリサリスに老いが来ていることを祈る他ない。

 分の悪い賭けでもないだろう。彼女がマダム・クリサリスでさえなかったら。

 つまりこいつは──いや、こいつこそ──どうにもならないことなのだ。

「……かぬ種は生えぬ、か」

 庭師、立つ。巨石に立つ。頭痛の種を育みながら。

 

 

  ◆

 

 

 どのぐらい経っただろう。

 一〇年、五〇年? それとも一〇〇年? あるいはまだ一年も経っていない? 

 いずれにせよ恐ろしいことだ。産まれた月日にこだわりなどないし、誕生日を祝う性分でもないが、姿見の一つもなく時だけが進むとあっては……せめて自分が今いくつなのかぐらいは知らせて欲しいところだった。

 腕時計はしない主義だ。決まった時間に起きたりはしない。寝たいときに寝て食べたい時に食べる。惰性で産まれた習慣に縛られるほど馬鹿らしいことはない。時の流れに自分の行動を左右されるなど心底くだらない。

 そう思っていた。

 眉のない男いわく、比翼者ヴァイカリオスは寿命以外に死を持たない……五〇〇年という神が定めた天寿をまっとうするまで、ただ石になるだけだという。であれば、少なくとも五〇〇年の間は死ねないわけだ。こうして石になってしまえば体が老いることすらない。

 不老不死。いい言葉だ。老いないし死ねない。夢がある。夢そのものだ。

 だが心はどうだ? 魂はどうなる? そいつは老いないのか? 死なないのか?

 悠久に思える闇の中、魂だけがぼんやりと存在していて、意識はあるのに誰とも話せず誰にも触れられない──おり……そう、こんな檻の中のような状況がこの先十年、百年、千年……。辿り着くのに何億光年もかかるような時の果てまで続いたとしても──それでも不老不死だと言えるのだろうか?

 五〇〇年。決して短くはない。ああそうだ、奴の言う通りだ。人は孤独にだけは決して耐えられないよう出来ていた。分かっている。どう多く見積もっても一年も経っていない。せいぜい三日、四日、長くて一週間だろう。

 意識。意識だけ。ここにあるのは──〝ある〟という観念かんねんだけ。いや、こうして禅問答を続けられるということは、自我も存在してはいるのか。だが、五感はない。

 恐怖はない。ただ狂ってしまいそうになる。こんなことなら死んだ方がマシだった。

 比翼者おれたちはどうして比翼者おれたちとして産まれた? なぜ片翼かたよくなんだ? 何が愉快で五〇〇年も石にならなきゃならない? 誰がそう決めた?

 何が石の羽だ。誰が与えた。強さを求めるほどにこいつは弱さを浮き彫りにする。

 呪う。どこまでも生まれを呪う。思えばこの生まれが全ての始まりだった。あまりに弱く、女々しく、信じることで自分を奮い立たせなければならないほどに──それほどまでに片翼かたよくの肩書きは惨めなものだ。

 ああそうとも。こんなのは生きてるとは呼べない。

 どこまで呪えばいい? どこまで自分を呪えばいいんだ?

 耐えられないのは独りだからか。それとも俺がお喋りだからか。

 流れいく月日の中で魂だけが老いていく──そんな孤独に耐えられるだろうか?

 限界なんだ。我慢の限界なんだ。いつだって、限界だったんだ。

 闇は前触れなく晴れた。

 とうに失われた時間感覚がじんわりと体を呼び起こし、体内時計が再び動き始める。秒針はない。されど、時の流れを漠然ばくぜんと感じた。

 石膏せっこうのように固められていた四肢が柔らかさを取り戻し、まばたきすら許されなかったまぶた綿わたに負けず劣らず軽くなる。続いて襲い掛かった重力が、気だるい身体を地面へ放り出した。

 いつもの床だ。黴臭かびくさい。ぼやけた眼前には、見覚えのある燭台と鉄格子。

「……はん」彼はつぶやいた。「ざまあねえな」

 ああ。また、ここからか。

 思ってもみない話だった。まさかあれほど嫌った難儀な生まれに、死を知らぬまま石になるという、呪いに似たさだめに感謝する日が来ようとは。

 望むにしろ望まぬにしろ、今に限っては幸運と呼んでおくべきなのだろう。

 そうとも。それがいい。なにせ、そいつがどんなに自分を見放しても、最後の最後までそいつを裏切りはしなかったのだから。

 やはりこいつが最適解だ。もっともらしく老躯の言い草にならえば、これこそが。幸運を信じ抜くことこそが、俺にとっての──ジャスパーという生き物にとっての。

「経験則ってヤツよ」

 幸運よ、反撃を待て。みどりは再び牙を剥く。