時は改め真昼。処は改めアトラス三等区南部クォホコサーソ第六トーチカ、ムタヴチベリ中央講堂。一等区の天上宮に比べると華やかさには欠けるが、講演の舞台としては申し分ない建物だ。
綿雲一つ分ほどの巨石をくりぬいて作られたドーム状の洞窟に、三〇〇あまりの傍聴者達はこぞって押しかける。歌劇や演奏などではなく、ある男の遊説を──言葉を聞くために。
警邏たちは傍聴席を囲むようにしてドームの淵に立ち、水晶マイク越しに響いてくる声へと脳味噌を預けながら、聴衆に目をやった。
三等区の中年層が九割を占めている。素朴なローブといくらかの装飾品を身に付け、肩には麻布の翼隠衣。肌の血色は良く、過度に痩せても太ってもいない。
残りの三割は青年層だ。あとの二割は子連れに、片翼に、魔吸器をはめて黙する羽なし。それと、素顔を晒さぬよう深くフードを被っている者たち──恐らくは、同性愛者。
この、二割。彼らこそ、天上宮を天上宮たらしめている者たちだった。
『──かくして、ノキアの教えはもたらされました。この無窮にすら思える真綿の海に!』
壇上の男……リフター=レグレンターニは腹の底から声をあげ、雲海を薙ぐようにして腕で宙を切る。
『しかし、果たしてそれが全てなのでしょうか? この戒律は正しく機能しているといえるでしょうか? 天使の言葉は、我々に正しく伝えられているでしょうか?
そんな筈はない。ここにお集まりの皆様もご存知のはずです。これが正しさならば、心なき人々による謂れなき偏見は、何故こうもあなた方の心を傷つけるのでしょう? 生まれや性差や見た目の違いで、なぜ傷付かねばならないのでしょう?』
求心力と、迫力……刀を打つようにして身振り手振りと言葉を使い分け、リフターは熱弁を振るった。左隣に、天使がごときもじゃ毛の少女……フェザーコード・クリス……すなわち、ロニアを立たせて。
ロニアはきゅっと口を結び、沈黙を通していた。ジズと話す時のように意味もなく笑ったりはしない。ただリフターの弁舌を聞き、自らの姿でもって人々に訴えかけるべく、聴衆の姿を見下ろしていた。
『何故誰も言及しようとしないのか。現アトラス国政は何も解決しない。線路は増えない。馬は育たない。婚姻は異性間のみ。少数派には働き口さえない。浮石と浮石の間を、我々はどうやって行けば? 事を荒立てぬと言えば聞こえはいいでしょう。しかし、その実態はただの黙殺だ。妥協に他なりません。臭い物に蓋をして、物事を解決した気になっているに過ぎない。
沈黙は金だ、雄弁は銀だなどと言いますが……傍観や静観が美徳であるなどという風潮は、主張力の欠如した人間が生んだ、虚しき開き直りのメソッドに過ぎないのです。
銀は金よりも貴重なものでありました。みな言葉の力を軽んじすぎているのです!
揶揄されるのは片翼者だけではありません! 彼らは多くの者を虐げます! 卑屈な少女、臆病な少年、あるいはマスクを付けなければ生きられない者達、はたまた同性を愛する者達! 多数派に属さない全ての人間を仇敵と看做します!
なるほど我々天上の民は少数民族です。かの大洪水の生き残りであり、子孫を後世に残さなければならない! 同じ理由で、子供を産めない体質の女性……あるいは生殖能力を持たない男性も、神が創った人の形としては不適格だと──彼らはそう謳っているのです!』
「勝手なことをいうな!」群集から声が上がる。「そんな理屈が通るか!」
『そうです! 通るわけがありません! 私は天上法に強く疑問を覚えています! そして、その天上法を盲信するあまりに産まれた偏見にも!』
リフターは語気を強める。徐々に、徐々に。
『ご存知の通り、ノキア写本に記された天使とは両性具有です! 男でも女でもあり、同時にどちらでもない! 性差などというものは、彼らの教えを履き違えた人々が今日に至るまでに生み出した、蒙昧なる驕りに過ぎないのです!』
息を吸い、間を与え、またリフターは空を切った。完璧であるために。
『写本には次のように記されています。〝神は天使に似せてあなたがたをお作りになった〟! そしてこうもあります! 〝同性と姦淫することは神への冒涜である〟!
もうお分かりでしょう、皆さん! どこにも片翼がなりそこないであるなどとは、はたまた同性愛そのものが大罪であるなどとは書かれていないのです。人々は天使が与え給うた言葉を拡大解釈しているのです! 自身の内から沸きあがる言い表しようのない嫌悪感を、もっともらしく取り繕う為に! それは心の弱さに他ならない! 他者を貶める為の免罪符に、天使の教えを利用しているだけなのです! そんなものは、心の弱さに他ならない!』
彼らは、とリフター。
『盲目です! 人は皆違う生き物ですが、しかし、本質は同じところにあります! 牙がないから、鱗がないから、はたまた翼がないから! そんな見た目に因るもので、一体人間の何を推し量れると言うのでしょうか?
誰が決めたのです。彼ら彼女らがなりそこないだなどと、この世の誰が決めたのでしょう。片翼者だけではありません! 喋ることが苦手だから、人より少し消極的だから……あるいは同性を愛しているから、だからなりそこないだなどと、この世の誰が決められましょうか!
ましてそれを〝弱者〟だと口汚く罵るなど、倫理観が著しく欠如している!』
また一つ、語気が強まる。
『真に糾弾されるべきは身体の弱さなどではない! 心の弱さです! 他者を値踏みし傷つけ蹴落とす……そうしなければ己の殻を守ることが出来ない、攻撃を伴う心の弱さです!
そういう者達こそ真の弱者なのです! 彼らは我々を厳しく差別します! 心もなく、時として悪意すらないままに人を傷つける。そんなことが許されていいわけがない! たとえ神の思し召しであろうと、人はそんなことで値踏みされてはならないのです! 我々は……』
言葉に詰まり、それからリフターは顔を上げ、苦渋の面持ちで公衆を睥睨した。
『我々は変革します。弱き心の持ち主が多数派を占めるこの世界を。いずれ人々は気付きます。言葉の恐ろしさ──その、刃物のような鋭さに!』
時は、と演台を叩くリフター。
『必ず訪れます! 彼らはそのとき身をもって知るでしょう。真に弱き心を持っていたのは、自分達に他ならなかったと! そして初めて理解する! 人は、性差や羽の数などではなく、心でこそ! 人となりの全てが詰まった、我々の内に眠っている二十一ガリネ────心を、魂をこそ値踏みされるべきだということに!
何度でも言いましょう! 時は必ず訪れます! 全ての人々が自身の弱さを肯定し、他者を慈しみ、手を差し伸べられるようになる時が!』
聴衆は……警邏までもが生唾を飲んだ。それすら躊躇いがちに。
『そこにあるのは、剥き身の心と言葉が漂う世界です! 誰も心の弱さを隠せなくなる!
吐いた言葉は鏃を増し、より深くその弱さを刺すのです! 天上には大いなる混乱がもたらされるでしょう! しかし、その渦中でこそ人々は知るのです! 言葉を軽んじてはならないと! 安易に他者を罵ることは、他ならぬ自らの弱さの裏付けだと!
言葉というものは──この世で唯一完全犯罪を為しうる、姿なき刃物であると!』
陳腐な言葉だ。それゆえ誰もに刺さり、重みを残すのだろう。快も不快も産み、その渦の中にリフターはいる。
一拍。やや長めに静寂を置き、緊張を生み、そうしてリフターは仕上げにかかった。
『天上宮バベルは、全ての市民の味方となります! 恐れることはありません、恥じることはありません、卑屈になることはありません! 我々は何も間違ってはいない。自身の内側から聞こえる声にこそ、人は耳を傾けるべきなのです! 審判の時は必ずやってきます! 真に心の弱きものだけが裁かれる、大いなる審判の時が!
私、リフター=レグレンターニは決して諦めません! そのための天上宮バベルなのです! かつて愚かにも滅んだ地上の名残、あの気高き白亞の巨塔は、我々のための箱舟なのです! 戒めの元に建てられたのです!
我々は必ずや天上法を改定します。言葉を解体し、そして再統一いたします! 心なき言葉に誰も傷付かぬよう、愛と優しさによる世界を作り上げて見せましょう!
再度申し上げます! 天上宮バベルは、私を含む、虐げられし全ての人々の味方です! 心なき差別に悩む皆様! どうぞ天上宮へご一報頂きたい! 我々は天の御使いに倣い、大いなる雲の海を渡り、区分けを問わずお迎えに上がりましょう! 一切の費用は頂きません! 共に、審判の時を待ちましょう!
こと、お子様を抱える皆様。我々は弱き者です! 少数派です! 寄り集まって生きていかなくてはならない。しかし心はその限りではありません。いずれはそれが証明されます!
その時までどうか、あなたのお子様が──あなたが命を賭けて産んだ命が、心なき言葉に傷つかぬよう、この天上宮にお預け下さい! 恐れることはありません、恥じることはありません、卑屈になることはありません! それは肯定されるべきことだ! 真に必要なのは弱さを挫く強さではなく、弱さを認める強さなのです!』
掲げられた右手。拍手が響く。だが歓声はない。言を失しているのだ。軽薄な野次や安直な喜びは、この雰囲気の前では何の意味も持たない。聴衆もそれを理解していた。訝しげに目を背けるものもいる。ある者は涙を流し、ある者は唾を吐く。これでいい。人は彼の言葉を選ぶ。肯定も否定も限りなく産まれ、そして最後には、言葉が彼らを選ぶ。
『ここに宣言しましょう! 来たるべき日が終われば……私、リフター=レグレンターニは、ノキア写本を必ずや改定いたします! そして羽馬の養殖、線路や呼吸器の増設! それらの低価格化、および充分な雇用体制を実現し、不自由なき世界を創り上げます!
人々が言葉の危うさに気付く……それが一歩目です! ひどく小さな一歩です! だが大いなる一歩だ! そしてその一歩こそが、我々少数派と多数派との溝を埋める、最も重要な一歩なのです! 私一人では到底足りない! ですからどうか皆さんにも共に歩んで頂きたい!
言葉で人が危められる、そんな痛ましい事件を二度と起こさぬように!』
賞賛と嫌悪。妄信と軽蔑。瞳に滴る汗すらそのままに、名手はしかと目を見開いていた。
誰もが見ている。救済のはじまりを。たとえまやかしでも。
『言葉の茨を────取り除くのです!』
駄法螺の千言か、獅子吼の万語。気鋭の名手か、案山子の教祖か。
もはや真贋は問題ではない。ただの、一度。弱き心の隙間にただの一度さえ入り込んでしまえば、致命的な言葉はそこにすくいを産み落とすのだ。それが単なる教育であるか、それとも洗脳と唾棄されるか……審判の時、結末を決めるのは神でもなく、リフターでもない。
決めるのは、彼らの敵は……。
◆
「そうかい、友達を」
「友達っていうか……同じ檻にいたってだけで……」
だだっ広い屋敷の中を歩きざま、マダムの問いかけに、ジズはしどろもどろで答える。
「そいつの名前は」
「……ジャスパー」と、ジズは伏し目がちに答えた。唱えた、気もする。
マダムの後をついてゆくジズ。廊下を曲がり、右隣の一室へ。衣装棚だのソファだの骨董品だのがところせましと並んでいる。物置といったところか。それにしては過ぎた広さだが。
「そいつも比翼者かい?」
「うん。でも、槍で刺されて、石になっちゃって……だから……」
「…………そうかい。それは気の毒なことだ」
ソファの端に腰掛けるジズ。チィちゃんが骨壷に出たり入ったりを繰り返す。分かっているのかいないのか、相変わらず危機感のない奴。
「ま、福祉施設なんてのは建前だからね。天の御使いだと、もて囃されちゃいるが……所詮、リフターもただの悪人に過ぎない」
ジズは耳を疑う。いい加減疑うのにも慣れてくる始末だった。
「今なんて?」
「あん。リフターはただの悪人に過ぎないと」
「その前!」
「……ああ、なんだ。お前、知らずに入ってたのかい」
天上宮は、とマダム。
「市民の皆様に愛される福祉施設さね」
「……福祉施設? あれが? 人を檻に閉じ込めるのが、福祉施設?」
「それはお前が比翼者だったからだよ」
マダムはそう答えて衣装棚を開き、あれでもないこれでもないと給仕服を掴んで放り出す。ジズに着せるものだろう。ばっさばっさと飛んでくるふりふり付きの衣装を受け止めながら、彼女はマダムに問い返した。
「なんで比翼者だけ閉じ込められるの? 石の羽があるから?」
「さてね。石の羽が関わってるのは間違いないだろうが……真意は分からん」
「じゃあ、あの娘は? さっき、外にいた……」
「チネッタはただの片翼者だ。石の羽は使えないし、檻にも閉じ込められなかった」
ばさり。また一つ服が放られる。いよいよジズの手からこぼれ落ちそうだ。
「福祉施設というよりは……まぁ……少数派のための寄り合いと言ったところか」
「……?」
「早い話が〝なりそこない〟と言われる者達を引き取っている。ほとんどは子供だ。片翼者、呼吸器や精神に疾患を抱える者、はたまた同性愛者。なんでもいい。とにかく糾弾されがちな少数派を引き取ってるのさ。それも無償で。それゆえ市民の信頼は厚い」
どきり。ジズの心臓が揺れる。
「お前も引き取られたろう?」
「……」
過ぎ去りし日の回顧録。ざらついた画面の奥、巨石街の隅。怒鳴り散らす男と女の影。男がこちらに近付く。ああ、笑っていやがる。あの眉のない男は、いつも────
「お前だけでなく」
強く閉じられた衣装棚の扉。はっと現実に引き戻されるジズ。
「あそこには多くの〝なりそこない〟が住んでいる……真似するんじゃないよ、差別用語だからね。だがとにかく、比翼者でなければ檻に入れられることはない。暖かい部屋を与えられ、暖かい食事を与えられ、暖かい湯船に浸かれる。
チネッタとあんたはお互いバベル上がりだが、同じ道を歩んできたわけじゃない」
「……」
「知らなかったかい」苦笑するマダム。「不公平だろう、世の中という奴は」
「……それは……別に、彼女が悪いわけじゃない……」
「理解してるならよし。チネッタにバベルの話はするんじゃないよ。もし聞かれたら……そうさね、家出したとでも言っておきな」
「どうして?」
「あの子は天上宮の闇を知らない」
闇。闇とはなんだろう。檻の存在か、リフターの本性か、それとももっと別の。
「リフターには会ったかい」
「イエス・マダム」
「どんな男だった?」
「クソヤローって感じ」
「はっはっは! そうだ、その通りだ。だがね、それもお前が比翼者だからさ。
知っての通りあの男はバベルの最高管理官だ。引き取られた片翼者は一人残らずリフターと顔を合わせているが──裏の顔は知らない。市民や子供達の前では聖者を演じているからね。誰もリフターが悪人だなどとは信じない。どころか崇敬する始末だ」
例えば、とマダム。
「チネッタがそうであるように」
眉のない口髭の男を尊敬……想像しただけで鳥肌が立って空へと羽ばたいていく。ジズにはとても出来そうになかった。チネッタには悪いが悪趣味の境地だと言っていい。
「あの子はリフターを慕ってる。本当のところはどうあれ……少なくともチネッタにとっては〝いい人〟だったからだ。知らないほうがいいこともある」
チィ。鼠が代わりに返事をする。ジズは黙ったままだった。
「バベルでのことはもう忘れな」
「え?」
「お前は今日から違う人生を歩む。フェザーコードで呼ばれていた過去は捨てるんだよ。ここからは鼠の人生じゃあない、ジズという一人の人間の人生だ。いつまでも過去の陰りに支配されてちゃあ、大人になるものもなれやしない」
「そんな!」ジズの手元から衣類がこぼれた。「だって、バベルにはまだ他にも……」
「監禁されている子供たちがいるだろう。だろうさ。それを忘れろと言ってるんだ」
「なんで!」
「どうしようもないからだ」
碧がチラついた。
「お前に何が出来る? 檻にいるのが五人か十人か知らないが、その中の一人でも救えるか? 自分一人でさえ逃げ出すのがやっとだったのに? たまたま拾われたから良かったものの。本当なら、今頃は檻に連れ戻されてるところなんだよ」
「……」
「いいかい。リビングでも言ったがお前は幸運だ。奇跡、だよ。話を聞いた限りじゃ、脱獄にしても一人でやったわけじゃあるまい。お前は一人で生きてるわけじゃない。常に他の誰かによって生かされているんだよ」
「……それは……」
「勿論そうあるべきだ。人は一人で生きているわけじゃあない。それでいい。私だって一人で生きているわけじゃあないからね。だからこそだ」
からっぽになった衣装棚が閉じられた。
「薔薇水晶は愛と優しさの石だ。お前が石に恥じぬ者であろうと望むなら止めはしない。そんな権利は私にはないからね。だが届かないものに手を伸ばすんじゃない。踏み外すよ。守ろうとするのは、自分の手が届く範囲に留めておくべきだ」
そうあるべき。留めておくべき。べきべき。ジズの中でなにかが割れる。肋骨ではないが、心臓の辺りがどうにも痛い。きっとハートが割れた音だ。
──弱いのだ、私の心は。ちょっとしたことですぐ傷ついて泣きそうになって、見当違いの被害妄想で自分の首を締め上げる。毒のつもりで吐かれた言葉でなくたって、私の心には深く刺さってしまうらしい。
脆いな。ガラスよりも。探せば探すほど、自分の悪いところばかり見つかってしまう。
「いや、すまない」マダムはそう言って踵を返す。「出すぎたことを言ったね。歳を取ると、どうも説教臭くなっていけない」
それは本当に歳の所為なのか。生まれもった性ではないのか。常に説教される側だったジズには判断がつかなかった。
「見えないだろう。これでも心が弱くてね。子育てを間違えたもんだからビビっちまってるのさ」
「……子育てって大変なんだね」
「強く育っておくれよ、ジズ」
ジズの腕はぷるぷる震えていた。服の山ごときでこの始末だぞ。人なんか殴ろうものなら、肩からすっぽ抜けてしまうに違いない。
「私、喧嘩は……」
「そういうことじゃない。心の話さ」
「こころ」
「体なんかいくら強くなったところでしょうがない。問題はいつだって心なのさ」
頬を膨らませるジズ。リフターといい老婆といい、大人という奴はどうして意味深なことをそれらしく聞かせるのがうまいのだろう。結局は言葉尻を濁しているだけなのに。
「お気に入りを一つ選んでおきな。それがあんたの作業着になる」
そうして部屋に一人残され、ジズは立ち尽くした。両手一杯に抱えた服の山、チィちゃんが頂で返事をする。
「……なんだかよくわかんないね、チィちゃん」
チィ。鼠はまた小さく鳴いて、思い出したようにぴょんと壷の中へ飛び込む。
「そんなとこ入っちゃ駄目だよ。怒られちゃうよ」
返事がない。仕方なくジズは服の山を下ろし、骨壷を持ちあげてひっくり返す。
「……あれ?」
鼠は出てこない。息遣いも聞こえなかった。何度振ってみても落ちてこない。両手を入れて中を探ってみるが、毛先の感触一つない。
「……チィちゃん?」
ははあ、この野郎うまく壷の中を逃げ回っているな。ジズはそう当たりをつけ、力いっぱい骨壷を上下に振り続ける。四回目ぐらいでやめておけばよかったものを、そのうち壷は手からすっぽ抜け、地面に落ちて粉々に飛散した。
「あっ……」
馬鹿かわたしは。ついさっき、力がないのを自覚したばっかりなのに。
(……どうしよう)
ジズは青ざめる。この壷、いくらするんだろうか。四〇〇万。六〇〇万。もっと……。
頭の中の予想価格がどんどん高騰していく。まさか三〇〇〇万ということはなかろうが──いや、ありえないとは言い切れない。
破片を漁るが鼠は見当たらない。壷に飲み込まれたとでも言うのだろうか。ジズは首をかしげるばかりだった。その内マダムが戻ってきて、壷の破片を踏みつけるまでは。
「なにしてんだいジズ!」
「ごっごめんなさいぃ」
彼女は怒られた。久しぶりに、真っ当に。
◆
夢はいつだって甘美だった。響きでさえ、甘すぎて胸焼けがしそうだった。だったけども、もう長いこと甘いものを口にしていないから、そのぐらいでちょうどいい。トルネードーナツに、ヨコメデミルフィーユ……全部、どんな味だったか忘れてしまった。
もしも獏に生まれていたら、今頃は下腹が胸の二の舞だ。ひょっとしたら私は獏の仲間で、潜った夢の数だけ胸に栄養が行ってるのかも──
──そうして彼女は──ロニアは想像する。いつものことを、いつものように。
肩甲骨に疼きを感じる。背には一対の羽箒が生えていて、地に足をつけている時よりずっと体が重く感じる。今日はそういう日だった。
羽ばたくのは簡単だ。櫂を漕ぐのとあまり変わらない。お腹に力を入れて、引っ込めたり、膨らませたり……そんな感じだ。いまいちイメージが沸かなければ、結んで開いてを繰り返せばいい。
そうして翼を大きくしならせ、ふくよかな商人が悪戯に金貨をばらまくように羽根を散らしながら、晴れ晴れとした気分で綿雲の大海を往くのだ。
ああ、飛んでる。私、いま空を飛んでる──ロニアはいつも浮かれる。疑り深い彼女のことだから、まさか夢ではいやいやまさかと自分の翼を振り返って見たりもしよう。十回も羽ばたかぬ内にそわそわしてきて、背中の感触を確かめたくなる。
──なにせ、夢が覚めたらもう片方はどこかへ行ってしまうのだから。
「えらく冷めた目で俺達を見てたじゃねーか」
夢が覚めるといつもこうだ。だから現実は好きになれない。
男が四人……全員もれなく翼は一対生え揃っている。二〇歳間近といったところか。周囲を見やるも他に人影はなし。巨石街の路地裏。瑪瑙の数からして講堂からそう離れてはいまい。手錠も足枷も轡も目隠しもされていなかった。
誘拐だろうか? それにしては杜撰だ。なりそこないのクソガキが足りない脳味噌を絞ったところでこんなものだろう。ロニアは失笑して男を見上げた。
「あなた、誰かしら」
「聞いたぜ、演説。政治家ってのはみんなそうだ。ちっとも響かねえ。どんなでけえこと言うのかと思ったら……なんてことねぇ、みんな同じだ、ハッタリじゃねえか」
「自己紹介どうも。私、ロニアよ。あなたは……」
拳がロニアの頬を打つ。鼻血でローブが汚れた。情けない顔だ。ジズには見せられない。
「口の利き方に気をつけろ、なりそこない」唾を吐く男。「お前らみたいなのが大手を振って街を歩けると思ってんなら、そいつは大きな間違いだぜ」
「……」
「あの見世物小屋みたいな施設で甘やかされたんだろ? 育ちは良さそうだから、現実ってモンを教えてやる。お前ら片翼者に人権なんかねーのさ」
「どうしてかしら」
「教養もねえときた!」
再び拳が振るわれる。今度は腹だ。トラバサミにでも挟まれたようだった。
「神は天使に似せてあなた方をお作りになった……。歪なお前らとは違う。どうだ、綺麗だろ、左右対称ってのは」
「……」
滑稽さに、口元が──まさに、歪むのを──ロニアは感じた。
「ふふ……歪、歪ね……。生憎だけど私、自分のこと不細工だとは思ってないわ」
「驕りやがって。吐き気がすんぜ。そういう心の不細工さが翼に現れてんだよ。片方だけの翼にな。ナルシストは心のビョーキだぜ」
男はロニアの前にしゃがみ込む。
「いいか。あの眉なしのクソ野郎に言っとけ。片翼者は淘汰されるべきだ。お前らだけじゃねえ。普通じゃないことを認めろと大声でのたまう連中……そいつら皆だ。
大洪水を生き抜いた、俺たち天上の民には相応しくねえんだよ。聖歌隊だのなんだの組んで下町まで出張ってくるんじゃねえ。耳障りだし、目障りだ。ついでに気にも障る」
「なにそれ」ロニアはまた笑った。「からっぽね」
「なんだと?」
「あなたの言葉は、からっぽだわ」
横たわったまま続けるロニア。その瞳に男の姿が反射する。
「どうしてそれを私に言うのかしら? 言いたいことがあるなら、本人に直接言えばいいじゃない。それも暴力じゃなく言葉で」
「てめえ……」「分かってるわ。大丈夫よ」ロニアは遮った。
「あなたは悪くないの。心の弱さが悪いのね。面と向かって話もできない臆病な心がそうさせるのだわ。言葉じゃ言い負かせないものね。だから暴力に訴えるのよね。だってその方が楽だもの。頭の悪い人はそうするのが一番だわ」
「……言うじゃねえか」
「頭がいいもの。あなたとは違う」
今度は爪先が腹部にめり込む。それでもロニアは笑うのをやめなかった。
「ねえ……私、心は強いわよ。頭の悪い人にもわかりやすく言っておくと───これ、自慢よ。
あなたよりずっと強いわ。だって私は自分を肯定しているもの。あなたのように、生理的な嫌悪で安易に人を傷つけたりはしないわ。歩み寄ることの大切さ、愛し、愛されることの大切さを知っているもの」
「……」
「片翼者がなりそこないだなんて、本に書いてあるからそう信じるの? 自分の頭でちゃんと考えたことはある? 同性を愛することの何がいけないの? 子孫が作れなくなるから?
人からそう聞いたのよね? それがどうして悪いか自分で考えたことはないのよね? 人の受け売りで人を値踏みしてるのよね? 本を読むならもっとちゃんと読まなくちゃ。呼吸器や精神に疾患を抱えているから悪なの? 翼が片方しかなかったら劣っているの? 本にそう書いてあるから? 言ってはいけない言葉だから、あえて私に言ってやってる? あなた、その本誰が書いたか知ってるのかしら? その言葉を誰が考え出したかは?」
「知らなくても読めるのが本ってもんだろが!」
二度、三度、四度。体の節々を拳が打つ。残りの三人が男を止めに入った頃には、ロニアはもう虫の足ほども動かなかった。
「……」
横たわる女。響くのは男の荒い息遣いだけだ。両の拳に付着した血痕を眺め、ようやく事の重大さを理解したか、彼の顔は次第に青ざめていった。
「おい……」別の男がたじろぐ。「動いてねえぞ……」
「やべーって……殺しちゃったんじゃないの……。知らねーぜ、ハッチン……」
杜撰な誘拐、衝動的な暴行。正に小物の鑑と言える。馬鹿なクソガキにお似合いの情けない面構えを見て、ロニアはよろりと立ち上がった。
「ふ……ふふ……そうよね……まさか殺すことまで考えてなかったわよね……今、ほっとしたでしょう? 殺すつもりじゃなかった、とか言い訳する気だったんでしょう?」
ロニアは血塗れで笑う。
「弱い。どうしようもなく心が弱いわ。そんなことで怖気づくぐらいなら最初からやらなければいいのよ。一度決めたことは何がなんでもやらなくてはならないの。そんなことはこの世の真理でもなんでもない、私たちの中に眠る二十一ガリネをなす前提条件なのよ」
「なんだ、お前……」男はすくんだ。「気持ちのわりい……」
──不気味な女だ。頭のネジが外れていやがる。まるで言葉が通じている気がしない。
天使──認めよう、見てくれは天使のそれだ。だが、なんだ? この女はなんだ? 天使と呼ぶには歪過ぎる。心の中の大事な部分が、ひどく醜く凹んでいるようだ。
「ほら。私に言いたいことがあったんじゃないの? 大手を振って歩けると思ったら大間違いだと言ったわよね。それで、あなたはその大間違いをどうやって正すのかしら? なにか罰を与えるとでも言うのかしら。殺すのは怖いんでしょう? でも私は暴力では屈服させられないわよ。だって心が強いもの。じゃあ一体どうするのかしら?」
「……」
「ほら。ほらほらほら。どうしたの? まだ怖いの? 分かってるわ、ただの虚勢よね。心が弱い人はみんな悪そうな言葉を使う。そうして自尊心を保たなければ生きていけないのよね。本当はいつだって怖くて仕方がないんだものね。自分のよわさを暴かれるのが、自分の本性を見るのがとぉーっても怖いのよね。
その点、暴力は楽よね。だって暴力に心は関係ないもの。言葉には心が表れてしまうから、ハッタリは通じないもの。バレていないと思っていても、そう信じるほどに暴かれて……」
「黙れ!」男は空を掻き、姿なき言葉を振り払った。「なんなんだお前は!」
ロニアは歩み寄る。身構える男にただ歩み寄り、首筋にそっと両手を添えた。
「怖がらなくていいわ。私があなたを肯定してあげる。いいのよ、弱くて臆病でも」
「……肯定……?」
まずい、と……男は直感した。いやに優しい声だ。鼓膜を綿毛が撫でていやがる。心の一番敏感な部分を、細やかなブラシでじらされるような……。
「自分の悪いところ、良いところ」囁くロニア。「数えてみて、十個ずつ」
「触るんじゃねえ!」
振り払えばすむ話だ。なのに、脳味噌が撓んでゆく。
飲まれる。このままじゃ。こいつの声に──言葉に。
「ほら早く。どうしたの。生まれ変わるのが怖い? それはそうよね、居心地がいいものね、自分でつくった秘密基地は。自分ひとりが何もかも正しい世界は。
でも私に暴力は通じないわ。あなたの弱さを守る為の、暴力という武器は通じないの。次はどうするのかしら? 私は強いわよ。心が強固だもの。あなたとは違う。そんな私のつよーい心を、あなたはどうやって暴力で破壊するというのかしら?」
「やめろ!」
「聞かせて、弱虫さん」
指先が冷や汗を拭う。唇が触れてしまいそうだ。やっとのことで男は一歩後ずさり、なかばやけくそのように彼女の手を振り解いた。
「……あぁーあ上等だ、そうかい。もう頭に来たぜ。泣きわめいても許さねえ」
「泣かないわ。喚きもしない」
「だって心が強いものー、か?」
「そうよ。分かってもらえたかしら」
男はロニアを組み伏せる。ローブを引き裂き、白く透き通る肌を露にした。
「んなら見せてみろよ。その強い心がどうなっちまうのか」
「あらあら……」
揺るがない。この女はまだ揺るがない。だが男はもう引っ込みがつかないものだから、後のことなど構わずロニアの服を引きちぎる。構うものか、どうにでもなれ。どうせ片翼者の末路になど誰も興味はない。そんな気持ちで右肩の翼隠衣を放り投げ──
──そうして手を止める。
「……?」
そこに天使の羽はなかった。
「……石……?」
黒い、黒い、ドス黒い羽。何者にも染められぬ不沈の色。天使然とした姿とは似ても似つかない、混ざり気なきただ一色の黒だ。それでいてどこか透明感がある。
黒い──黒い、水晶?
「その辺にしておきたまえ」
男ははっとする。聞き覚えのある声だ。妙に鼻につく自信に満ちた声。路地の先、差し込む夕陽を後光とばかりに受け、リフターが立っていた。
「探したぞ、クリス。どこに行っているのかと思えば」
リフターは歩を進める。ロニアだけを見ている。男達など眼中にはなかった。
「ご主人様……」鼻血を拭うロニア。
「さぁ、帰ろう。夕食の時間だ。子供たちが待っている」
「はい……」
そうは問屋が降ろさぬ。男達がロニアから離れ、一列になってリフターを阻んだ。
「おいおいおいおい、おい、待てよコラ。翼がねえ上に耳まで悪いのか?」
詰め寄る男。距離にして半歩分。拳は充分に届く間隔だ。
だがリフターの目がそれを許さなかった。細身ではあるが男よりも頭一つ身長が高い。なにより影をはらんだその瞳が、どうにも不気味なのだ。こちらを見ているようでまるで見ていない。何かもっと別の──そう、心の奥でも見透かしているみたいだった。
「クリス」不思議そうに、リフターは問うた。「彼らは? お友達ではないようだが」
「……市民の皆様です。ご主人様に演説のご意見をと」
「ほう……私にか」
制服の襟を正し、リフターは男を見下ろす。
「市民の言葉だ。傾聴せねばな」
「ふざけんな、俺たちは……」
「言ってみたまえ。焦らず、ゆっくりと、分かりやすく丁寧な口調でだ。天上宮の活動方針にどんな不満が? 聞かせてくれたまえ、君の考えを。君の言葉でだ」
「ボケたことほざいてんじゃねー!」
男が胸倉に掴みかかる。リフターは動じない。ただ黙して後ろ手に両手を組み、焦りと怒りで忙しなく揺れる男の目を覗いた。
「なにスカしてんだ? 一分あれば半殺しにできんだぞ。てめーの言葉なんか通じるわけねーだろうがよ」
ロニアはお空のかなたを見る。つられてリフターも笑った。
「君は」と、リフター。「さぞや強いのだろう。体格もいい。対して、私はこの細身だ」
「分かってんなら……」
「だが心はどうかな?」
「はぁ?」
「魔導解花」
花は歪に開いた。
◆
人間をパズルに例えるような輩には三種類ある。
一つ。他人を自分に合わせるのが上手いか、自分を他人に合わせるのが上手いか……いずれにしろ、完成形とされる景色の中で、自分がどの位置を占めるか深く理解している者。
二つ。明確な哲学を持たぬゆえ何者とも衝突せず、またそれゆえ他人の哲学の全てをやんわりと受け流す、粘土のような者。
そして三つ。我の強さが過ぎるゆえ周囲が衝突を避ける者。このうちの殆どは自覚がなく、それゆえ自分が一つ目のケースであると誤認する場合が多い。二つ目が粘土ならこちらは石だ。折れず、頑強で、決して曲がらない者達だ。
煮崩れた脳味噌を持て余す偉人いわく、愛はお互いに足りぬものを埋め合うというが、これは極めて稀なケースだと言える。彼だか彼女だか知らないが、恐らくそいつはパズルを組み立てたことがなかったのだ。
ピースというのは難儀な生き物だから、回転させてみても裏返してみてもはまらないものははまらない。どころか出っ張っている部分をぶつけ合う始末だ。ぶつかり合ったところでどちらが曲がるというわけでもなく、無理にはめようとすればどちらかが割れてしまう。
その言い草に従えば、実直な男アゾキアと、自堕落な女クアベルはよくはまっていた。
割合は実に八対二でクアベルの圧勝だ。勤勉で生真面目な青年は大体のことをそつなくこなしてみせるが、自堕落で不真面目な少女は大体のことを投げ出してしまう。
クアベルはよくアゾキアに叱られる。だが逆はない。アゾキアに叱るような部分は数えるほどしかないし、なによりクアベルにとっては叱ることすら面倒だからだ。そのうえアゾキアの唯一〝叱るべき部分〟というのは、クアベルにとって言及を避けて然るべき部分だった。
ところがアゾキアには自覚がなかった……どころか自分は一つ目のケースであるとさえ思っていた。クアベル=ラズワイルなる自堕落の塊をあるべき完成形へ導いてやれるのは、誠実さのみを取り得にしてきた自分だけであると、本気でそう信じていた。
その自堕落な女が粘土のような作りだから、上手くもっていただけなのに。
「めっちゃ怒られたぜ」
「当たり前だろ……」
肩を落とすアゾキア。クアベルは歩幅を合わせてその隣を往く。天上宮第四層……その長い廊下の左右には、扉がずらりと並んでいた。名札こそ提げられているがあまりに雑多だ。
「これに懲りたら」と、アゾキア。「仮病で仕事をサボるのはやめてくれよ。いつも言ってるじゃないか。僕までウスターシュ殿に怒られる羽目になったんだぞ」
「神経質なんだよ、あのジジイ。いや、ジジイはみんなそうか……」
「差別はよせ。目上の人にそんな言い方をするものじゃない」
「真面目だこと」
「真面目とかじゃない、人として最低限の礼節だ」
むっとして頬を膨らませるクアベル。だるい、うるさい、眠い、やめたい……そういう類の表情だ。アゾキアはと言えば愚直なまでの生真面目だから、そのクアベルの表情を見るやいなや、鬼の首を取ったように小言を挟む。
「聞いてるのかクアベル。ローブの皺ぐらいとってくるんだ。髪もぼさぼさじゃないか」
「いちいちうるせーな」彼女はアゾキアの手を払いのける。「保護者かよ……」
「前から言ってるけど、君には天上宮の職員だという自覚が足りない。子供たちを清く健全に育てる為に、まず僕らがお手本にならなくちゃいけないんだ」
「……お前さぁ」
大広間から少女が駆けてくる。右肩には小振りな翼隠衣……片翼者だ。クアベルを見つけるなり、彼女の方へ寄ってきた。
「ベルちゃん!」
「おーなんだなんだ、どうした」
クアベルは少女の両脇を抱えて持ち上げ、メリーゴーランドに倣ってぐるぐると回してみせた。うっすらと赤い少女の頬が微笑みでくしゃりと崩れる。
「見て見て。あのね、これね、パパに作ったの! 今度遊びに来るんだって!」
クアベルの眼前に小振りなマスコットが突き出される。丸い胴体、二つの耳、目には安価な宝石。尻尾と翼も窺える。生憎クアベルにはこれが何なのか今ひとつ分からない。彼女もジズ同様、そのあたりのセンスはあまりよくなかった。
「たぬきか?」
「違うよぉ!」
「どこをどうしたら狸に見えるんだ」アゾキアが呟く。「鼠だね?」
「そうだよ! 当たり!」
言われれば鼠に見えなくもないか。クアベルの中ではまだ狸がぽかんと口を開けているが、面倒なので飲み下しておく。
「よく出来てんじゃん」たぬき鼠の耳を耳を引っ張るクアベル。「裁縫の才能あるぜ」
「でしょ! 一個ベルちゃんにあげる!」
同じものがもう一つ差し出される。縫い目はところどころ粗いが、裁縫のさの字も知らないクアベルがとやかく言えた義理ではない。いい出来だ。差し出された鼠が片翼でさえなかったなら。かたや右翼のみ、かたや左翼のみ。空鼠の姿を知らないわけではないだろうに。
「いいのか? お父さんにあげるんだろ?」
「もう一個作ったからいいの!」
「二つあるんだったら」はにかむクアベル。「一つはママにあげな」
「だって……ママ、こないんだもん。お仕事忙しいんだって」
アゾキアが表情を曇らせる。珍しい話ではない。むしろ、この少女のようなケースが大半を占めるだろう。それゆえこの施設はこの施設足りうるのだから。
「分かった、もらっとく。ただし、もしママが来たらママに渡す。いいな?」
「えー」
「えーじゃない」
「ママに渡したくない」
少女はそっぽを向いて、マシュマロみたいな頬を膨らませる。視線の先は爪先だ。
「どうせママ私のこと嫌いなんだもん。いつまでたっても会いに来てくれないし、会っても、すぐ帰っちゃうし。あたし、早くおうちに帰りたいのに……」
「会えるうちが花なんだぜ」
いじける少女の頭に手を置くクアベル。このあたりの機微に関しては彼女は敏感だった。
別に望んでそうなったわけではない。衝突を避けてのんべんだらりと流される内、分水嶺を見極める目が肥えただけのことだ。
「ママだってお前のこと嫌いなわけじゃないさ。ここはお空の上の上だから、来るのに時間がかかっちゃうだけだよ。あんまりママのこと嫌いなんていうもんじゃない」
「……もういい、つまんない」
少女は去ってゆく。子供なりの小さな歩幅を精一杯に広げながら。クアベルは遠ざかる後姿に溜息をつき、押しのけられた手の中のマスコットをぼうっと眺めた。
「……そりゃそうだよな」
「……クアベル?」アゾキアが問う。「どうした?」
「……わかんねー奴には一生わかんねーモンだよなあ」
「……?」
自分の中に煙が立ち上るのを感じる。面倒を火種に勢いよく燃え上がる陰りの煙だ。自分がどういう柄だというわけではないが、こいつはどうにも柄ではない。クアベルは失笑して立ち上がった。
「おセンチメンタルジャーニーだ、くそったれ」
「……気にすることないさ。まだ子供だから分からないだけだよ。彼女の母親だって仕事があるんだ。いつでもここに来られるわけじゃないし……その、心の整理がついてないだけだろ。自分から預けたんだ。顔を合わせ辛いのも無理はない」
「呆れるぐらいアホだなお前は。そういう話じゃねーっての」
「?」
大きく伸びをし踵を返す。すれ違いざまにアゾキアの肩を叩き、クアベルは鼻歌交じりに歩を進めた。
「どこ行くんだ?」
「寝る。また明日」
「寝るって……まだ夕方だぞ」
アゾキアが彼女を引き止めた。右手の指先をしかと掴んで。シャンデリアに目線を逸らしてから、クアベルはぼうっと溜息をつく。
「おい……」
「後で部屋に行くよ」
「なんで」
「駄目? じゃ僕の部屋に来ればいい」
「だからなんで!」
「故郷から、ワダカマリンゴの魔酒が送られてきたんだ。一人で飲むのもなんだし……。それに、ほら、一緒に見た映画……なんだっけ……」
「巨大ヤニヤンマ対地獄の禁煙ニンジャ軍団」
「そう、それ。途中で寝ちゃっただろ。オセロは一人じゃ出来ないし……」
クアベルは前髪を吹き上げた。なんだ、ワダカマリンゴって。たしかに聞いたことないし、ちょっと気になるが……なるが、クアベルはそういうまどろっこしいのは好みではない。誘うなら誘うでシンプルに言えばいいのに。
そんな、あの手この手で興味がありそうなものを並べ立てられたって……気持ちはわかってしまうけれど。
「悪いけど」アゾキアの顔を離すクアベル。「今日は気分じゃねー」
「一昨日も聞いた」
「じゃ一昨日も気分じゃなかったんだ」
「君はいつもそうやって……」
ショコラ・カラーの一撃。面倒だから、クアベルは唇で台詞を断った。
「黙って寝ろ、スウィート。また明日だ」
「君はまだ昨日にいるんだな」アゾキアは力なく笑った。「昔の男と一緒に?」
「めんどくさ。やめろって、そういうの。初めての男らしく構えてろよ」
「なら……」
「今日は夜勤なんだよ。五、六層は人使いが荒くて……」
しまった、いらないことを言ってしまった。クアベルは歩みを速める。だが、アゾキアの何より面倒な部分はそれを許してくれなかった。
いや、どうだろう。この場合、あしらったことへの仕返しもあるか……。
「待てよ、クアベル」
「うっせーなまだなんかあんのか」
「四層から上には何が?」
そらきた。これだ。まだ愛の言葉を語られた方がマシだった。
「何って」枝毛を弄ぶクアベル。「別になんにも」
「何か隠してるだろ? ウスターシュ殿もだ。どう考えたって普通の反応じゃない。少なくとも、ぼや騒ぎじゃあないだろ。槍を持って集まった警邏達もそうだ。見張り番でもないのに、なんで室内で槍を構える必要があるんだ。それもあんなに大勢で」
アゾキアは馬鹿ではない。その程度は察しがつくだろう。だが、その程度止まりだ。馬鹿でこそないが利口ではなかった。
「答えてくれ、クアベル」
「隠してたらなんなんだよ」
「付き合う時にあれほど言ったろ、恋人だから隠し合いは無しだって」
「だから隠すこともある」
「なにもプライベートなことを聞いたんじゃない。仕事のことを聞いただけじゃないか」
クアベルは面持ちを正す。
「お前、真面目すぎるぜ」
「君が不真面目なだけだ。話を逸らさないでくれ。それは今関係ないだろ」
「関係あるさ。真面目だから教えられないんだよ」
「はあ?」
アゾキアが詰め寄った。
「意味が分からない。僕が真面目なことと五層から先に入れないのがどう関係あるんだ。五層から先は、不真面目な人間しか担当出来ないとでも?」
「はぁ……」
クアベルは頭をかく。決まってこうだ。アゾキアは曲がったことを許さない。許せない性分なのだ。これが彼のなにより面倒なところだった。クアベルに限った話ではない、魔草や違法魔酒を嗜む同僚もそう思っていることだろう。
「んじゃ聞くけど」クアベルは言う。「天上宮が実は違法魔草を栽培してる……なんてことを管理官に言われたらどうする?」
「違法魔草だって!」
アゾキアは血相を変えた。
「とんでもない話だ! そんな重大な犯罪を見逃すわけにはいかない」
「抗議しちゃいますカ?」
「当たり前だ! 抗議した上で市民に公表する。福祉施設でそんな馬鹿な真似がまかり通っていいわけないだろ!」
「ほらほらーそういうのだよ。そういうのがいけねーんだって。
考えてみろよアゾキアちゃん。バベルは市民から寄付を取ってないんだぜ。少数派のために税金が投入されるわけもない。なのにオレ達にはちゃんと給料が払われてる。
その金どっから来てると思うんだ? まさか雨が降るみたいに空から降ってくるとか思ってねーよな?」
「…………」
「お給料だけじゃないですよぉ。建物の維持費もそうだし、引き取った子供達の食事にしてもそう。バベルには一〇〇人以上の片翼者がいるんだぜ。職員も大勢いる。白いお金だけでそんなの賄えるわけねーだろ。頭使ってくれよ」
「君は!」アゾキアが声を荒げた。「それが正しいっていうのか!」
「当ったり前じゃーん…………」
クアベルは面倒そうに、本当に面倒臭そうに言う。
「実際に子供達はご飯にありつけてる。羽馬の貸し出しがあるから自由に買い物にも行ける。金がなくなったらどうなる? バベルが運営出来なくなって、子供たちはまたなりそこないを嫌う親の元に逆戻りだぜ。オレ達も職を失う。
それでも公表するってのか? みんなを養えるだけの甲斐性なんてお前にはないだろ。もちろんオレにもない」
「…………」
アゾキアの拳に自然と力が篭る。その通りだ。言い返せはしない。せいぜいクアベル一人を養うのが精一杯だろう。だが、魂は首を縦に振ってくれなかった。
「……まあ、違法栽培はものの例えだよ。ともかくそういうグレーな資金源が、ここには存在してんのさ。お前が下層を担当してるのは真面目だからだ。真面目、過ぎるからだよ。清濁を併せ呑むってことを知らねーんだ」
真面目すぎる? 馬鹿げたことを。アゾキアは失笑した。真面目だからという理由で叱られるなど、真面目さのみを自分の美点としてきたアゾキアには耐え難いことだった。
「……クアベル。君は、それを飲み下せるのか?」
「そりゃそうさ。他にどうしようもないからな」
「それでいいのか? 仕方なく選んだ選択肢でも、運命は決まってしまうものなんだぞ。他に解決策が見当たらないから、なんて理由で犯罪に目を瞑るなんて……言語道断だ。そんなもの併せ呑んだとは言わない。ただ妥協しただけだ」
「それで成り立つなら妥協でも構わねえだろ。事実、この天上宮が成り立ってんのはそういう妥協があるからだ。市民のそういう妥協の上に成り立ってる。子供を預ける側だって馬鹿じゃねーんだからそれぐらい分かるさ。タダで障害持ちの子供を引き取る施設なんて有り得ない。
善意なんかじゃ、バベルの塔は成り立たねーんだよ」
「御託だ、そんなもの! 結局ただの犯罪じゃないか!」
「でも誰にも暴けない」クアベルは言った。「だったら完全犯罪だ」
反響していた二人の声が薄れ、やがて広間は静まり返る。異様に胸元をムカつかせる静けさの中、アゾキアの拳は頑として緩まない。やむなくクアベルが先に口を開いた。
「割り切れよ」
「無理だ。あまりが出る」
頑強すぎる。まるで石だ。いくら彼女が粘土と言えどもこれには参った。だからこそ言及を避けてきた部分なのに。こうなればクアベルの心中とて穏やかではない。砂糖とキャラメルを五割り増しにしたサンクレールのモカを一気飲みしてやりたい気分だった。
突如、動き出すアゾキア。一歩一歩、靴の踵が苛立った様子で地を打つ。今すぐにでも警察に駆け込むと言わんばかりの気迫だった。
「どこ行くんだ?」
「管理官に直訴しにいく」
「ちょーいちょいちょいやめろって。オレまで怒られんだろ」
「叱られてしかるべきだ。黙認していたのなら君も同罪だ」
「はぁ……」頭を掻くクアベル。「めんどくさ……」
「めんどくさいだと!? いい加減にしろ! いくら口癖でも口にして言いことと悪いことがあるだろ! 福祉施設が犯罪の温床だなんて、子供達にどう説明するんだ!」
いよいよクアベルは投げやりになって、小さく舌打ちする。
「やめた方がいいぜ。管理官はただでさえ口が上手いんだから、証拠もなしに押しかけたって門前払い喰らうだけだ。門の前にすら立たせて貰えねえ。下手すりゃ首が飛ぶ」
比喩ではなく。だが、クアベルの真意は真面目な男には届かなかった。
「……ならまず証拠を集める」
「それはマジにやめとけ」
クアベルは鋭く言った。面倒くさがりな彼女にしては珍しく尖った声で。
「お互いのためだ」
「……君は知ってるんだろ、その、グレーな資金源とやらの正体を。なんなんだ? 五層から上に何がある? 魔草より危険なものなのか?」
「いやぁ、別に。危険とかじゃない。難儀なだけさ。それに全部が全部資金源ってわけでもないし、そいつらだけが資金源なわけでもない」
「そいつら……? 何を言ってるんだ。全く意味が分からない」
「兎に角やめとけアゾキアちゃん。世の中には知らない方がいいこともある。知ったってどうにも出来ねえよ。これは管理官の受け売りだけど……救おうとするのは自分の手が届く範囲に留めとくべきだ」
「そんなのただの妥協じゃないか!」
「だから、妥協でいいんだよ。なんでもかんでもブレずに貫き通せば美学になるってわけじゃねーんだ。そんなんじゃ、お前の方がピースのあまりになっちまうぜ」
「…………」
俯くアゾキア。だが目は死んでいなかった。しかとおぼろげな巨悪を見据えている。証拠も信憑性も何もない、自分の目で確かめたわけでもない、輪郭すら掴めぬ犯罪の影を。
「君はいつもそうやって……惰性と妥協で物事に折り合いをつけてきたのか」
「そうだよーん」
なら、とアゾキア。
「僕ともか?」
「さぁ。それはいえない」
「どうして!」
クアベルは軽い足取りで歩き出した。
「そーゆーとこ、そーゆーこと」
◆
陽は、静かに暮れていった。
暴力に勝るものはないと思っていた。男というのは大体がそうだ。特に子供のままの男は。そいつがポリシーになるともう手に負えない。
自信に勝るものはないと思っていた。男というのは大体がそうだ。特に子供のままの男は。心を打ちのめされて初めて己の陳腐さを知る。
震えが止まらない。男は息を漏らす。血溜まりからひゅうひゅうと空気の漏れる音がする。友達の声だ。いや、声とは呼べない。溜息だってもう少し元気がある。
何発だ。何発殴った? あの眉なしの面構えを何発殴った? そのうち何発が奴の顎をへし折った? 男は自問する。何度問うても答えは変わらなかった。
十発……十一発は殴った。だが一発も奴の顎を砕いてはいない。奴は微動だにしていない。今もこうして無傷で立っている。
六発を超えたあたりで何かおかしいとは思っていた。半信半疑のまま七、八発と打ち込み、石塊を後頭部に叩き込んだ時点で確信に変わった。
この男に暴力は効かない。少なくとも、物理的な暴力は。
「……あ……」
拳が痺れたままだ。石でも殴っているかのような感覚だったし──きっと実際に石を殴っていたのだろう。夢だ。全ては夢だったに違いない。でなければ、この目の前の腹立たしい男がにやにやと笑っていられるわけがない。
「……ありえねえ……」
やっとのことで男はそう言う。なりそこないのテディベアよろしくズタズタに引き裂かれた体から綿が漏れ出さぬよう、両腕を傷口に宛がったまま、ぜんまいが切れたようによろよろと歩を詰める。
リフターは立っている……無言、無傷、無表情……完璧に揃った三拍子だ。そこに無慈悲を足してもいい。傍らの女も同じく無表情だ。天使然としている癖に、慈しみなど〝い〟の字も知らないという目で男を見ていた。
「……こんなの、ありえ、ね……」
男はうつ伏せに倒れる。自由なのは瞳だけだった。動かしてみるも、右を見ても左を見ても友達の死体。もう一人は目の届かぬ後ろ側だろう。どちらにせよ一人も生きてはいない。大事なのは自分がどう生き残るかだ。生き残って、目の前の男をどう訴えるかだ。
証拠も凶器もなく、どう、訴えるかなのだ。
「これで分かっただろう? 安易に他人をなりそこないだなどと罵るものじゃあない」
ロニアの手を離し、リフターは歩を詰める。いつか碧玉にやった時と同じように、死に体の鼠を見下ろした。
「恐ろしいぞ、言葉は」
男は震えた。言われずとも理解している。遅すぎたようだが。
「よく聞け小僧。真に糾弾されるべきは心の弱さだ。私はそういう世界を作る」
そこでは、とリフター。
「肉体的な強さなど何の価値も持たない。男か女か、羽があるかないか……はたまた呼吸器をつけているかいないか……そんな下らない違いで人間を測ることはできない。神であっても。もうじきそれを教えてやる。もっとも、貴様はその前に死ぬがな」
ざぐり。男の背が裂ける。当人は血の色も量も見えまい。だが紛れもなく致死量だ。
「戒めておけ。言葉は人を傷つけこそするが、傷つける為に言葉があるわけではない」
「助けて……」
「結局は、言葉で死ぬような奴が悪いのさ」
「頼む……」
「見栄張りのグズめ」
大きな血飛沫。そうして少年は言葉で死んだ。
◆
「ビーガン」
マダムに名を呼ばれ、空咳をいくつか。庭師はやっとのことで鋏を納めた。
「これ持って帰りな」
差し出された小包の中を覗く。ヌヴジャコーツ・グリッダの缶が四つだ。シッターの代金にしてはえらく弾んでいる。
「手間をかけた。すまなかったね」
「受け取れませんよ、四缶も。別にヘビースモーカーというわけでは……」
「しばらくは気を回してもらうことになる。一応、ジズにはうまく誤魔化すよう伝えたが……まぁ、そこまで器用じゃあないだろう」
ははあ、それで四つか。いよいよもって庭師か保育士か分かったものではない。気持ちとしては断わりたいところだが、ビーガンは仕方なしにそれを受け取る。そういう男だった。
「……心配しすぎでは? 彼女は……」チネッタの方を見るビーガン。「面倒だが馬鹿じゃあありませんよ。なんとなく分かる」
「だから厄介なんだ。利口だからこそ割り切れない」
「……」
「真面目なのさ、よくも悪くも」
水晶窓の溝に刷毛を這わせるチネッタ。さっと掃いて、さっと捨てて、さっと拭いて、はい終わり……。はたしてどこに真面目な要素があるのだろうか。ビーガンは少し彼女を観察してみるが、理解するには至らなかった。
「たまには一緒に夕飯でもどうだい」と、マダム。「作るのはチネッタだが」
「折角ですが遠慮しておきます。まだ死にたくはない。それに、今日は夜勤が」
「天上宮かい」
「ええ。空中庭園を手入れしなければならないんです」
「天上で、空中を?」マダムは鼻で笑った。「人を選ぶユーモアだ」
「まあ、こっちと違ってグレーな草がないから気は楽ですが」
なんでもない風に庭師は言ってのける。草よりもグレーなものがあると知りながら。
「ビーガン、金が要るのはわかるが。あまりあの男に入れ込みすぎるんじゃないよ」
「リフター管理官のことですか? 悪い人ではないと思いますが」
「善悪の問題じゃない。奴は危険だ」
ビーガンは答えない。是も否も飲み下し押し黙る。ニチザツの方へと歩み出すと、マダムも追って後をついてきた。老体にも関わらず見送りとは恐れ入る。無言のまま増えていく足跡が、彼女の喉に閊えている言葉の重みを思わせた。
「お前は」やがてマダムが呟く。「天上宮をどこまで信じている?」
「どこまでとは?」
「片翼者一人を養うのにかかる金額がいくらか考えたことはあるか? 空を飛べないから移動手段が必要になる。すると羽馬が要るね。グリフォーンでもいいだろう。イグナシア中央快速の定期券も必要だ。空に住むアトラス民にとって、飛べないということは欠点でしかない。そこには一つのメリットもないんだ」
ニチザツがこちらを見る。ビーガンも彼を見返した。
「はっきり言おう。現状、経済の観点から見て──片翼者は社会の腫れ物だ。天上宮はそんな彼ら彼女らを無償で引き取っている。
育てるのにいくらかかる? その金はどこから来る? ボランティアで成り立っているはずの天上宮は何故あの景観を維持できている? 職員達には給料が支払われているね? お前もリフターから給料を貰っている。その金はどこから来ていると思う? まさか雨が降るみたいに空から降ってくるとは思ってないだろうね?」
「……何が言いたいんです」
「天上宮はグレーの上に成り立っている。それをよく覚えておきな」
風が二人を撫でた。
「マダム・クリサリス」
「なんだい」
「完全犯罪の定義をどう考えますか?」
老婆は目を細め、目で辿る。部屋の中のジズ、次は窓際のチネッタ、それが済んだら足元に咲く魔草……視線はそういう順番で移ろい、最後にビーガンへと戻ってきた。
「手口も証拠も掴めず、犯人が捕まらない犯罪。犯人が誰かすら分からない犯罪。
あるいは──法の穴をすり抜けた犯罪」
「模範的です」
「不満が?」
「マダム。完全犯罪というのは……起こったことすら認知されない犯罪。あるいは、認知されたとしても犯罪だとは認識されないものだ」
「ほう」
「知っていますよ。天上宮が劇場と提携していることぐらい」
あきれた様子でビーガンは続ける。
「育児放棄された片翼者を引き取り劇場へ高値で売りつけ、バグリスはそれを人身競売に出して元を取る。売られた片翼者は鉱雲労働に落とされるか、でなければ金持ちの玩具になるかだ。まあ、稀にあなたのような人に引き取られる者もいるようですが」
「……」
「よく出来たシステムだ。親は重荷となった子を処分出来るし、天上宮も劇場も儲かる。もちろん落札者だって望んで買う。損をするのは売られた片翼者だけだ。
だが、売られた者達が不平を託つことはない。二割の者は不自由なく幸せに暮らしてゆけるし、八割の者は従順な召使いとなるからだ」
要するに、とビーガン。
「誰にも暴けはしない。それゆえに完全犯罪なんでしょう」
「随分とドライだね」
「イエス・マダム。片翼者も、羽なしも、社会の腫れ物であると同時に──金脈にもなりうる。需要と供給が合えばいいだけのこと。僕は幸運な羽なしだ。技能に恵まれた。割り切っているんです。この家においても、バベルにおいても、あらゆることを仕事だと割り切っている。違法魔草を栽培していようが、人身売買に手を出していようが、それは僕の与り知らないところで起こったことだ」
「つまり?」
「あなたは僕を見くびりすぎている」
尖る庭師の目。吊られてマダムの頬が皺ばむ。
「どれだけ唆したって、あなたに天上宮の情報を流したりはしませんよ。逆も然りです。僕は言葉で惑わされたりはしません。あなたの言葉にも、リフター管理官の言葉にもだ。白であろうと黒であろうと、どちらかに入れ込んだりはしない」
「言うようになったじゃないか」
「おかげさまで」
ニチザツの背中に荷物を括りつけるビーガン。如雨露に釿、地鏝に麻縄。積層仕上げの刈り込み鋏。天上宮で使うであろう簡単な作業着も見受けられる。
預けられる雑多な道具の重さに、この従順なる馬は文句一つ言わない。割り切っているのだ。飼い主同様に。君主を蹄で打ったりはしない。
「結構」と、マダム。「雇われとしてはいい心がけだ。秘密は女にのみ許された花だが、秘密を守るのは女に限った話じゃないからね。分かっているならいい。今後もその調子で頼むよ」
言って、マダムは踵を返した。
杖で心臓をブチ抜かれなかったのが不幸中の幸いだ。不思議なことに、背を向けている今ですら斃たお》せるイメージが沸かない。なにもビーガンは彼女を殺したいわけではないし、そのつもりもないが。
「……」
ジズの居場所を吐くなということか、それとも天上宮と手を切れということか。
ビーガンは測りかねる老婆の姦計を払拭し、気だるそうにニチザツへ飛び乗った。
考えるだけ無駄だ。どちらでもよかった。中立の庭師にとっては些細なことだ。
どちらにせよ脅しに変わりはないし、どうせどちらにも転びはしない。
◆
サンクレール・マーケットの歴史は根深く、精肉店のウェールズ・アンド・ベイシーと並び、大洪水を生き延びた空飛ぶティーカップと称される。
旧時代の店舗だから、創業二〇〇〇年といったところか。亞人が創めた飲食店というわけでもあるまいに、どうやってこの天上にまで開業届けを持ってきたのか知らないが、その商品は市民に広く愛されている。クアベルお気に入りのカフェモカもその一つだった。
味もさることながら二十四時間営業、それでいて、お一人様から配達を承るというあたりが素晴らしい。配達員には気の毒なことだ。それも、カップ一つの注文で深夜一時に一等区まで……よりにもよってこのクソ寒い中を配達させられる者には、特に。
「止まって下さい」
巨大な青銅の正門を守護する、男女一組の警邏……そのうち女性の方が、石段を上ってきた影にそう告げる。福祉施設に似つかわしくない、鋭利な槍の穂先を向けて。
「名前は?」
「サン・クレールだ」影は答える。
「店ではなく、あなた個人の名前です」
「関係ねーだろ」
「決まりなもので」
「ザバサ。ザバサだ。洗礼名はない」
影はローブのフードを取る。鳥の頭が露になった。カラスだか、スズメだか、松明だけではいまいち表情がつかめないが、ともかく鳥だ。青い眼と少し欠けた嘴。足先は三つの鉤爪だが、二足で直立し小脇に袋を抱えている。組み間違えた人形みたいに、頭だけが鳥のそれに挿げ替えられていた。いや、どうだろう。背中の翼を考えれば、こっちの方が自然な見てくれかもしれないが。
「鳥人種。亞人でしたか」
「見りゃわかんだろボケ」
「配達とは?」
「こいつだよ」
ザバサは袋を差し出す。反射的に警邏達が身構えた。
「おいおい。爆弾じゃねーって。福祉施設でテロやってどうすんだ」
「中身は? 誰にです」
「カフェモカだ。信じられるか、単品だぞ? 三棟四号室の女に……」
正門の背後で扉が開く。相変わらずのよれたローブ姿でクアベルが出てきた。髪の枝毛がいくらかマシになっているあたり、風呂には浸かったようだ。
「へいスズメちゃん、毎度どーも」
門を開け、警邏達の間に割って入るクアベル。石鹸の香りが漂った。
「ツバメだボケ。殺すぞ」巾着袋を差し出すザバサ。「一二〇〇ゼスタ」
「カフェモカは八〇〇ゼスタだぞ」
「チップ文化も知らねーのか」
「アスカにゃそんな文化ねーよ」
「お前はエウロパニア系だろ」
「なんだよしょうがねーなぁ」
クアベルは一〇〇ゼスタ硬貨を余分に渡した。給料からすればはした金だ。ここにも物臭の片鱗が窺える。ちょっと多かろうが少なかろうがどうだっていいのだ。
硬貨を袋へと放り込み、ザバサは天上宮を見上げた。
「このクソ寒いのに、こんな場所まで配達させやがって」
天上宮バベル──神々による言語の解体事変を名に持つ白亞の巨塔は、アトラス一等区域の最高層に屹立する。大理石で組まれた円錐体の頂上は雲に包まれており、螺旋状に通路が纏わりつくその見てくれは、さながら蛇がとぐろを巻いたようであった。
東西南北には見張り番の為の物見櫓が設けられている。塔を一本の指に例えると、大体爪の付け根あたり……天上宮の仕組みで言えば、頂上を含め七層に分かれた内の〝五層〟に相当する高さだ。水晶レンズと思しき筒状の機械で、警邏がこちらを覗いているのが窺えた。
言を失する巨大さだ。およそ、人の手で建てられたものだとは信じがたい。
「福祉施設ってのは」ザバサは呟く。正門の奥、ちょうど扉の前の庭園にある左右一対の石膏像を見やりながら。「こう悪趣味なもんか?」
天使を模ったものだ。しかしながらともに片翼である。なるほど片翼者を収監する施設としては、イメージ作りも大事なのだろうが。
「いつ建てたんだ、こんなもん」と、ザバサ。
「先祖の頃にはもうあったらしいぜ。地上のどっかに建てられてたんだろ」
剃刀一枚分の隙間もない石積みを、クアベルがこんこんと叩く。
「最初はボロボロだったらしい。そらもう、戦争でもやったのかっつーぐらいで……管理官がそれを修繕したんだと」
「度量は買うが……まともな建築士を雇うべきだな。扉のところなんか特に最悪だ」
〝亞〟に似た二重のアルザル文字に、二匹の狼、世界樹、洪水、月と太陽……目が滑るほど難解に刻まれたレリーフが、この巨塔の成り立ちを表している。加えて、人々が天上へと逃げ延びた経緯も。
「なぁ。この施設……」ザバサは呟く。「どうやって維持してんだ。寄付は取ってねえんだろ」
「……さぁ。管理官は実業家だからな。へそくりでやってんじゃねーの」
彼女は曖昧にはぐらかした。純真な警邏達の手前だ、答えようにも答えられまい。
袋からモカのカップを取り出し、クアベルはストローに口づける。魔草の茎で作られたものだ。これも彼女のお気に入りだった。甘さをすっきりさせてくれるのだ。
「やっぱこの味だ。また頼むぜ、ザバサくん」
「どうでもいいけどよ、お前、マーケットでちょっとした有名人だぜ」
「は? オレが? なんで?」
「こんな時間にカフェモカ一つで配達させてっからだろ。あだ名までついてる」
「当ててやろうか。〝ティンカー・ベル〟だろ」
「〝夢遊病〟」
「そいつ呼んで来い」
「もう一つ注文するんだな」
溜息をつくザバサ。
「夜中に頼むのはやめろ。でなきゃせめて三等区から下に住め。遠すぎる」
「仕方ねーだろ、羽なしだらけなんだから」
「なら昼間に買い溜めして冷蔵庫に入れとけ。次からは別のモンも頼めよ」
じゃあな、と右手を上げて、ザバサは一対の翼を広げる。いよいよその姿は鳥人間だ。闇色の中天に軽く跳ね、彼は真っ逆さまに雲へと落ちていった。
「……隣の芝はー」歌いだすクアベル。「なんとやらー、るーるるー」
警邏達はばつが悪そうに目を逸らす。クアベルの──片翼の後ろ姿に哀愁が漂っていたのだろうが、彼女からしてみれば特に意味なく歌ってみただけだ。片翼ごときにコンプレックスを抱えるほど、彼女の脳味噌は精緻に出来ていないのだ。
「ラズワイル殿」警邏が言った。「今夜は冷えます。早く中へ」
「いや外出するし。ちょっち羽馬借りるぜ」
「今からですか? 貸し出し届けを提出して頂かないと……」
「ありませーん。管理官サマ直々のご命令でーす」
「命令って……お待ち下さい、こんな夜中にどこへ」
うーん、と首を捻るクアベル。
「夜襲的な」
「夜襲?」
「一時間で戻りマース」
呆気にとられる警邏達を余所目に、クアベルは飄々と馬小屋へ歩を進める。六匹並んだ羽馬の内、最も小振りな一頭を小屋から出して鐙に足をかけ──
そこで下腹部を排尿感が襲った。出るような出ないような、ほんのカフェモカ一杯足らずの微妙な具合の奴だ。クアベル=ラズワイルという物臭な女がどういう選択肢を取るかは、もう言うまでもあるまい。
「……まぁいっか」
一時間ぐらいなら我慢出来るだろう。今から戻って厠へ行くのも面倒だし……相変わらずの人となりで、クアベルはひょいと羽馬に跨った。
後回しにする癖というのは厄介なものだ。大概そのツケは自分に回ってくる。仕事であるにしろ、勉強であるにしろ、はたまた排尿であるにしろ。
どんな面倒くさがりだって、大体は一度痛い目を見れば懲りるものだ。毎回ギリギリでなんとかなってしまうから、本当の意味でやらかしたことがないから、いつまで経ってもそういう悪癖が治らないだけで。
クアベル=ラズワイルは尿意の爆弾を抱えたまま夜襲へと飛び出す。それが爆弾だとは知らなかった。本当の意味でやらかしたことがなかったから。