第十九羽「ルチルのこころ」

 

 

 ◆19-1

 

 風呂屋に沈められた女が鉢植えを蹴っ飛ばす頃、天上へと昇った男はくしゃみをした。
 深夜の雲海、その冷たさは針のように肌を刺す。彼は外套を持ってこなかったことに後悔を覚えたが、この程度は氷山の一角だ。であれば寒いのも無理はない。
 視界は開けている。このぶんではもうじきに明月だろう。まばらに散った綿雲の下、眠れる巨石街は灯りも乏しく、ビーガンの眼前には薄明かりの空が途方もなく広がるだけである。
 空気が硬い、と思う。魔素濃度から察するに、上昇高度としてはこの辺りが限界だ。中天月マーニへはこれ以上近づけない。愛馬のニチザツもそろそろ休ませなければ。なにより彼自身が一度休息を取らなければ、心労だか身労だかで倒れる羽目になるのは目に見えている。
 眼下を眺め回し、進路を東へ。いかに流され上手な庭師だろうと、ひとまずの行き先は決めたようである。とはいえそこも寓居に変わりはなく、この先も逃げ続けることになるだろう。それより今この瞬間もっとも大事なのは──
 ──先刻から鳴り続けている魔信機マシーバー。こいつの通話ボタンを押すかどうかだ。
(面倒な)
 震える真鍮しんちゅうの筐体。番号などは確認するまでもない。マダム・クリサリスはいちいち相手の身を案じて電話をかけたりはしないだろうから。そういう女だ。
 察するところ、この電話は恐らくリフターからの最後通告である。今を逃せば弁解の機会は永劫失われ、旧時代より続いたヘケゼーニル家の庭師の系譜は途絶えるか。
 わかってる。出なきゃいけない。だが気が重い。気が重いのは。
(自分のせいだと、わかってるからだろうな)
 溜息をつく間もなかった。天にましますアルの女神は彼に覚悟を求める。そして彼には答えることしかできない。ビーガンはついに観念し、魔信機マシーバーのボタンを押して耳に宛がった。
「すみません」
 開口一番、ビーガンはそう言う。舌が上手く動いてくれない。
「……物のはずみというか、あの状況ではああするしかなかったというか……その、つまり……望んでそうしたわけではなくて……」
『……』
「……あの……」
 応答はない。風音に掻き消されぬよう、ビーガンは音量を最大まで上げた。なにやら向こうも後ろが騒がしいようだ。職員たちが夜食でも取っているのだろうか。関係ないか。どうせ、もうあそこにはいられない。
 受話器から、すっ、と息を吸う音がする。思わず目をつむった。痛むのはそこじゃないのに。

 

『こっちこそ、ごめんね』

 

「は?」返ってきたのは女の声だった。「誰だ、あなたは」
 電話番か……いや、それなら側近の老人が出るはずだ。職員にしては声が若い。
『誰って。わたし。チネッタよ』
「──……」
 ああ。道理で。聞き覚えのある声なわけだ。吹き出るのを待っていた冷や汗が、ビーガンの全身からどっと溢れ出した。桁外れの虚脱感に魔信機を落としそうになる。
 天を仰ぐ。手綱はいい加減に握ったまま。ビーガンはシャツのボタンを外し、喉元を夜風に晒した。身構え損か、馬鹿らしい。今は馬鹿らしいほうが良かったが。
 ──いや待てよ。これはこれで面倒だ。どうせこの女のことだから……と、ビーガンは再び身構え直した。固唾を飲み、剣呑な表情でチネッタの二の句を待つ。
 そのうち、こほん、と咳払いが聞こえた。
『あなたの気持ちはわかったわ。私もかっとなっちゃったっていうか……だからその……』
「待て」そら見ろ。言わんこっちゃない。「誤解しないでください。今のはあなたに言ったんじゃない」
『はぁ?』なしかめっ面が目に浮かぶようだった。『私でなきゃ誰に言うのよ』
「とにかく今のは誤解です。忘れてください。あなたに謝る気なんかいちマギオンも……」
『ちょっと待ちなさいよ。そんなの虫が良すぎでしょ。あんな滅茶苦茶言っておいて、やっぱ忘れてくださいなんて! そりゃ私も滅茶苦茶言ったし、元をただせば私がクアベルを出したからだけど……』
「そんな話はどうでもいい。何故この周波数を」
『わたし知ってたわよ。結構前から』
「なぜ」
『番号ちょうだいって言ったらマダムが教えてくれた』
「ザルか……」
『もしもし?』
 まったく人間という怪物の縮図か。一分も経てば安息は耳障りな声に早変わりだ。げんなりした様子でビーガンは受話器を耳から遠ざける。
『ちょっと! 聞いてんの!? 聞いてんでしょ! おい聞いてんだろ! もしもし、もしもし、もしもーし! 拘束お漏らしプレイが大好きな変態庭師さーん! お漏らしもしもー』
 し、と同じくしてビーガンは通話を切った。時間の無駄だ。とても建設的じゃない。そうでなくても考えることが腐るほどあるのに。小娘のさえずりなんかに付き合っていては解決するものも……嘘だろ、あの女。またかけてきやがった。
「しつっこいな……!」
 引っ叩くように通話ボタンを押し、ビーガンは八つ当たり気味に吐き散らした。
「いい加減にしろ! 謝るつもりなどないと言っている! 土台、何もかもあなたのせいだ。あなたの事情など関係ないし、私が謝罪する筋合いなどどこにもないッ! わかったか!
 おい、聞こえてるんだろう! なんとか言ってみろ、このくさ小鳩こばとが!!」

 

『ほう』

 

 受話器が震える。今度は男の声だった。もちろん同時にビーガンの喉も震えた。
「かッッッ……」
『腐れ小鳩。そうか。まさかそんな風に思っていたとはな。それが貴様の答えというわけだ、ビーガン』
 リフターだ。笑っている。ああ良かった。いや違う! これは駄目なほうの笑みだ!!
 終わった──────完全に、終わった。万歳三唱。庭師の人生ここに死す!
「管理官ッ……」
 庭師の目玉はピンポン玉を追うようにしてぎょろぎょろ動いた。舌がぐずついて上手く口が動かない。冷や汗は脂汗へと変貌し、脈拍が不安定になる。ちくしょう。吐きそうだ。
『自主性と、協調性、そして共感性の欠如。笑えない話だビーガン。世に羽なしと揶揄やゆされる貴様が、貼られた値札に自ら甘んじるとは』
「そうじゃないんです! 失礼いたしました! 今、ちょうど別の者と通話中だったもので、間違えて……」
『黙れ』リフターは一言で破断した。『どこへ行こうが逃げられんぞ。覚悟しておけ』
「誤解です! 管理官? 管理官!!」
 ホワイト・ノイズが一つ。通話は一方的に断たれた。ビーガンは無表情である。元より彼は淡白であるが、今ほど無味乾燥な面持ちだったことはなかったし、金輪際あるまい。
 庭師生命は絶たれた。あとは時間の問題……否、今までだって時間の問題だった。ここから先の人生というものは即ち延命治療である。造花のように生きねばならぬ。はて。そう生きてきた気もするが。
「……」彼は瞬き一つしなかった。「……いいか……どうだって」
 風に吹かれ、ぼうっと夜景を眺めた。これで見納めだろうか。ニチザツにもっと上質な餌を食わせてやればよかった。メタロイスにも当たり散らし過ぎたか。蹴り倒した花壇の魔草マーブたちには悪いことをした。
 なんて、いかにもだな。安っぽい。
 また魔信機が振動する。書き損じのラフスケッチみたいな瞳で、今度はちゃんと番号を確認した。リフターじゃない。ということはチネッタか。ビーガンは自然とうつむきがちになる。
「……なぜ」
 別に、謝ろうなんて思っちゃいないが。
 これでおしまいだと知っていたら、もう少し……せめて、もう少しだけ、人間らしく。
「……」
 力なく、ビーガンは受話器を耳元へ。
 意識を預ける。あれほど歪に振るった言葉に、今だけは救いであれと……無様にも。
『信じらんない! なんで途中で切るわけ? あんた頭おかしいんじゃない?』
「……ふ」笑ってしまった。図らずとも。「そうかもな」
『なに笑ってんのよ』
「おしまいだ」
『なにがよ。もうちょっと大きな声で……』
「もう怒る気力もない」
『なによそれ。ていうか、ごうごううっさいわね。それ、今どこにいるわけ?』
 空だ、とビーガン。
「空の上です」
『そんなことわかってるわよ』
「そうじゃなくて。飛んでるんです」
『あ、ごめん。まだ帰ってなかった?』
「帰れませんよ、二度と」
『はぁ?』
「あなたこそ」空を掻くニチザツのひづめ。「後ろが騒がしい。料亭にでも?」
『マダムの隠れ家よ。後ろは、えーと……今、晩御飯食べてて……みんなでお酒飲んでて……ジズが踊ってるわ』
「意味がわからない」
『犬がいっぱいいるの。なんだっけな。ブンキンタカシマダ? ナンキンタマスダレ? なんか、とにかくそういう……』
 どういうことだ。干からびたビーガンの脳味噌では理解できそうにもない。犬がいて、酒盛りで、ジズが踊って……。
「ラリってるんですか?」
『ラリってるとか言うな。そう、宴会。宴会ってやつよ。それで、ジズが踊らされて……』
「とにかく、そこは安全なんですね」
『そうよ。今のところはね。あんたはどうなの。帰れないってどういうこと?』
「管理官の逆鱗に触れたってことです。私は人身売買の事実を知ってる。おまけに、ジズ嬢を奪還しに来たお漏らし女を妨害した。天上宮から見れば、明確なマダム側への……」
『あーはいはいはい。とにかくやばいってことね』
「そうです」
 あしらうようなチネッタの言い草を、いつもなら訂正しただろう。今日はもういい。
「私は殺される」
『極端だわ、そんなの。なにも殺さなくたって……』
「どっちにしろ、私の必需品は天上宮からの貸与品だ。取り上げられて、おしまいです」
『なら、リフターの方に寝返り打つしかないじゃない。あんたがやってた中立って、要するにそういうことよ』
「そしたら今度はマダムに恨まれるじゃないですか」
『要するにあなた』チネッタの溜息が遠い。『敵を作りたくなかったのね』
 ぐうの音も出ないとはこのことだ。代わりにビーガンの腹が鳴った。
『ハッポービジンってやつなんだわ』
「ほかに私に文句は?」
『あ、ごめん。そうじゃないの。ただ、八方美人でいたいなら、角の立たない断り方を覚えたほうがいいのは確かよね』
「……ああ。わかってる」
『……ビーガン?』
「わかってたよ」水が欲しい。「ずっと前から」
 返す言葉がない。出てこないんじゃなく、見つからなかった。
 二人ともが黙り込んで、少し、妙な間が空いた気がする。お互いになにか悟ったような……そんな錯覚の隙間だ。受話器の向こうの女だって、きっとこっちがどんな顔をしてるか知りたがっている。
『わかってて、自分で選んだんでしょう』
 錯覚はそのまま進んだ。別に暴こうともしない。そこまで子供ではなかった。
「いいや。そうしなかったことを後悔しているんですよ。選んでおけば、自分の責任だと諦めがついた」
『選ばなかったのも自分の責任よ』
「ごもっともで」
 恐れないな、この娘は。いや……特別なのは彼女じゃない。自分が怯えているだけだ。観念するたび、ビーガンは自分を振り返ることを言外に強いられる。他でもない自分に。
「昔から、そういうタチなんです。選ぶのは苦手だ。流されて、安請け合いして、パンクしそうになったら何もかも面倒になって投げ出す。今回だって……」
『あんたはクアベルか』
「きついな、それは」
 笑う二人。気休めだ。それが必要だった。壊れそうなのが自分だけじゃないことは、出会う前からわかっていた。だからただ出会っただけじゃ終わらなかったんだろう。アホらしい。
「主体性と、協調性、それから共感性の欠如……代表的な羽なしの特徴です。差し詰め私は、羽なしという文字が心臓を持ったような人間なんですよ」
『はぁー。ほんとあんた……』
「なんです」
『そんな人間、羽があろうがなかろうが腐るほどいるでしょ。私だって、面倒になったら投げ出しちゃうこともあるし。拡大解釈しすぎよ。問題があるのはあんた個人で、羽なしみんながそうなわけじゃないでしょう』
「……」
『一体全体、どれだけ自分ひとりが特別な人間だと思っちゃってるのかしら』
 特別、か。思い返してみても、ビーガンは自分を特別だと思ったことはない。ずれていると思うだけだ。人波の中に歪みがあり、自分はその中で泳げずにもがいている。なまじ息継ぎが出来てしまうから冷たさにも慣れたのだろう。
 次第にわからなくなっただけだ。冷たさの縁取りが。
「あなたは多分」と、ビーガン。「自分のさだめを呪ったことがないんでしょう」
『生まれちゃったものはしょうがないもの』
「羨ましい限りだな。負い目を育まずに済む環境にあったわけだ」
『ねえ……』チネッタの声が尖る。『私、喧嘩したくて電話したんじゃないんだけど』
「別に、喧嘩するつもりは……」
『喧嘩腰じゃない』
「羽なしの言葉はそう聞こえる」
『だから……あぁもう。こんちくしょらばっちゃい』
 苦く、笑み一つ。猫の喉を撫でるようにしてビーガンは受話器を持ち直す。
「あなたも喧嘩腰だが。私だから平気なだけで」
『はぁーん。その思い上がり、結構ムカつくわね』
「切ってもいいんだぞ」
『切れば?』
 親指をスイッチにかけたままビーガンは硬直した。
 扇情と、プライド……売り言葉に、買い言葉か。繰り返してきたな。要らないものを売ったわけでもないし、欲しいものを買ったわけでもないのに。何が面白くてそんな不毛な真似を。
 面倒な女だ。面倒な女だが、言の葉の裏側がめくりやすい分、可愛げはあるか。少なくとも自分よりは。わかりやすければ生きやすいだろう。私とは違う。
「やめよう」
『なに?』
「磨り減る。私たちは石じゃない」
 疲弊もある。だがそれ以上に、心だ。憔悴している。自分はいま疲れ切っている。こういう時は言葉を空へと還してやるべきだ。ビーガンはようやく学習した。
 いや、疲れているのは彼女だって同じことだろう。同居人が増え、かと思えば旧友が会いに来て、ところがどっこい天上宮の回し者で、そもそも天上宮が人身売買をしていて……そんな陰気な都市伝説みたいに荒唐無稽な話、冷静に飲み込めという方が──
 ──らしくもない。ビーガンは笑みをこぼす。他人の気持ちを想像するだなんて、もう久しく自分の手を離れていた玩具だ。久しぶりに手紙を綴ったような……文字の書き順さえ危うい、そんな感覚だった。実際、多分、間違えた。目に見えない文字の綴り方を。
 悲劇だな。破滅的だ。この娘と話すといつも考えてしまう。余計なことを、余計なまでに。
『切らないのね』
「今はな」ビーガンは答えた。「いつ切るかは自分で決める」
『飲み込みが早いじゃない』
「悪いな、優秀で」
『変な人ね、あんたは。マダムみたいに冷静で、クアベルみたいにいい加減で、ジズみたいに臆病で……私みたいに、言葉の使い方が上手じゃない』
「あなたがそれを言うのか」
『言うわよ。それってつまり、みんな似たような生き物だってこと』
「みんな……」呼気が魔吸器マスクから漏れた。「みんな、か」
『誰にもわかってもらえないって、きっと、大なり小なりみんな思ってるの。そんでもって、言葉にしたところで、実際誰にもわかってはもらえないんだわ。
 だから私たちは、わかったようなフリをするのね。繋がり合ってるフリをする』
「耳の痛い話だな」
 今は、特に……ビーガンは続ける。
「言葉は刃物ですよ。繋がりを断ち、錯覚を暴く。そうしてきたし、そうされたこともある」
『刃物になるかは使い方次第よ。けど、魔法じゃないのは確かよね。もっと複雑』
 受話器の向こう、衣擦きぬずれの音。座り込んだか、壁にもたれかかったか。
『通じ合ってるって、お互い思い込んでる。言葉にしたら、ほんのちょっとのズレで崩れちゃうかもしれない。だから触らない。なにかを知ろうとする時は、いつだって怖いわ』
「……」
『見つけるの。ハートの淵が重なってて、桃色が一番大きく見えるところを。ぺティナイフの先に触るみたいに……慎重に。臆病に』
「あなたも……」
 眼下に見えた薄灯り──巨石街の目印へとニチザツの手綱を引き、ビーガンは続ける。
「あなたも怖かったのか?」
『そうであってほしい?』
 ぐん、と急降下するニチザツ。ビーガンの拗けた前髪が暴れた。振り落とされまいと、彼は手綱をしかと握り込む。
「……そういうところだぞ」と、ビーガン。「いい。この話は今度にしよう」
 彼は答えなかった。やめだ。美しくない。
『なに。飲み込みがちね』
「喉が渇くんだ」
 そうして実際に喉を鳴らす。彼は面持ちを正し、眼下に迫った灯りをまじまじと観察した。
「先に言っておく」
『なに?』
「もう会えないかもしれない」
『そう。残念ねぇ』
 淡白な言い草だった。残念なのはビーガンも同じだ。今、今! 今この瞬間こそ、この女がどういう表情をしているのか知りたかったのに。結果が良くたって、悪くたって。
「私のことは忘れろ」
『待ったりしないわよ、私は』
「ならいい」
『あんたこそ、私のこと忘れられるわけ?』
「難しいな。悪い意味でだ」
『まぁいいわ、それでも』
 風音に混じって、鼻を啜ったような音が小さく聞こえた。そんな気がした。
「ならなぜ泣く」
『はい? 泣いてませんけど。思い上がんないで』
「チネッタ」
『はあ』
「あなたの気持ちには答えられないかもしれない」
 だが、とビーガン。
「必ず戻る」
『あんた、最低』
「その通りだ」
『性格悪すぎ』
「よく言われる」
『それを自分でわかってる感じ出してておまけに直そうとしないあたりが特に最悪』
「適格だな」
『それって本当に性格悪い奴』
「悪いな」ビーガンは裁きを受け入れた。「クズなんだ」
『知ってる』
 でも、とチネッタは続けた。
『逆の立場だったら、私もクアベルにそう言うんだろな』
「……チネッタ」
『おやすみビーガン。私、あなたの友達にはなれたのね』

 

 

 風。風。身を裂く、風……。ホワイトノイズだけが残された魔信機。
 悲劇的な状況だ。私は溺れている。鏡の中の自分に好んで襤褸ぼろを着せ、ニヒリズムに似合うよう毛先をひっかき回し陰をてらおうとしている。
 まともな人間の人生における恥ずべき汚点と痛覚の塊のような男だ、私は。救いようのないことに人が私を恥じようと私は私を恥じてはいない。ただ救いようがないと思うだけだ。俯瞰と言えば高尚極まって聞こえるが、畢竟、自分自身にさえ無関心なだけだろう。それも極めて都合が悪いときだけ。
 すまない、チネッタ。私が人間のクズだと知ってなお踏んだかかとを離せぬお前を哀れに思う。今なお、とするのが私の錯覚であれば私は箪笥たんすの角に小指をぶつけたような人間になるだろうが、あなたとてその錯覚を性悪と人間性の冒涜の下に楽しんだだろう──たとえひと時でも。
 ならば、私達はどちらも許し許されるべきではない。罪でないことに許しを乞う必要はないのだから。ただ対等に生きてゆけばいい。我々はともに不出来な怪物だったのだ。
 それとも、どうだ。戻った頃には──いや、ともすれば既に──彼女は私に、僕に幻滅しているかもしれない。失望し、軽蔑し、一切の無関心と不干渉を、あるいは心底つまらない打算なき健全な歩幅を僕に望み、幸福の味を忘れた舌が乾からびはじめた頃に再び猫なで声を上げはじめるだろうか。やあこれは躁鬱の泥舟かと応じてしまう自分がいるかもしれまい。
 それもいいだろう。だが悲しみはない。それこそが悲しみだ。もっと人を愛してやれる人間でいたかったのかもしれない。雨が降るには遅すぎた。
 きっとわかってもらえるだろう。
 お前が僕を愛している以上に、僕は僕を。
「愛してしまっている……」
 向かい風に打たれながら、ビーガンは胸元から紙切れを取り出した。うっかり手放さぬよう慎重に。刺繍が施された一枚のチケット……欲望の赴くままマダム・クリサリスから頂戴したこの優待券が、皮肉にも彼の命綱となるわけである。
 空域、深度、方角──いわゆる通常の空図に加え、雲の形状までもが仔細に記されていた。顧客たちは店舗に辿り着くため、その日の雲の速さからおおよその場所を割り出さねばならぬというわけだ。これはなにも風俗店に限った話ではない。天上の建造物は何処もそうだ。
 いつも変わらずそこにあるものなど、天上にはない。
「この下だ、ニチザツ」
 眼下へ舵を。一人と一匹は呼気で口元を湿らせながら、花弁の形をした歪な綿雲の中へ。
 影。建造物か? 見えた。雲の中に居を構えるか。まるで霧のまゆに閉じ込められたようだ。もやがかった鉄柵に、神式コルコンドリヤ螺旋建築……まさに華美と悪徳か。
 石畳を踏み鳴らす蹄鉄。愛馬の背から降り立ち、ビーガンはその居城を眺めた。
 城──は過ぎた名だ。赤茶けた煉瓦が見上げる限り螺旋状に積み重ねられている。天上宮を模したわけではなかろうが、闇の吹き溜まりは概してこういう意匠になるものなのか。頂点であろう屋上一面には、幾数多の魔植物が色彩も豊かに花開かせている。およそ徒花だ。
(……摘発できないわけだな。こんな辺鄙へんぴな場所、見つかりようが……)
 亞人娼館マーコレツ。もはや退路を絶たれた庭師が身を潜める場所はここしかない。アテがないわけではないが、機密性と安全性を考慮すればこれが最善だろう。
 危急の問題は生と性である。やることをやってしまうか、どうするか……。いやしかし入店した以上は何もせずに帰るわけにもいかないし──と、ビーガンは自分を急かし始めた。
 考えよう。種を撒くか否かを。もちろん庭師として。

 

 

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