告白しよう。温もりに焦がれたこともあった。孤独というものは得てして人を惨めにさせ、人に産まれるとはどういうことかを理解させるたちのものだ。そこに意志の強さや心の硬度は関係なく、あるのは時間との勝負だけだ。
告白しよう。温もりに焦がれたことがあった。底抜けにほがらかで饒舌で、常に己の幸運を愛し、自らの選択で道を開く意志の強さを持ち、どんな窮地においても軽口を叩く心の硬度を誇る、このジャスパーという男でさえ温もりに焦がれたことがあったのだ。
ああ、だから庇ってしまったのだろう。望みは叶った。望んだ形であろうとなかろうと。
彼は今まさに温もりに触れたのだ。
顔を真っ赤にして己の腸から這い出てきた、三七度の温もりに。
「ジャスパー!」
ジズの叫びを待たずして、ジャスパーは膝から崩れ落ちる。そこに彼の意志は介在していなかった。咳き込み血反吐をぶちまけ、待ち望んだ空を親の仇がごとく睨みつけ、それから彼はゆっくりと振り返る。
「────リフター……」ジャスパーは苦笑した。「てめえ……」
した……というか、するしかなかった。それが今の彼に出来る最高の反撃だった。
男も笑った。自らが設けた家畜の傷口に満悦したのか、白い制服の襟をただし、一〇余名の警邏を背後に引き連れ、天上宮バベルの最上階──アルザルの中心、中天核に最も近い、その足場を踏む。
齢、だいたい……一二〇か、一四〇……外部地球で言えば、四、五〇代といったところか。背丈は警邏たちより頭一つ抜けて高いが、特別に屈強な体格というわけではない。所作は洗練されているが、戦士としてというわけではなく、むしろ、役者や為政者が壇上に立つ際の振る舞いに近く思える。
ウスターシュのように戦の心得を持つ者ではあるまい。椅子を暖める側の人間だ。一見しただけでは、さしたる脅威にはならないように見える。
見えるのだが──瞳……勿体つけて口鬚を弄びながらも、その眼光だけはただならぬ異彩を放っていた。人畜無害な木偶の坊というわけではなさそうだ。
「まさか、割って入るとは」
そう言ってジズらの前で立ち止まる。翼隠衣をひけらかし、男はまた笑った。眉のない顔で、あたかも聖者がごとく。
「ヴァイカリオスの名に相応しい行いだ。滑車が必要か? 鼠ども」
平淡な声色だ。そこに怒りはなかった。朝食のトーストとオムレツを平らげ、九〇度のお湯で入れた珈琲をすすり、穏やかな心持ちで湯気と共に煙をくゆらせながら発せられた言葉だ。実際のところがどうあれ、ジズとジャスパーにはそう聞こえた。
この男の声はいつもこうだ。常に平らで、穏やかで、説法でもするように言葉を紡ぐ。
それがどうにもジャスパーの癇に触る。腸が煮えくり返るのだ。もっとも風穴を空けられた今となっては、言葉の所為か傷の所為か分かったものではない。
「ジャスパー!」たまらずジズは駆け寄った。
大丈夫なわけがない。彼女自身も理解しているが、ただ反射でそう言ってしまっただけだ。ジャスパーのほうもわかっている。焦りと混乱とで、彼女の瞳が小刻みに揺れていたから。
つうか、なによりも、べらぼうに腹が痛えからだ。こいつは多分、助からねえ。
「血が……」
ジズの翼の薔薇色が、少しずつ陰りを帯びて煤ばんでゆく。ジャスパーはそれを見逃さず、大丈夫だという風にジズの手を押しのけた。
「嫌ンなるぜ……」と、ジャスパー。「変態管理官サマ御自らご登場とはな……」
「慎め」付き添いの警邏が言う。「天上宮バベル最高管理官、リフター=レグレンターニ様の御前であるぞ」
「あぁ。つまり変態の王様ってわけだ。大層なお見送りどうも……」
「見送り?」口ひげに触れるリフター。「出迎えだ、ゼブラ。言葉は正しく使え」
「……ジャスパーだ」
「いいや、ゼブラだ。ここに収監された全ての鼠はフェザーコードのもと管理される。貴様はゼブラであり──」ジズを指すリフター。「彼女はオペラだ。過去の名など捨て置け」
捨て置け、だと。忘れさせないのは貴様らのほうだ。ジャスパーは力なく笑みをこぼす。
「だったらてめえのフェザーコードは〝眉なし変質者〟か」
「ナンセンスだな。石の羽で飛んでゆけるとでも思ったか?」
リフターが指を弾いたのを合図に、槍を構えて警邏たちが詰め寄る。ジャスパーではなく、ジズの方へ。向けられた穂先を注視しながら彼女はじりじりと下がる。やがて踵が床の感触を失った。
袋小路だ。鼠にはおあつらえ向きとも言える。
血溜まりの中に歩を進め、リフターはジャスパーの首元を引っ掴み──
「く……」「悔しいか?」
──出所の知れぬ膂力で、彼の体を暁闇へとかざす。
「だろうな。自由を前にして望みが絶たれたのだ。おお、なんと哀れなことか! せめて翼が一対揃っていれば、飛び降りてでも逃げ果せただろうに!」
射すようなジズの眼差しを鼻で笑い、リフターは右手に力を込める。
「よく聞けゼブラ。仏の顔は三度までだ。仏ですら三度までなのだ。私は貴様が謀った脱獄に三度出くわし、そのいずれも肋骨をへし折るだけに留めてやった」
「違うな」ジャスパーはせせら笑う。「二回目は鎖骨だ」
「鼠の骨格など知ったことか。この脱獄は四度目だ。しかも貴様はあろうことかこの最上階に辿り着き、あわや脱空寸前に差し迫った。その執念たるや見事と言いたいところだがな、手を噛む畜生に四度も情けをかけるほどの慈悲は──私にはないぞ」
「眉と一緒に剃っちまったからな……」
いつも通りの軽口だ。だが声色に勢いがない。瀕死の鼠をリフターが小さく鼻で笑い、窓を拭き終えた雑巾を投げるようにして地へ放り出した。槍が衝撃で押し込まれ、ジャスパーがまた呻き声を上げる。
幸運が常に味方とは限らない──こびり付いていた老人の戯言は箴言へと形を変えた。もはやこの場に幸運の女神は訪れまい。
「寄るな!」自分を取り囲む警邏たちに向け、ジズが声を上げた。「寄るなってば!」
背後は淵だ。踏み外せば綿雲の群れへと真っ逆さまに落ちてゆく。これ以上は下がれない。翼の使い方も知らぬ彼女なりのささやかな抵抗だった。リフターはジャスパーから視線を外し、お道化た調子で彼女の方を見やる。
「鼠はいつも怯える」と、リフター。「私が救ってやろうというのに」
「ジャスパーを刺したくせに! あんた頭おかしいんじゃないの!」
「そう引き下がるな。うっかり落ちたらどうするつもりだ。飛べもしないのに」
ジズは下唇を噛む。苛立ちが自然と拳を握らせるが、その拳をどうしようもないという事実が更に彼女を苛立たせた。
「……理由は知らないけど」ジズは苦し紛れに言う。「アンタ、私たちを檻に入れておかないと困るんでしょ。それ以上近付いたら飛び降りてやるから!」
「これはこれは……」
肩をすくめるリフター。彼が右腕を下げると同時に、警邏たちも一斉に穂先を下げた。
「いいだろう。では飛び降りて逃げてみるがいい。そこから落ちる勇気があるのなら。なに、どうせ我々は困らない。飛んで追えばいいだけの話だ。翼があるのだから」
顔も言葉もいやらしい男。ジズは下唇を噛んだ。
「どうした、早くしろ。待ちに待った自由だ。その頼りない翼で、魔気流の中を泳いで故郷へ帰るがいい。セントガメラルのハレハグラ・ドゥラハだったか? 二〇分も飛べば辿りつけるだろう。腹を刺された大莫迦者がくたばる頃には熱い湯船に浸かれる」
言葉の全てがジズを刺す。向けられた槍の矛先よりもきめ細やかに。そのたびジズの羽根が疼き、少しずつ黒く染まってゆく。
刃物だ。
この男の言葉は──ひどく鋭い。
「命の賭け方を理解していないようだな、オペラ。貴様に死ぬ覚悟などあるまい」
「知った風な口利くな……!」床を踏むジズ。
「ならば死んでみろ」
「私は本気だ!」
「言葉が軽いぞ」
まただ。また足が言うことを聞かない。ジズの頬を嫌な汗が伝った。
半ばやけくそのように何度も一歩下がろうとするが、震えの枷が邪魔をする。イメージすら掴めぬ死の恐怖が彼女の足を固めてしまった。
翼にしてもそうだ。どくどくと心臓が高鳴るのに合わせて鼓動するだけで、飛んでやろうという気概すら見せない。石になど出来ないのに石同然だ。姿なき怪物が、彼女の体を押さえつけている。
その幼い膝の震えに目を落とし、リフターは続けた。
「よく、悪趣味だと言われるがな……。こう見えても私は悲劇が嫌いだ。悲劇の主役を張ったつもりでいる人間も然り。特に」
尖った視線がジズを刺した。
「死んでやるなどと妄言をのたまいながら、天使を待つように救われるのを期待している女。曇った悲劇を香水のように振り撒く女は──殊更好かん。ちょうど、今の貴様のような女だ。本当に死ぬ人間は黙って死ぬ。言葉すらも抱えて」
リフターの言葉通りだ。彼女に死ぬ覚悟などありはしなかった。苦し紛れの虚勢から紡いだ恫喝など、恫喝としての意味を持たない。ただでさえ声が震えているのに。
「動いて……」ジズは膝裏をぴしゃりと叩く。「なんで、動いてよっ……なんで……!」
また既視感が彼女を襲った。洪水を起こしそこねたいつかの夢。無策に手首を切っただけの愚かな夢だ。
思い通りにいかないと、ジズはすぐ慌てる。慌てふためいて、そのうち右も左も分からなくなって瞳に涙をしたため、そうしてまた焦るものだから、気持ちばかりが先走って何もかもが上手くいかなくなる。極度の情緒不安定と言ってもいい。
自分の思い通りにならない世界には──現実には、気が狂ってしまいそうになる。
あらゆる覚悟がジズには足りなかった。自由の為に傷を負う覚悟も、飛び降りる覚悟も──薔薇水晶を象るのが愛や優しさだというなら、自由の為に自分を変える覚悟さえ持ち合わせていなかった。
ジズは睨んだ。有りっ丈の憎しみを込めた潤んだ目でリフターを睨んだ。それだけだった。足はぴくりとも動かせなかったし、言葉すら喉元で閊えていた。
リフターはそんな彼女へ嘲笑を送りつける。鼠の戯言程度にしか考えていない。そういう男だし、実際その通りだ。そろそろかといった調子でジズから視線を外して、彼は息も絶え絶えといった様子のジャスパーを見下ろした。
「どうせ主役を張るなら本物の悲劇に酔え。いい機会だ、言葉の使い方を教えてやる」
睨むジャスパー。掠れた息。床には血溜まり。腸には槍。リフターは腕を伸ばし、そいつを一思いに引き抜いて掲げる。占領の証に似ていた。ごぼりと不吉な音を立て、ジャスパーは真っ赤な湖へと沈んだ。まさに鼠だ。これでこそ鼠だ。惨めさあっての鼠だった。
「ジャスパー!」
ジズは叫ぶ。ほとんど金切り声のようなものだ。自分を庇ったせいで彼の腸に風穴が開いたという事実は、彼女が受け止めるには重すぎた。
受け止めるだけならまだしも、それを差し置いて素知らぬ顔で逃げ出せるほど彼女は器用ではない。愛や優しさと呼ぶならそれもいいだろうが──割り切ることを知らないだけだ。
赤。赤。赤。誰もの中に流れる赤。それでいて、滅多に見ることのない赤。陽に焼けた眼で直視するにはあまりにも赤すぎる赤。洪水が徐々に面積を広げ、大理石の白を侵してゆく。
致死量だ。一目で分かった。ろくに血も流したことのない少女でさえも。
間欠泉みたいに血が溢れ出すのを、ジズはおろおろと見ていた。そのほかなかった。救わなければと気持ちだけが前のめり、その感情の熱量こそが彼女をまた雁字搦めにする。
翼が疼く。ずきずきと疼く。黒く染まる。心臓も疼く。まるで虫歯だ。耐えられない。泣き虫にはとても耐えられない。
ジズはまた泣いた。静かに泣いた。泣いてもどうにもならないのに、涙は音もなく頬を伝う。愛と優しさは隣人を救う術をもたず、ただ茫然とそこにへたり込んだ。
「栓を抜いた」
長槍を血振りし、リフターは芯の通った声で言った。
「もって一〇分だ。こいつは死ぬ。何故だか分かるかオペラ。止血する者がいなくなるからだ。警邏はみな貴様を捕らえるために綿雲の下へと飛んでゆくし……私は……そうだな、部屋へ戻って絵画の続きを描かなければならない」
リフターは優しく言う。だがその波に優しさはない。言葉が彼の口をつくたび、ジズの翼がじわじわと黒く染まっていった。涙さえ黒ずんだ。
茫然自失だ。目が死んでいる。こころ同様に。リフターの言葉は半分も届いていないだろう。にも関わらず彼の言葉は、くたばりかけの鼠の心臓を完膚なきまでに抉ってみせる。長けているのだ。人の弱きを刺すことに。
リフター=レグレンターニ──眉も慈悲もなき男だ。言葉で人を殺そうという。
「飛び降りればこいつは死ぬ。この世から鼠が一匹減るのだ。慈善事業だぞ。慈悲の一つだ。薔薇水晶の翼に恥じぬ──愛と優しさに満ち溢れた行いだ。気分は晴れやかか? さあ、逃げ出せオペラ。尊き犠牲だ、噛み締めろ」
ジズは。
「やめて……」ジズは力なく呟いた。「お願い、やめて……」
「なにを迷う? 薔薇水晶は愛の石だ。自己愛の石だ。貴様は自己愛の塊だ。どうだ? 死ぬ覚悟はおろか殺す覚悟すらありはしまい。なりそこない風情があまり私をなめるなよ。貴様の代わりなど掃いて捨てるほどいる。余計な真似さえしなければ鼠なりの安息を送れたものを。貴様の所為だ。分かるかオペラ、貴様の所為だ」
「……私……?」
はまった。ジャスパーが舌打ちした。
「……私の所為……?」
光のない眼でリフターを見上げ、生気のない声で復唱する。そこにジズの意志はない。ぶつけられた言葉がそうさせた。
これだ。このやり口にリフターという男の本質がある。ジャスパーは槍でもリフターでもなく、ただ彼のやり方を恐れていた。
人の在り方を言葉で導き闇の濃い方へ惑わせる、洗脳じみた心の殺し方を。
「耳を貸すな、ジズ……」
ジャスパーが呟いた。呟いたつもりだった。虫の息とはこのことだ。とはいえ声の大きさに関わらず彼女には届くまい。幸運を信じる男とは違う。意志も胆力も持ち合わせていない。齢だいたい十七の少女にそこまで求めるのが酷というものだ。
ジャスパーの忠言は、もうジズの鼓膜に届いていなかった。ジズの心は脆すぎた。叩かれた宝石が綺麗さっぱり割れるように──劈開したのだ。
「そうだ」リフターは唱える。「貴様が殺したも同然だ」
「……私が……?」
「貴様が翼の使い方もろくに知らぬ所為で、この男は死ぬのだ。」
「……私のせいで……?」
「そうだ。貴様を庇って死ぬ。貴様が利口であれば助けられた命なのに」
「……私をかばってジャスパーが死ぬ……?」
「そうだ。貴様が愚かな能無しに生まれた所為で死ぬ」
「……私のせい……」
妄言だ。真に受けるには値しない。されど、言葉は心の硬度によって響き方を変える。弱い者にほどよく響くのだ。そう、例えば泣き虫で慌てんぼうで情緒不安定で、檻に入れられていた過去や致命的なコンプレックスを抱える女なんかに。
この男が吐く言葉自体はただのはりぼてだ。ジャスパーはそれを知っていた。ただ旧時代の言葉の名手達に影響を受け、愚かにも私淑しているに過ぎない。
それでも言葉の扱いには長けていようが、真に恐るべきは言葉ではなく、言葉が力たり得る環境を作り出す力……演出力にある。
カリスマを演じ切った完璧なる役者──そこに説得力が生まれた時、彼はもはや役者ではなくカリスマそのものに他ならないのだ。この男の言語的資質と演出の才はそれを可能にする。
言葉というものは呪いなのだと、自らがその言葉で証明している。
「……助けて……」
やっとのことでジズはそう絞り出した。
「お願い……ジャスパーを助けて……」
ジズは縋った。天使に縋る気持ちでそう言うしかなかった。だが、言葉の先の男は天使などではない。眉のない絶望はただ無表情に──眉一つ動かさずに彼女の瞳を見据える。そもそもないものは動かしようがないのだ。
「お願いだから助けてよ! ジャスパーをっ……このままじゃジャスパーが……」
もはや彼女の翼に光はなく、美しかった桃色など見る影もない。炭みたいに黒ずんだ羽根が鬱蒼と茂ったその様は、死んで干からびた鼠でもぶら下げているようだった。
水に落とした黒いインク──一番飾り気のない表現をすればそうなる。彼女の心臓の陰りが翼のほうへ漏れ出しているのだ。そう言われれば誰だって信じるだろう。事実、彼女が焦燥と不安に駆られ、感情にその心を揺さぶられるほど、闇は侵食の足を早めた。
心臓か、翼か、それとも別の場所か……もうこの痛みがどこから来るものなのか、ジズには分からなかった。
「早くしないと、ジャスパーが死んじゃう……」
じわじわと彼女の翼に広がっていた黒が、ついに羽の先まで達した。
薔薇は死んだ。もはや薔薇ではなかった。こんなものが薔薇の色であってはならない。そこに愛と優しさの色はなく、ただ絶望と闇のみが彼女の翼を縁取っていた。
薔薇は死んだ。死んだのだ。
煤ばみし陰りの薔薇は馥郁とした香りを漂わせ、心もろともに闇の底へ飲まれてゆく。残酷だが美しくもあった。絵にすればさぞかし映える光景だろう。
リフターは満足そうに──これが見たかったという表情で──黒く染まった彼女の翼を眺め、一区切りついたとばかりに口ひげを撫でた。
「おお、汝、病める薔薇!」
冗談などではない。声色は迫真そのものだった。なんとも悲劇然としたこの光景がいたく芸術的で高尚なものだと、この男は本気で思っているのだ。
どこまでも趣味が悪いクソ野郎。ジャスパーは霞がかる意識の中で毒づいた。
「天使のなりそこないはどこに住むべきだ? オペラ」
ジズの顔が力なく上がった。期待するように、ゆっくりと。
「貴様の答え次第ではゼブラを殺さないでおいてやる。言葉の力を軽んじるな。そいつは人を生かしもするが殺しもする。他人の生死すら貴様の言葉によって左右されるのだ。よく考えて口にしろ、オペラ」
中天太陽が輝きを増した。朝の訪れだ。後光が差す。皮肉にも、悪魔のようなこの男に。
「貴様は、どこに住むべきだ?」
「飛び降りろ、ジズ……」ジャスパーが言う。「ジズ!」
自問の時間はとうに終わった。後は自答するだけだ。そこにジャスパーの声が挟まるだけの隙間はない。彼女はもう目線すら移さなかったし、その目はどこを見ているのかすら分からなかった。
虚空だ。その両目にはリフターもジャスパーも映っていない。明けがかる自由の空ですら、墜ちた彼女の瞳に映ることは適わなかった。
「……戻ります……」
「言うな、ジズ! 自分のことだけ考えろ!!」
リフターの爪先が腸を打つ。馬鹿げた熱と痛みの波。溶解寸前の鉄棒を突っ込まれた錯覚に陥り、ジャスパーはいよいよ正気を失いかけた。それでもくたばるところまではいかないというのだからたちが悪い。食い縛りすぎて疲労した顎を更に酷使し、彼は眼だけでジズへと語りかける。
されど、届かない。届くはずがなかった。言葉ですら届かぬものが、言葉なしに届くはずはなかったのだ。ジズは憂うように彼の方を見て、くしゃりと顔を歪め──
「檻に……」
──なりそこないの笑顔を向ける。そうしてリフターへと顔を戻した。
「檻に……檻に戻ります……だから、だからっ……ジャスパーを……ジャスパーを助けて……助けて下さい……お願い…………お願いします……」
「どこに住むべきかと聞いた」
「……檻です……」
「復唱しろ。〝私のような天使のなりそこないは檻に住むべきです〟と」
駄目だ。言うな。言葉は人を染め上げる。ジャスパーは忌々しげに目を閉じた。祈りか諦めか……どちらだっていい、そのどちらかだ。どうせ結末は変わらない。こればかりは幸運でもどうにもなるまい。目立ちたがりの奇跡という役者ですら二の足を踏むシチュエイションだ。でなければ彼の腸に風穴は開いていない。
無理な話だ、分かっていた。いっそ彼女が残忍な裏切り者であったなら、その方がどれだけ救われたことか。ジズがジズであることを捨てるなど、土台無理な話なのだ。
薔薇は、枯れても薔薇にしかなれない。
「……私のような……天使の……天使のなりそこないは……檻に、住むべきです……」
「よろしい」微笑みがジズへと向けられた。「自己犠牲の精神。それでこそ薔薇だ」
リフターが指を弾く。聞くのは三度目だ。警邏が詰め寄り、ジズの両腕を掴んで立たせる。もはや彼女に抵抗する様子はなく、俯いたまま頼りなく立ち上がるだけだった。
「……はやくジャスパーをたすけて……」
「おっと、そうだったな」
わざとらしく言い、リフターは笑みを崩さぬまま槍を拾い上げる。矛先が再び死に体の鼠のほうを向いた。
「え……」
ジズの頭は追いつかない。彼女一人だけが理解できていない。あるいは理解を拒んでいるのかもしれない。彼女がもう少しだけ悪徳について知っていれば、こうなることは見当がついたはずなのに。
だろうな、と……ジャスパーは歯を覗かせた。
「前向きに検討しよう」
そう言うやいなやリフターは、小数点以下五秒あるかないかほど黙考し──これでも彼なりに前向きに検討した結果──槍をジャスパーへと突き立てた。
「ジャスパー!」
心臓を一突きだ。狙いに狂いはない。ジズが叫ぶのも致し方ないことだった。先刻まで濁り切った沼の底のようだった心が一気に掻き乱されていく。激情と同時に先走った体は警邏達に容易く押さえつけられ、いかに自分が惰弱な子供であるかを彼女に知らしめた。
「離せ! 離せッ! リフターッ!!」
物言わぬジャスパー。死んだ碧玉。ジズの心臓が疼く。汚濁した翼が脈打つ。知らない感触だ。いい気分ではない。気を抜けば暴れ出しそうなほどざわついている。この気持ちをなんと呼ぶのかジズには分からない。
熱量がある。ひどく熱い。そして巨大だ。言うことを聞かない。鎌首をもたげて暴れ回る。怪物の手綱でも握っているみたいに感じる。一度気を抜けば全てを滅茶苦茶に散らかしてしまうだろう。
暴発の瀬戸際。ジズはこの感情を知らぬ。愛や優しさなどではないことだけは確かだった。この翼の疼きにしても、流れてきた涙の理由にしても。
「この野郎! この野郎ッ! 殺さないって言ったのにッ!」
「無知は罪だぞ、オペラ。比翼者は寿命以外に死を持たない」
槍が引き抜かれ、傷口から漏れ出した血液が碧玉によく似た緑へと変色し──そうして水が凍るみたいに固体化していった。
いや──石化と言った方が正しい。あの輝きと深い緑は碧玉の色そのものだ。
早回しの映像でも見ているのか。ジズは目を疑った。やがてその緑は草花の根が地の底へ伸びるようにして。体の全てを石にすべく傷口から広がってゆく。表面だけではない。きっと、皮膚の下にある血液やら筋肉やらまで石にしているのだ。
石化。紛れもない石化そのものだ。
ジャスパーが石になってゆく。劇画としか思えぬ光景だった。
いっそ──いっそ、全てが夢であったなら……。
「生体鉱物化現象」満足げに言うリフター。「女神ノキアに感謝しておけ。貴様らはそういう体質だ。五〇〇年という天寿を全うするまで──ただ、石になるだけだ」
「卑怯者ッ!」
「狡猾と言え。そのほうが聞こえがいい」
リフターの言葉の意味がジズには分からなかった。分からなかったが、石になろうがなるまいが、ジャスパーがジャスパーでなくなるのなら死んだのと同じだ。お喋りマシーンは二度と軽口を吐けなくなり、石の仮面みたいな仏頂面でこっちを睨み続けるだろう。
そんなのは、生きているとは言えない。
リフターは今にも噛み付きそうな剣幕のジズを一笑に付し、苔が生すようにして緑に覆われてゆくジャスパーへと向き直った。
「五〇〇年……決して短くはない。孤独だぞ、ゼブラ。人は孤独にだけは決して耐えられないように出来ている。貴様は死ぬのだ。千年の孤独を生きて死ぬ。琥珀の中に、時を閉じ込めたまま、死んでゆくのだ」
「……詩人が鼻で笑うぜ」
「貴様ら無学な連中は詩人を鼻で笑うのだろうに」
腕を組んでリフターは続ける。
「どうだ。笑う余裕はあるか? 愚かな鼠どもめ」
「……愚か。愚かか、そうだろうな……」
曇った視界の真ん中、涙でぐちゃぐちゃになったジズの赤ら顔を見て、ジャスパーは力なく笑った。
「とち狂いかけてまで手を差し伸べるってなぁ、確かにアホたれだ」
「話がわかるな」リフターが言った。「他人の痛みで茨を握る、薔薇に縛られた愚かな女だ」
「だがな……」血反吐に咽るジャスパー。「そいつは美徳ありきだぜ」
「辞世の句まで強がりか。詩人が鼻で笑うぞ」
「てめえは死人に笑われんだよ……」
碧。頼もしさと英気に満ちていた碧玉の男が、今まさに放つ虚勢──その、目も当てられぬ弱々しさにジズという女は打ちひしがれ、静かに落涙する。
自己愛。美徳。違う。そんなんじゃない。私はただ。でもでもだって……。
「ジャスパー……」意味もなく名を呼び「……泣くな、グズ」意味もなく答える。
ああ、きっと。
この美しき無償の愚かさこそが、天使になくてはならないもの──
視界の隅に影を見る。
すばしっこい。ちょろちょろと動いている。虫か? いや違う。やけに早い。警邏の足元を掻い潜り、ジズの方へ向かって一目散に駆けてゆく。
ジズを掴んだ警邏の顔に張り付き──たった一言──そいつは、チィ、と鳴いた。
「おわっ」警邏が叫んだ。「なんだ!」
「チィちゃん……」ジズがぽつりと呟いた。
鼠は牙を立てる。視界を塞ぎ、鼻に噛み付き、肉を削いでは飛び降り駆け出し、かわるがわる警邏へと飛びついた。せわしなく槍先を避けながら警邏の足元を駆け回り、翻弄しながらも小さな前歯を突き立てる。
奇跡と呼ぶには奇妙な絵面だ。だが紛れもなく奇跡だった。
ああそうだ、誰も奇跡の爪痕など信じまい。自らの目に刻まれでもしない限り。
ジズの目に光が戻る。石のヒビ一つほどの光だ。活路にしては狭い。せいぜい鼠一匹と一人分。二人は通れない。ジャスパーが腹づもりを決めるにはちょうどよかった。
「オペラを押さえろ!」
リフターが叫ぶ。僅かに遅い。意識もこちらに向いていない。ジズは呆気にとられた様子で眺めている。
ジャスパーはあがく。最後のあがきだった。鼠ごときに負けてられるかと、あるいは自分も鼠の端くれだぞと、そういう気概で牙を立てた。残り少ない碧玉の翼をギリギリまで薄く伸ばし、警邏達の首元を撫で斬り、剃刀の横っ腹でジズの小柄な体躯を空へと叩き出す。
もう彼女の意志は関係ない。そこまで面倒を見てやる義理はない。後は彼女次第だ。
ジズと目が合う。一瞬だけだ。だが永久にすら思えた。
あんた、頭おかしいんじゃないの──そんな目だった。
「ジャ……」「あばよ」
そうしてジズは真っ逆さまに落ちていった。
後を追うようにしてチィちゃんも落ちてゆく。一人と一匹は波に揉まれ、乱気流に流され、菫色の髪と灰色の毛並みをくちゃくちゃにしながら重力に従う。なんとも輝かしい朝焼けの中を、なりそこないの鼠たちは景色を見る余裕もなく落ちていった。
追って、鍵束が降ってきた。ジャスパーが放ったのだろう。ジズは思わず掴んだ。あまりに重い。希望でも託したつもりか、愚かな男。
チィちゃんを胸に抱き、百足みたいな冷たい鍵束を片手に雲を貫いた。もうどこをどう落下しているのかもよく分からなかったし、目を開ける勇気すら失われていた。
奇跡の速度は、あまりにも速すぎたのだ。
幼き翼は抗う術を知らなかった。湧き出てくる涙にも、絶望の男にも、張り裂けそうな胸の痛みにも──自己愛だと断じる言葉に抗う術さえ知らなかった。
すべて。
いっそ、すべてが夢だったなら、どれだけ……。
翼が碧玉の粒子となって飛散する。万事休すだ。爪先からくるぶしへ、ふくらはぎを通って膝上へ……そして太股を抜け腹部へと──徐々に石化し、碧玉へと変わってゆく自身を見て、ジャスパーはただただ苦笑した。
ロマンチックな死に方と言うべきか。どう聞いても皮肉にしか聞こえまい。悪趣味な浪漫もあったものだ。どうせ石になるなら無理に腹筋を鍛える必要もなかったのに。
血液が固まってゆくのが分かる。体中の骨から肉まで余すことなく自分の意志と切り離され、後に残るのは冷え切った血管と石の塊だけ。
檻だ。自由がなければなんだって同じだ。こんどは時間すら閉じ込められるときた。檻から出たと思ったらまた檻か。せいぜい格子があるかないかの違いぐらいで……。
「……噛むな。窮鼠め」
リフターは傍らの床へ視線を落とす。警邏達の生死よりも汚れた大理石の方を気にかけているようだった。石と化したジャスパーを、彼は品定めするように眺める。
「失したな、ゼブラ。私の首を刎ねることも出来たろうに」
分からないという様子だった。この眉のない絶望にさえ──この男がこの男であるからこそ分からないことがあるのだ。ジャスパーにはそれが傑作で仕方なかった。
なんて──絶頂不可避な一撃。
「愛とやらか?」リフターは問う。「それとも優しさ?」
「グミでも噛んでろ、お喋り野郎」
「石になる前に聞かせてくれ、ゼブラ。気分はどうだ? この天空の大海原を前にして、呪わしき生まれゆえ、寸でのところで望みを絶たれた気分は────」
殺し文句は放たれた。
「────天使になりそこなった気分はどうだ?」
ジャスパーは笑った。ただ、生き様を知らしめるために。
「眉をなくした気分だ」
「石に灸す、か」
石化の食指が目元へ回る。見慣れた深緑に視界を覆われ──見納めの景色を眉のない男にしたくはなかったので目を閉じ──そうして彼は、本物の碧玉になった。
時を失くした。言葉も失くした。あるのはただ闇と意識のみ。
壊れたオルゴールが繰り返すみたいに、ジズとの会話だけが頭の中をぐるぐると回る。
〝──アンタさ、喋ってないと死んじゃうの?〟
〝──死んじゃうね。少なくとも、黙ってたって生きてるとは言えない〟
ああ。そうだ。その通りだ。死んではいないが生きてるとは言えない。
きっと、眠っているのと同じなのだろう。夢を見る。終わらない夢を。
こんな時ジズならなんて言う? あの馬鹿な女ならなんと言った?
やっと静かになったかと、溜息混じりに言っただろうか?
そう願おう。願うだけならタダだ。きっとその方が救われる。
◆
劇場に人影が一つ。顔は窺えない。壇上から客席を見つめている。
ジズの夢と同じ場所だ。だが、夢ではない。壇上には空っぽの檻が一つあるだけで、中には誰もいなかった。
影はせわしなく動き回り、小声で何事かを呟き、時折きびきびと両腕を広げ、革手袋に包まれた五指を照明に翳してみせる。奇抜で小奇麗な服装が、どことなく庭師のビーガンを彷彿とさせた。頭の上にはシルクハット、手元にはステッキ……まるで、手品師だ。
「旦那様」
舞台袖から出てきたドレスの女が声をかける。あっちが手品師ならこっちは助手だ。身長に対して足が少し長い。ヌードデッサンのモデルにしては少し細すぎるだろうが、観客の注意を惹くには申し分ない美貌だった。
「そろそろです」
「ありがとうレイチェル。シンボルのおさらいをよろしく」
その女……レイチェルは羊皮紙を取り出す。背に翼隠衣が見受けられるあたり、彼女もまたリフターと同じく健常者、つまりはアトラスの一市民のようだ。
だが、手品師の背中には、翼どころか羽着すら見当たらなかった。
「看板からして」と、レイチェル。「二等区、第四トーチカ。ドゥメルヘルンの外れの森林。天上宮の外套を羽織っています。髪は斜めに切り揃えられており菫色。瞳は桃色。小柄な娘です。左肩にタトゥーらしき模様あり。二〇歳は越えていません」
「胸の大きさは?」
「必要ですか」
「可能なら」
「私の半分ほどです」
「絶頂不可避」
背を向けたまま、手品師は笑う。レイチェルは淡々と続けた。
「それと、黒い羽が」
「黒い?」かこ、と小首を傾げる手品師。「桃色じゃなかったのかい?」
「分かりません。今朝見た夢では黒でした」
「難儀だなあ。荒れるぞ、この競売は」
そう言って彼は懐から魔燐寸を取り出し、思い出したように手を止めて尋ねる。
「羽着の色は?」
「……必要ですか」
「重要だ」
レイチェルは例によって表情を変えないが、今度は溜息のおまけつきだった。
「履いてません」
「最高だ。やる気が出てきた」
「行ってらっしゃいませ」
「行ってき絶頂不可避。さてさて」
レイチェルが頭を下げ、ステッキが床を打つ。結局彼は一度も振り向かなかった。
「彼女の競売市場価格やいかに?」
手品師バグリスは火柱と共に消えた。剥きだしの顎骨を打ち鳴らしながら。
◆
「人を裁くのは辛い」
立ち込めるは暗雲。雲間から差し込む月光を背後にリフター=レグレンターニはそう呟き、手にした書物に目を通しながらゆっくりと階段を上った。巨大な浮遊石が螺旋状に重なった、その頂上──天上宮バベル第七層の北端に位置する祭壇へと。
長槍を片手にした十数人の警邏達は、みな七層の巡回を担当する者だ。冷酷な刑罰にはある程度の耐性があるし、リフターがどういう人間かも理解している。それでもこれから行われるであろう人非人の所業に彼らは固唾を飲んだ。自分がこうならぬようにと願う者すらいる始末だった。
ウスターシュは幾度もこの光景を見てきた。ある者は無能ゆえ、ある者は過ちゆえ。また、ある者は利口すぎたがゆえ──この祭壇へと捧げられてきたのだ。
祭壇の石屋根から鉄鎖が垂れ下がっており、一人の男が逆さ吊りにされている。遥か睨下、彼の足元からはぐるぐると唸り声が聞こえていた。
吹き抜けの底を見下ろせば、目に入るのは飢えた獣の口元。蒼紫の毛並みを震わせ、久々の餌に喉を鳴らしている。耄碌の末に白濁した瞳は、もはや見えているのかどうか分かったものではない。
巨空鷲と呼ばれるその怪物は、その体躯と獰猛性が相まって、一度暴れだせば何者にも手が付けられない。ゆえにこうして首から下を巨石で封じられている。個体差はあるが平均寿命は二〇〇年。相応に歳経たであろう立派な鬣と嘴は、ところどころに草臥れこそ見受けられるが、未だ見る者に畏れを植えつけてやまない。
何故、そんな獣がここにいるのかは──誰も知らない。あえて問うたりはしない。恐らくはこういう時のためにあるのだろう。
「〝言葉の力を軽んじるな〟──リチャード・ストレイトウィーザーの言葉だ」
歩を進めながら、リフターは続ける。
「さすが、本気で言刃を武器に時代を破壊しようとしただけのことはあるな。彼の人生観にはいたく感銘を受けたものだ。人はみな彼のように孤高で、何者にも曲げられぬ信念を持ちて、言葉の真ん中に魂を宿すべきだ」
だというのに──そう口にして本を閉じ、彼は続ける。
「貴様には、人生観というものがないのか? 宇宙観は? 美学も、命題も?」
吹き抜けの淵で歩みを止めるリフター。人間味を感じさせない目つきが男を射抜く。
「答えてみろフェーミュイ監視官。貴様は確かに言ったぞ。収監された全ての比翼者を厳正に管理し、天上宮へ多大な貢献を約束すると。来たるべき再統一の宿願に向け、私の片腕となり身を粉にすると」
まるで凶器だ、この男の言葉は。何よりも鋭く、何よりも冷たい。逆さ吊りにされた男……フェーミュイという名の監視官は、足下の巨空鷲より、眼前のリフターの言葉を恐れていた。
「……申し訳ありません……」
「当たり前だ、面目も申し訳もあるものか。一度やると決めたら何がなんでもやらねばならんのだ。天地がひっくり返ろうが洪水で世界が滅ぼうがだ。そんなものはこの世の真理でもなんでもない。我々の内に眠る二十一ガリネを成す前提条件だ」
二度、踵が戯れに床を打つ。リフターがそっと鍵を取り出した。
「牢の鍵穴にはめ込まれていたものだ。よく見ろ、フェーミュイ監視官。よく見るんだ。
貴様の名前が彫ってあるな。つまりこれは貴様が管理していた鍵だ。なぜ奴らがこれを手にした? どう失態を犯せばそうなる? なぜオペラを逃がした?」
「誤解です、管理官……自分はそのような……」
「鎖を下げろ」
「待っ、待て! よせ、やめろ! 頼む……」
リフターは小さく鼻で笑い、フェーミュイの髪を引っ掴んで手繰り寄せた。逆さに覗き込んできたリフターの眼の闇深さに、彼は思わず飲まれそうになる。
「いいかフェーミュイ監視官、地獄に耳鼻科はないぞ。その詰まった便所のような耳を凝らしてよく聞け。私は〝何故逃がしたか〟と聞いた。答え意外は求めていない。
誰でも過ちは犯すものだ。求人書を出すにも金がかかる。貴様がやっていたのは能無しでも出来る仕事だがな、能無し一人が抜けた穴を埋めるのは中々どうして難しい。新たに能無しを雇わなくてはならないし──貴様ほどの能無しは滅多にいないからだ」
「…………」
「シェイクスピアーいわく……〝過失の弁解はより過失を目立たせる〟」
まただ。またこの男は、言葉で人を刺し貫く。
「言葉の力を軽んじるな。そいつは人を生かしもするが、殺しもする。貴様の生死すら貴様の言葉によって左右されるのだ。よく考えて口にしろ。なぜ奴らが鍵を手にした?」
雲の流れの遅さを呪う。ばつが悪そうに目を逸らし、フェーミュイは答えた。
「……ね、眠ってしまったのです。ほんの十分……いえ、五分程度のことです……。目が覚めたら警鐘が鳴っていて、それで慌てて……何事かと……。鍵がないのに気付いたのは、まさに今しがたです……。誓って、誓って奴らに渡したわけでは……」
「眠っていた?」リフターの目が細まる。「素晴らしいな。かける言葉も見つからん。貴様がまどろんでいる間に同僚は首を一八〇度ひねられて死んだというわけだ」
浮き出た失望にフェーミュイは慌てた。
「お待ち下さい! 鍵は肌身離さず腰に提げていました! 私がいたのは奴らの檻じゃない、真反対の方の牢屋です! 檻の中から盗めるはずが……」
「つまり?」
「つ、つまり……」
リフターはおろか、片隅のウスターシュも失笑するばかりだった。
「ふむ。貴様の言い分はもっともだ、フェーミュイ監視官」
リフターはそう言う。わざとらしい口調だった。
「天窓はなく、餌の受け渡しに使う開口部だけが唯一の小さな扉。無理矢理出るには鉄格子を壊すしかないが、腐ってもプルガトリウム鉱石だ。そこいらの石では傷ひとつ付かん。たとえ生体鉱物化現象を使えたとしてもだ。出られるわけがない」
「そ、そう……そうです! つまり……」
「つまり」リフターが遮る。「何らかの超常的な手品を使った──完全犯罪であると?」
「そうとしか考えられませんよ……! 比翼者は二人いた、それが何よりの証拠です……! 二人いれば亞能力が……言羽が使える……!」
「なるほどな」
納得した様子のリフターの笑顔に安堵し、フェーミュイの脂汗が僅かに引いていく。微笑みを崩さぬままリフターは続けた。
「だから貴様は能無しなのだ。完全犯罪? 寝言のあまりに欠伸が出るわ」
当然の言葉だ。彼の笑顔に慈悲や優しさなど宿ろうはずがない。この場の誰もが理解していた。ただ一人、逆さ吊りにされた愚か者を除いては。
「警邏か監視官か、それとも外部からの侵入者か……誰でも良い。何者かが貴様の元へ近寄り鍵を盗んだのだ。たかだか五分そこらの間でだ。それも涎を垂らして眠りこけているアホ面の男が眼を覚まさぬよう、心底ご丁寧にな。なんとも優しいことに殺しもせずにだ。それ以外に何がある? 貴様の先祖は馬鹿者の失態を魔法と呼んだのか?」
「……申し訳ありません……!」
「われわれ天上の民のルーツを知っているか? 監視官」
小さく溜息を吐くリフター。右へ、左へ、石畳を闊歩する。
「我々は選ばれなかったのだよ。遥か旧時代の大洪水──三千世界の大洗濯に。それは確かに汚れを漱ぐ為の洗濯であったし──言葉遊びではないが──一つの大いなる選択でもあった。
我々は天上へ逃げ延び、そのあまりとなることを免れた……残存したのだ。言い方を変えれば、選ばれたということに他ならない。分かるか。
天上の民は悪魔には選ばれず、天使に選ばれたのだ。誇るべきことだぞ、監視官。この翼のお陰で我々は、絶滅直後、空席のニッチ……この無窮にすら思える天空の壁龕の王となったのだから。にも関わらず」
静かな声色。孕むは怒気。眉間の皺が修羅の様相を錯覚させる。
「翼を持ちながらなんたる有様。選ばれた天上の民としての自覚が著しく欠如している。毟り取った貴様の羽をペンにしてあの世に着払いで退職届を送ってやりたいくらいだ」
悪い冗談にしか聞こえない。だがこの男はやりかねない。髪を引っ張られ、フェーミュイは巨空鷲の方へと目をやった。勿論、見たくなどなかったが。
怪物は唸っている。死の匂いを嗅ぎ取っているのだ。
「吹き抜けの底が見えるか、監視官。これは落とし穴などではない。奈落だぞ。よく目を凝らして見るがいい。散らばっているのはなんだ? あれが胸骨、大腿骨、あっちは肋骨。頭蓋骨もあるな。全て無能の骨だ。凡骨の亡骸だ。一体いくつある?
貴様もあの中に連なるのだ。今の内に挨拶をしておけ。あれが貴様の末路だ。能無しどもの成れの果てだ。天使になりそこなった者たちの、死に様だ」
骨の種類などフェーミュイは知らない。死後の姿に無頓着なのは誰だって同じことだ。目の当たりにして初めて学ぶ。骨の種類も、死ぬということの意味も。
「ご、ご慈悲を……」
フェーミュイの声が震える。逆さまに零れた涙が浮き出た血管の上を這った。
「どうか……どうかご慈悲を……! 必ずや……! 必ずや、オペラを奪還して参ります! 返報ラスタバルカ帝國の二十一ガリネにかけて……どうか……!」
「私は騎士の血筋ではない。旧時代の風習など知ったことか」
「管理官ッッ! どうか……どうか!!」
安い魂もあったものだ。鼻水を垂らした逆さ吊りの愚か者がどんな弁舌を吐いたところで、誰も信じはすまい。大仰な言葉を使えば使うほど信頼は損なわれるのだ。一度破った者が口にすれば尚更だ。宝石と違って、信頼の皹は取り消せない。
「……ふむ。ま、ここは魔界ではないし、私も悪魔ではない。よかろう。目指すところは天使であるゆえ、悲しくも無教養な貴様に、幾許かの慈しみを与えてやる」
終わった。誰もが思った。しかし愚かなるフェーミュイの目には一縷の希望が光る。どうせ抱くだけ無駄なのに。
リフターは微笑み、彼を縛る鎖へ手を伸ばす。
そうして一冊の本を──いわく、〝慈しみ〟を挟んだ。
「来世では利口になれ」
「待っ……」
「沈めろ」
鎖を引く執行官。錆びた滑車ががらがらと回る。奈落の底の巨空鷲が雄叫びを上げ、餓えのままに虚空を啄ばんだ。
「かっ……管理官ッ」フェーミュイが叫ぶ。「どうかッッ、どうか、ご慈悲をッ」
「願い下げだな」
「管理官!」
「隙あらば後釜に座ろうなどと考えていたな。それを今更なんだ、浅ましい。利口な生き方の前に恥を知れ。あの世でだぞ。それからフォークの正しい使い方もだ」
淡白に言って踵を返すリフター。もう瞳にフェーミュイの姿は映っていなかった。
「リフタァアアアアアアアアア貴ッ様ァアアアァアアアアアアアア」
「口の利き方もか」
かち、かち、かち、か……と、嘴を打ち鳴らす音が止んだ。
フェーミュイの断末魔は暫く響いていたが、枝が折れるような音がしたのも束の間、にちゃにちゃと咀嚼音が聞こえ始めた辺りでそれはくぐもった呻吟に変わる。
やがて声が聞こえなくなる頃には、幾度も死の手綱を引いたであろう執行官、それから老骨ウスターシュを除き、立ち会った誰もが耳を塞いでいた。
「クラーク」
勘弁してくれ、と……クラークと呼ばれた男が、冷や汗交じりで敬礼した。
「は……」
「代理だ。次の能無しが見つかるまで、君が七番ケージの監視官を務めたまえ」
与えられるポストとリスクが見合っていない。こんな指名ならば、選ばれない方がどれだけ楽なことか。クラークは内心で毒づきこそしたが、表情に出せるはずはなかった。
「天上宮の正体が明るみになれば諸君もただではすまない。職務に全力を尽くせ」
がらごろ、がらごろと滑車が回る。引き上げられてきた鎖にフェーミュイの姿は既になく、代わりに無残な見てくれの食べ残しがこびり付いていた。
「全ては」と、リフター。「再統一のためだ。君をああしたくはない」
「……承知いたしました」
「それと、今日の騒ぎはクリスには報せるな」
「……は……」
「ロニアだよ」言い直すリフター。「フェザーコード・クリスだ」
「……ああ、お抱えの……」
「クラーク」
冷や汗がクラークの頬を伝った。こんな理由で餌にされては死んでも死に切れまい。
「失礼しました……。しかし、その…………なぜです」
「なぜもなにも」リフターは笑った。「無垢な少女の心を汚したくはない」
馬鹿を言えと誰もが思った。だが口には出せなかった。誰一人見たこともない、とびきりの笑顔だ。狂気すら伺える。滲み出た闇と表情がまるで合致していない。見てくれこそ人の形をしているが、この男の中身は他ならぬ怪物のそれだった。
あるのは野心と嗜虐心。知性と教養と選民意識。ねじれた愛と慈しみ。
そして最後にただ一つ。
「外察部隊を編成しろ。オペラを回収する。羽の根を分けてでも探し出せ」
言葉と翼への異常な執着。
それはともすれば、ジズが後ろに引く影に似ていた。
「つがいになる前にな」