第一羽「石の羽」

 

 

 

 想像する。暗闇の中、ひとりぼっち。膝を抱く。自分をために。
 私はねずみ。哀れな鼠。天使になりそこなった鼠。いっそ本当に鼠ほど小柄だったのなら、翼を畳んで檻の隙間からでも這い出てみせるのに。
 暗闇がとなってはじけ、いつもの檻へと形を変えた。それでこその明晰夢めいせきむだ。私は鼠でここは天上宮てんじょうきゅう。囚われの身なれど、この小柄なら、あるいは……。
 鼠となったジズは、檻の隙間をすり抜けた。
 眠りこけている警邏の足元をくぐり、曲がり角を一目散に駆け出し、そして──そして、どうする? どうすればいい? 右も左も分からない。自分一人じゃどうにもならない。
 これが夢だとジズは理解している。自覚があれば夢は自由に創造できる。できるはずなのに、ジズはどちらに向かうでもなく立ち尽くしていた。
 区別してしまっている。自分に出来ることと出来ないことを。きっと、無意識の深奥しんおうにある名もない場所で。
 相変わらず待っている。ただじっと待っている。夢中におけるこういう自分の姿も、現実の自分を表すキーワードの一つだ。目につくシンボル一つ一つがいちいち説教臭い。
 私は……待っている。じいっと、ずうっと……いつまでも。

「……」

 なんだか無力感に襲われて、ジズは鼠でいることをやめた。ぽん、と綿菓子の雲が弾けて、いつものジズへと元通りだ。
 彼女は頭をひねった。鼠の姿をやめたはいいが、目の前の階段を登る気にはならない。
 もしも誰かに見つかったら? 責められて、逃げて、おしおきを受けて、痛い思いを味わうだけ味わって、また檻へ逆戻り……そんな寝覚めの悪い夢にするのはごめんだ。
 以前に見た劇場を思い出し、羽根を一枚引き抜いて鉱石に変え、手首に押し当てる。どうせ右も左も分からないなら、いちばちか、インクで大洪水を起こして外へと流し出され……そんな夢ならではの極端な賭けにも勝ちの目はあるのではないか──
 ジズは手首に刃先を食い込ませ、青筋に沿って縦方向に皮膚を裂いてみるが、溢れ出てきたのは生暖かい血液だけだ。不思議に思って何度試してみても、いつもなら感じないはずの痛みが押し寄せるばかりで、その度に小さなあえぎが口をついて出てくる。

「なんでっ……どうして……」

 ジズは混乱する。すぐ混乱するのはいつものことだが、今日は殊更ことさらにそうだ。昨日の悪夢の二の舞になってしまうような気がして、ざっかざっかと必死で手首を切り刻む。
 されど増えるのは傷痕と痛みばかり、覗くのはズタズタになったマシュマロの筋繊維ばかりで、全てを洗い流す黒いインクは一向に顔を出さなかった。
 紅い横線が十七に達したあたりでジズは手を止めた。ちょうど私は十七歳。はん、傑作だ。これじゃまるで、誕生日のたびに死にたくなってる人みたいじゃないか。
 彼女が失笑するのと同じくして、誰かが彼女の手を握る。後ろから手を伸ばし、彼女の手の甲に合わせて静かに重ねる。ジズは背中に誰かが寄りかかるのを感じた。

 

「振り向かないで」

 

 女の声だ。少し幼い。耳元で囁き、背後の彼女はもう片方の手をジズの手首へと持っていった。手品みたいに、傷口がすっぽりとマシュマロに包まれる。

「自分を傷つけてはだめ」と、女。

 悲しげな女だ。陰がある。声だけでそう感じた。説教臭い夢ばっかりだったから、そのさとすような言い草が、ジズの耳には甘く聞こえてしまう。

「逃れる為に自分を傷つけるのは、一番救われない誤魔化しなのよ」

 前言撤回。やっぱり説教臭い。

「あんた誰?」振り向かぬまま、ジズは言い返す。「人の夢に入ってこないで」
「だって、苦しそうだったんだもの」
「そういうのを余計なお世話っていうんだ」
「まあ、そうねえ。慈悲っていうのは、雨が降るように与えられなきゃだし」
「はあ?」
「〝ヴェニスの商人〟よ。知らない?」
「知らない」ジズは顔を伏せた。「さっさと消えて、インテリ女」

 言葉を吐く。やじりのような言葉を。それは病だ。極めて重篤な、彼女の深奥を迷宮たらしめている……背中についた瞳の病。

「旧時代の本なの」女の調子は変わらなかった。「それも、すっごく昔の本よ」
「はん。その本ってのは」ジズは言ってやった。「洪水で濡れても読めるわけ?」
「乾かして読むのよ」
「髪でも乾かしてろ」
「だって、石に彫るわけにはいかないじゃない。大変な量なのよ。疲れちゃう」
「合理的でしょ。洪水で全部流されるんだから、石に彫った方がよっぽど後に残る」
「それは……昔の人に言って。私、物書きじゃあないもの」

 困ったように言う女。溜息がジズの髪を揺らす。背中に彼女の息遣いを乗せたまま、ジズは振り返るのも億劫おっくうに「あのさあ」と、続けた。

「しつこいんだけど。出てって。私が自由でいられるのは、夢の中だけなんだから」
「知ってるわ」

 何を知ってるんだ。くそ。またジズは苛立いらだつ。

「夢の中は居心地がいいものね」
「……そうだよ」
「どうして?」

 誰がお前なんかに教えてやるものか、次同じことを問うたら蹴り出してやる──ジズはそう心に決めて口を硬く閉じる。
 何者にも見せてはならない。自分の本性を吐き出してはならない。弱みは見せれば見せただけ人を弱くするのだ。自分相手でさえそうなのに。

「話してみて」

 ところが女は引き下がらない。不思議な声色だ。自分の中にすっと入ってきて、喉の途中にあるつっかえ棒を外していく。しまいにはきゅっと結んでいた口が栓を緩めはじめ、気付けば言葉が勝手に「それは……」ジズの口をついていた。
 ああくそ。私の馬鹿。鼠のようにちょろい女。それとも、この女の柔らかさ……私が妬んでしまうものが、そうさせるのか。

「……天使でいられるから」
「天使?」女は問う。
「……あんたさ、私の背中見て気付かないの?」

 ジズは項垂うなだれた。ゆるしをうようにしてこうべを垂れた。左肩の翼の桃色が石灰のようにぼろぼろと零れ落ち、小さな結晶となって床に散らばる。後ろ手にそいつを拾って手桶ておけの中でしゃかしゃかと振り、綿菓子にしてから口へ運んだ。

「羽。生まれつき片方しかないの。おかげでずっと檻の中。二枚揃うのは夢の中だけ」

 桃色を噛む。色に反してやけに苦かった。なるほどこれが説教の味か。星ひとつ。

「あんたさあ」投げやりに言うジズ。「かがみ見たことある?」
「鏡?」首をかしげるのがわかった。「どうして?」
「小さい頃に見て、それっきり。ショックだった。みんな翼がちゃんと両肩に生えてるのに、私だけ右片方。だから鏡は見ない。見るのが怖い」
「……」
「天使のなりそこない、だってさ。みんな私にそう言ってくる。産まれてからずうっと。実際その通り。羽は飛ぶ為にあるものなのに、片方しかない挙句に石で出来てるなんて」

 膝を抱えてジズは言った。

「性格のいい神様」
「……卑屈になってはだめよ」

 だめ。だめよ。いけません。またそれか。はらわたが煮えくり返る。いい《肉煮込みシュクレロが作れそうだ。女はジズの気分などどこ吹く風で、そっと翼に触れて言葉を繋ぐ。

「きっとあなたは、自分の姿をちゃんと見たことがないんだわ」
「……」
「綺麗な羽根」女はジズに触れる。「薔薇水晶ローズクォーツの桃色の羽根。優しさと、愛の色よ」
「さわんないで」
 ジズは女の手を跳ねのける。手首の骨がぶつかった。少し、痛い。
 優しさ。優しさと愛。腹がよじれて死んでしまう。そうして一度爆発し、クッキーの破片となって飛び散り実際に死んだあとで、膨れ上がったマシュマロから復活したジズは鼻で笑ってやった。鼠みたいに、下賎げせんで厚かましく笑ってやった。
 笑え。これが私の本性だ。いつでも自分が嫌になる。

「優しさとか、愛とか」服の袖を握るジズ。「かゆいんだけど。天使にでもなったつもり?」
「いいえ。私はなれないわ。でもあなたは天使よ」
「知ったようなこと言わないで。私のことなんか何も知らないくせに」
「知ってるわ」またそれだ。この女の口癖らしい。「あなたを知ってる」

 それきり女は何も言わない。ジズは唇の震えに耐える。人の気も知らずに漏れ出そうとする泣き声に歯を食い縛る。かけられたいつくしみと己の惨めさが、彼女の喉を震わせた。
 ムカつく女。声までムカつく。声だけで私の卑屈さを補ってあまりある。そんな風に思ってしまう自分がますます嫌いになる。
 肩の震えはきっと彼女にも伝わっている。泣いているとバレている。なのに何も言わない。まさしく雨が大地を潤すように、ただ彼女は涙をうながす。
 てんの、御使みつかいみたいに。

「あなたは人を愛せる人よ。だからね、ジズ。きっと、自分のことも愛せるわ」
「ッだからっ!」叫ぶ。唾を撒く。それは毒だ。「私の何を知ってるんだよ!」

 思わず振り返るジズ。気付けばそこは大広間だ。大理石で出来た、華美でだだっ広い部屋の真ん中、ぽつんと彼女だけが座っている。声はただ虚しく反響した。
 足元で何かが閃いて、思わず瞳が縫い付けられる。ちょうど彼女がいたところに落ちていたそれを拾い上げ、握り締め、もう一度開いてみて、ジズはぱちくりと目を見開いた。
 鍵だ。
 檻の、鍵だった。

「これっ……」
「あなたを知ってるわ、ジズ」

 踊り場、大鏡おおかがみの中。ねじれた髪の無垢なる女。その背に二枚の羽を見た。
 残酷なまでに美を語る、水晶のように透き通った翼を。

「あなたが優しい人だってこと、私、知ってるの」

 それだけ言い残し、ざらめになって彼女は消えた。綿菓子になるでもなく結晶となって散り、ただただ弾けて消えてしまった。
 残ったのは、ジズと……彼女に付きまとう全て。声を荒げた後悔と、自己嫌悪と、その後に訪れた沈黙がもたらす馬鹿馬鹿しさと……夢と、鍵と、まぼろし。

「……誰?」ざらめの欠片と鍵を見つめて、ジズは呟く。「あんた、誰だったの」

 優しい声だった。慈しみと哀れみと愛に満ち溢れた、穢れを知らない少女の声。
 この鍵はなんだ。なぜ与えた。救おうとでもいうのか。ならばなぜ姿を消した。天使にでもなったつもりか。
 ああそうだ。天使みたいな女だった。私とまるで正反対の。
 これで満足か、クソったれ。

 

 

   ◆

 

 

 鼻先をくすぐられて目が覚めた。に似た繊細な感触だ。

(……天使……)

 徐々に意識がまどろみから覚める。履き古しの下着みたいな臭いが鼻孔を刺激した。たまらず眉をひそめると、臭いの出所でどころ──顔に乗っていた何かが首元へと下り、双丘そうきゅうに挟まれた谷間へとすっぽりと収まる。
 空鼠そらねずみだ。彼か彼女か知らないが、いわく、その名はチィちゃん。
 そっと翼を撫でてやって、ジズは目を伏せた。

 〝────きっとあなたは、自分の姿をちゃんと見たことがないんだわ〟

「……だったら鏡でも置いてけばいいのに」

 ジズは苦笑する。夢は夢だ。結局、誰も私を救ってくれたりはしない。なぜってそりゃあ、私だって誰も救ったりしないからだ。どうせ私はとらわれの鼠で、殺処分待ちの型落ち品。
 なりそこないの出来そこないで、誰も私のことなんて……。

「え……」ジズは飛び起きる。「え?」

 いやに冷たい胸元を見ると、谷間に鍵が挟まっている。
 鍵。鍵だ! さっきの鍵! ジズは頬をつねる。ついでに耳たぶと内股もつねる。じんわり痛くなってくるだけで、夢から覚める様子はなかった。
「……うそ……」
 指が震える。夢じゃない。少なくとも、この鍵は。
 チィちゃんが小首を傾げてジズを見上げる。彼女も鼠の目を覗いてやった。鼠以上に、瞳に映った自分の方が間抜けな顔をしていた。
 向かいの檻に目をやる。ジャスパーが寝返りを打った。眠っているのだろうか、肝心な時にこっちを見やがらない。

 〝────なら一生終わってろ。俺は終わるつもりなんかない〟

「……」

 通路の奥に男が一人。見張り番の警邏けいらだ。ということは、深夜か。手元には鍵。託すならばジャスパーのあの言葉にだ。朝になれば給餌官きゅうじかんが来るだろう。
 ──今しかない。やるなら、今しか。
 ジズはチィちゃんを肩に乗せたまま立ち上がる。立ち上がらずにはいられなかった。もちろん上手くは立ち上がれなくて、そのうち頭もくらくらしてきて、やっぱりもう一度横になる。ジャスパーの檻に目をやり、次に左方向、出口の方を向いて立っている警邏を一瞥いちべつした。
 十歩、十一歩。走れば三秒……いや駄目だ。私はきっと転ぶ。というかそもそも立てない。 ジャスパーなら、あるいは。
 腰の筋肉が固い。ジャスパーの言う通りだ、もっとほぐしておけばよかった。いざって時が明日だなんて誰が信じられよう。昨日の自分に言っても鼻で笑われたに違いない。

「……ジャスパー」

 小さく名を呼ぶ。かすれた声だ。自分でもびっくりするほど色っぽい声だった。思えば初めて名を呼んだ気がしたが、どうせ最初で最後だから関係ない。
 彼の方から返事はなかった。で、あれば、この小指ほどの大きさの希望を託すのは、一人ならざる一匹しかいないというわけである。

(できる?)小声でチィちゃんに話しかけるジズ。(これ、あいつに渡して)

 チィ、と頼りない返事が返ってきた。
 やれやれ手のかかるお嬢さんだ、仕方ねーな一丁やってやりますかと、そういう調子でチィちゃんは柵の隙間をすり抜け、ジズの体二つほど先にあるジャスパーの檻へと駆ける。警邏が一瞬目をやるが、鼠だと分かると再び視線を外した。
 手に汗を握るのはいつぶりだろうか。ジズはぺろりと指を舐めてみる。床石の名残であろう砂屑が舌先にざらつく。唇を引き締めて唾液を滲ませると、口一杯に塩の味が広がった。垢と煤も混じっていていささか輪郭がぼやけてはいるが、いい。せいは確かめた。
 寝返りを打つ音がする。チィちゃんがチィと名をあげた。ジャスパーはどうだ? こちらを見ているだろうか。まさかこのに及んで眠りこけているわけはあるまい。
 振り向かぬまま、ジャスパーが手を上げた。
 一瞬……ほんの一瞬だけ綺羅きらと光った自由の象徴──檻の鍵が彼の手に渡ったのを、ジズは見逃さない。なんだ、全部見ていやがったのか。たかぶりと共に背中の翼が小さく疼いた。
 ジャスパーは笑っている。見えてはいないがそう信じる。私も笑っているから。
 警邏の醜悪な横顔も見納めだ。二度とここには戻らない。戻ってなるものか。たとえそれが運命だと呼ばれても戻りはしない。そんなものが運命であってなるものか。己の心も手も足も、全て自分のものでなければならないのだ。
 覚悟しろ、ゴブリン崩れの三下め。お前などは知りもしまい。片翼かたよくというあらががたき生まれ、それただ一つで裸身の動物へと成り下がり、その青き春のおおよそ全て──囚われるより前に過ごした明るみの残る時分も含め──だいたい十七もの一年ひととせを、むしばまれた者の気持ちなど。
 ジズは笑う。ゆがんだ笑みだ。それでいい。それでよかった。
 取り返すのだ。奪われた少女時代を。己のこれからを。
 天上宮てんじょうきゅうバベル。覚えておけ。二度とここには戻らない。

「いってえ、この鼠!」火蓋は切って落とされた。「なにしやがるクソったれ!」

 ジャスパーが大声を上げる。普段の軽口と何ら変わらぬ調子でやるものだから、おかしくてたまらない。

「ゼブラ」警邏の男が鋭く言う。「黙れ。いま何時だと思ってる」
「だったら時計の一つでも置いとけ! つーか、この鼠をなんとかしろって……いってぇこのクソチビ、また噛みやがった!」
「騒ぐな! これだからまともな教育を受けてねえ奴らは……」

 鼠を怒鳴りつけるみたいに言って、警邏は重い腰を上げた。手元に長槍。横柄おうへいせまってくるさまには欠片かけらも品格が感じられない。
 ジズは押し黙る。じっとジャスパーを見る。三文芝居を続けてはいるが、顔は狩人かりゅうどそのものだ。薄汚れてしなびた鼠の目つきではない。失敗が許されないことぐらい、いくらお喋りで頭が空っぽな彼だろうと理解している。目がそう言っている。
 二歩、三歩。踏み出された警邏のかかとが床を打つたび、心臓が飛び出しそうになる。
 ジャスパーがそっと鍵を差し込んだ。
 扉か門か。叩くのはどっちだ。今更どっちだっていい。ジズは失笑した。天国だろうが地獄だろうが出口に変わりはない。
 ここから出られるのなら、重んじるべきはそれだけだ。

「チッ」薄闇の中、チィちゃんを見るなり警邏は呆れた。「たかだか鼠ごときで……」

 勝負だ。扉を蹴り付けるジャスパー。ごわん、と銅鑼どらを鳴らしたみたいな音がして、警邏がジズの檻へと叩きつけられる。

「こいつ……!」

 槍を構える警邏。一瞬早くジャスパーが飛び出た。腹部に一発。背後に回って、彼は呼吸しあぐねた警邏の首筋を締め上げた。運動は欠かさずしておくものだ。ようやく説得力がついてきた気がする。
 警邏の喉から掠れた声が漏れた。言葉のていを成していない。ジャスパーはじっくりと拘束を強める。いい表情だ。ワインのコルクを抜いているようだった。

「か、鍵……!」警邏が言葉を絞り出す。「なんでッ……鍵は、フェーミュイがっ……」
「知らねぇよ、誰だそれ。まあ誰だっていい、バカタレに違いねえ」
「馬鹿が、飛べもしないのに……! 警邏が……全部で、何人いるとっ……思ってんだ……」

 正論だった。品性に欠けるわりに言い分は正しい。意外と利口なのだろう。知識もそこそこあるに違いない。鼠が綺麗好きだということもきっと知っている。
 だが、ここにいる鼠たちは違う。腐っても類だ。まだ歯は立てられる。
 チィちゃんが服の上から警邏の足を噛む。こいつも正論は嫌いらしい。ジャスパーが苦笑して、僅かに腕を緩めた。

「か、考え直せ……」
「俺たちは散々考え直した」また拘束を強めるジャスパー。「おたくの番だぜ」
「ま、待て……」蒼白だ。千切れそうな吐息だった。「ゆるめろ……」
「理解したか?」 

 ひたいに脂汗をにじませながら、警邏は言葉を引きずり出す。ジズはただ見守った。

「お、俺が……」と、男。「管理官に口利きしてやる……今ならまだ懲罰房行きで済む……。闇雲に探して見つかるような出口じゃない。そもそも、出たところでどうしようも……」
「ここだって懲罰房みてえなもんさ」ジャスパーの声が低くなる。「選ぶのは俺たちだ」
「お前たちは理解してない……!」
「賭けるか?」

 再び締め上げられた喉の奥、喘息にかかったような息遣いにあわせて哄笑こうしょうが漏れた。薄く、かすんだ吐息だ。似ている。この天上を彩る綿雲に。

「こ、ここは……ここはな、天上宮バベルだぞ、アトラス一等区の最高層だ……。空を飛べなきゃ巨石街きょせきがいにすら辿りつけない。飛び降りたが最後、二〇分かけて地上に真っ逆さまだ。片方しか翼がないってのに、どうやって生き残るつもりだ……?」
「……」
「考え直せ……。幸運だけで抜けられるほど、魔気流まきるは甘くない……」

 ジャスパーの瞳が動く。通路へ、檻へ、灯りへ、ジズへ……そして、元の鞘へ。

「悪いな、こう見えて頑固なんだ」ジャスパーが言った。「俺の石は幸運を呼ぶ」
「……運が常にお前の味方とは限らん。考え直せ」
「一理あるな。おかげでこのザマだったわけだし、運は俺を裏切るかもしれん」
「だろ……」
「だが俺は運を裏切らん」

 ぐこり、と不気味な音。ひっくり返ったしかばねの顎が天井をあおぐ。ジズはたまらず目をそむけた。床に転がったランタンのが、色味を失った目に反射している。
 ジャスパーは、一仕事終えたという様子で警邏の死体を……続いてふところから飛び出たであろう鍵束を順番に見やり、あてつけがてらに首をばきばきと鳴らした。

「まともな教育を受けるべきだったな」

 背中から生えた深緑の翼をぐっと伸ばし、それから大きく伸びをして、ジャスパーは死体のまぶたを下ろしてやる。

「……」ジズは死を見た。死を見て言う。「……なにも、殺さなくたって……」

 彼女の言葉にジャスパーは目を丸くし、それから呆れた様子で言った。

「お優しいこって」
「ふざけないで」
「ふざけてんのはお前だろ」

 ジズの眼前で鍵をひけらかしてジャスパーは笑った。餌をおあずけするみたいにいやらしく、見せびらかすように左右へと振る。
 本当なら腹を立てて睨みつけてやるところなのだが、今、ジズにとって目障りなのは鍵ではなかった。裸身ゆえに眼前でひけらかされている、なんとも見苦しい男の象徴の方だ。
 もちろんのことジズはその生涯において、鏡と同様その姿を見たことがなかった。
 神の精緻せいちなる遊びここに極まれりという、奇怪きっかい不埒ふらちな怪物の姿を。

「……前、隠して」と、ジズ。
「俺がこのまま抜け駆けしたら、お前一体どうするつもりだ?」
「隠してよ前」
「いつ裏切るとも知れねえ赤の他人に鍵を渡す馬鹿がどこにいる? 渡すにしたって、自分が先に檻を出てから渡すべきだ。ちょっとは頭を使え」
「そんなの私に出来るわけないでしょ。分かったから前隠してって!」
「いいか。他人を信用するな。最後の最後にあてになるのなんて結局は自分だけなんだ。そいつでさえ十回に一回は裏切る」
「隠せよ前をぉ!」
「聞こえねえなぁ何を隠すんだ?」
さいあく!」
「俺は真面目な話をしてるんだぜ、フェザーコード・オペラ」

 だったら真面目な格好をしろと言ってやりたかった。立て膝でしゃがみ込み、ジャスパーは続ける。それもえらく神妙な面持ちで。打って変わって真摯しんしな声色だ。目障りなものが隠れたからそう聞こえるだけなのかもしれないが。

薔薇水晶ばらすいしょうはたしかに愛と優しさの石だ。それがお前の翼であり、お前自身の象徴でもある。俺たちの羽ってなぁそういうもんさ。
 だが──優しさのほうが常にお前の味方だとは限らねえんだぜ」

 ジャスパーはいつだって正論を言う。こいつはそういう男だ。そのくせ、他人から聞く正論には顔をしかめる。人生経験とやらを妄信しているのだ。半分ぐらいは檻の中だったろうに。

「だって、そんなことしないでしょ」ジズは言った。
「……」
「アンタは抜け駆けなんかしない。それに、アンタだって運を信じた。だったらそれで正しいんでしょ」

 ジズはジャスパーの目を覗き込む。鍵はとっくに手元にあるのに。しばらく無言で睨みあったあと、ジャスパーの方が折れて立ち上がった。

「……頑固なやつ」

 それだけ吐いてジャスパーは檻を開け、手馴れた様子で警邏の衣類を剥ぎ取っていく。
 ローブにズボン、ブーツに帽子……。ぽいぽいと放り投げられてくる衣服の中から、ジズは外套がいとうだけを拾い上げて身に纏い、最後に顔めがけて飛んできた下着を引っぺがした。

「いらねえのか」と、ジャスパー。
「いるわけないでしょ!」
「なら残りは俺が貰う。さっさと着ろ」

 いくら汚れた剥き身だとは言え、名も知らぬ死人の下着を、よりにもよって男の下着を履く度胸はジズにはなかった。それに、服などどうせここから出るまでの借り物に過ぎないのだ。飾り気もクソもない麻布あさぬののローブは、一張羅いっちょうらにするには地味すぎる。
 裸身のジズには目もくれず衣服を放り投げたあたり、ジズの言葉通りというところか、このジャスパーにも人並みの優しさは備わっているようだった。気まぐれで排尿音に点数をつけるド変態の所業だとは……とても信じ難い。

 外套がいとうをそっと羽織はおる。左肩からだ。ジズはそう決めていた。不出来な翼が生えている右肩よりも、がらんとした左肩の方が見られたくなかった。やあやあこんばんはと劣等感が顔を覗かせている気がするのだ。ジズにとってそれは刺青いれずみのようなものだったし、実際に、肌の表面にタトゥーが刻まれていた。

 背中の部分に空いた二つの穴、そのうち右肩の方へと翼を通した。左はどうしようもない。通すものがないのだから布も開けられ損というものだ。

 ジャスパーは同じく麻布のズボンとがわのベルト、それと鳥類からこしらえられたであろうブーツを身に付け、最後に鍵束を拾い上げる。

「それは?」と、ジズが問う。
「……他の檻の鍵だろうな。お前の檻も空いたなら、大部屋ごとに鍵一つか……」
「大部屋? じゃあ……」
「……」目を細めるジャスパー。「……他にもいる。監禁されてるやつが」
「……助け」「言うな」彼はさえぎる。「その先は、言うな」
「……」
「俺たちがここを出て、天上宮の犯罪を告発して……それからだ」

 ジズは押し黙る。それ以上は追求しなかった。
 合理的──だと、信じたい。そう信じる。逃げ切るためにだ。ここからも、痛みからも。
 警邏の翼隠衣デュラルケットを拾い上げ、二つに引き裂くジャスパー。これがまた彼らに産まれを呪わせる。二人はまた言葉を失い、破れた布を見るだけだった。

「いまさらか」

 失笑して、ジャスパーはそいつを放り捨てた。ジズも拾おうとはしなかった。

「出るぞ。歩けるか」

 ジズは言葉に詰まる。自信はなかった。なにせもう何年も足をまともに動かしていないのだ。歩くだけでも一大事だ。心臓なんてびっくりして止まってしまうかもしれない。

「……歩ける」

 壁に寄りかかって立とうとする。曲がった膝が、死んだ鶏みたいになって伸びてくれない。爪先なんて土気色になっている。凝り固まった粘土細工みたいな筋肉を解きほぐして、ジズはゆっくりと立ち上がる。
 檻がぐにゃりと曲がった。また立ちくらみだ。胸の奥が冷えて血が下がってゆき、下腹部が熱くなり、意識が体から引き剥がされそうになる。あごが自然と天井の方を向いた。

「…………歩く」

 それでもジズは耐えた。歩くと自分に言い聞かせた。翼がへにゃりとへたるのを感じながらも、鉄格子にしがみついて一歩目を踏み出す。小さな一歩だ。あまりにも頼りない。だが偉大なる一歩だった。
 狭き檻の外。広大なる世界の一端。煉瓦を踏む。足取りはおぼつかぬ。されど自由だ。
 五シェール四方の支配を逃れ、ついにジズは檻の外に踏み出した。

「……ざまあみろ」

 吐き捨ててやる。ジズは己に勝ち誇った。気を抜けば吊りそうになる足を慎重に踏み出し、ふと肩口が軽いことに気が付いた。右を左を見渡すが、どこにも鼠の姿はない。

「……チィちゃん……」
「あん?」
「……チィちゃんがいない」
「勘弁しろ。鼠なんかどこにでもいる」
「……」急に心細くなって、ジズは辺りを見渡す。「……でも……」
「さっさと行くぞ。ぐずぐずしてたら朝になる」

 そんなことは言われなくても分かっているが、理解と納得とは別物だ。我ながらチョロい。鼠のようにチョロい。また失笑を覚えながらも、ジズはしょんぼりと肩を落とした。
 さよならチィちゃん。ともにかび臭い日々を過ごした稀有けうな仲間。きっと彼奴きゃつには私の言葉が理解できていた。今ならジズはそう思える。お礼の一つも言ってやるべきだった。

「そういやあ、どっから鍵なんて持って来やがったんだ、あの鼠は」
「……夢」ジズはつぶやいた。「夢を見たの」
「夢?」
「知らない女が、私に鍵を渡す夢。水晶の羽をした……天使みたいな女」

 は、とジャスパーが笑った。

てん御使みつかいってか。そいつぁたしかに夢だぜ」

 軽口を叩いて走り出すジャスパー。ジズもその後にならおうとして──ふと足を止める。

 ジズがいた。

 去り際の檻に幻を見る。横たわる女は昨日までの自分。夢の中の劇場で見た自分と同じだ。背伸びしたドレスに気取ったポーズ。まつ毛は長く爪先は赤い。
 なんだ、その顔は。切なげで、物欲しそうな顔は。
「……」
 さよなら、ばいばい。昨日までの私。残念だけどお前を連れてはいけない。自分が二人もいたってしょうがないから。求めた私は檻の外にしかいないから。
 お前はあの時口にした。今日か明日、あるいは来月、それとも一生このままかもと。
 その見立てのなんと卑屈なことか。何もかも間違いだったのだ。自由は、今日ここにやって来た。緩やかなる死の影から逃げおおせた。
 檻に思い入れはない。心残りもなく、後ろ髪を引かれることもない。自由の前にはすべてがかすんだ。大事な何かを見落としていてもきっと気付かなかった。
 檻の中の自分は何も言わない。恨み言はなく、相も変わらずただただ爪先を眺める。ああ、そういうところだけはなんとも私らしい。
 馬鹿だな。救って欲しいなら、連れて行って欲しいなら、そう言えばいいのに。
 私はジズ。お前はジズ。いつまでたっても自分になれない、蒙昧にして哀れなる女。
 囚われの雛。陽を知らぬ鼠。薄暗き日々を生きた己の姿見すがたみ
 悲劇に酔いれ自由に焦がれた、馥郁ふくいくたるすすばみしかげりの薔薇ばら

 

 一生そこでそうしていろ。さよなら、ばいばい。昨日までの私。
 ジズは、檻を閉じた。

 

 

   ◆

 

 

 そこから一〇分の道中は苦悶の一言に尽きた。
 相も変わらず薄暗くてかび臭い、使い古された水路みたいな道筋をひたすらに駆けた。途中から床が鉱石に変わったので足裏には余裕が生まれたが、相変わらずひんやりとしたままだ。
 ランタンの灯はゆらゆら妖しげで、鼠たちを惑わそうとする。行けども行けども見えぬ出口に気が狂いそうだったが、ジズはぐっと口を一文字いちもんじに結び、激しくなる動悸どうき眩暈めまいに牙を立てていた。
 先を行くジャスパーについていくのがやっとで、軽口を叩く余裕はない。喋りかけてきたら黙れと一言返してやるつもりだったが、さしもの彼も久々の全力疾走がこたえているのか静かなもので、聞こえてくるのは息遣いだけだ。これは不幸中の幸いだった。
 出口に差し迫っている手ごたえはあった。だから耐えられたのだ。きざしが見えぬことは何よりも恐ろしい。なんであれ大体はそうだ。
 先刻せんこくから道は常に左回りで、それも僅かばかり上り坂になっている。察するに、この通路は螺旋状であり、彼女らがいた地下牢は天上宮の最下層なのだろう。景観は変わり映えしないが徐々に空気が冷えてきている。こころなしか風も感じる。
 きっと、この通路は非常口だ。檻を出てから一人の警邏とも出くわしていない。ってくる様子もなければ攻めてくる気配もない。時刻は不確かだが明け方だろう。身体を襲う眠気と、ぐるぐる狂い始めたお腹の調子がそう言っている。
 もう二分ほど進んだところで、床が大理石に変わった。
 きっともうすぐ出口だ! ジズは浮かれた。浮かれて脚を早め、ジャスパーをも追い抜き、ようやく見えた空間に飛び込もうとして彼に腕を引っ掴まれた。

「待て」死角に身を寄せ彼はささやく。「俺が知ってるのはここまでだ」

 ジャスパーの肩から顔を覗かせ、ジズは奥の方に目をやる。
 既視感きしかんが彼女を襲った。これは夢だったか、それとも現実か、いずれにしろ前に一度見たような……──リアリティの輪郭がブレ始めてるのにはっとして、ジズはごしごしと目をこすり、頬をつねり、ついでにちょっと肉付きのよくなった内股もつねって、既視感から意識を遠ざける。それはおおよそ、明晰夢が現実との一線をおびやかした感覚に近かった。
 大広間……この、夢で見たイメージそのままの光景がそうさせる。
 床も、壁も、大理石。奥には通路が二つ。天井ではシャンデリアが嫌みったらしく輝いていて、瑪瑙めのうの螺旋階段に備え付けられた装飾混じりの手すりを照らしている。階段自体も二手に分かれており、左右を隔てる踊り場の壁には、これまた華美で悪趣味としか形容のしようがない、金細工と青玉サファイアの額縁にはめ込まれた大鏡が置いてあった。
 鏡。鏡だ! ジズは思わず目をらす。幼少を機に一度も覗いたことがない鏡。髪を整える時も服の着丈きたけを合わせる時も、朝の寝癖を治す時でさえ覗いたことがない鏡。自分が二人いる錯覚に狂いそうになってしまう、自我をあやぶませる魔物。
 暖炉も見えるが灯はついていない。そこかしこに棺桶ほどの大きさのオルゴールが置かれている。部屋の端にも階段が二つあり、ごめんあそばせと赤絨毯あかじゅうたんが大手を振っていた。
 
 だが、なにより──

「悪趣味だな。様式美も行き過ぎると頂けねえもんだ」

 ジャスパーの呟きはもっともだった。あれやこれやと空間の全てが主張していて、なんとも節操がない。置かれているもの一つ一つは格調高いものであるハズなのに、どこかギラついて見える。

 床は途中で途切れており、その先は吹き抜け。足元から一筋伸びた床石の先──つまりは、この部屋の中心にまた円状の床……。

「……穴が空いてる……」と、ジズ。
 
 なにより──異質なのはこの吹き抜けだ。ジズたちが上ってきた螺旋状の石段……下の階へと続く非常階段の灯りが、一定間隔で空いた小窓から輝きを覗かせている。
 目を凝らす。階下に草花が見えた。あれは庭園、だろうか。吹き抜けの天井の上、どうやら最上階から鎖で吊るされているようだ。ばかげてる。空の上に庭を造るだなんて。

「あんまり覗くな」ジズの服をひっつかむジャスパー。「落っこちるぞ」
「なんで穴なんか……」
「当たり前だろ。階段なんか必要ねえんだよ、本当は」
「え? だって、階段がなきゃ……」

 あっ、とジズは言葉を止めた。背中が軽かったから。

「そっか……」みんなは。「飛べばいいんだ……」
「そういうこと。どんな飲食店だろうが観光施設だろうが、大体そうさ」

 憂いがちに吹き抜けの底へ視線を落とし、ジャスパーは腕を組む。

 階段なんか必要ない……はずだ。アトラス民なら誰もが飛べる。俺たちのようなガキを移動させるため、か。いや、檻にブチ込んでおしまいなら上るための階段は必要ない。
 なぜ──こんな高階層にまで。

「ジャスパー」ジズが呼びかける。「早く行かないと」

 羽なしの職員がいるか、それとも事故で負傷したときのための非常階段か……道理は通る。通路の奥を見る限り、並んだ扉はすべて木製。檻にしては弱い。この階層に自分たちのような子供を幽閉しているとは考えにくいだろう。
 なら──あの部屋は職員の個室? 

「ジャスパー?」
「……ああ」
 
 違和感をしまいこむ。思考の迷路に時間をくれてやるほどジャスパーは愚かではなかった。

「……どうするジズ。まっすぐ行くか、上か」
「そっ、そんなの私に聞かれたって……」
「じゃ上だ。恨みっこなしだぜ」

 ジャスパーが先に飛び出す。ジズもそれに続いた。人影はない。抜けるなら今だ。閑散かんさんとした不気味な大広間に、ぺたぺたとジズの足音が響く。
 順調だったのはそこまでだった。
 ジャスパーが螺旋階段を駆け上がろうとした、まさしく一歩目……悲劇に抗いいさかんとするその一歩目をすら許さずに、上から影が降ってきた。   

「下がれ!」

 叫ぶジャスパー。反射的に足を止めるジズ。一歩先の床が割れて弾けた。小刀こがたなだ。大理石を容赦なく突き貫いている。ジャスパーは振ってきた影をよけざま、振り抜かれた拳を払いのけて横転した。
 警邏。一人。老人。いなせる! ジャスパーは踏み込んだ。ひるみはない。小刀を蹴りさばき距離を詰め、老人の腕を振り払い、鬼の首を取るように背後へ回る。
 そして、実際に首をつかんだ。ちょうど警邏の首元を締め上げた時みたいに。どさくさ紛れに今の一瞬で拾ったであろう、右手に握られている小刀だけがささやかな違いだ。
 趨勢すうせいは、ジズが床のひびに驚いているに決まっていた。何がどうなったのか全く経過を理解出来ぬまま、彼女は少し離れておずおずとジャスパーを見守ることにする。
 左腕で首こそ取ってはいるが、今度は締め上げない。相手は老人だ。一歩間違えれば出口を聞き出す前に殺してしまいかねない。
 ジズの目にはジャスパーが先手を取ったように見えるが、老人に焦る様子はなかった。
 相当な老齢に映るが、年季の成せるわざか呼吸にも乱れはない。自らへと突きつけられた自らの得物えものを、ただ淡白な目で見るだけだ。ジャスパーは老人の耳元へと唇を近付け、子守唄でも聞かせるように優しく言ってやった。

「時間がねえ。一度だけ聞く。出口はどっちだ」

 老人はもくする。腰元のさやに手をやろうとしたところで、ジャスパーがさきを食い込ませて牽制した。

「よせ。老い先短い人生だ、死に急ぐこたぁねえだろ。さっさと教えろ」
「まさか」老人は小さく笑った。「教えるに見えるかね?」
「顔に書いてりゃ助かるんだが。あんたの宗教に聞いてみな」

 ふざけた言い回しだった。ジャスパーなりのジョークだったのだろうが、この状況ではどう例えてもジョークとは受け取れない。老人は答えず、そっと視線を落とし──

「ジャスパー!」

 ──ジズの声より速く壁を蹴る。首元を捕まれたまま、両の手で地を押し出し壁を蹴りつけ、弧を描きながら目に見えぬ階段を駆ける。時計の秒針のように宙へ伸びた老人の体はそのまま十二時のあたりを通り越し、ジャスパーを巻き込みもつれながら後方へと転がった。
 先に老人が立ち上がり距離を詰める。ジャスパーがよろけたふりをして懐に潜り込み、胸元に左拳を打ち込んだ。いい当たりだ。
 攻めの手は緩めずジャスパーはもう一撃。更にもう一撃というところで老人が反撃に出た。ジャスパーが大きく蹴り出される。しかしそこは上体起こしの賜物か、追撃せんとする老人へ向けて起き上がりざまに足先を叩き込んでやる。またもいい当たりだ。
 それ以上の追い討ちをジャスパーはかけない。さっさとじばって吐かせればいいものを。高揚か、油断か、あるいはジズには理解し得ない何か特別な感情の波が、そこに渦巻いているのか。
 それとも、それが最善なのか。私にわからないだけで。

(……このジジイ)

 ジャスパーは苦笑した。拳にまるで手応えが伝わってこない。殴りつけた先の筋肉も異様に固い……ばかりではなく、翼の使い方がまた絶妙で、跳躍の後押し程度に留めているようだ。
 心底────慣れていやがる。

「……とんだ年寄りがいたもんだな」
「歳をとると」と、老人。「飛ぶのが辛くなってくるのだ。足腰が物を言う」

 老骨はそう答え、腰元の鞘から自分の得物を鮮やかに抜き払い、湾曲わんきょくした刀身の輝きを晒してみせる。所作しょさこそ落ち着き払っているが、瞳は鋭く、口元に微笑みはなかった。
 笑っていないだけならまだしも、歯牙しがにかけた獲物を離すまいとするその眼光は、年寄りの目には似つかわしくない。内側にはらんだ闘争心はジャスパーのものよりも遥かに輝かしく……そして、威厳に満ちている。
 だ。いくさ心得こころえを持たぬジズでも分かった。

「……そちらの」呟く老人。「お嬢さんからかな」

 えっ、とジズが反応するころにはジャスパーが彼女の前に割って入り、拾った小刀で曲刀きょくとうを弾いていた。それも音と火花からして二度ふたたび。もはやジズの知覚外だ。鉄と鉄がぶつかる音に、彼女はたまらず耳を塞ぐ。

「……っとに油断ならねえ……!」

 吐き捨てるジャスパー。彼は翼を大きく振り払う。老人は後転し距離を取った。

「後悔すんなよジジイ」ジャスパーが吐き捨て──
「跳ね返るぞ、言葉は」──老人が応じた。

 突き出されたジャスパーの左腕、沿うように添えられた彼の翼。力の行使は突然に行われ、そしてジズは魔法を見た。
 ジャスパーの翼は縮こまったかと思うと、深緑色の包帯へと姿を変える。縦横無尽に軌跡を描いて彼の周囲を巡り……やがて、ぎしぎしと奇怪な音を立てはじめた。
 凍っている……違う。固まっている……でもない。
 。翼が、石になってゆく。
 そうして自らの一部を一振りのやいばに変え、ジャスパーは切っ先を構えて言った。

 

「────【不羈の立ち枯れネルガンベイン】」

 

 聞き慣れぬアルザル語だ。ただの呟きではない。宣言とも言っていい。渇望かつぼうや意志だとかいう漠然ばくぜんとした、それでいて確かに人を成し得る何かが込められた──ひととなりの全てを乗せた言い草だ。誰かの名を呼ぶようだった。
 感情粒子が大気中を伝播でんぱし、波が肌を撫ぜるのをジズは感じる。言葉に魂が宿るとはこういうことを言うのだろう。
 さしずめ、言霊ことだま
 それに応じるようにジャスパーの翼が煌きを増す。研磨された鏡と見紛みまごうほどつややかなやいばには、羽らしい柔らかさなど見る影もない。隙間を埋めあい板状となった羽根は、さながら鉱石から打ち出された剃刀かみそり。惑星の表面をも思わせるまだらひび縞模様しまもようが、ボトルグリーンの刀身を稀有な様相に変えていた。
 り潰した草がごとく濃い緑。碧玉へきぎょくやいば。石の羽──意志の羽。彼の名が示すその通りに、かざされた鉱石の翼は縞碧玉ゼブラジャスパーの凛としたいかめしさを誇示していた。

(カタナ……)目をこするジズ。(夢……じゃない……)

 布切れのように薄く、しかし確かにのようで。
 剃刀かみそり──剃刀の、包帯ほうたいだ。
 覇気に満ち、それでいてキザな刀身。気高さに目を奪われ、ジズは音を鳴らして生唾を飲み込む。ところが切っ先を向けられた当の老人はと言えば淡白なもので、ほうと小さく頷いて、顎鬚あごひげを指に絡めてみるだけだった。

生体せいたい鉱物化こうぶつか現象げんしょう」と、老人。「さすがは比翼者ヴァイカリオス。獲得していたかね」

 生体鉱物? ヴぁいかり? 何? また知らない単語だ。ジズは慌てる。

「年寄りは早起きだが」老人は肩をすくめて言う。「私は朝に弱いほうでね。時間も時間だ、投降してはいかがかな。君たちは若く、その人生は永い。生き急ぐことは……」
「白旗オススメしてんなぁ俺のほうだぜ。こっちは二人揃ってんだ」

 二人揃ってんだ? 二人? 二人ってなんだ? ジズは慌てて人数を数え直してみるが、どう見渡しても三人しかいない。老人を抜けば二人しかいなくて、つまり……。
 大変! 私、頭数に含まれてる!

「ちょ、ちょちょちょちょっと待って!」
「やるぜ、ジズ。お前もさっさと翼を──」
「無理無理ムリーのカタツムリ!」ジズは叫ぶ。「私、魔法なんか使えない……」
「魔法じゃねえ。翼だ。言羽フレッジさえ使っちまえば」
「ふれ……?」
「うそだろ!」ジャスパーの声が裏返った。「知らねーのかよ!」

 何がそんなにおかしいんだ。くそ。くそくそくそ! ジズは毒づく。背中がすっと冷えて、裏腹に頬には熱がこもるのを感じた。どうにもばつが悪くてジャスパーから目を逸らす。やめて、そんな目で私を見ないで! 意味は違うがそう唱えたい気分だった。そんな目でいくら見つめられたって、知らないものは知らないのだからしょうがない。

「ぬはぁーっはっはっはっはっはっはぁ!」

 堪えきれずに老人が大笑した。くそくそくそくそ。なんで笑われているのかすら確かに分からぬまま、ジズの顔は火がついたみたいに真っ赤になる。

「はっは、はぁ……。失敬、お嬢さん。あまりに絶頂不可避マーヴェラスで、つい」

 なにがマーヴェラスだ。収まらぬ怒りにジズの翼がどくんと小さく震えるが、ジャスパーの翼みたいに鉱石になったりはしない。
 ちくしょう。なめやがって。夢の中なら私は凄いんだぞ。夢の中ならこんな翼、今すぐ石にしてみせるし、こんなところ今すぐ抜け出して……。
「ジャスパー」と、老人は彼に狙いを定めた。「いい名だな。だが──幸運の石だとほざいた割りに、今の君は……どうだ。石はなんと言っている? 声は聞こえたか?」
「……」
 理解──してしまっている。ジャスパーは苦渋とともに睨む。そうするしかなかった。
「どうした。舌が止まっているぞ。恫喝どうかつは終わりか? 絶望は苦いかね? 結構。言わずとも分かる。素直でよろしい。同情ついでに君の思い違いをただしてあげよう」

 力でって。構えられた曲刀シャムシールがそう語る。それから投擲とうてきされた小刀が暖炉の傍の鐘を打ち、脱走囚ありと示す警鐘が天上宮の回廊を縫って響き渡った。

「──〝手を抜く気はない〟? 笑止千万。手を抜かれるのは君の方だ。なにせ私は他の警邏たちがここへ駆けつけるまで、君たちを生かしておかなくてはならないのだから」

 犬歯けんしきしんだ。

「お喋りなジジイだ」
「君の代役を」

 火花と剣戟けんげきこまやかな碧玉へきぎょくの破片が散らばり、そして二人はまたしのぎを削る。それを皮切りにこの広間は、鍛冶屋か、あるいは宝石職人の工場と化した。
 また一振り。ほらもう一度。次は右から。時には斜めに。大理石の床に緑が飛び散り、白がまばらになってゆく。いとまはそう長く与えられていない。時間はいつだってそうだ。急にやって来て急に去っていく。
 かたや老齢、かたや死に体。どちらも棺桶に近しい身であるが、攻勢が和らぐ気配は一向に見えない。老人の曲刀とジャスパーの翼は絶え間なくぶつかる。そのたびに不羈ふきれが少しずつ欠け、周波数のピークを二〇〇〇ヘルツに鋭く孕んだ金属音ガギャーニャがジズの耳を刺激した。
 知っている。これは、正論の耳触りだ。