ごろごろと遠雷が響く中、綿毛のような羽を散らしながら、深夜の天上を駆る。
真鍮のスイッチを弾き、アゾキアは魔信機の電源を入れた。こういうとき、片翼者であれば不便だろうなと思う。羽馬の手綱を引いていては両手が塞がってしまうから。
断腸──である。ダイヤルを三度、四度と回し、やがて聴こえるコール音。
応答を待つ。彼の目つきは危うくも鋭く、そして空ろであった。
『あいあい、お電話どうも。こちら亞人娼館マーコレツ参号店、キャスト専用回線』
「お疲れ様です、リンシュヴァールです」
『どちら様?』電話番の女性が返事をする。灰汁の強い声だった。『ロベスピエール?』
「アゾキアです。別館の、リンシュヴァール=郷守=アゾキア」
『あーあー。ローザ・ロッサのほう。お疲れさま。なに、あの日なの? 今日って満月だった?』
「僕の性別、知ってるでしょ」
『あら失礼。あーし、普段はカサブランカの担当なモンで』
酒か、喫煙か、それとも歌い過ぎ……いずれにせよ女はダミ声である。アゾキアはぎゅっと指に力を込め、鑢喉の持ち主へと言葉を続けた。
「急ぎ、お伝えしたいことが。ドゾロ支配人と替わって頂けますか」
『あーしで良ければ聞いとくけど』
「いえ、出来れば本人に」
『んー。ちょい待ち』
異音としか形容できない保留音が鳴る。五秒、十秒。その間にもアゾキアの視界を雲が流れていった。まだか。まだか。まだか! アゾキアの目は忙しなく左右へ動く。
『お疲れさまです』そのうち男の声が帰ってきた。『ドゾロですが』
「すみません、支配人。お忙しいところ」
『いえいえ。キャストのために動くのが我々の仕事ですから。どうしました?』
「無理を承知で、一つお願いが」
『おねがい?』
アゾキアは口をつぐむ。そののち眼下を見やった。
巨石街にぽつぽつと灯った、まばらな夜の灯り。星に、雲に、中天月。綺麗だ、なにもかもが。なにもかもが円満だったなら、この景色にだってもっと価値があったはずなのに。
曝されるだろう。なにもかもが。自分の罪でさえ、この白日の下に……。
「……羽なしが……」
『はい?』
「……」
ためらい、意を決し、険しい表情でアゾキアは言った。
「魔吸器をつけた羽なしの男が来ると思います。恐らく優待券で」
『はて。あなたのお客様ですか?』
「ええ。今、そっちに向かってますが……僕が着くまでに来てしまったら、先に通しておいて欲しいんです」
『待合室にですか。もちろんそうしますが』
「いえ」声は重く。「部屋に、です」
『無理ですよ。なぜ?』
「終わったら説明します。支配人、どうか、何も言わず」
『うんん。そう言われましてもねえ……』
その後どう言い包めたか自分では憶えていない。どうでも良かったんだ、手段なんて。
許せ、ビーガン。こうするしかないんだ。
いや──君だって、そうするしかなかったから、そうなっちまったんだろう。
僕はそう信じている。そう信じたい。君だって手段を選ばなかった。
僕だって、こうするしかなかったからこうなっちまったんだぜ。
だからきっとお互い様で、僕が君を、君が僕を──最後に、自分で自分を裁くんだろう。
◇
「今まさに?」
事の始まり──アゾキアの人生で言えば〝急〟に値する部分は、リフターとの会話中に突如としてやってきたものだった。
「そうだ、今まさに。順を追って説明するが……」
リフターはそう言って、もっともらしく苦渋の表情を作ってみせた。実際に苦虫でも噛んだのではと思うほどの完成度だ。
「以前に、君がクアベルの代理で六層に踏み込んだ時があったな。なにを隠そう、あれは外部からの侵入者によるものだ」
「外部から?」鸚鵡返しに言うアゾキア。「それは、その。比翼者を狙って?」
リフターはたまらず口元を押さえた。あまりの扱いやすさに笑みすら漏れてくる。まったくアゾキアという男は、説明書が顔に張ってあるようなものではないか。
「そうだ。我々は遅きに失し、ある一人の少女をさらわれた」
「なんですって!」
物は言いようだ。口八丁で彼の右に出る者はいない。豹変したアゾキアの血相がそれを証明していた。
再びコンソールを弄るリフター。水晶板の画が切り替わって、一人の老婆が映し出される。
「敵の名は、マダム・クリサリス。御歳一七〇に及ぼうという老体だが……人身売買で巨額を動かす不届きものだ」
「人身売買!?」アゾキアの目が苦渋に細まる。「なんて卑劣な……!」
「ただ売買するだけではない。〝即興劇場〟なるブローカーを通じてオークション形式で落札された孤児達は、この女の出資先である違法娼館へと落とされる」
怒りの表情はどこへやら、途端に黙り込むアゾキア。瞳が右へ左へ小刻みに泳いで、最後に真ん中へと戻ってくる。皮膚の下が冷え切っていくのを彼は感じていた。
見計らい、リフターがそこへ追い討ちをかけた。
「亞人娼館マーコレツ」
小さく揺れるアゾキアの肩。は、と息を吸った音が漏れる。
「聞き覚えがあるな? 君の職場だ。もう一つの」
「……」
アゾキアは何も言わなかった──というか、言えようはずもなかった。あれほどクアベルに清廉潔白であることを訴えた自分が、倫理も道義もへったくれもない違法な亞人娼館で働いているなどとは、とても……。
どうしてそれを、とか、なにもかもおしまいだ、とか、考えるべきことは色々あったが──素肌の下を暴かれでもしたか、羞恥と焦燥で肋骨の内側が一杯になって……とにかく、言葉が出てこない。頭の中で、毛糸の束がぐちゃぐちゃに絡まっている。
沈黙が三秒、五秒、七秒。リフターが一〇秒ほど待ったところでアゾキアはふっと息を吐き出し、観念したように搾り出した。
「……ご存知だったのですか」
「問い質すつもりはなかったがな」
「……」
「どんな人間にも、暴くべき部分とそうでない部分があるのだから」
リフターにしては突っ込みすぎた言葉だ。だがアゾキアは気付かなかった。それどころではないだろうから、リフターの方も口にしたのだが。
「話が逸れたな。兎にも角にも、この女はそうしたやり口で巨財を築いた。闇社会でその名を知らぬ者はいない。違法魔草の栽培や、密造魔酒の醸造……ありとあらゆる犯罪に手を染め、数多の人民を人知れず破滅させてきた……悪魔のような女だよ」
悪魔のような男は続けた。
「ここからが本題だ、アゾキア。この女は件の比翼者に続き、クアベルまでも監禁している」
「はぁ!?」
アゾキアはテーブルを叩いた。彼の意志とは関係なく。
「クアベルが? 馬鹿な! そんな大悪党のもとに、なんでクアベルが……」
「彼女もまた」リフターは言った。「比翼者だからだ」
「は……」
〝──付き合う時にあれほど言ったろ、恋人だから隠しごとは無しだって〟
〝──だから隠すこともある〟
「……うそだ」
アゾキアはくぐもった声で言った。目の焦点が定まっていない。
「だって……」ぎょろぎょろと、瞳が揺れる。「そんなこと、一言も……」
「……事実だ。クアベル=ラズワイルは黄玉の翼を持っている。資金源として羽根を提供してもらったことも……何度かある」
「どうして……」
アゾキアはテーブルに両手をついた。もはや、彼の支えは物理に則ったそれのみで、両脚などはほとんどおまけだった。
なぜ。どうして。言ってくれればよかったのに。どうして言わないんだ。僕に隠し事をするなんて。いやわかっている、彼女のことだ。きっと余計な心配をさせたくなくてそう言ったに違いない。
だから? だから黙っていたっていうのか。石の羽の件も、比翼者であることも、なにもかも、全部。真面目すぎるから? こういうことだったのか? 僕がこうして膝から崩れ落ちるとわかっていて、だから黙っていたっていうのか。恋人なのに?
ふざけるな。そんなもの、割り切れという方が無理な話じゃないか。優しい嘘でもついたつもりか。受け取る側からすればどんな理由だろうとただの嘘だ。そんなもの、つくほうの一存でしかないじゃないか。
(違う……)
そうじゃない。わかっている。今、彼女を攻めたってどうにもならない。追い討ちをかけてしまうだけだ。愛と優しさゆえに彼女は僕を欺き通した。今まさに、彼女は僕を欺き通して、悲劇の全てを背負い込んだつもりでいるのだろう。
憎むべきは、断じるべきは、それに気付けなかった愚鈍な僕のほうじゃないか。
この程度か。彼女の僕への信頼なんて。違う! 馬鹿なことを言うな! 悪いのは僕のほうだ。本当にそうか? そんなの言ってくれなきゃわからないじゃないか。やめろ! 彼女のことを悪く言うのはよせ! 僕が──僕がこんなだから、彼女は黙っていたんだろ!
────でも、だからって……。
ふ、と……いつものように、アゾキアは前髪を吹き上げた。
「信用されてないんだな、僕は」
乾いている。それでいて、煤ばんだ声だった。
我ながら、卑怯な言葉だとアゾキアは思う。信用されていない自らを責め、同時に、自らを信用しなかったクアベルをも責め──白い自分も黒い自分も、どちらも満たそうとしている。それで精一杯であることの情けなさたるやこの上なし、か。
リフターはそれを見越した上で、慎重に言葉を選んでゆく。
「人に言えない秘密の一つや二つ、誰にもあるものだ。違うか、アゾキア」
「……それは……」
「君とて、マーコレツの件を彼女に隠していたはずだ」
反射的に開きかけた口を、アゾキアはきゅっと結ぶ。そうして惨めさを押し留めた。
「人は誰しも誰かの鏡だ。隣人に垣間見た度し難き部分ほど、己の腸に巣食う魔物であることが多い」
「……」
「天上宮の教えの根幹だ。相手の立場に立って考えたまえ、アゾキア。許せぬものをこそ理解し、おぞましきものにこそ歩み寄らなければならない。罪ならば憎め。たとえ過ちであろうと。だが、裁くのは君だ。誰かを許すことは、自分を愛することに繋がる。
重要なのは理解できるかどうかではない。理解しようとする心だ」
もはやアゾキアの心は丸裸だ。リフターの言葉は肉ひだを掻き分けるようにして彼の心へと到達した。一切の防衛を許さずに。
「君が彼女ならどうした?」
(……僕が……)青年は自問する。(僕が、クアベルなら……?)
そうして自己を糾すうち、彼は背中の重みに辿り着く。
二枚。たった二枚の翼だが、クアベルはこの重みの半分しか知らない。幸運にも自分が健常者として産まれただけで、もし──もしもに意味などないが……いいや、考えることに意味がある……──もし、そうでなかったのなら……。
「君は自分を客観視できている」リフターは宥めるように続けた。「わかるだろう?」
「……」
「言えるわけがない。たとえ、逆の立場だったとしてもだ。自分がなりそこないだと理解しているうえ、その小さなコミニュティの中でさえ数奇な、比翼者という存在であったなら……」
そうだ。それなら……。
小さな輪からはみ出た者は、本当に、ひとりぼっちになってしまうじゃないか。
「自分は……」アゾキアは繰り返した。「僕は、ただ……」
頭の中に情景が浮かぶ。クアベルの顔と、声と、温度と、息遣い。同じようにして、今まで自分が抱いてきた男の──いや、抱かれてきた男の──それらが脳裏にへばりついた。
崩れた、とリフターは思う。あとはもう、ジズの時と同じ手口でいい。
必要なのはほんの一押し。崖っぷちから奈落の底への、一押しだけだ。
「彼女は常に孤独への恐れと闇を抱えながら、それでもなお、繋がりを求めて君に心を許したのだろう。なら、君は? 娼館で陰間として身を売ることなどは、彼女のように生まれもったさだめというわけではない。にも関わらずそれによって繋がりが断たれることを恐れ、あまつさえ隠したまま繋がっていた君の行いは──」
「違う! 僕は……」
「──道徳的に、卑劣と言わざるを得ない」
「違うッッ!」
叫ぶアゾキア。怒号の余韻が管理官室を震わせた。リフターは何も言わない。ただ眺める。
「僕は……僕は、好きで男に抱かれているわけじゃない……!」
「では何故マーコレツで?」
「生活のためです!」
「バベルの給金に不満が?」
「だって……」アゾキアの声が揺れた。「いつまでも天上宮にいるわけにはいかない……植林活動で魔気流がなくなれば、いずれはこの施設だって必要なくなるかもしれないでしょう?」
リフターは口を閉ざし、そうして続きを促した。今のアゾキアは間欠泉だ。放っておいても濁った言葉が湯水のように沸いて出て来るだろう。
「そうなってしまった時……僕はともかく、クアベルの翼は片方しかない……。二人で暮らすなら、羽馬も必要になる……病気や妊娠に備えて、病院の近くに住まないと……だから」
「より多くの資金が必要だった?」
「そう……そうです! 僕は、二人のこれからを考えて……」
「もっと、真っ当なやり方があったはずだな。彼女を免罪符には使ってやるな。利益と時間を秤にかけた。信頼と道義を差し置いてだ。違うか?」
「それは……!」
「シェイクスピアーいわく……〝過失の弁解はより過失を目立たせる〟」
アゾキアは目を逸らした。リフターの眼光に耐えられなかった。この場合、多分、リフターのものでなくたって……。
「もうよせ、アゾキア。傷つくだけだ。君が不特定多数の男性と肉体関係を持ち、対価として金銭を受け取り、その一方でクアベルとの交際を何食わぬ顔で続けていたのは事実だろう」
「……」
「彼女の行いは愛ゆえだが、君の行いはただの裏切りだ。誠実な愛と優しさであれば、誠実な愛と優しさでもってそれに臨まなければならなかった」
「僕は……」目に見えて、アゾキアは動揺していた。「管理官、僕は……僕はただ……」
「同性と肉体関係を持ったことを咎めるつもりはない。そんなことは些細な問題だ。天上宮はそういった真実の愛……美醜や性差にとらわれぬ、心を求めた愛を教える場所なのだから。
だが、愛なき不貞とあっては話が別だ。私とて責めたくはないが──この敬虔なるバベルに仕える者として、真実の愛への裏切りは、何よりあってはならないこと」
そうだろう、と──リフターは言葉を跳ね返した。
「子供たちを清く健全に育てる為に、まず君たちがお手本にならなくてはならないのだから」
◆
愚者にとって、その利発さは恐ろしくもある。
その女は書斎に住む。その女は勤勉である。その女は深く眠る。そして目覚めればまた深く学ぶ。学べばまた深く眠り、そしてまた深く泳ぐ。
その女は眼鏡をかけている。椅子に腰掛けている。食い入るように書物を見ている。卓上へ広げられた数冊の古書に、言葉を辿るがごとく忙しなく読み耽っている。
古い、水晶管のテレビがある。それは電源を入れたまま放置されている。垂れ流しの映像と音声を小耳に挟みながら、女はまた古ぼけた書物のページをめくる。
カーテンは閉じられている。ささやかな月明かりだけが淑女の影となって窓の淵に差している。襤褸の裾を煽るようにして漏れた隙間風が蝋燭の火を消す。
女は黙読を続ける。テレビの灯りと夜目だけを頼りに、なおも。
「peccator」やがて女は呟く。「咎人」
そうして女は学ぶ。旧い言語、今なお使われている言語、にも関わらずその形では聞こえぬ言語を学んでいる。学び続けるだろう。
女は壁に目をやる。油絵を見る。自分が描かれた油絵を見る。
美化されている、と思う。だが悪くないとも思う。
裸体である。絵画の中の女は裸体である。背に一対の翼を携えている。絵筆を振るった者の想像力が、欠けたもう一枚の翼をカンバスに残していった。
残りはおおむねその通りである。絵画の中の女は恥知らずである。淫らである。さらされた秘部は女でもあり男でもある。羞恥を覚えている。それ自体に昂ぶっている。いきり立つ男の部分を隠そうともせず、柔肌を伝う背徳的な水飴をてからせている。
「завтра」書物に目を戻し、女はまた呟く。「明日」
書物から単語を拾う。そしてまた別の書物から同じ意味の単語を拾う。それを繰り返す。
『ですから、何度もお答えしていますように──』
テレビ画面の中で、制服に身を包んだ男は言う。
『──集団ヒステリーによる心臓発作。それが我々天上警察の見解です』
『たった四人ですよ?』
会見、である。長机の前に並べられた座席で、羊皮紙を叩きながら記者の男が問う。
『一〇人や二〇人いたならまだしも、四人で集団ヒステリーというのは……』
『人数の問題ではない。何らかの強い精神的ショックによって引き起こされた突然死であることは疑いようがありません。被害者の少年四名に身体的外傷は見られなかった』
水晶カメラが幾度となく光を放つ。四方からである。次に別の記者が問う。
『犯人に関する目撃証言などは、一切寄せられていないということでしょうか? 水晶カメラの映像を捜索したり……』
『三等区は未だ水晶カメラの配備が万全ではありません。現場一帯の路地は入り組んでおり、どのみち魔力的ノイズによって観測は阻害されていたと考えます』
『では、目撃証言については?』
『それも、ありません』制服を着た男はそう答える。
画面をちらと見やって、女はまた書物に目を落とす。その目は虚ろである。
「innocent」そしてまた。「無辜……」
咳払いののち、また画面の中の男が話し出す。閃光は焚かれ続ける。
『現状──手がかりは二つです。亡くなった少年の拳に付着していた何者かの血痕と、現場に残されていた毛髪。これが誰のものか、また、被害者とどういった関係かは分かりませんが、現場一帯の残留魔素と共に、これらの持ち主を特定する線で捜査を進めています』
『拳に付着とは? 亡くなった少年が何者かに暴行を加えていたということでしょうか?』
『現在、捜査中です』男は立ち上がる。『発表は以上。本件の解決に尽力いたします』
『ちょっと!』
壇上の男たちは一礼する。光の瞬きが一段と大きくなる。退室する彼らにまた言葉が飛ぶ。
『事件当日、近隣の講堂では福祉施設の指導者による講演があったと聞いていますが。宗教的儀式による集団ヒステリーの可能性は?』
『それも』男は振り返らぬ。『現在、入念に調査中です』
『被害者の少年たちは健常者ですか? 片翼者や、同性愛者だったという可能性は?』
書物をめくる女の手が止まる。画面の中の輝きが増す。眼鏡のレンズにその光が反射する。
鏡──鏡のように。
『毛髪および血痕は男性の物ですか、女性の物ですか!』
『天上警察の警備があれば未然に防ぐことが出来たのでは?』
『過激派の犯行という線についてはどうお考えですか!』
女はテレビの電源を落とす。旧ギリシア語の書物を閉じる。次にイタリア語の書物を閉じ、ラテン語の書物を閉じ、ロシア語、フランス語、イギリス語、英語……全てを積み上げる。
アルザル語の書物に栞を挟む。それが最後である。そして、書物の塔の頂点に置く。
静寂。薄明かりである。夜のみが成せる。女は陶器のコップを掴む。鉢植えにやるほどの、ささやかな牛乳である。枕元に赤い錠剤を置き、青い錠剤を飲み下す。
「……अवतार」
女は呟く。目覚まし時計を手に取り、時告げの鐘を四時間半後に合わせる。
「……私……」
眼鏡を外す。ロニアはいつも、そうして布団に入る。
◆
砂利を横目に縁側を行く。竪井戸に灯篭。池にはイトマ鯉。景観に散りばめられた朱色の葉は、太鼓橋の深い赤と連れ添うように鮮やかであるが、これはいわゆる紅葉ではない。ヨミジモミジは大気中の魔素濃度によって葉の色を変える。
アスカ文化に見られる庭園、と言えば景観の様相はそれまでだ。しかし、エウロパニア文化に慣れ親しんだチネッタやジズからすれば、この趣深い光景は幽冥の境にいるかのような錯覚を思わせる。
なにか……言葉に出来ない何かが、幽かな静謐の隅々に隠れ棲んでいる。水音か、あるいは庭石にさえも。これがいわゆるヤオヨロズという奴だろうか。万物に魔素が宿るというぐらいだから、それを神がもたらした力の一部だと形容するなら、それも理解できなくはない。
ないが、それとは別にアスカ人の感覚は理解しがたいものであった。
畳にして、およそ十畳。もっとだろうか。ジズは畳の大きさなど測ったことがないので尺度はいまいちわからぬ。兎にも角にも、このだだっ広い空間。襖で仕切られたこの空間に、なにゆえ机も椅子も箪笥もなく、座布団が敷かれたのみなのか……。
殺風景──である。それが美徳になるという感覚が、やはり少女らにはほとほと理解できぬ様子であった。座布団の上で落ち着きなく足を組み直しては、ときおり畳にぺたと手を突き、狼たち……整列したまま微動だにせぬ人狼たちの様子を、ちらと窺うばかりだ。
正座の作法はエウロパニアにはない。話に聞くばかりだ。この、座敷なる空間が鼻持ちならないのはまさにその一点だった。言外に正座を強いられているような気がして、なんとなくそうしてしまうのだ。少なくとも二人は実際にそうしてしまった。
してしまったばっかりに、もはや二人の両脚は生まれたての小鹿だ。立てと言われても爪先から崩れ落ちるだろうし、そもそも立てない。
先に痺れを切らしたのはチネッタだったし、実際に足も痺れていた。んっ、とか、くっ、とか、とにかく声にならない呻きを上げて、彼女はなんとか正座を崩した。崩しがてらにジズの方へと手を突き、そっと耳打ちしてみる。
(……息苦しいわね)
(そうだね……)ジズも小声で返す。(セーザ、やめちゃったの?)
(アスカの文化なんかクソ食らえよ。つーか、正座しろなんて言われてないでしょ)
(だってぇ……)
(だってもばってらもない!)
チネッタの小声に反応したか、狼人種の一人が彼女らを見る。
「バッテラは」と、狼。低い声だ。「アスカの食べ物です」
知ったことか。まったく犬と言う奴は耳聡い。チネッタは長靴下越しにふくらはぎをさすりながら、きょろきょろと辺りを見渡し、そのうち一点で目を止めた。
煙……。紫の煙が漂っている。出所を辿る。壁にかけられたカケジクの下で、人狼の一人がなにやら大鋸屑らしきものを燻していた。
線香、だろうか。それにしては主張が激しい香りだ。燃えているのは魔草に間違いないだろうが、そもそもそれは燃やしていいものなのか。
(なによ、あれ。お香ってヤツ?)また耳打ちするチネッタ。(ヤバい薬じゃない?)
(絶対やばいよ。私、足痺れてきてるもん)
(それは正座してるからでしょ。いつまでやってんの──)
──よ、とチネッタがジズの足を「ひぃやあぁああああ」叩いた。「あぁああ……」
上体も前のめりに、ジズは妙ちくりんな姿勢で固まる。これが足の痺れというやつか。電流が走るというのはあながち嘘ではないらしい。叩いたチネッタはけろりとするばかりだ。
(おおげさねえ)
(ちょっと待って……)
(どっち?)人差し指を構えるチネッタ。(右? 左?)
(やめて……)
(左ね?)
(左ぢゃない……)
(ひだりね)(やめてチネッ)そして一刺し。「タあぁあああああああ」
あぁぁ……と、またもや喘ぎ声を漏らしながら、とうとうジズは俯けに倒れた。額を見れば畳の跡がくっきりと残っているだろう。
「チネッタぁ!」
赤ら顔のジズは顔だけで振り返る。チネッタの痺れはとうに回復したか、ぱたぱたと両脚を動かしながら脂下がるだけだった。
「あんたそういうの好きなんでしょ」
「馬鹿!」
「左ね?」
「やめてほんとにやめてお願い。やめろ。やめろ……」
「あんた」チネッタが苦笑する。「パニックになったらすぐそういう……」
チィ、と空鼠の小さな鳴き声。畳の向こうから駆けてきたチィちゃんが、チネッタが触れるより早くジズのふくらはぎに「待ってチィちゃ……」飛びかかった。「あぁああっは」
俎上の魚みたいに飛び跳ね、ジズは痺れにもんどりうつ。狼たちは微動だにしない。加害者の鼠はと言えばジズの足から立ち退くどころか、ばしばしと両手で叩いてみせる始末だった。
「治った?」チネッタが問う。
「……」うつ伏せのまま固まるジズ。「邪悪……」
「そこまで言う?」
「言うわ!」
ぎし、ぎし、ぎし、と……卓上灯をちょうどいい角度へ起こすようにして、ジズはやっとのことで体勢を立て直した。悪戯好きの空鼠はその様子を眺めながら、真ん丸い目をぱちくりとさせる。
「ねえ、チィちゃん」髭を撫でてやるジズ。「本当は私の言うことわかってるんでしょ」
チィ。鼠は首を傾げた。この野郎、素知らぬ振りか。やっぱり理解していやがる。これにはジズもほとほと参った。まだ言葉が通じていない方が諦めがつくというものだ。
「いっつも勝手にいなくなるけどさ……あんまりうろちょろしちゃ駄目だよ。知らないとこで迷子になったら、帰ってこれなくなっちゃうよ」
ジズなりに心配したつもりだった。マダムの屋敷ならいざ知らず、ここは右も左もわからぬ別天地だ。第一、家捜しが許される状況でもない。
忠告されたチィちゃんは毛づくろいに夢中だった。馬耳東風──鼠のくせに──だ。
「放し飼いだもの」今度はチネッタが忠告する。「また競売の時みたいなことになるわよ。ちゃんと檻に入れとかないと」
「ダメ」ジズはきっぱりと言った。「それだけは、絶対にダメ」
強い語気だ。そうするつもりはなかった。チネッタが驚いた様子で固まる。またやらかしたとジズは視線を逸らすが、口を噤んだところで後の祭りだ。
拭えない。棘が。けど、こればかりは誤魔化しちゃいけないとも思う。
「なんで?」チネッタが聞き返した。
「かわいそうだから」
「そりゃそうだけど……」
「チィちゃんは……」表情を緩めるジズ。「私と違って賢いもん。言ったらわかってくれる」
チネッタは難しい顔で眉間を掻いてみる。半分は呆れからそうした。
「鼠なんてトカゲと似たようなもんでしょ? 人の言うことなんか理解してないわよ。オツムの大きさ、これっぽっちよ。あんた、さてはぬいぐるみに話しかけるタイプね」
「いいじゃん別に。他に友達いなかったんだから……」
「てかさぁ、なんで鼠なの。ペットを飼うなら普通、犬とか猫とか兎とか……」
チネッタが言い切るより早く、チィちゃんは軽妙な足音を立てて彼女の前へ躍り出た。その柔らかな体毛の下、小動物特有の足早な呼吸に従って心臓が脈動するたび、左片方だけの翼も小刻みに揺さぶられる。
「……ふうん」チネッタが目を細めて鼠を見下ろす。「同じね、あんたも」
そう言った彼女の目は優しげだった。心中などはジズが図るに余りある。
チネッタは、その繊細な五指──ショコラ色のマニキュアが塗られた爪先を揃えて鼠に差し出し、爛れたのちに古傷となったであろう、もう片方の翼の名残をそっと撫でてやる。
「ほれ。おチビ。おすわり」
彼女の声に応じ、鼠はいつもの鳴き声を上げ、その場に身を屈めた。
「ね、やっぱりわかってるでしょ」ジズは得意げだ。
「たまたまよ、たまたま」
言って、チネッタは自分の頭に手を伸ばし、右の髪束をまとめている、羽を模した髪飾りを外す。うぐいす色の長髪がばらけるのと同じくして、彼女はそれを畳の上へ放った。
「取っておいで、おチビ」
ジズは笑いそうになった。檻の鍵さえ取ってくるのだ。目の前の髪飾りぐらいわけはない。脱兎のごとく畳を駆けたかと思うと、チィちゃんは髪飾りを咥えて戻ってきた。
「ほら」また胸を張るジズ。「賢いでしょ」
「……むう。鼠のくせに。犬ぐらいの知能はあるじゃない。ペットとしては及第点だわ」
途端、である。その台詞を聞いた途端、直立不動で整列していた狼人種たちが首だけを動かして一斉に彼女の方を見やった。
「今、ペットって言いやしたかい?」
この場における頭領格、であろうか。緋色の毛並みを持つ人狼が、ドスの効いた低音で彼女に問う。決壊寸前といった鋭利な目つきも納得の表情だった。
「……ちが、ちがくて」チネッタは目に見えてうろたえ始める。「えっと……」
畳へ掛け軸へ瞳は右往左往。畜生相手に畜生呼ばわりはまずかったか。本当のことをそのまま言うだなんて。彼女は髪飾りをはめ直そうとするが、手が汗ばんで上手くはまらない。
「今のはそういう意味じゃ……あ、あなた達のこと言ったんじゃなくて、そのぉ……」
(ばか!)ジズまで青ざめる始末だった。(なんでそんなわかりやすい地雷踏むの!)
(だってペットってったら犬でしょ! 私、猫派の人間とは馬が合わないの!)
(じゃあ鼠派は?)
(あんたが初めてよ!)
「だだ漏れですぜ」緋色の狼は言った。「ワシら亞人の過去をご存知で?」
過去。またそれか。くそたれが。チネッタの心中たるや穏やかではない。どいつもこいつも勝手に傷つきやがって。そんなに繊細なら目に見える場所に絆創膏でも張っておけと思う。
思うけど、言っちゃいけないことぐらいはわかる。わかってるから、また自分が嫌になる。
「……知りません。私、途中で学校やめちゃったから」
やっとこさ髪飾りをはめ直し、チネッタは畏こまった様子で頭を下げた。
「ごめんなさい。勉強不足で……」
「いや、いいんです」
緋色の狼は畳の上に座り込んだ。作法などはお構いなしの胡坐である。他の狼たちもそれに倣い、かくしてここは獣と少女の座談会となった。緊張が弾けた分、先刻よりはマシか。
「昔、なにかあったんですか?」と、チネッタ。
(チネッタぁー!)今日のジズは犬に負けじとよく吠える。(駄目だってぇ!)
(だって、聞いて欲しそうじゃない)
緋色の狼は豆鉄砲でも食らったようだった。顔つきこそ厳しいままだが、眉間に寄った皺と開いた瞳孔が驚きを物語っている。
「興味があるんで?」
「言いたくないなら聞かない」
「別に、面白い話じゃありやせんが」
土気色の鼻先から息が漏れる。犬歯も少しばかり姿を覗かせた。笑ったのだろうか。
「ワシら亞人はアルザルに棲んでました。そこに人間がやって来て──最初は仲が良くて、そのうち小さいことで喧嘩になって、大きな戦争になった。戦争に負けた種族は……わかるでしょう」
「……」
「今でこそ、ワシら狼人種は気高くなりやしたがね……。共存してた時代もあったんですぜ。農耕民族と共に、狩猟民族と共に。ワシらはアスカがルーツなんで、番犬がほとんどですが。どっちにしろ、ただのペットじゃ成り立ちません」
番犬とは、またえらく的を射た言葉だ。マダム・クリサリスの留守を守るとあれば、首輪の重さも桁違いというものか。チネッタは理解する。そこに何が必要なのかも。
「信頼ね」
「そういうことです」と、緋色の狼。「時にそいつは、血よりも固く繋がる」
血を超えた繋がりか。帝王学だの求心力だのとはまた違う種類なのだろう。チネッタはそう思う。マダム・クリサリスが自分たちを、血の繋がりもない赤の他人を家族と呼び、そして、守ろうとするのも。
飼われているという意味では自分たちも同じだ。愛、ゆえに。無償に注がれた愛それゆえに自分たちは愛玩動物ではないと言える立場にある。同じか。この狼たちも。
「ごめんなさい」チネッタはまた頭を下げた。「無神経だったわ」
「知らなきゃ無理もねえ。ただ、どんな亞人に対しても、そういう言葉は使わない方が懸命ですぜ。特に、ミチザネのおじきには」
歯肉も剥き出しに笑い、緋色の狼は腕を組む。合点了解と口癖を零して、チネッタはジズの膝上に居るチィちゃんに触れた。
「あんたはジズの友達なのね」
「友達……」ジズも鼠を撫でる。「……なのかな。上手く言えないや」
「なんだっていいんだわ、呼び名なんて。大事なら……」
チネッタはつぶやいた。きっと確かめていた。養女という肩書きにあるそれ以上のものを。右だか左だか、どっちの肩に書かれているかは知らない。どちらでもなければいいと思う。
「……友達とか、家族とか。兎に角……大事で、愛おしいものね」
「……うん」
「ごめん、ジズ。ひどいこと言った」
真顔でそう言われて、ジズは言葉に詰まった。
伝わっている。見透かされている。整え忘れた言葉のささくれにさえ、ありふれた細やかなそれにさえ痛がってしまう私の心が。使わせている。神経とか、言葉とか、色んなものを。
彼女はそれに慣れているだろうか。私は慣れなければならない。受け取ることにも、隠すことにも。痛みにだって、もしかしたら。
「いいよ」ジズはジズなりに笑ってみせた。「友達だもん」
また、その顔。壊れそうな顔だ。チネッタは目を逸らした。後ろめたさか気恥ずかしさか、なんでかはわからない。視線はそのまま畳へと落ちた。
「……」
ショコラ色の唇をそっと噛む。ジズに揺さぶられる自分がいた。色んな思いがぐるぐる頭の中を巡って、胸糞悪くなってきて、その全てを押し殺す。
「あんたのこと」と、か細く唱えるチネッタ。「嫌いになっちゃいそう」
「なんて?」
「なんでもない」
──ああ。私、最低だ。吐いた言葉は取り戻せないってこと、いつになったら。
「あんたも、ごめんよ」
鼠に手を伸ばす。少女は爛れた創に触れる。欲しいのは許しじゃない。求めることでそれが与えられるような世界じゃない。
欲しいのは……ずれていて当たり前の、世界だ。
◆
「子供たちを清く健全に育てる為に、まず君たちがお手本にならなくてはならないのだから」
まただ。吐いた言葉が鏃となり、より深くその身を刺す。あまりの寄る辺なさに脱力したか、ついにアゾキアは膝から崩れ落ちた。失意と自責がそうさせた。
まったく──後の世であれば、いとも容易く死ぬ男だと……リフターはそう思う。
だが、アゾキアはフェザーコード・オペラと違ってまだ必要だ。ここで心を壊してしまうわけにはいかない。ほんの少しだけコンパスの針を狂わせてやらねばならぬ。
すなわち必要なのは、懐柔だ。
「彼女を責めてやるな」と、リフター。「同時に、君も自分を責めるべきではない。いや……責め続けるべきではない。時として人には、自分が過ちを犯すことより大事なものができる。それゆえ君は踏み外した。天上宮はそれを許す」
リフターの言葉が、アゾキアを現実へと引き戻した。
「……」
「誇りたまえ、アゾキア。クアベルは果敢だった。それゆえに身柄を拘束された。先の一件でさらわれた比翼者……フェザーコード・オペラ救出の大役を、自ら買って出たのだ」
「……」机を支えに、アゾキアはゆっくりと立ち上がる。「だが、失敗した……」
「そうだ。マダム・クリサリスはオペラのみならずクアベルまで拘束し、そのうえこの天上宮バベルを……子供たちの揺り篭を歯牙にかけようというのだ。
もはや奴がここに攻め込んで来るのは時間の問題だろう。そうなった時、我々は子供たちの命を護らなければならない。いや、そもそも……そんな万が一があってはならない」
立ち上がり、ガラス窓越しに中天月の輝きを浴びながらリフターは続けた。
「君は彼女を裏切った。それは事実だが──あくまで善意の矛先を違えただけのこと。天使であれば慈悲を与えるだろう。君は自らの過ちを知った。悔い改める方法は知っているはずだ。
報いるがいい、アゾキア。今度は誠実な手段でだ」
「……」
「罪ならば憎め。たとえ過ちであろうと。だが、裁くのは君だ。今度は、自分を許すことが、誰かを愛することに繋がる」
そして、と続けるリフター。
「自分を許すことが出来れば、彼にも慈悲を与えることができるだろう」
言葉の意味を図りかねたか、アゾキアは──それすらやっとのことで──リフターの神妙な面持ちを見やった。
彼。彼とは誰だ。いや、誰であろうと今ここで名が挙がる理由など……。
「裏の稼業に就いているのは、君だけではないということだ」
「……誰のことです。裏の稼業とは?」
「……」リフターが視線を落とした。
「……管理官?」
「庭師のビーガンを知っているな?」
「知っていますが……」二の句に迷うアゾキア。「その……どこまでご存知なのですか」
「同性愛者であることは知っている」
「彼がマーコレツに? ありえません。同性のキャストとは必ず顔を合わせることに……」
「マーコレツではない」
鋭く遮るリフター。彼はカードを切るつもりだ。このゲームに勝つ為の切り札を。
「いつかの深夜、君は庭園でビーガンと話していたな。彼の言葉を覚えているか?」
寝覚めの悪さも冷めやらぬまま、アゾキアは脳味噌を働かせた。
「……うろ覚えですが、さして特別なことは、なにも……。天上宮の闇についても言及はしましたが、彼は知らない様子だった。娼館の話もしなかったし、比翼者についても……」
「君はどう追及した?」
「追求などしていません。ただ、グレーな資金源があると、クアベルから聞いたもので。違法魔草の例えを挙げたら、疑っているのかと言われて、それで──」
そこまで言って、はたとアゾキアは気がついた。
待て。たしかあの時、ビーガンは……。
〝──違法な草はここでは育てちゃいない──〟
「ここでは……?」
では? では、とはなんだ? ここでなければどこで育てているというのか。
焦りと悪寒が風雲急を告げたか。アゾキアの意識は思考の網の奥にある。彼自身もあたりはつけたのだろうが、断言することを拒んでいるようだった。
まあ、こうなるだろう。予期していたことだ。だからリフターはその背を押してやる。
「ビーガンは、マダム・クリサリスが抱える庭師でもある」
「馬鹿な!」背を向けるアゾキアに「待て」と、リフターが制止をかける。
「知っていたのならどうして野放しに!」
「逸るな、アゾキア。まだビーガンが事件に加担したと決まったわけではない。脅されていた可能性もある。クアベルがクリサリス邸へ出向いた日、ビーガンはこちらで仕事中だった。
まさにあの夜だぞ、君もその場にいたはずだ」
「……ですが」
いても、立っても……そういう様子で、アゾキアは落ち着きなく目を瞬かせた。
そうだ。ちょうどあの夜だった。いつにもましてクアベルが素っ気なかったあの夜。思えば彼女の様子は変だったじゃないか。必要以上に僕を突き放してみせ、それ以上の追求を頑なに拒んだ。きっと、僕を巻き込まないように、わざと。
どうして気付かなかった? もっと、彼女のことをちゃんと見ていれば──いや、それはあとだ。管理官の言葉通り、自分を責めている猶予はない。事態は思うより深刻だ。
様子がおかしかったのはビーガンも一緒ではないか。彼だって自分への追及を拒んだ。夜行快速で来ているわけでもないし、始発の時間でもない。仕事がひと段落してからだって時間は充分にあったはずだ。
元から淡白な男ではあるが、何故ああも急いで……。
「次の日は?」アゾキアは完全に疑心暗鬼だった。「ビーガンは次の日、どこでなにを」
「翌日も仕事だと言っていた。だが、クリサリス邸である保証は……」
「この期に及んで何を悠長な! あらゆる可能性を想定すべきです!」
「しかしな、アゾキア……」口元を隠すリフター。
「ビーガンがクリサリス邸で働いていたのなら、彼はなにもかも知っている! クアベルがさらわれたことだって! 敵でないのならこちらに報せに来るはずでしょう!」
「それは私も考えた。その上で〝脅された可能性がある〟と言っているんだ」
「……」
「脅されただけならまだいい。あれから彼は天上宮に一度も来ていない。彼も監禁されているかもしれないんだぞ。敵だと断定するには早すぎる」
リフターはそう言い包めた。ビーガンが一度も来ていないのは事実だが、それは単に出勤表の都合でそうなっているだけだ。
「とにかく」と、リフター。「詳しいことを彼にも問い質したい。一応、自宅に職員を向かわせるが、恐らく無駄足に終わるだろう。我々の手が届かぬ場所に潜伏……ないし、監禁されているはずだ」
「……どこです、それは」
アゾキアは今にも飛び出しそうだった。失望に、自罰に、義憤か。忙しいものだ。まったくもって扱いやすい。リフターは考える素振りを見せ、彼の焦燥を掻き立てる。
「さてな。クリサリスの根城全てを洗ったわけではないが──奴のやり口に従うなら、拉致された比翼者の行き場所はただひとつだ」
「……」この世の闇を、押し固めたような場所か。「……マーコレツ……」
「そうだ。秘密性が保障されているし、天上警察の目も届かない。従事する者か、でなければよほど闇の奥深くまで潜った者でなければ……」
「それなら自分が……」
「ダメだ」
ぴしゃりと言って、リフターは椅子に座り直す。
「マーコレツはまさに闇社会の象徴だ。関係性を崩さぬよう、繊細な対応が求められる。極力速やかに彼女らを確保しなければならない。こちらの防衛もある。人員も多くは裂けない」
「ならば尚のこと、自分の力が必要なはずです」
「馬鹿なことを言うな。一職員をこのような事態に巻き込むわけにはいかない」
「天上宮は全ての弱き者に味方する──あなたがそう説いたのではないですか! この翼章を身に着けた以上、自分にはその理念を全うする義務がある」
「それは……」
ともに、鬼気迫る。演技という意味では、リフターの方に軍配があがるか。
「管理官。どうか自分に、奪還の君命を。急がなければクアベルが……」
「……熱意は買うがな、アゾキア」
念押しで、もう一度。リフターはなだめてみる。
「これは重大な任務だぞ。マダム・クリサリスは暴力にも秀でている。あまりに危険な存在であり、天上警察との癒着も考えられよう。公的機関の助力は望めない」
「お言葉ですが、自分は騎士の家系だ。ウスターシュ殿と同じくして、かつての帝國の剣技を心得ています」
「そういう問題ではない!」
「まごついている場合ですか!」
とうとうアゾキアは青い勢いを取り戻し、また机を叩いた。今度は彼の意志で。
「子供たちの人生を金で弄び、奴隷に落とすような、卑劣な輩を見過ごせというのですか!
さらわれた子やクアベルがそうなるのは時間の問題だ。今でさえ遅すぎる! そんなことはさせない……!」
「しかし!」
「あそこは……」アゾキアの瞳が陰る。「亞人娼館は、この世の闇を一つに押し固めたような場所です。クアベルがいるべき場所ではない」
「……君が」
リフターは続けた。ここぞ、という強張った表情で。
「君が命を落とすことになるかもしれないぞ」
「裁くのは、自分です。あなたがそう言った」
度の過ぎた購いだ。見当違いでもある。そういう男だ。だから殺さずにおく。
詩人であったなら、リフターは筆を執っただろう。ソネットの一つでも綴ってやったかもしれぬ。ああ、かくも単純な良き傀儡のために。
睥睨と、長い、長い沈黙。吹きつけた突風が窓ガラスの隙間から流れ込む。そうして蝋燭の火が危うく揺れた頃、握っていた拳を観念したように解き、リフターが鼻から息を吐く。
彼はそののち静かにマッチを擦り、燭台に火を継ぎ足し──そして、一思いにマッチの火を吹き消した。
「……わかった。出撃を許可しよう」
煙も消えやらぬ火種を水晶ガラスの灰皿へ放り出し、リフターは満を持してアゾキアの前へ歩み出た。
「策はあるのか? 無用な手出しは可能な限り避けたい」
「支配人に話を通します。まずビーガンを確保して事の次第を確かめ、次にクアベルを奪還。そののち先の比翼者を。僕が天上宮で働いていることは、あちらには伝えていません」
「接触に失敗した場合は?」
「敷地内を捜索します。キャストである以上、理由はどうとでも」
「では、最悪の場合」と、リフター。「マーコレツそのもの──それら全てに、既にマダム・クリサリスの手がかかっていた場合は?」
アゾキアは拳を握った。
「覚悟は出来ています」
瞳に、言葉に……喉元までも……怒りで震えている。リフターはそれ以上追及しなかった。こいつはやるだろう。たとえそれが、英雄性に塗れた耽溺から来るものであったとしても。
「一つ忠告しておく。マダム・クリサリスは洗脳の天才だ。言葉を操る。自己暗示というものの使い方を熟知しているのだ。監禁されている比翼者も、奴の言葉に翻弄されている可能性が高い。奴は卑劣な女だ。言葉一つで正義と悪をひっくり返す」
まるで……とリフターは続ける。
「オセロ・ゲヱムのように。ただの老婆と侮るな。立ち振る舞いが善良で敬虔に見えようと、あの女の腸には怪物が潜んでいる。欲望の為なら手段も倫理も道義も問わぬ。もっとも近しい者ですら欺くだけの怪物がいるのだ。
必ずこちら側が悪者であるかのように仕立て上げてくる。人身売買だの、天上宮の闇だの、そういった殺し文句が予想されるだろう。もしもそういう局面になった場合、奴の言葉に耳を傾けてはならない。いや、奴だけではない。さらわれた子供たちの言葉にもだ」
「何故です。彼女たちは別に……」
「言ったろう? その女は洗脳の天才なのだ。鞭と飴、良い言葉と悪い言葉、脅しと優しさの両刀を──旧時代の狼人種どもの〝ヤクザ〟じみたやり方で、それはそれは見事なまでに──使ってのける。さらわれた子供たちも、その洗脳にかかっていると見た方がいい。
もちろん、最終的な判断は君に委ねるが」
「……」
「得てして洗脳とは、人間の善意に漬け込むものだ。疑うことを知らぬ、正直で誠実な者ほど惑わされやすい。クアベルがそうだとは言わないが……」
「いえ、管理官。彼女は自分とは違う。正直で、誠実な人間です」
悪い冗談みたいだ。緩みかかった口元を、リフターは再び引き締めた。
「ならば、危険だな。君も、生真面目なところがある。この女の暗示には──言葉による洗脳には充分注意したまえ」
「はい。肝に銘じておきます」
ああ、そうとも。そうするがいい。銘じる肝があるうちに。
「護衛を手配する」
「いえ、管理官。かえって怪しまれます。自分一人のほうが好都合かと」
「では、ここに──」手つかずの羊皮紙を渡すリフター。「空図か、店舗へ辿り着く手段を。万が一に備え、こちらでも職員を待機させる」
「いえ、それが……マーコレツの場所は社外秘で」
「人名が第一だ。後の対応は我々がなんとかする。君やクアベルを無為無策のまま危険にさらすわけにはいかない」
「は……」仕方なしに、アゾキアは羽ペンを手に取る。「では、箇条書きで……」
そうしてつらつらと描かれた空図を目の端で捉え、リフターは口元だけで笑った。
アゾキアが羽ペンを置く。二人は向き合った。
理解している。ここがまさに、天下の──いや──天上の、分け目であると。
「リンシュヴァール=郷守=アゾキア」
リフターが先に口を開いた。圧がある。腹の底から出た声だ。
「誘拐された二名の比翼者……クアベル=ラズワイルおよびフェザーコード・オペラの奪還。および庭師ビーガンの確保を──」
自らの制服の羽模様に触れるリフター。
「──この翼章のもと、君に命じる」
「はッ!」
左の握り拳を腹へと宛がい、アゾキアは気骨も充分に吼えた。
「必ずや。返報ラスタバルカ帝國の、二十一ガリネに賭けて!」