第〇羽「すすばみしかげりの薔薇ばら馥郁ふくいくと」

 

 

 

 

 〝我々は片翼の天使であり、抱き合わなければ飛べはしない〟

             ────クレシェンツォ言行録より

 

 

   ◆

 

 言葉など、いっそ通じない方が救われたのだ。

 夢はいつだって甘美だった。響きでさえ、甘すぎて胸焼けがしそうだった。だったけども、もう長いこと甘いものを口にしていないから、そのぐらいでちょうどいい。トルネードーナツに、ヨコメデミルフィーユ……全部、どんな味だったか忘れてしまった。
 もしもばくに生まれていたら、今頃は下腹が胸の二の舞だ。ひょっとしたら私は獏の仲間で、潜った夢の数だけ胸に栄養が行ってるのかも──

 

 ──そうして彼女は──ジズは想像する。いつものことを、いつものように。

 

 肩甲骨に疼きを感じる。背中には一対の羽箒はねぼうきが生えていて、地面に足をつけている時より、ずっと体が重く感じる。今日はそういう日だった。
 羽ばたくのは簡単だ。オールを漕ぐのとあまり変わらない。お腹に力を入れて、引っ込めたり、膨らませたり……そんな感じだ。いまいちイメージが沸かなければ、結んで開いてを繰り返せばいい。
 そうして翼を大きくしならせ、ふくよかな商人が悪戯に金貨をばらまくように羽根を散らしながら、晴れ晴れとした気分で綿雲の大海を往くのだ。
 ああ、飛んでる。私、いま空を飛んでる──ジズはいつも浮かれる。疑り深い彼女のことだから、まさか夢では、いやいやまさかと自分の翼を振り返って見たりもしよう。十回も羽ばたかぬ内にそわそわしてきて、背中の感触を確かめたくなる。
 今日もそうだった。両肩の力を抜いて、冷えた空気の中を真っ逆さまに落ちながら、自分の翼を抱いてみる。落ちるのは怖くない。だって私には皆と同じ、翼があるから。
 淡い桃色の羽を撫でてみたところで、ジズの頭のてっぺんが雲を突き破った。
 わあと声を上げ、乱気流にもみくちゃにされながら、それでもスカートの裾はしっかりとおさえて雲から脱出する。寝ぼけ眼で乱気流を抜ける頃には、すみれ色の長髪もぼさぼさだ。
 髪を整え、服のしわを正し、そうして真下に目をやると浮島うきしまが見えた。
 浮島といっても海の上の話ではない。その遥か天上、ジズの眼下の雲の上にあるのだ。
 ここは天上。都市の名はアトラス。雲の上に石が乗っており、大洪水から逃れた天上の民はそこで生活している。巨石街きょせきがいと呼ばれる浮島は、ほとんどが天上民の居住区だ。
 ジズだって、昔はあそこにいた。昔は、大昔は……。

 

 眼下に見えた浮島は、水晶で出来ているようだ。島というよりは、巨大な岩。あれが魔素を中継して、水晶テレビに映像を流している。アンテナのようなものだ。波を伝えやすい水晶の性質を利用して、特定の周波数の感情粒子、魔素まそと名を受けたもの、あるいは波──神話的に言えば〝魔法の霧〟を拡散させている。
 旧時代の知恵の賜物だろうか。ジズは地上の出来事に詳しくないゆえ、そのあたりの理屈や成り立ちを詳しくは知らぬ。もう十七歳だ、昔話を読み聞かせてもらう歳でもないだろう。
 ふらりと横道に逸れ、ジズは巨石街へ飛んだ。〝この先落石注意〟とアルザル語で書かれた看板を横目に見ながら、徐々に高度を下げて地に足をつける。
 瑪瑙めのうが埋め込まれた宝石街の路地を抜け、なんとなく先へ、先へ、先へ。
 どこに向かう? 私はどこへ向かう? どこへ向かえばいい? 誰も答えてくれない。
 人影は見当たらない。きっとみんな家で眠っているのだ。彼らは彼らで夢の中にいるのだろう。壁に埋め込まれた瑪瑙をこんこんと叩きながら、ジズは鼻歌混じりに歩いた。
 寂れた一軒の劇場シアトルへと入る。受付はもぬけの空だ。ショーケースに展示されたオルゴールは超ド級のヴィンテージだが、夢の中とはいえバチが当たりそうなので、遊ぶのはやめておく。
 目についた壁紙いわく、レイトショーのタイトルは〝ざらめの翼〟。ストーリーはと言えば特に筆に起こすほどのものでもないが、中々どうして筋書きの筆回しはミステリアスである。
 決めた。これにしよう。お金はないからタダ乗りになるけれど、夢の中だから誰にもバレやしない。バレなければ完全犯罪だ。私しか知らない、完全犯罪。
 館内は静まり返っていた。道案内まで撤去されていて、どこがどこだか全く分からないが、〝立ち入り禁止〟の鎖が掛けられているということは入り口なのだろう。
 会員証と思しき巨空鷲ハレハグラの羽根を、申し訳なさそうに──もちろんそれも申しわけ程度に──拝借し、ジズはこそこそ回廊の奥へ進んだ。

 

 彼女にのしかかる背徳感は、真夜中にケーキを食べた時のそれに似ていた。
 気を抜くとジズはついつい食べ過ぎてしまう。もともと太りやすい体質なのに、下着の淵に乗ったぷにぷにのお肉が更に増えようとしている──自覚してるのにやめられない、私ってばほんとどうしようもない──そう思いつつ口へと放り込む亞菓子あがしの、なんと後ろめたく贅沢なことか。
 小腹が空いた。回廊の壁にかけられた蝋燭を手にとってみる。ケーキで出来ているようだ。ジズは迷わず口に放り込んだ。舌下ぜっかのクリームが水あめみたいに溶けて、喉にどろりとへばりつく。
 はて、これは無銭飲食なのか器物損壊にあたるのか……まあどっちでもいい。ジズはさじと、ついでにケーキも投げ、おまけに口元をぺろりと拭ってから、更に奥へと歩を進めた。
 瑪瑙が散りばめられた大理石。その上に敷かれたワインレッドの絨毯。おまけに布の端には金の装飾糸ときたものだから、歩くたびに胃が痛くなってしょうがない。格調高さもここまでくると鼻につく。
 壁にかけてある絵画に目が留まった。誰が書いたか知らないが、酷いな。なんだこの絵は、ぐちゃぐちゃだ。目を閉じて描いたみたいだ。逆立ちして左手で書いたってもうすこしマシな絵になる。真っ黒に塗り潰した方がまだ綺麗なんじゃ……。
 それって凄くいい。ジズは頭の上に電球が浮かぶのを感じた。
 自分の羽根を一枚引っこ抜く。少しちくりとした。
 続いて、羽根を石にしてみせる。夢の中ならこんなことだって出来てしまう。鉱石になった羽先で手首を切ると、黒いインクが流れ出した。
 してやったり。ジズは悪戯っぽく笑った。
 彼女は更にもう何本か羽根を引っこ抜き、ぐるぐるとこねて羽ペンにしたかと思うと、手首からどばどばと溢れ出るインクにそれを浸し、アイ・シャドウでも扱うような軽快さで名画を上塗りし始めた。
 縦に、横に、斜めに、丸に。飽きたらハートの形にしてみる。綺麗なハートだ。次は割れたハート。二枚の翼に見立てられた、別れてしまったハート。
 芸術的だ。ジズは満足した。大体、むやみやたらに使われていた桃色がいけないのだ。
 嫌いだ。大嫌いだ。桃色とか、ピンクとか、赤とか。
 綺麗な色は……鮮やかな色は、全部、嫌いだ。
 気付けば、手首から溢れっぱなしのインクが腰まで迫っていた。大洪水だ。地上もこういう感じで滅びたのだろうか。どこかの誰かが鼻歌交じりに手首を切って、そいつのお陰で世界が滅んだ? いい迷惑だ。ちょうど今の彼女みたいに。
 とにもかくにも、ジズは手首を舌でなぞる。そうして傷を塞いで一息つき、今度は隣の絵画──〝指揮者不在の演奏会〟と銘打たれた名画の風景へ手を入れてみた。
 にゅむにゅむと不埒ふらちな感触が手を包んだ。まだ伸ばせる、ああそう、もっと奥……そうして手を伸ばしていると、向こうからぐいと引っ張られた──引っ張られた?

 違う。絵画が彼女を飲み込んだ。

 全身を不埒な感触に包まれ、プリンの海を泳いだ後、彼女はべしゃりと吐き出された。
 腰をさすりながら立ち上がる。いやに静かだった。思わず息を殺してしまうぐらいに。
 弧状に並んだ真紅の座席が、階段状に連なっている──演奏会場コンチェルタホーラの客席だ。彼女は最上段の真ん中にいた。
 見下ろした先の舞台は、客席に比べていやに小さい気がする。オペラを見るには心許ない。これではどんな荘厳な歌劇でも見劣りしてしまう。
 ああ、そうか。あそこに立つことを許されるのは、ちっぽけな壇上においてもなお、観衆を魅了してやまない者だけなのだ。
 ジズはゆっくりと階段を下りる。一歩ずつ、一歩ずつ、夢中のバージンロードを歩く。服を変えよう。もっと落ち着いたものがいい。たとえば薄紫。口元にはルージュ。ミステリアスに流し目を作り、崩した足に女の秘密を授けてみたりもしたい。
 あの壇上に上がったら、インクで汚れたスカートを脱いで、ゆっくりとドレスに着替えよう。どうせ誰も見ちゃいない。
 一歩、一歩……また一歩。とうとう目線と同じ高さにステージを見据える。指揮者はおろか楽団もいない。
 主役も観衆も、主体も客体もなしに一体なにを演じようというのか。誰が、何を、どう演じようというのか。ジズは思わず笑ってしまう。
 くすくすと笑いながら、階段へと一歩踏み込み──突如、照明に目を射抜かれた。

 

「今日は早かったわね」

 

 そう言った壇上の人影を、ジズは光に打たれた目で捉えようとした。
 誰だろう。なんだかずっと昔に聞いたような声だ。うまく視点が定まらない。閃輝せんきが邪魔をする。
 明順応めいじゅんのうが終わる頃になって、彼女の唇はわなわなと震え出した。声の主の姿を確かめ、目を擦り……絶句したまま立ち尽くす。
 そいつはおりの中にいた。人間なのは間違いない。だが檻の中にいる。立ち上がるほどの高さもない、ショーの動物を入れるような鉄格子に、そいつは閉じ込められていた。
 クソったれが。夢でよかった。夢じゃなかったら耐えられない。
 斜めに切り揃えられた菫色の髪。薄紫の落ち着いたドレス。口元にはルージュで、流し目はミステリアス。すらりと端麗な崩された脚には……女の秘密か、くそったれ。
「眠り、浅いんじゃない?」
 ジズだ。
 檻の中にいるのは、ジズだった。
「……誰?」ジズが問うて。
「見て分からない?」ジズが答えた。
 皮肉げで、小馬鹿にした口調だ。背伸びした小娘という印象だった。ジズの眉間に皺が寄る。檻の中のジズがその表情を真似して、そののち鼻で笑ってみせた。
 ジズは、ジズを凝視する。もう何年も鏡を覗いていないから、いくらか成長した自分の姿を見るのは今日が初めてだった。遠い昔に思い描いていた自分とは程遠い。
 違う。こんなのは私じゃない。私であってほしくない。もっと清廉せいれんで、真っ白で、大人びていて、知的で……そういう姿が、遠いいつかの私であるはずだったのに。
「……そこで何してるの?」
「何してるように見える?」
 分からないから聞いたんだろ。くそ。ジズは思わず舌打ちした。
 檻の中の自分は、じっと爪先を眺めている。こっちを見ようともしない。目を凝らしてみると、貧相な足先に、口元のルージュに勝るとも劣らぬ紅さのペディキュアが塗られている。
 親指の形に納得がいかないのか? 土踏まずにどうして土がつかないかお母さんに教えてもらわなかったのか? ああ、教えてもらわなかったよな。私もそうだ。
「待ってるのよ」彼女は言った。「ここから出られるのを」
「……?」ジズはますます混乱する。「いつ出られるの?」
「さぁ。今日か明日? 来月かな? それとももっと先か、もしかしたら一生ここから出られないかも。最悪、ミイラになってもこのまんま」
 するり。彼女は背中につけていた布を取り外す。翼隠衣デュラルケットと呼ばれる、翼につける下着のようなもの……言うなら、羽着はねぎだ。
 ジズもどきの背中には、檻の外のジズと同じ桃色の翼が生えていた。
 薔薇水晶ばらすいしょうで出来た、淡く耽美たんびな桃色の翼だ。こうして羽先も含めて見ると、檻の中のジズはますます焼き増しした写真のようだった。
 だが、決定的に違う。髪の向きとか、目の鋭さとか、そういう細かな違いはいっぱいあるが──ジズもどきは、片翼だ。
「産まれた時からこうよ」
 やらしげな含み笑いを浮かべて、ジズもどきは肩口を晒してみせた。私の顔でそんな恥じらいもへったくれもない仕草をするな。くそ。
「兄弟に持っていかれでもしたのかしら。檻とは違って、こっちは多分、この先ずうっとこのまんま。笑えないわよね。まるで天使になりそこなったみたい」
 卑屈でしみったれた言い草だ。表情に陰りが窺える。グランギニョールにおあつらえ向きの面構えに、ジズはますます業を煮やした。この女、そもそも出る気があるのだろうか。
 翼が片方しかない? だからなんだ、知ったことか。貴様が溺れている悲劇なんぞは、蜘蛛くもの子を散らしたみたいにこの世に散らばった水溜まりの一つでしかないのだ。宇宙にしたって誰かの涙から産まれたのだ。悲劇のヒロインなんてものはこの世に誰一人だっていやしない。
 そんなものは、自分だけがこの世で一等惨めかつ悲惨な人生を歩んでいるという、凡俗蒙昧ぼんぞくもうまい極まりない煮崩れた選民意識が生み出す錯覚に他ならないのだ。
「悲劇的なのは結構だけど」ジズは吐き捨てる。「あんた一人が悲劇的なわけじゃない」
「分かってるって。こんなの、どこにでもある話だし」
 これだ。この言い草だ。もの分かりのいい客観的な人間を装い、諦観ていかんしていると見せかけて達観を演出するための失笑……それと共に吐き出される言葉。腐っても考えるあしから出たとは到底思い難い、徒花あだばなにすらならぬ駄弁だべんだ。

 哀憫れんびんを誘うその台詞せりふの上には、差し伸べられる隣人の手を待ちかねたか、せわしなくこちらを見やる本性が浮かび上がっている……。ジズはこういう手合いの、悲劇を演じている役者──というよりは、悲劇を演じるのに熱心が過ぎる役者が嫌いだった。
 ああ、そうだ。私が嫌いなのはこういう奴だ。
 曇った悲劇をきつい香水のように匂わせている、救われようのない哀れな女。
「私、あんたが嫌い」
「そうなんだ」と、檻の中のジズ。「私は別に、あなたのこと嫌いじゃないけど」
「私をナルシストにしないで」
「そういうところが好き」
「やめて。胸やけがしてきた」
 比喩ではなかった。ただでさえケーキの蝋燭が胃の中を荒らし回っているのだ。自分の姿見すがたみからかけられる愛の言葉なんて、真に受けていたら心臓が幾つあっても足りない。
 檻の中の彼女は相変わらず目を合わせようとはしなかった。観衆など一人もいないから幕が開いていようが閉まっていようが関係ないのに、何故だか裸婦デッサンみたいなポーズを崩さない。
 なんだこいつは、ひょうろく玉か。マネキンみたいにコートに着られてショーウィンドウにでも並ぶつもりか。夢の中で言うのもおかしな話だが夢のようにおかしな話だ。
 そのうち彼女は桃色の羽根を手にとり、優しく精緻な手つきで手首に押し当てた。ちょうどジズが廊下で手首を切った時のように。
「ねえ」彼女は言う。「私、もう一つ待ってるものがあるのよ」
「興味ない」
「そうよね」檻の中のジズは目を伏せた。「あなた、そういう人間だものね」
「知ったようなこと言うな。聞くだけ聞いてあげる。なに?」
「なんだと思う?」
 羽根がゆっくりと血管を裂く。さっきも見た光景だ。黒いインクが溢れ出し、たちまち壇上から客席へと流れ始めた。波は怒涛の勢いで鎌首をもたげ、ホール中にごうごうと渦を巻く。水流に足を持っていかれそうになり、ジズは慌てて階段を駆け上がった。
「なにを待ってるの」ジズは問う。「そんな檻の中で、そうまでして何を待つの」
「分からない?」
「分かんないから聞いてんでしょ!」
「考えてみてよ」彼女はせせら笑った。「自分のことでしょ。私はあなたであなたは私よ」
「私とあんたはちが「違わないわ「一緒にしな「もともと一つだったのよ」「はあ……?」
 よく聞こえない。波がうるさい。それが理由であってほしい。
「あんたが二つに分けたのよ」
「私が?」
「そう」
「私を?」
「そうよ」
「あんた頭おかしいんじゃないの!」
 ずるり。地団太を踏もうとして足を踏み外し、ジズは仰向けにインクの海へ落ちる。流されまいと座席の淵に捕まり、ずぶ濡れのスカートの裾を引きずりながら更に上段を目指した。
「何言ってるか全然わっかんない!」ジズはあらん限りの声を張り上げた。「それ止めて!」
「あなたが何を待ってるのか教えてくれたらね」
「はあ? 何それ。私は何も待ってなんかない!」
「そんなはずないわ」そっぽを向くジズもどき。「教えないなら私も答えなーい」
「なにそれ、わけわかんない……!」
「教えてジズ。なにを待ってるの?」
「だから、何も待ってなんか……」
 洪水の音にまぎれて、二人から──彼女から滲み出る感情の粒子が、ぐちゃぐちゃになってせめぎ合った。覗き込んだ瞳の奥の中の自分が、また自分の方を覗き返している。自分自身に飲まれそうになる。
 私はジズ。私もジズ。ならジズは私? あなたはジズ? それなら私はあなたなの? つまりなんなの? もうわけわからんちん。
「……自由」
「自由?」
「そうだよ!」
 彼女は叫んだ。叫んでやった。洪水に負けぬよう、会場に余すところなく響くよう、とびきり大きな声を出した。心臓の奥の方から引きずり出した、心底大きな叫び声だった。
「自由になれる日だよ。私はそれを待ってる。いまの値札が外れる日を、薄暗い、ちっぽけな檻の中で、ずっと独りで待ってるんだよ。あんたに分かるの? 窓もベッドも鏡もない、ねずみがチョロつく檻の臭いが! かび臭くて、じめじめしてて、退屈で! 服さえ着てない。舞踏会なんか夢のまた夢で……」
 語気は荒く、言葉は鋭かった。自分の喉から出たものだとは、ジズには信じられなかった。あるべき自分がつむぐべきではない、いびつで危うい言葉だ。
 もう一人のジズは、また鼻で笑うように返す。
「だからドレスを?」
「なんか文句あるか!」
「だって」くすくす笑うもう一人のジズ。「似合ってないわ」
「知るもんか! 夢の中でぐらい好きにさせろ! あんただって似合ってない!」
「私は似合ってるわ。だって私、自分のこと嫌いじゃないもの」
「そっ……」ジズは言いよどむ。振り上げた拳が力なく落ちた。「私だって……」
「それだけ?」
「なにが……? さっきから何が言いたいの! わけわかんない! はっきり言え!」
「あなたが待ってるのは、本当にそれだけなの?」
 波がまた競り上がる。もう逃げ場がない。ここはまるでペンキ入れの中。獅子をかたどった彫刻も、象牙ぞうげの台座も、はたまたわしのレリーフが刻まれた巨大なオルゴールさえ、不出来な真っ黒いカンバスの一番奥に隠されてしまっている。誰かが思いつきだけで無理矢理に塗りつぶしたみたいだ。声だけが波を伝って頭の中に響いていたが、それが自分のものなのか、あるいは彼女のものなのか、もうだいぶ曖昧になってきた。
 なんだよ。言えばいいのか。言ったらそれで満足するのか。馬鹿馬鹿しい。
 誰にもなんにも言ってこなくて、今更自分に話しかけようだなんて──自分に話したいことなんて、今更、なにも……。
「私……」
 頼りなく喉を震わせる。やっとのことでひり出したのは、随分と弱気な声だった。
「あのね、私……」「うん」「私が、待ってるのはね……」「ゆっくりでいいよ」
 吐き気がジズを襲う。眩暈めまいがしてきた。違う、私はそんなこと言ってない。それはあなたの言葉。これは私の好きなもの。故郷は同じ。なら私はあなた? 私はジズで、ジズはあなた? そのうち、どっちがどっちのことを言ってるのか分からなくなってきて──
「……天使になれる日」
 どちらかのジズが言った。

「自分に値札が貼られる日」

 波が膨れ上がり、そして爆ぜる。わあ、と声を上げながら意識の濁流に飲み込まれ、ジズは手探りであがいた。
 真っ黒だ。何も見えない。こんなことならもっと明るい色にすればよかった。肺にインクが流れ込んできて、苦しみと共にハートが真っ黒に染まっていくのが分かる。
 ハートだけじゃない。きっと翼だって今頃は真っ黒だ。それもこれも、自分もどきが余計なことを喋るからだ。次に会ったらただじゃおかない。胃袋一杯にガムを突っ込んで破裂させてやる。そんな世界一スウィートな復讐劇にしたって、この窮地を脱せねば始まらないのに。
 あれでもないこれでもないと上着の色を選ぶように手を伸ばしていると、指先がむにゅりと妙な感覚に包まれる。この不埒な柔らかさをジズは知っていた。
 〝入り口〟だ。私を食べた、へたくそな絵画!
 ジズは泳ぎが不得手なほうだが、夢の中とあっては話が別だった。ごぼごぼとマシュマロの泡を吐きながらインクの海を進み、絵画に肩から先を勢いよく突っ込む──すると予想通りに〝入り口〟は彼女を飲み込んで、元きた回廊へと吐き出してくれた。

 

「……さいあく
 びたびたになった服の裾を絞りながら、咳と共にインクを吐き出す。長いこと体も動かしていなかったものだから、あちこちの筋肉がへばっていた。夢だというのに気が利かない。 
 振り返った先、名画〝指揮者不在の演奏会〟は真っ黒に塗り潰されている。手首から溢れたインクの所為せいだ。額縁の中にはただただ闇が渦巻いているだけだった。
 死んだか。あの女も。それならそれでいい。あんな奴、どんなに慎ましく生きていたって、でもでもだってと能書きを垂れるだけだ。
「……いち、じゅう、ひゃく、せん……」
 絵画の名札に引っさげられた、馬鹿みたいな数のゼロが並んだ値札。現実味の薄さに顔が引きつる。夢でよかったと心底思った。本当に塗り潰したらはりつけものの金額だ。
 値札。自由。値札が貼られる日を待っている。とんだロマンチストもあったものだ。
 あの時、どっちがそう口にしたのだろう。奴の方か。それとも自分の方だったのか。いや、どっちが言ったっておかしくはなかったんだ。そのぐらい、あいつは私だった。
 絵画に目をやる。まさに真実は闇の中。笑えない。夢にもユーモアが足りない。
 髪を絞って立ち上がった途端、絵画からインクが溢れてきた。それも、さっきの洪水の勢いそのままで。ブチ当たった向かい側の壁を真っ黒に染め上げ、容赦なく回廊を満たし始める。きっと絵画の中の演奏会場が満タンになってしまったのだ。
 指揮者は不在。観客はインク。満員御礼か。馬鹿馬鹿しい。
 ジズはもう引き笑いさえ浮かべながら、迫る洪水を背に一目散に外へと走り出した。というより、半ば押し出されていた。小振りな尻をいやらしい手つきで撫で回されていたが、まさかインク相手に恥らうわけにもいかない。
 〝本日閉館〟の看板を蹴っ飛ばすはずが、足が鎖に引っかかる。すっ転んだ、くそ。かまうか。今更下着の一つや二つがなんだ。ばっとスカートを押さえて立ち上がり、ジズは一目散に劇場を飛び出した。
 破竹の勢いで流れ出してきたインクは、蛇のようにうねりながら路地裏を染め上げて、道という道を満たしてゆく。ははあ大洪水とはこうやって起きたのか、などと感心する間もなく、ジズは再び波に追われる羽目になった。
 無我夢中──まさに、無我夢中だ。
 ずぶ濡れの服がぴったりと服に張り付いており、一歩風を切るごとに鳥肌が立つ。インクの蛇は衰勢すいせいきざしも見せずに彼女の後を追ってくる。ジズは半泣きになりながらひたすら走った。石段を駆け上がり、瑪瑙めのうの鎖をまたぎ、石灰の柱につまづきながら走り続けた。
 ジズは高台へと這い上がり、かさと音圧を増していくインクの波を見下ろし、そこでようやくこれが夢だということを思い出す。
 そうだった。これは夢なのだ。夢なら飛べる。翼がある。いくら蛇でも空まで逃げれば噛み付いてはこれまい。鼠と違って蛇に羽はないのだ。
 そうしてしばらく上へと飛んで、足のインクを振り払おうとしたところで異変に気付いた。
 前へ。後ろへ。動かない。右は駄目。左も? ふとももはまだ動く。膝は駄目。爪先なんて石にでもなったみたいにうんともすんとも言わない。
 膝から下の感覚が消えている。どうして? なんで? ジズは慌てた。慌てたが、混乱したまま急かされるほど愚図ではなかった。こっちはハート、こっちはダイヤ、クローバーは捨てて、スペードは手前へ……そうしてトランプを整理するように記憶のケツを蹴り上げ、自分が夢の中にいることをゆっくりと思い出し──それからようやく慌て始め、翼を大きくうねらせて空へと昇った。
 インクに沈んでいく巨石街と、とぐろを巻く黒い蛇。それらを見下ろし、ジズは勢いを上げて高みへと飛ぶ。真っ黒な巨石街がてのひらぐらいの大きさになるまで飛んだあたりで、自分の体を襲う異様な寒気と向き合うことにした。
 訪れるのは目覚めの時間。この寒気は、一つの前兆だ。
 夢だと理解している。死ぬのが怖いわけではない。
 そもそも死なない。片翼者メネラウスの寿命は二〇〇年だか五〇〇年だか……なんでもいい、とにかくそのぐらいあるから、イグナシア夜行快速に突っ込まれでもしない限りは、放っておいたって死にはしない。殺される以外に死はないのだ。ならば何を恐れるのか。
 夢が覚めるのが怖いのだ。気に入ったデザインのジャケットを羽織れて、しっかりと歯ごたえのある肉煮込みシュクレロが食べられて、なにより空が見えるこの夢。
 自らが少女であり、愛しさも優しさも満遍まんべんなく溢れていて、すべてのわがままがまかり通る……なに一つとして不自由のない夢から覚めることを、ジズはこの上なく恐れていた。
 今日に限った話ではない。いつも恐れる。いつも恐れている。夢が覚めてしまうぐらいなら、いっそ夢から出られなくなった方がいくらかマシだった。
 このままじゃだめだ。心臓がそう叫ぶ。言われなくたって分かっている。うるさいなと蹴り飛ばしてやりたいが、鼓動が止まってしまっては一大事だ。
 でたらめに空を駆け、遥か天上、そのまた上の方を目指した。
 何かがそこにある気がした。
 中天月マーニでも中天太陽ソーラでもない、もっと明るい何か。自分を変えてくれる何か。夢にすがらなければ満足に空も飛べない、檻に閉じ込められた鼠のような自分を変えてくれる何か。
 羽先が消え始める。早く、早く、早く! ジズは苛立つ。焦りと恐怖で涙が零れた。真横へ流れた涙は頬に軌跡を作り、そのまま風にさらわれる。思わず手を伸ばした。
 返して。まだ何か欲しいの。私から涙さえ奪おうっていうの。くしゃりと顔が歪んで、形の定まらない唇から情けない嗚咽おえつが漏れた。
 雲の向こうから手が伸びる。誰のものだ。構うものか。救ってくれるなら誰でもいい。ああそうとも。誰だっていい。男でも女でも子供でも老婆でも構わない。
 ジズは我武者羅がむしゃらに手を伸ばした。ジズも、向こう側の誰かも、ひたむきに手を伸ばした。
 一度掴めば夢のままでいられると思った。きっと相手もそうに違いない。夢から覚めてしまうことを恐れ、誰でもいいからと助けを求めている。
 ジズは手を伸ばした。ただ手を伸ばした。もはや祈りだった。天使に縋るみたいに、一途いちずに求めた。
 天使でなくてもいい。救ってくれたなら誰だって天使だ。あともう一息だ。お礼を言おう。その手をとって、どこでも望む場所に連れていってあげよう。
 たとえ、翼が片方しかなくたって。
「ジズ」
 ささやきは、たしかに彼女の名を呼んで──
 馬鹿だな。どうせ覚める夢なのに。救えもしないものに手を伸ばすな。期待してしまうじゃないか。どんなに光を浴びた気がしたって、目覚めたらまた暗がりだ。
 ああ、やはり。愛おしいな、言葉は。だけど、どうしようもなく恐ろしい。

 

 

   ◆

 

 

「……さいあく
 そう毒づいて──今度は現実で──ジズは膝を抱えた。
 涙で赤らんだ瞳に、夢の中のような輝きはもう見られなかった。ほっぺたなんか、なめくじの群れが這ったようだ。実際にじめじめした場所だし、湿気た彼女にはお似合いだった。
 どうにも眠気が後を引いていたが、二度寝して続きを見ようとは思わない。縋ったところで虚しくなるだけだと知っている。
 ジズはよく夢を見る。体質的なものかは知らぬ。ただ、近頃の悪夢は決まってこうだ。雲の綿菓子を掻き分けながら、救いを求めて空を飛ぶ夢。一生飛べない身である彼女にとっては、まどろみの階段を転げ落ちる瞬間が、屈辱以外の何物でもなかった。
 明晰夢めいせきむ……彼女にとっては唯一の自由、その結晶。それがいつしか悪夢に姿を変え、自分を雁字搦がんじがらめにして、ついに夢の中にまで居場所がなくなって……。彼女にはそれが耐え難い。
 天使になりそこなった気分はどうだと──そう言われているような気がするのだ。
 ジズはもうじき十七になる。はずだ。はっきり覚えてはいない。最初の内は一日ごとに壁に傷をつけていたが、ルチルの中みたいにごちゃごちゃしてきたので数えるのをやめた。
 三年から先はしかたなくだ。しかたなくで歳を取り、しかたなくで生きている。
 しかたなくで生きているだけだから、どんな悲劇の坩堝るつぼに飲まれたって……それこそしかたない。そう思うことにしている。
 ぱたた、と水音。暗がりの奥に、空鼠そらねずみがうろつくのが見えた。よせ。そんなに急いで走ったら蝋燭の火が消えてしまう。まるで私だ。
 陽の光を浴びなければ、人は腐る。体はもちろん魂までも。ただでさえここはカビ臭い檻の中なのに、煉瓦の壁は皮膚を傷めるほどにざらついており、汚水がしたたり冷え切った床にはすら敷かれていない。
 ジズは薄目を開けた。ちょろちょろとひげを遊ばせ、小振りな翼を揺らしながら空鼠がやって来る。ひどい臭いが鼻を突いたが、それが自分のものなのか鼠のものなのかは分からない。
 力なく。彼女は淡い桃色の翼で、ちりでも掃くみたいにして鼠を振り払ってやる。チィと小さな鳴き声を上げて、あんちきしょうは檻の隙間を抜けていった。
 鼠は、私に似ている──ジズはそう思う。
 この薄汚い地下での生活が、彼女を鼠に近づけた。奴とおなじだ。死の香りに鼻をくすぐられ、餌に近付いてくる鼠……そこに同情や共感はないが、救いの足しぐらいにはなった。
 人と鼠という違いを除けば、ある一点だけを除いて彼女達はほとんど同じだ。そのある一点というのも程度の問題で、白か黒かという決定的な違いなわけではない。
 翼が片方しかないのだ。どんな翼のある生き物だって、一枚だけということはない。普通は二枚揃えて産まれて来る。でなければ飛べない。翼を持っている意味がない。
 ところがこうして横たわっているジズは、右肩から生えている桃色それ一つしか翼を持っていなかった。千切られたわけではない。生まれつきそうだったのだ。
 夢で見た女。もう一人の私。あいつの姿は、私のものだ。だけど……だから、嫌いだ。
 天使……そう、差し詰め彼女は墜ちた天使だ。月並みで臭い例えだが、今のジズにはそのぐらいがお似合いだった。事実、臭いのだからしょうがない。
 片翼かたよくの天使などと言えば聞こえはいい。だが聞こえだけだ。天使の髪はこんな竹箒みたいにガサついてはいないし、目元も象の皮みたいに黒ずんでいたりはしない。
 幸いなのは、ここ天上宮てんじょうきゅうバベルにおいて、何故か食事だけは欠かされないことだけ。
 風呂は滅多になく、日を浴びることもないが、家畜の健康を──あくまで家畜としての──維持するという意味でも、食事は三食必ず出る。それでなくてもこんな不衛生な環境に放っておけば骨と皮だけになりそうなものだが、不思議とジズの体つきは人並みの肉付きを維持していた。
 獄中生活において健康は一つの立派な武器だ。心もそうだし、体もそう。気力をなくして横たわっていると、同じ姿勢が幾日も続く。
 運ばれてきた誰もがそうだ。最初の内は寝返りを打ってみたり檻の外に吠えてみたりするが、じきに出られないことを悟って泣きじゃくり、一日置いて発狂したかと思えば、ある日いきなり無言のまま檻の隙間から腕を伸ばし、爪が剥がれてもなお地面を掻きむしる。
 なるほど落書きがしたくともインクがないのだから自前の赤でやるしか方法はないのだが、それにしたってあまり楽しそうには見えない。でもって、楽しそうな奴はいなかった。
 ここから出て行って帰ってきた奴など一人も知らない。みんな、天使と一緒に天国へ散歩に行ったのだ。なぜ天使と一緒なのかなんて聞くまでもない。片翼だからだ。一人で飛んでいけるわけがない。
 飛べるものなら飛んでいきたかった。行き先が天国だってかまわない。ここよりはましだ。こんな薄暗いところに誰が好き好んで戻ってこようか。
 こんな────天上宮てんじょうきゅうバベルという、人生の牢獄などに、誰が……。

「起きたか、ジズ」青臭い声が響いた。「話の続きをしようぜ」

 軽薄で、飄々ひょうひょうとした抑揚だ。隙あらばこれだ。永眠していたほうがマシだった。
「うるさい」壁に吐き捨てるジズ。「お喋り男」
「おうとも俺はお喋りよ。どこまで話した? 鼠の尻尾を干物にして食ったら腹壊したってとこまでか?」
 声の主、その男──ジャスパーはけらけらと言う。ジズは答えない。
えてんねえ、シカトかよ」
 通路をへだてた右斜め前の檻に、そのお調子者は住んでいた。ジズがここに入るずっと前からだ。住んでいるというと自由意志でそうしたみたいに聞こえるが、本当のところは知らない。あまり牢獄生活に苦がなさそうなので、ジズは勝手にそう思っている。
「アンタさ」
 ジズは横たわったまま返事をする。毒気どくけ覇気はき薄味気味うすあじぎみで、あるのは気だるさだけだ。
「喋ってないと死んじゃうの?」
「生存確認だよ。黙ってたら、生きてんのか死んでんのかわかんねえだろ」
 溜息まじりに寝返りを打つジズ。檻の向こう、ジャスパーの体が目に入った。彼もまた一糸いっしまとわぬ姿だが、排泄音さえ隠しようのない閉鎖空間で長く過ごせば、今更恥じらいもへったくれもない。
 もう一度寝返りを打って、結局ジズの視線は鉱石の壁に戻ってきた。羞恥心ゆえではない。単に、ジャスパーの得意げな表情……持て余した筋骨を見せつけるような手柄顔てがらがおが気に入らないだけだった。
 ジズはしつこい男が嫌いだ。しつこい女はもっと嫌いで、だから自分のことはもっと嫌いなのだ。なのだが、ジャスパーのことはそれ以上に嫌いだった。なぜって、お喋りな男はもっともっと、この世で一等嫌いだからだ。
 ジズが思うに、こいつのお喋りはの一種だ。そういう星のもとに生まれたのだろう。口が塞がるタイミングなんて数えるほどしかない。寝ている時か、人の話を聞いている時だけ。だからジズは、頭では何も考えていなくても、どれだけ話が退屈でも、いい加減な相槌だけは打つようにしているし、自分のことを喋る時は極力ゆっくりと喋るようにしている。
 縫い目一つない親切のつもりだ。極力彼の舌が乾かないよう気を遣ってやっている。なんて親切でお人よしな私。そのたびジズはさっさと眠ってしまいたくなる。
「他に玩具おもちゃもねーし」またジャスパーだ。「発表会、するか? 俺は随分前に保母さんの背中で小便漏らしたぜ」
「死ね」
「死んでたまるかバカ」
 言っとくが、と……ブーメランみたいな前髪をかき上げるジャスパー。
「リハビリなんだぜ、これは。喉は筋肉と同じだ。使ってなけりゃ声の出し方を忘れちまう。人と話してなけりゃ、言葉だって出てこなくなるし……」
「それはあんたが脳味噌まで筋肉だからなんじゃない」
あだで返すなよ」
「恩着せがましいのがいけない」
 ジズは溜息をついた。出来るだけつやっぽく、綿毛でも吹き飛ばすようについてやった。こいつの話は大体ためにならないが、こいつと話していること自体はためになる。ムカつく奴だが嘘をつく奴ではない。それはジズにもなんとなく分かった。
「わかるだろ、ヒマなんだよ。昔話の一つでもしろって」
 ジャスパーはそう言いながら、一心不乱に腕立て伏せを続ける。
「真面目に言ってんだぜ、俺ぁ。思い出すってことは重要だ。思い出には言葉がついてくるもんなんだ。それに、感情。お前、人に殴られたことは?」
 ずっと昔の記憶を辿り、必死に思い出す──フリをして全自動お喋り機の沈黙を稼ぎ、ジズは細々ほそぼそと答えた。
「……あるよ。おかあさんが大事にしてた宝石箱、落としちゃって。アメジストとか、エメラルドとか、色々入ってたから」
たからだけに?」
「代わりにアンタがはたかれればよかったのに」
「趣味じゃねえな。その時どう思った?」
 ジャスパーはなく言う。自分から聞いたのに他人の話のおいしい部分にはまるで飛びつかない。あなたの番ですさっさとサイコロ振って下さい、はいそこ一回休み……そんな感じだった。いつもこうだ。ジズなりにサービスしたつもりだったのに。
「……どうって、痛かった」
「違う」なにが違うんだ、くそ。お前は試験官か。一々ムカつくやつ。「それはどう反応したかだ。体の問題であって心の問題じゃあない」
「……じゃあなんて答えれば満足なの? 悲しかったとか、ムカついたとか?」
「そうだ。それが正解」
 だったら最初から顔に答えを書いておけ。ジズは内心で毒づいた。
「だったら最初から顔に答え書いとけば」
 声に出てしまった。腹が立った時にはよくあることだ。ジャスパーが苦笑した。
「愛と優しさが足りねえな。ママのお腹に置いてきたか?」
「かもね。私を産んで死んじゃったから」
「そりゃ……」ジャスパーの声が勢いをなくす。「いや、すまねえ。俺が軽率だっ……」
 謝罪しかけて、ジャスパーはがばりと起き上がった。
「いや待て。そいつはおかしい。そんならさっきの宝箱の話は何なんだ」
「嘘に決まってるでしょ」
「どっちがだ」
「さぁね」
 ジズは答えをはぐらかす。どうせジャスパーだってまともな返答を期待しているわけではない。正気を失わぬ為の儀式でしかないから。
 可愛くねえやつ、と上体起こしで腹筋をいじめる体勢に入り、ジャスパーは話を続行した。
「愛が足りないぜ。ちょっとは俺に感謝してくれてもいいんじゃねえのか」
「はあ?」肋骨ろっこつに響くぐらい重い声だった。「なんで」
「ワケわかんねえまま牢屋にブチ込まれて、そこにいるのが自分一人だったらどうする? 飯はまずいし灯りはねえ。身包みぐるみ剥がれて荷物もねえ。いつも使ってる歯ブラシすらねえときた」
「悲惨だね」
「イケてる自己分析だよ」
 茶化すだけ茶化して肩甲骨を鳴らし、ジャスパーはまた続けた。
「出られる保障なんざどこにもねえ。生きてられるかも分からねえ。おまけに俺たちゃ、クソありがてえことに寿命だけはクソ長え。一〇〇年か、二〇〇年か、あるいはもっとか?
 そんな気が遠くなりそうな時間を、この真っ暗な中、一人ぼっちで過ごすんだ。親も友達も兄弟もいねえ。誰もいねえんだ。誰もな」
「……」
「そんな陰気な一人暮らしするぐらいなら、俺を養護施設にブチ込んだ学校の教師……ああそう、俺のことを〝頭のイカれた豚のクソ〟呼ばわりしやがった豚のクソだ! あいつと一緒にここにいた方がまだマシだ。猛禽もうきんから羽と爪とくちばし取ったような奴だよ。
 畜生め、なんだって俺がこんなしみったれた場所に、あーあーマーヴェラスだよ! 最高に絶頂不可避マーヴェラスだ。ジャカロプ・ジャカロプ・バンバンザイってか」
 一思いに言い切って起き上がり、ジャスパーは肩で息をする。小休止だ。どうせまたすぐに動き出す。お喋りマシーンはまだまだ働き盛りなのだ。再び寄ってきた空鼠に指先を遊ばせながら、ジズは次の言葉を待った。
「くそたれが。思い出したらはらわた煮えくり返ってきたぜ」
 陰口だった。とうぶんボケる心配はないらしい。将来安泰だ。
「それで、結局どこまで話したんだよ」羊一匹分のいとまも与えず言うジャスパー。「抜け出そうとして半殺しにされたところまでは、話した覚えが……」
「それはもう三回聞いた」
「んじゃ三回半殺しにされたんだ」
「マゾヒストなの」
「その方が生きやすい」
 大した心がけだ。ジズには一生なれそうにもない。その趣味もないので答えてやる。
「あのムカつくまゆなしが、のつく変態だってところまで」
「それだ」
 ぺちん、とジャスパーが壁を叩いて、鉄格子てつごうしの隙間から顔を覗かせる。左肩に生えたみどり色の翼……その羽毛が怒りに逆立っていた。
「信じられるか。あの野郎、俺に向かってなんて言いやがったと思う?」
「知らない」
「おい、せめて俺の方向けよ。いい加減お前のケツも見飽きた」
さいあく……」
「ならこっちを向け」
「絶対イヤ」
「真面目に言ってんだ。人と話してるときは相手の目を見ろ」
「なんでそんな……」
「後で困るぜ」
 ジズは寝返りを打った。反射的にだ。
「いい加減なこと言わないで。後って、なに? 後なんかない。ここでおしまいじゃん」
「なら一生終わってろ。俺は終わるつもりなんかない」
「信じらんない。三回も半殺しにされてまだ懲りてないの。一回目で二分の一、二回目で……えっと、二分の一の二分の一で……」指折り数える。ジズは算数が苦手だ。「つまり……」
八分の一エル・ネイツェンだ」
「そう、それ。あんた、もう八分の一しか生きてないじゃん」
「じゃ次で十六分の一だな」
 ジャスパーの煤けた褐色肌が、冗談っぽい微笑みにくしゃりとゆがむ。なんだか馬鹿らしくなってきて、ジズはその場にあぐらをかいた。
「もういいよ。好きにすれば。どうせ出られないんだし……」
「もういいとか、やめろよ、そういうの。出られる出られないは俺が考えることで……」頭をかきむしるジャスパー。「ああくそ、どこまで喋ったか忘れちまった」
まゆなし管理官かんりかんになんて言われたかでしょ」
「そう、それだ。なんだと思う?」
 ジズは記憶を掘り起こす。遠い昔の話なのに、つい五分前のことのようだ。あの言葉はいつも私の心へと遅れてやってくる。終わった星の輝きだ。
「天使に」しぶしぶ答えるジズ。「〝天使になりそこなった気分はどうだ〟」
「なんだよ、お前も言われたのか」
 話の王手を先に取られて、ジャスパーはぶっきらぼうに頬杖をつく。
「これだから口ひげ生やしてる奴ぁいけすかねえんだ。軟派なんぱな野郎め。どうせどの女にも似たようなこと言ってるに決まってる」
 〝天使になりそこなった〟──その言葉の意味するところは、ジズらの翼を見れば一目瞭然だった。本来一対あるべきものが一つしかない……そういう呪いだ。
「それで、なんで管理官サマが変態伯爵になるの」
「そうか、それがあった。よくぞ聞いてくれた」
 喋りどころを取り戻したか、ジャスパーは勢いよく顔をあげた。
「女がいたのさ。お前と同じぐらいの歳の、髪がもじゃっとした……片翼者メネラウスだ。羽着はねぎをつけてやがったから翼の色は見えなかったが、ありゃお抱えだぜ。間違いない」
「片翼なのに、お抱え?」
夜伽よとぎの相手ってところだろ。どうやって取り入ったか知らねえが、いい手ではあるよな」
「いい手?」失笑するジズ。「相手の好きな時に呼び出されて、言われたこと全部に首を縦に振って、あの眉なし野郎に羽の割れ目までさらけ出すのが? 愛玩動物と変わらない。そんなのまるで──」ジズは幼い唇を噛む。「奴隷じゃん」
「使うな、そんな言葉。煤ばんじまう」
 首を遊ばせながら、ジャスパーは鬱々とした表情で肩を落とした。
「んなこと言ったら俺たちはどうなる? 飯食って、寝て、売られるのを待つだけだぞ。風船越しに管理官サマをあっためた女が愛玩動物なら、寝て起きて飯食ってクソ垂れてを繰り返してる俺たちはなんだ? 殺処分待ちの型落ち品か?」
「それは……」
殺鼠剤さっそざいでも使うかって話。愛玩動物ですらねえんだぜ、俺たちは」
 乾いた声だ。何の感情も込められていない、ただ吐き出す為だけに吐き出した言葉。そのどうしようもない無機質さに、ジズはまた寝返りを打って口を閉じた。
 言い返すことなどないし、そのつもりもない。彼の言うことはいつも正論だ。だから嫌いだし、だから響く。ジャスパーもそれを悟り、再びもくして上体起こしに没頭し始めた。
「……」
 こそばゆい感覚が指先に走った。空鼠だ。チィチィと鳴いては鼻先をジズの指に押し当て、頭を撫でろと催促してくる。言いようのない切なさがジズを襲った。
 鼠以下だ。今まさに噛み締めている惨めさは、鼠以下の人生の味なのだ。
 彼女らに与えられた自由なる領域は、棺桶みたいなこの檻の中だけであって、それは空鼠そらねずみが我が物顔で闊歩かっぽできるであろう面積より遥かに小さい。おまけにこの鼠はしっかりと翼を一対持っており、生まれながらにして小さき天空の覇者を約束されている。薄汚い煉瓦の床を歩き回らなくたって、その気になれば檻を飛び出して廊下の窓からでも飛んでゆけるのだ。
 空鼠は相変わらずチィチィと鳴いている。哀れんでるつもりか、畜生め。ジズは指で鼻先を弾いてやった。鼠はそのたび大袈裟おおげさに走り回って、しばらくすると警戒の素振りを見せながらゆっくり近付いてくる。懲りない奴。
「何回来たって餌はあげらんないよ」
 呟きの意味を知ってか知らずか、またもや鼠はチィと鳴く。物好きめ。それとも自分が餌に成り下がるのを待っているのか……ジズは邪推しながらも、そっと鼠に触れた。
 随分とやせ細っている。背骨も肋骨も軽く触れれば形が分かるほど浮き上がっていて、これでは標本が皮だけ被っているのと変わらない。けれど、少し膨らんだお腹に指先を当てると、温もりにあわせて足早な鼓動が伝わってくる。
 ていだ。だが生きている。ジズも鼠も生きている。しゃくだがジャスパーも生きている。このお喋り野郎に至っては上体起こしに明け暮れている始末だ。野性がそうさせるのだろうか……ともすれば、鼠よりも路地裏におあつらえ向きなのではないか。
 塞ぎこむよりはましだ。隣の檻で夜通しすすり泣かれたり、あるいはどこかの雌猫よろしくがな淫売いんばい戯言ざれごとわめき散らされるよりはよほどいい。
 空鼠もジズも恒温動物だが、ホメオスタシスは心の温度まで面倒を見てはくれない。結局はベビーシッターと赤子を兼ねる羽目になるのだから、心身は自分の支配下に置くべきだ。
 だが、ここでは。天上宮てんじょうきゅうバベルにおいては、身体はおろか、心さえ……。
「……殺処分……」
 よくよく見れば鼠の翼はいびつな形をしていた。片方の付け根の辺りがただれており、うっすらと毛も剥げて皮膚が覗いている。どこかでったのだろう。もう片方の羽はまだ小さく動いているが、傷付いた方の羽はだらしなく垂れ下がっていた。
 皮肉なものだ。寄って来る鼠まで片翼だとは。どうにも陰気は陰気を呼ぶらしい。
「……チィチィ」
 鳴き真似をしてみる。これが自分でもびっくりするほど似ていないものだから、ジズは小さく笑いを漏らした。鼠はジズの顔を見上げまた小さくチィと鳴く。
「チィちゃん」
 チィ。小さい声だ。歳も分からない。かまうものか。私も似たようなものなのだ。
「お前は今日から、チィちゃんだ」

 

 

 

 ハロー、アルザル。私は鼠。一生寝たきりの哀れな鼠。
 いっそお前が人だったなら、互いに抱き合って飛べたのだろうか?