◆19-1
風呂屋に沈められた女が鉢植えを蹴っ飛ばす頃、天上へと昇った男はくしゃみをした。
深夜の雲海、その冷たさは針のように肌を刺す。彼は外套を持ってこなかったことに後悔を覚えたが、この程度は氷山の一角だ。であれば寒いのも無理はない。
視界は開けている。このぶんではもうじきに明月だろう。まばらに散った綿雲の下、眠れる巨石街は灯りも乏しく、ビーガンの眼前には薄明かりの空が途方もなく広がるだけである。
空気が硬い、と思う。魔素濃度から察するに、上昇高度としてはこの辺りが限界だ。中天月へはこれ以上近づけない。愛馬のニチザツもそろそろ休ませなければ。なにより彼自身が一度休息を取らなければ、心労だか身労だかで倒れる羽目になるのは目に見えている。
眼下を眺め回し、進路を東へ。いかに流され上手な庭師だろうと、ひとまずの行き先は決めたようである。とはいえそこも寓居に変わりはなく、この先も逃げ続けることになるだろう。それより今この瞬間もっとも大事なのは──
──先刻から鳴り続けている魔信機。こいつの通話ボタンを押すかどうかだ。
(面倒な)
震える真鍮の筐体。番号などは確認するまでもない。マダム・クリサリスはいちいち相手の身を案じて電話をかけたりはしないだろうから。そういう女だ。
察するところ、この電話は恐らくリフターからの最後通告である。今を逃せば弁解の機会は永劫失われ、旧時代より続いたヘケゼーニル家の庭師の系譜は途絶えるか。
わかってる。出なきゃいけない。だが気が重い。気が重いのは。
(自分のせいだと、わかってるからだろうな)
溜息をつく間もなかった。天にまします有の女神は彼に覚悟を求める。そして彼には答えることしかできない。ビーガンはついに観念し、魔信機のボタンを押して耳に宛がった。
「すみません」
開口一番、ビーガンはそう言う。舌が上手く動いてくれない。
「……物の弾みというか、あの状況ではああするしかなかったというか……その、つまり……望んでそうしたわけではなくて……」
『……』
「……あの……」
応答はない。風音に掻き消されぬよう、ビーガンは音量を最大まで上げた。なにやら向こうも後ろが騒がしいようだ。職員たちが夜食でも取っているのだろうか。関係ないか。どうせ、もうあそこにはいられない。
受話器から、すっ、と息を吸う音がする。思わず目を瞑った。痛むのはそこじゃないのに。
『こっちこそ、ごめんね』
「は?」返ってきたのは女の声だった。「誰だ、あなたは」
電話番か……いや、それなら側近の老人が出るはずだ。職員にしては声が若い。
『誰って。わたし。チネッタよ』
「──……」
ああ。道理で。聞き覚えのある声なわけだ。吹き出るのを待っていた冷や汗が、ビーガンの全身からどっと溢れ出した。桁外れの虚脱感に魔信機を落としそうになる。
天を仰ぐ。手綱はいい加減に握ったまま。ビーガンはシャツのボタンを外し、喉元を夜風に晒した。身構え損か、馬鹿らしい。今は馬鹿らしいほうが良かったが。
──いや待てよ。これはこれで面倒だ。どうせこの女のことだから……と、ビーガンは再び身構え直した。固唾を飲み、剣呑な表情でチネッタの二の句を待つ。
そのうち、こほん、と咳払いが聞こえた。
『あなたの気持ちはわかったわ。私もかっとなっちゃったっていうか……だからその……』
「待て」そら見ろ。言わんこっちゃない。「誤解しないでください。今のはあなたに言ったんじゃない」
『はぁ?』ぶさいくなしかめっ面が目に浮かぶようだった。『私でなきゃ誰に言うのよ』
「とにかく今のは誤解です。忘れてください。あなたに謝る気なんか一マギオンも……」
『ちょっと待ちなさいよ。そんなの虫が良すぎでしょ。あんな滅茶苦茶言っておいて、やっぱ忘れてくださいなんて! そりゃ私も滅茶苦茶言ったし、元をただせば私がクアベルを出したからだけど……』
「そんな話はどうでもいい。何故この周波数を」
『わたし知ってたわよ。結構前から』
「なぜ」
『番号ちょうだいって言ったらマダムが教えてくれた』
「ザルか……」
『もしもし?』
まったく人間という怪物の縮図か。一分も経てば安息は耳障りな声に早変わりだ。げんなりした様子でビーガンは受話器を耳から遠ざける。
『ちょっと! 聞いてんの!? 聞いてんでしょ! おい聞いてんだろ! もしもし、もしもし、もしもーし! 拘束お漏らしプレイが大好きな変態庭師さーん! お漏らしもしもー』
し、と同じくしてビーガンは通話を切った。時間の無駄だ。とても建設的じゃない。そうでなくても考えることが腐るほどあるのに。小娘の囀りなんかに付き合っていては解決するものも……嘘だろ、あの女。またかけてきやがった。
「しつっこいな……!」
引っ叩くように通話ボタンを押し、ビーガンは八つ当たり気味に吐き散らした。
「いい加減にしろ! 謝るつもりなどないと言っている! 土台、何もかもあなたのせいだ。あなたの事情など関係ないし、私が謝罪する筋合いなどどこにもないッ! わかったか!
おい、聞こえてるんだろう! なんとか言ってみろ、この腐れ小鳩が!!」
『ほう』
受話器が震える。今度は男の声だった。もちろん同時にビーガンの喉も震えた。
「かッッッ……」
『腐れ小鳩。そうか。まさかそんな風に思っていたとはな。それが貴様の答えというわけだ、ビーガン』
リフターだ。笑っている。ああ良かった。いや違う! これは駄目なほうの笑みだ!!
終わった──────完全に、終わった。万歳三唱。庭師の人生ここに死す!
「管理官ッ……」
庭師の目玉はピンポン玉を追うようにしてぎょろぎょろ動いた。舌がぐずついて上手く口が動かない。冷や汗は脂汗へと変貌し、脈拍が不安定になる。ちくしょう。吐きそうだ。
『自主性と、協調性、そして共感性の欠如。笑えない話だビーガン。世に羽なしと揶揄される貴様が、貼られた値札に自ら甘んじるとは』
「そうじゃないんです! 失礼いたしました! 今、ちょうど別の者と通話中だったもので、間違えて……」
『黙れ』リフターは一言で破断した。『どこへ行こうが逃げられんぞ。覚悟しておけ』
「誤解です! 管理官? 管理官!!」
ホワイト・ノイズが一つ。通話は一方的に断たれた。ビーガンは無表情である。元より彼は淡白であるが、今ほど無味乾燥な面持ちだったことはなかったし、金輪際あるまい。
庭師生命は絶たれた。あとは時間の問題……否、今までだって時間の問題だった。ここから先の人生というものは即ち延命治療である。造花のように生きねばならぬ。はて。そう生きてきた気もするが。
「……」彼は瞬き一つしなかった。「……いいか……どうだって」
風に吹かれ、ぼうっと夜景を眺めた。これで見納めだろうか。ニチザツにもっと上質な餌を食わせてやればよかった。メタロイスにも当たり散らし過ぎたか。蹴り倒した花壇の魔草たちには悪いことをした。
なんて、いかにもだな。安っぽい。
また魔信機が振動する。書き損じのラフスケッチみたいな瞳で、今度はちゃんと番号を確認した。リフターじゃない。ということはチネッタか。ビーガンは自然と俯きがちになる。
「……なぜ」
別に、謝ろうなんて思っちゃいないが。
これでおしまいだと知っていたら、もう少し……せめて、もう少しだけ、人間らしく。
「……」
力なく、ビーガンは受話器を耳元へ。
意識を預ける。あれほど歪に振るった言葉に、今だけは救いであれと……無様にも。
『信じらんない! なんで途中で切るわけ? あんた頭おかしいんじゃない?』
「……ふ」笑ってしまった。図らずとも。「そうかもな」
『なに笑ってんのよ』
「おしまいだ」
『なにがよ。もうちょっと大きな声で……』
「もう怒る気力もない」
『なによそれ。ていうか、ごうごううっさいわね。それ、今どこにいるわけ?』
空だ、とビーガン。
「空の上です」
『そんなことわかってるわよ』
「そうじゃなくて。飛んでるんです」
『あ、ごめん。まだ帰ってなかった?』
「帰れませんよ、二度と」
『はぁ?』
「あなたこそ」空を掻くニチザツの蹄。「後ろが騒がしい。料亭にでも?」
『マダムの隠れ家よ。後ろは、えーと……今、晩御飯食べてて……みんなでお酒飲んでて……ジズが踊ってるわ』
「意味がわからない」
『犬がいっぱいいるの。なんだっけな。ブンキンタカシマダ? ナンキンタマスダレ? なんか、とにかくそういう……』
どういうことだ。干からびたビーガンの脳味噌では理解できそうにもない。犬がいて、酒盛りで、ジズが踊って……。
「ラリってるんですか?」
『ラリってるとか言うな。そう、宴会。宴会ってやつよ。それで、ジズが踊らされて……』
「とにかく、そこは安全なんですね」
『そうよ。今のところはね。あんたはどうなの。帰れないってどういうこと?』
「管理官の逆鱗に触れたってことです。私は人身売買の事実を知ってる。おまけに、ジズ嬢を奪還しに来たお漏らし女を妨害した。天上宮から見れば、明確なマダム側への……」
『あーはいはいはい。とにかくやばいってことね』
「そうです」
あしらうようなチネッタの言い草を、いつもなら訂正しただろう。今日はもういい。
「私は殺される」
『極端だわ、そんなの。なにも殺さなくたって……』
「どっちにしろ、私の必需品は天上宮からの貸与品だ。取り上げられて、おしまいです」
『なら、リフターの方に寝返り打つしかないじゃない。あんたがやってた中立って、要するにそういうことよ』
「そしたら今度はマダムに恨まれるじゃないですか」
『要するにあなた』チネッタの溜息が遠い。『敵を作りたくなかったのね』
ぐうの音も出ないとはこのことだ。代わりにビーガンの腹が鳴った。
『ハッポービジンってやつなんだわ』
「ほかに私に文句は?」
『あ、ごめん。そうじゃないの。ただ、八方美人でいたいなら、角の立たない断り方を覚えたほうがいいのは確かよね』
「……ああ。わかってる」
『……ビーガン?』
「わかってたよ」水が欲しい。「ずっと前から」
返す言葉がない。出てこないんじゃなく、見つからなかった。
二人ともが黙り込んで、少し、妙な間が空いた気がする。お互いになにか悟ったような……そんな錯覚の隙間だ。受話器の向こうの女だって、きっとこっちがどんな顔をしてるか知りたがっている。
『わかってて、自分で選んだんでしょう』
錯覚はそのまま進んだ。別に暴こうともしない。そこまで子供ではなかった。
「いいや。そうしなかったことを後悔しているんですよ。選んでおけば、自分の責任だと諦めがついた」
『選ばなかったのも自分の責任よ』
「ごもっともで」
恐れないな、この娘は。いや……特別なのは彼女じゃない。自分が怯えているだけだ。観念するたび、ビーガンは自分を振り返ることを言外に強いられる。他でもない自分に。
「昔から、そういうタチなんです。選ぶのは苦手だ。流されて、安請け合いして、パンクしそうになったら何もかも面倒になって投げ出す。今回だって……」
『あんたはクアベルか』
「きついな、それは」
笑う二人。気休めだ。それが必要だった。壊れそうなのが自分だけじゃないことは、出会う前からわかっていた。だからただ出会っただけじゃ終わらなかったんだろう。アホらしい。
「主体性と、協調性、それから共感性の欠如……代表的な羽なしの特徴です。差し詰め私は、羽なしという文字が心臓を持ったような人間なんですよ」
『はぁー。ほんとあんた……』
「なんです」
『そんな人間、羽があろうがなかろうが腐るほどいるでしょ。私だって、面倒になったら投げ出しちゃうこともあるし。拡大解釈しすぎよ。問題があるのはあんた個人で、羽なしみんながそうなわけじゃないでしょう』
「……」
『一体全体、どれだけ自分ひとりが特別な人間だと思っちゃってるのかしら』
特別、か。思い返してみても、ビーガンは自分を特別だと思ったことはない。ずれていると思うだけだ。人波の中に歪みがあり、自分はその中で泳げずにもがいている。なまじ息継ぎが出来てしまうから冷たさにも慣れたのだろう。
次第にわからなくなっただけだ。冷たさの縁取りが。
「あなたは多分」と、ビーガン。「自分のさだめを呪ったことがないんでしょう」
『生まれちゃったものはしょうがないもの』
「羨ましい限りだな。負い目を育まずに済む環境にあったわけだ」
『ねえ……』チネッタの声が尖る。『私、喧嘩したくて電話したんじゃないんだけど』
「別に、喧嘩するつもりは……」
『喧嘩腰じゃない』
「羽なしの言葉はそう聞こえる」
『だから……あぁもう。こんちくしょらばっちゃい』
苦く、笑み一つ。猫の喉を撫でるようにしてビーガンは受話器を持ち直す。
「あなたも喧嘩腰だが。私だから平気なだけで」
『はぁーん。その思い上がり、結構ムカつくわね』
「切ってもいいんだぞ」
『切れば?』
親指をスイッチにかけたままビーガンは硬直した。
扇情と、プライド……売り言葉に、買い言葉か。繰り返してきたな。要らないものを売ったわけでもないし、欲しいものを買ったわけでもないのに。何が面白くてそんな不毛な真似を。
面倒な女だ。面倒な女だが、言の葉の裏側がめくりやすい分、可愛げはあるか。少なくとも自分よりは。わかりやすければ生きやすいだろう。私とは違う。
「やめよう」
『なに?』
「磨り減る。私たちは石じゃない」
疲弊もある。だがそれ以上に、心だ。憔悴している。自分はいま疲れ切っている。こういう時は言葉を空へと還してやるべきだ。ビーガンはようやく学習した。
いや、疲れているのは彼女だって同じことだろう。同居人が増え、かと思えば旧友が会いに来て、ところがどっこい天上宮の回し者で、そもそも天上宮が人身売買をしていて……そんな陰気な都市伝説みたいに荒唐無稽な話、冷静に飲み込めという方が──
──らしくもない。ビーガンは笑みを零す。他人の気持ちを想像するだなんて、もう久しく自分の手を離れていた玩具だ。久しぶりに手紙を綴ったような……文字の書き順さえ危うい、そんな感覚だった。実際、多分、間違えた。目に見えない文字の綴り方を。
悲劇だな。破滅的だ。この娘と話すといつも考えてしまう。余計なことを、余計なまでに。
『切らないのね』
「今はな」ビーガンは答えた。「いつ切るかは自分で決める」
『飲み込みが早いじゃない』
「悪いな、優秀で」
『変な人ね、あんたは。マダムみたいに冷静で、クアベルみたいにいい加減で、ジズみたいに臆病で……私みたいに、言葉の使い方が上手じゃない』
「あなたがそれを言うのか」
『言うわよ。それってつまり、みんな似たような生き物だってこと』
「みんな……」呼気が魔吸器から漏れた。「みんな、か」
『誰にもわかってもらえないって、きっと、大なり小なりみんな思ってるの。そんでもって、言葉にしたところで、実際誰にもわかってはもらえないんだわ。
だから私たちは、わかったようなフリをするのね。繋がり合ってるフリをする』
「耳の痛い話だな」
今は、特に……ビーガンは続ける。
「言葉は刃物ですよ。繋がりを断ち、錯覚を暴く。そうしてきたし、そうされたこともある」
『刃物になるかは使い方次第よ。けど、魔法じゃないのは確かよね。もっと複雑』
受話器の向こう、衣擦れの音。座り込んだか、壁にもたれかかったか。
『通じ合ってるって、お互い思い込んでる。言葉にしたら、ほんのちょっとのズレで崩れちゃうかもしれない。だから触らない。なにかを知ろうとする時は、いつだって怖いわ』
「……」
『見つけるの。ハートの淵が重なってて、桃色が一番大きく見えるところを。ぺティナイフの先に触るみたいに……慎重に。臆病に』
「あなたも……」
眼下に見えた薄灯り──巨石街の目印へとニチザツの手綱を引き、ビーガンは続ける。
「あなたも怖かったのか?」
『そうであってほしい?』
ぐん、と急降下するニチザツ。ビーガンの拗けた前髪が暴れた。振り落とされまいと、彼は手綱をしかと握り込む。
「……そういうところだぞ」と、ビーガン。「いい。この話は今度にしよう」
彼は答えなかった。やめだ。美しくない。
『なに。飲み込みがちね』
「喉が渇くんだ」
そうして実際に喉を鳴らす。彼は面持ちを正し、眼下に迫った灯りをまじまじと観察した。
「先に言っておく」
『なに?』
「もう会えないかもしれない」
『そう。残念ねぇ』
淡白な言い草だった。残念なのはビーガンも同じだ。今、今! 今この瞬間こそ、この女がどういう表情をしているのか知りたかったのに。結果が良くたって、悪くたって。
「私のことは忘れろ」
『待ったりしないわよ、私は』
「ならいい」
『あんたこそ、私のこと忘れられるわけ?』
「難しいな。悪い意味でだ」
『まぁいいわ、それでも』
風音に混じって、鼻を啜ったような音が小さく聞こえた。そんな気がした。
「ならなぜ泣く」
『はい? 泣いてませんけど。思い上がんないで』
「チネッタ」
『はあ』
「あなたの気持ちには答えられないかもしれない」
だが、とビーガン。
「必ず戻る」
『あんた、最低』
「その通りだ」
『性格悪すぎ』
「よく言われる」
『それを自分でわかってる感じ出してておまけに直そうとしないあたりが特に最悪』
「的確だな」
『それって本当に性格悪い奴』
「悪いな」ビーガンは裁きを受け入れた。「クズなんだ」
『知ってる』
でも、とチネッタは続けた。
『逆の立場だったら、私もクアベルにそう言うんだろな』
「……チネッタ」
『おやすみビーガン。私、あなたの友達にはなれたのね』
風。風。身を裂く、風……。ホワイトノイズだけが残された魔信機。
悲劇的な状況だ。私は溺れている。鏡の中の自分に好んで襤褸を着せ、ニヒリズムに似合うよう毛先をひっかき回し陰を衒おうとしている。
まともな人間の人生における恥ずべき汚点と痛覚の塊のような男だ、私は。救いようのないことに人が私を恥じようと私は私を恥じてはいない。ただ救いようがないと思うだけだ。俯瞰と言えば高尚極まって聞こえるが、畢竟、自分自身にさえ無関心なだけだろう。それも極めて都合が悪いときだけ。
すまない、チネッタ。私が人間のクズだと知ってなお踏んだ踵を離せぬお前を哀れに思う。今なお、とするのが私の錯覚であれば私は箪笥の角に小指をぶつけたような人間になるだろうが、あなたとてその錯覚を性悪と人間性の冒涜の下に楽しんだだろう──たとえひと時でも。
ならば、私達はどちらも許し許されるべきではない。罪でないことに許しを乞う必要はないのだから。ただ対等に生きてゆけばいい。我々はともに不出来な怪物だったのだ。
それとも、どうだ。戻った頃には──いや、ともすれば既に──彼女は私に、僕に幻滅しているかもしれない。失望し、軽蔑し、一切の無関心と不干渉を、あるいは心底つまらない打算なき健全な歩幅を僕に望み、幸福の味を忘れた舌が乾からびはじめた頃に再び猫なで声を上げはじめるだろうか。やあこれは躁鬱の泥舟かと応じてしまう自分がいるかもしれまい。
それもいいだろう。だが悲しみはない。それこそが悲しみだ。もっと人を愛してやれる人間でいたかったのかもしれない。雨が降るには遅すぎた。
きっとわかってもらえるだろう。
お前が僕を愛している以上に、僕は僕を。
「愛してしまっている……」
向かい風に打たれながら、ビーガンは胸元から紙切れを取り出した。うっかり手放さぬよう慎重に。刺繍が施された一枚のチケット……欲望の赴くままマダム・クリサリスから頂戴したこの優待券が、皮肉にも彼の命綱となるわけである。
空域、深度、方角──いわゆる通常の空図に加え、雲の形状までもが仔細に記されていた。顧客たちは店舗に辿り着くため、その日の雲の速さからおおよその場所を割り出さねばならぬというわけだ。これはなにも風俗店に限った話ではない。天上の建造物は何処もそうだ。
いつも変わらずそこにあるものなど、天上にはない。
「この下だ、ニチザツ」
眼下へ舵を。一人と一匹は呼気で口元を湿らせながら、花弁の形をした歪な綿雲の中へ。
影。建造物か? 見えた。雲の中に居を構えるか。まるで霧の繭に閉じ込められたようだ。もやがかった鉄柵に、神式コルコンドリヤ螺旋建築……まさに華美と悪徳か。
石畳を踏み鳴らす蹄鉄。愛馬の背から降り立ち、ビーガンはその居城を眺めた。
城──は過ぎた名だ。赤茶けた煉瓦が見上げる限り螺旋状に積み重ねられている。天上宮を模したわけではなかろうが、闇の吹き溜まりは概してこういう意匠になるものなのか。頂点であろう屋上一面には、幾数多の魔植物が色彩も豊かに花開かせている。およそ徒花だ。
(……摘発できないわけだな。こんな辺鄙な場所、見つかりようが……)
亞人娼館マーコレツ。もはや退路を絶たれた庭師が身を潜める場所はここしかない。アテがないわけではないが、機密性と安全性を考慮すればこれが最善だろう。
危急の問題は生と性である。やることをやってしまうか、どうするか……。いやしかし入店した以上は何もせずに帰るわけにもいかないし──と、ビーガンは自分を急かし始めた。
考えよう。種を撒くか否かを。もちろん庭師として。
◆19-2
がちこん、と硬質な音を立て、卓上式の魔信機は少女チネッタの手を離れた。夜も深く、もうじき天辺を回ろうかという頃だった。
息が白ばむほど特別に寒くはないが、チネッタは、ふう、と小息を漏らしてみた。ガラス戸の奥に眺めた中庭は中天月の光に淡く照らされていて、薄っすらと大気に光る常盤色が次元の隔たりを思わせる。精緻に整えられたアスカ由来の草木が音までも吸い込んだ。
ヤクザ者にとってこの程度の泥濘は茶飯事か、襖一枚を隔てた向こうでは、狼たちの宴も酣である。やんややんやとけたたましい酔いどれの音頭は、今のチネッタの耳には雑踏の足音ぐらいがいいところだ。
「はぁ……」
ぼう、と意識がとろけたようだった。
彼女はガラス窓に体を預けた。半分……半分だけ。
窓に目をやる。透き通った私だ。騙し絵の奥の方で爪先を見ている。救われるのを待っているように、臆病な香水をまとった自分。
「……マジ、性格悪すぎ」
それから細い髪先を柔らかに食んだ。子供がやるような気休めだった。
ぼうっとしていると、襖から逃げるようにジズが出てきた。アスカの着物という奴だろうか、チネッタには着付けの作法など皆目見当もつかぬ、乾いた質感で薄紫色の妙な衣服を着せられている。
「犬って皆ああなのかな」と、ジズ。「私、アスカの文化はよくわかんないや」
ジズは地べたに寝転がって言う。やっと一息、か。心なしか、頬が少し赤い。
「あんた……」チネッタの鼻先がひくついた。「お酒飲んだ?」
「ちょっとだけ」ジズが小振りなしゃっくりをする。「アマザケだって」
「危機感……」
「なに?」
「あんた、たまに頭のネジぶっ飛ぶわよね」
「チネッタも飲む?」
「いらねーわよ。私、カフェモカ派」
明後日の方を向いたチネッタがぶっきらぼうに言う。
「それ、和服ってやつ?」チネッタは問う。「着られてるって感じ」
「だって、これしかないって。着たくて着てるわけじゃ……」
「あそう。ごめんね。私も言いたくて言ったわけじゃないの」
ジズは一瞬むっとして、それから、すとんと肩の力を抜いて問い返した。
「なんか嫌なことあったの?」
「全部よ」
チネッタにはとりつくしまもない。視線を落とすジズ。放り出された魔信機が目に入る。
「私が泣いてると思ってんのよ、あいつ。それで馬鹿にしたつもりかっつうの」
「ビーガンのこと?」
「今その名前出さないで!」
図星だ。火に油を注ぐ趣味はジズにはない。ただでさえ料理は不得手なほうだ。
「くそ」チネッタが悪態をつく。「胃がいてぇわ。やめやめ。もう全部やめよ。あほらし」
まだ煮え切らない様子だった。しかめっ面で胡坐をかいて、不細工にも頬杖だ。
「ジズ。あんた、本気で人に腹立ったことある?」
「ある」
ジズは即答する。気持ちが言葉より早かった。
「心の底から嫌いな奴らがいる」
「んんん……」チネッタは閉じた口をうねらせた。「そうじゃない」
「そうじゃないって?」
「嫌いな人とかじゃなくて……ただの怒りじゃなくて。悔しさ、みたいな」
「好きな人に対してってこと?」
「まぁ誰でも」彼女は頭を掻いた。「なんでお前いっつもそうなんだ、みたいな」
色んな人を思い浮かべながら、チネッタは続ける。
「自分の言葉で変わってくれないのが、物凄く悔しい」
「……」
「そのうち、諦めちゃう。ああ、人って変えられないんだ、って。わかってんだけど」
は、と投げやりに吐き出して、チネッタは片膝を立てた。
「そんな奴ばっかりよ、私の周りは」
「……」胸が痛い。ジズははにかんだ。「私も?」
チネッタは答えない。掌の底の方で、ぶすっと口元を塞いでいる。ジズは天井の梁を見た。
「すぐには変われないよ」
「わかってるわよ」
「後から効いてくる」ジズは膝を抱えた。「毒みたいに……」
毒。毒か。ある者にとっては薬で、ある者にとっては。
きっと、そうなんだろう。彼女がジズに吐いた言葉がそうであるように、ビーガンに捧げた愛の言葉だって、誰かにとっての毒なんだ。
ごとん、とチネッタは床に転がる。頭を打った。髪がよじれた。もうどうでもよかった。
「フラれちゃった」
この世の終わりみたいにチネッタは言った。
「また?」ジズの世界はまだ終わりそうにない。「今度はなんて言われたの」
「さぁ。言わない」
「なんで」
「いい女の条件よ。マダムが言ってた」
受け売りか、結局は。ジズだって同じことだ。人の言の葉を花瓶に活けて、そうして自分の花を咲かせようとしている。
私たちはどっちも下手なんだ。言葉の刃の扱い方が。
彼女は恐れを知らなすぎるし、私は知ることを恐れすぎている。
「イライラしてた」
寝転がりながら、チネッタは指先の向こうにいるジズへ言った。
「ごめん」
「わかってる。気にしてないよ」
「嘘ね」
「……」ジズは困ったように笑う。「……ちょっとだけ」
「繊細ね。この期に及んで私なんかに嫌われんのが怖いの」
「それも、ちょっとだけあるけど」
嘘だ。本当は半分ぐらいだしチネッタに限った話じゃない。今はそういう自分の時間だ。彼女にはきっとバレている。ジズは言葉を引きずり出す。
「私にも、そんな風になっちゃう時があるから」
ジズの独白に、チネッタは眉をひそめた。
なんだこの女。相手の気持ちになったつもりか。まるで私の傷を追体験したように言うじゃないか。軽い言葉だ。なんて意味のない、救いにもならない。救いたいのは私じゃなくて昔の自分だろう。
なんで恐れないんだ。言葉の切れ味を恐れる一方で、どうして裏切りを恐れないの。どうして私の肩を抱くの。がらんとした肩に、茨が生えているかもしれないのに。
「あーあ、もう。やめやめ。調子狂うわ」チネッタは起き上がった。
「え、ごめん……」
「別に怒ったわけじゃない。すぐ謝んのやめなさいよ。あんたの為になんないから」
そうかな、と……ジズが考え出すその前に、チネッタは両手を合わせた。
「ねぇ、これって恋バナ?」
「バナ?」ジズは頭をひねる。「バナ……」
「恋の話ってこと」
「フラれたのが恋バナならそうだと……」
「フラれたって言うなっ」
「自分で言ったんじゃん!」
「あーあーもういい! 私の話はもういいんだってば! 私ばっか話してんだから、たまにはあんたの話もしてよ」
はて。そんな興味津々に詰め寄られてもジズは困るばかりだ。明るい物語など数えるほどしかないし、雑学なんかも得意ではない。どんな夢が面白かったとか、故郷はどんなところだとか、自分について開示できることなんて、せいぜいその程度で。
自分のことを知られるのは、あまり……好きじゃない。
「あんた、好きな人はいる?」と、チネッタ。「でもって、そいつはどんな男?」
ジズにとって最悪の話題だった。こういう話が一番苦手だ。チネッタの言葉にどつかれて、ジズの脳味噌の表裏はぺこんとひっくり返った。
「どんなところがいいわけ?」
「えっと……」
説明、しなきゃ。口が上手く動かない。頭に浮かべて、少しどきっとして、胸の奥のほうが酸っぱくなって、結局、何が一番大事なのかわからなくなって。性格とか、口癖とか、よく喋るかとか、明るいかとか。
そういうことじゃなくて、私は、その人がその人だから大好きなだけで。そもそも、これがチネッタの言う〝好き〟って気持ちなのかどうかも、確かじゃなくて。だけど私は、その人のことが凄く大事で、幸せでいてほしくて……一緒にいたい。
知らなかった。大きくても、小さくても、近くても、遠くても、知ってても知らなくても、よく会う人でもそうじゃなくても──伝わってようと、伝わってまいと。
人を好きだと言うのって、こんなにも怖いことなんだ。
「怖くないの」ジズは問うた。
「なにが?」チネッタが返す。
「人に嫌われるのが」
「そりゃ好かれるに越したことはないけど」
チネッタはあくび交じりで言った。
「私を嫌うような奴はセンスねーのよ」
乾杯。願わくばその心の一かけだけでも私にくれと、ジズはそう思った。
思って、口に出そうとして……やっぱり、思うだけだった。
◆19-3
牢屋の天井から滴った汚水が、ゆっくりと石畳の隙間を這う。迷路の出口を探している。
灯はない。暗闇だ。沈黙していると、あの瞬間のことを何度も思い出す。
胡坐をかき、お喋りなジャスパーはついに黙り込んでしまった。なんだか、喋ったところで誰に聞かせるわけでもないから喋り甲斐がない。
暇だな。一体全体、俺は今までどうやって耐えてたんだ。キャッチボールの相手は薄汚い壁だけだ。喋りかけても、喋りかけても、自分の声が反響するばっかりで……。
「……」ジャスパーが耳を済ませた。「……声……」
格子が食い込むほど檻に顔を押し付け、ジャスパーは外を覗く。闇が広がるばかりだ。
だが、闇に居すぎたせいか……空間を感じる。
がん、とジャスパーは檻を蹴ってみた。残響が異様に長い。音が虚空へと遠のいてゆく。
今度は叫んでみる。地べたに座って、立ち上がって、一回ずつ。
反響からして、前方にも空間がある。逃亡の際に通った大広間程度の大きさだろう。問題は上空だ。檻の外の天井がやけに高いように感じる。以前に居た小狭い部屋とは作りが違った。
想像通りなら、どうやら空間の形状は一本の筒のようだ。要するに今のジャスパーは縦笛の穴に閉じ込められた鼠である。
からん──と、乾いた音がひとつ。
「……?」
再び檻に寄り添い、ジャスパーは耳を済ませる。
何か──落ちてきた?
「誰だ」
からん、からん、から、からん。一定間隔ではない。バラバラだ。なにかとても軽いものが落ちてきて、そのあと少し……転がった?
からから。からから。がらがらがら。石とも違う。それより更に軽い。
木材か? 違う。もっと空虚な音。次から次へ。大きさがまちまちなのか。何かが上空から捨てられている。
その後ろで……低い音がする。ただの振動なのか、低音なのかもわからない。
ぐ、ぐ、ぐ、と。まるで唸り声に似た音。汚水の臭いを徐々に塗り替えていく重厚な悪臭。
がらん、と一際大きな音がして、落ちてきた何かが檻の方へ転がってくる。
「……」目を凝らす。頭蓋骨だった。「え」
そして閃光。ジャスパーの目が真っ白に眩む。ぼやけた視界に影。巨大ななにかが、眼前の上空で光を遮っている。なんだ。あれは、あれは……あいつは。
「おっ……」お調子者の血の気が引いた。「おいおい、おい……」
ジャスパーはそいつを見上げた。見上げる他なかった。見ることすら躊躇した。
名状、しがたい。巨大な怪物。そいつは絶叫した。断末魔かと思うほどの轟音に、空間全体が小刻みに震える。檻がかたかたと音を立てた。
鳥……なのか。首から下を巨石に封じられている。美しいほどに禍々しく、鮮やかで、巨大だ。たてがみに、くちばし……爛々と艶がかった体毛に、誇り高く輝く瞳。
駄目だ。ジャスパーの言葉では追いつかない。石の羽が毛羽立つのが分かった。俺は恐れている。こいつは天上の王だ。俺の……何倍だ。二〇倍か、もっと大きい……。
絶句、あるのみだった。ジャスパーは自然と後ずさりする。化け物から目が離せない。
なんだこいつは。いくらただの福祉施設じゃないったって、屋内で怪物を飼う奴があるか。大体こんな馬鹿でかいペット、餌代だけで何ゼスタかかると思ってる。
こいつは何の為にここにいるんだ? わざわざ石で封じられてまで……。
奴の頭上に、鎖。それに滑車。祭壇。情報量が多すぎる。ふざけやがって。連想ゲームじゃないんだぞ。視線を降ろして……一面に広がる人骨。あばらに、大たい骨、あと、どこだかもわからない小さな骨が無数に。
獣が俺を見ている。目を逸らせば食い殺すと告げている。出来っこない。わかってる。奴は石で封じられてる。本当にそうか。そういや晩飯は出るのか。何をするんだ。何をされたんだ。誰が何をどうしたんだ。俺は死ぬのか。ここは地獄か。今までどこにいたんだ。
奥歯が震える。落ち着け心臓。倒れそうだ。気分が悪い。最低だ。今までで、一番。
「────巨空鷲」
ウスターシュの声だ。ジャスパーは恐る恐る視線を上げる。
老人は滞空していた。背中の両翼を羽ばたかせ、怪物を背後にジャスパーを見下ろす。
「天上の王だ」と、ウスターシュ。「気高さを好む。それを失わぬ者を」
「そっ」ジャスパーの頭は爆発した。「そんなこと誰も聞いちゃいねえッッ」
舞い落ちるウスターシュの羽根。自分を見下ろす怪物。絶えぬ唸り声。人骨の笑い声さえ耳に響くほどだ。膨大な量の恐怖と混乱で、もうジャスパーの神経は決壊寸前だった。
老人はじっとこちらを見下ろしている。こいつにとって怪物はインテリア同然らしい。異様に冷静だ。それが、ジャスパーにはたまらなく怖い。
ただ恐ろしいのではない。理解が及ばないという、狂気への恐れ……。
「よく見ろ。それが君だ、ジャスパー。虚勢に、慢心。もろく薄っぺらな包帯で、必死に傷を隠そうと自分を慰め続けている、まるで強がりな──」
「だまれ!」
「──嬰児……」
冷ややかな瞳。ジャスパーは檻を蹴りつける。巨空鷲がその音に反応し、くちばしを小刻みに鳴らした。ちくしょう。胃に穴が空きそうだ。
「チャンスをやる」
ウスターシュが眼前へ降り立つ。そして檻の鍵を開け放ち──ただ、そこに佇んだ。
「君は自由だ」
「……」
「追うつもりはない。好きに逃げるがいい。ただし、あれは……」
人差し指の向こう。輝く獣の瞳。まるでダイヤだ。だがダイヤ以上に人を殺す。
「空腹だ。そして、石英に目がない。よく注意して走るがいい」
ジャスパーは立ち上がる……立ち上がるはずだ。立ち上がれるはずなんだ、俺は。逃すな。ここを逃したらもう次はない。バカでもわかるし俺はバカだから尚のことよくわかる。
幸運なんだろ、ジャスパー。そいつが俺の経験則なんだろ。
足がすくむ。血が通ってない。舌の置き場所はどこだっけ。これは爪先か、それとも床か。
おい。ジャスパー=デュッキーパレカ。誇りの碧玉。なんでお前は座ってるんだ。どうして黙って固まってるんだ。まるで──石になったみたいに。
「私の質問に答えろ」
「……断ったら」やっとのことでジャスパーは搾り出した。「俺はどうなる」
「間違っても構わん」冷徹に言い放つ老人。「選ばないよりはずっといい」
「……」
「君があの娘にそう言った。次は君が試される」
ジャスパーの目は見開かれたまま充血していた。固唾さえ飲み込めず、瞼を閉じることすら敵わない。石の羽が怯えているのがわかる。いや、これが俺の心だというのなら、怯えているのは石なんかじゃなく、俺自身……俺という石、そのもの……。
脂汗が背筋を滝のように伝う。がらごろと石ころが落ちてきた。怪物を押し固めているであろう巨石が罅割れかけている。
長く、暗闇にいたのだろうか。あの怪物は照明に目を刺され極度の興奮状態にある。鎌首をもたげ、劈くような鳴き声を上げ……奴は今にも自由になろうとしている。
「正気じゃねえ!」ジャスパーは叫んだ。「建物ごとバラバラになるぞ!!」
「君とオペラは檻を抜け出し、最上階へと辿り着いたな」
「今更そんなこと……!」
「私は管理官ほど甘くないぞ。どうやって逃げ出した?」
巨岩に亀裂。雄叫びと地響き。人骨の山が音を立てて崩れた。ウスターシュは静かだ。
「隣室のケージを管理していたフェーミュイから、檻の中にいた君たちがどうやって鍵を奪い取ったのか。そして君たちが飛び込んだ鏡……何故あそこが〝非常口〟だと知っていたのか。その二つが知りたい」
「バカヤローが、なに考えてんだ! 早くアレをなんとかしろ!! 死ぬぞ!!」
「ああ」地を蹴り、宙へと舞うウスターシュ。「君はな」
「まっ……待て、待てッッ」
狼狽えるジャスパーと、猛り狂う獣。雨粒のように降り注ぐ埃と砂礫を受けながら、老人は彼の一挙手一投足に目を光らせた。
(──これ以上は待てない。捨て置けるものか。こんな綻びを)
一つ、ウスターシュには確信があった。檻からの脱走を幇助した者と、彼らは必ず接触している……そういう確信が。
◇
「ゼブラの対応は私が」
確信の元へは長く遡ることになる。脱空の日──ジズとジャスパーが檻を抜け出し、片方が石にされ、片方が飛び降り……老人が奇跡の速度を求めたその日へと。
「鉱石化が解除され次第、急ぎ聴取を。奴は必ず何か知っている」
管理官室……天上宮の闇、その形を定める小さな場所だ。ウスターシュはリフターへと打診したが、どうも手応えがない様子だった。
「放っておけ」リフターは机から目を離さない。「どうせ何も知りはしない」
「何を馬鹿な。再統一を害する敵ですぞ」
「映像は」
「洗いましたが、フェーミュイの言葉通りです」
卓上の録画機のダイヤルを回し、ウスターシュが壁へと映像を投射する。
館内常設の水晶カメラがとらえたものだ。暗がりということも手伝って少し判別し辛いが、
石畳の上を鍵がひとりでに滑っているのが確認できる。
「上着のポケットから滑り落ち、そのまま檻へ」
「現場の残留魔素はどうだ」
「鑑別中です。警察の裏を介しているため、しばらくかかるかと」
映像を横目でちらと見やり、リフターはまた書類に目を戻して筆を走らせる。講演会に向けた演説用の台本のようである。
「魔術ではない」リフターは言った。「ケージは例外なく魔力封じの檻だ」
「あれはコンプレッサーと同じようなものです。破壊行為を伴った魔術ではない……つまり、魔力封じが反応する閾値以下の微弱な魔力なら、檻を通過できます」
「念動力という奴か? 手品じゃあるまいに」
いずれにせよ、とリフター。
「遠隔での魔術なら天上宮の中とも限らない。賊か、教団か、魔術に長けた異常者。洗うには候補が多すぎる。そちらに手をこまねいている暇はない」
「承知しております。しかし」
「急務はオペラの確保だ。鍵は奴の檻に行ったのだろう? 捕えて吐かせるしかあるまい」
「悠長な。再統一の遂行を考えるなら、この綻びは直ちに縫って然るべきですぞ」
「もう遅い」
是非もなし、といった様子でリフターは筆を置いた。
「オペラを解放した時点で敵の目的は達成されているだろう。ゼブラではなくオペラを狙ったということは、我々の再統一を知っている」
「だから進言しているのです。天上宮に内通者がいる可能性が」
「誰であれ、そいつはオペラを殺さなかった。生きている必要があるからだ」
二本。指を立て、リフターは続けた。
「目的は二つある。一つはオペラを通して人身売買を明るみに出し、我々の再統一を阻止すること。もう一つはかく乱だ。時間稼ぎだよ。我々が犯人探しとオペラの回収に手をこまねいている間に先手を打つ」
「……」
「こちらを手薄にして、再統一の進行を遅らせようとしている──つまり、相手の準備もまた万全ではない」
「……だから放置すると?」
「罠だ、これは。敵組織の母体は天上宮外だろう。内通者を探り当てたところで妨害の進行に変わりはない」
よほど急いでいるか。ジズが奪われたことによる焦りもあるだろう。リフターにしては詰めが甘い……よく見てきたウスターシュだからこそ懸念してしまう。
「マダム・クリサリスが落札したのであればオペラから人身売買が暴かれることはない。あの女も日向に引きずり出されるのを嫌う」
「……は」
「わかるか、ウスターシュ。こればかりはバグリスの欲深さが功を奏したぞ。オペラが手元を離れている以上、我々は再統一を完遂できない」
「その通りです」
「だが同時に、オペラがあの女の元にいる間は、天上宮の闇を暴かれることはないのだ」
理屈はウスターシュにも理解できる。皮肉にもジレンマによって完全犯罪は守られているに過ぎない。
「では、なんです。鍵を渡した犯人も、逃げたオペラも……放っておくと?」
「マダム・クリサリス……」
唱えるように呟いて、リフターは用紙を折りたたむ。
「あの女は、拾った種に水をやる。五年も檻にいた少女をそのまま野に放ちはしない。多少は猶予があるだろう。その間に再統一の第一フェイズを進める。オペラを奪還するのはその最後だ。我々がすべきことは──」
リフターが人差し指と中指を立てる。
「──同じく、二つだ。一つは再統一の準備の進行。これは変わりなく行う。もう一つは奪還のために、マダム・クリサリスとオペラを分断することだ」
「理解はしましたが、納得はできませんな」
ウスターシュは踵を返す。
「準備は滞りなく進行させます。それとは別に、ゼブラの対応は私が。同じことが二度、三度ないとも限らない」
「落ち着け。今はまだ早い」
「何故です」
「わからんのか? 鉱石化を解けば今度は奴に脱空のチャンスを与えることになる」
「……」
「私が道楽で奴を刺したなどと思っていないだろうな」
捻りかけた右手をドアノブから離し、ウスターシュは大きく鼻息を一つ。誰だか知らないが──随分、上手く仕掛けたものだ。こちらの動きを読んでいるかのように。
「ではなぜ」と、ウスターシュ。「オペラを刺さなかったのです」
「狙ったが、奴がかばった。仕留め損ねたのは誰だ?」
「……」
「奴らはどうやって最上階へ?」
「ですから」ウスターシュは扉を開けた。「それが問題だというのです」
◆
「何度でも言おう!」
礫の雨……そして立ち竦むジャスパー。その頼りない姿をしかと見下ろし、ウスターシュは大声で告げる。
「私は幸運を信じない。この世に奇跡などない! 人が見るのは奇跡ではなく、奇跡に見えるよう演出されたまがい物だ。答えろ。誰が出口を教えた」
巨石が蠢いている。駄目だ。もう持たない。走って逃げろ。それだけだ、ジャスパー。あのジジイのことだ、きっと本当に追うつもりはない。探せ。階段だ。どこかにある。右か。左。それとも奥の壁。
────ない。どこにも。この部屋には階段がない。
「ちくしょうッッ」
意味がない。足が動かなきゃ同じことだ。
不羈の立ち枯れ。その名を呼ぶ。駄目だ。羽が強張って動かない。あの、獣。あいつの目が俺をとらえて離さない。見える。瞳の奥に、ぐちゃぐちゃになった俺の腸が。
いや、馬鹿な! 脅しに決まってる。今までだって檻の中にいた。いつでも殺せたはずだ。
今更俺を殺したってどうにもならない。ジズはもうここにはいないんだ。何も変わらない。
ああ、違う──何も変わらないうちに、殺そうっていうのか。なんてこった。
あいつが消えたら俺はもう用済みか。わけがわからねえ。俺は一体何のために。
逃げ出せて、それでどうなる。啄ばまれてミンチになるのか。話したところで俺はこの先、二百年だかなんだか、ずうっとこいつとここにいて、人骨の雨と、化け物と……。
しっかりしろジャスパー。言ったんだ。俺があいつに言った。選ばないよりはずっといい。俺がそう言った! あいつはそれを信じたんだぞ。ジズは信じて、そしてそうした。
俺が選ばなくてどうする。俺が選ばなくて……。
「────……」
膝をつき、頭を垂れる。
ジャスパーが言葉を紡ぐことはなかった。
「……」ウスターシュは壁面へと飛ぶ。「……脆い」
照明のレバーを下げて、老人は再びジャスパーの元へ降り立つ。暗闇の中、巨空鷲は次第に落ち着きを取り戻したのか、目玉をぎょろぎょろと動かしながらも喉を鳴らし始めた。
「聞かせてもらおう」
問う老人。ジャスパーは跪いたまま答えない。背中の羽が黒ずんでいるのがわかった。
心の陰りだ。汗が引いて、体が冷えてきて……まだ呼吸が整わない。選ばなかった。俺は今、自分の運命を、放棄した。不思議だ。亀裂を感じる。自分の心に、石の羽に──おれ自身に。
くそ。馬鹿馬鹿しい。よく考えたら脅され損だ。だってのに、なんでさっさと言わなかった──言えなかったんだ。
俺が知ってることなんて、せいぜい──
「……ネズミ」か細い声でこぼすジャスパー。「鼠だ」
「ネズミ?」
「ネズミが鍵を持ってきた」
「なんだそれは。幸運だというのか?」
「……事実を言っただけだ。空鼠がジズの檻に鍵を持ってきて……俺はジズからそいつを受け取った。詳しくは知らねえ」
ウスターシュは沈黙する。彼の年の功でも真実かどうかは測りかねた。
この期に及んでまさか狂言ではなかろうが、ネズミとは一体どういうことだ。そういえば、一匹いたか。最上階へ追い詰めた折、職員の手を噛んだ鼠が。
どういうことだ。魔物使いか、憑依型の魔女。げっ歯類の亞人という線もある……が。
「非常口は?」と、ウスターシュ。「ダウシュタン・バロールの大鏡。何故わかった」
「だから」ジャスパーは頭を掻いた。「俺ぁただ、あいつについてっただけだ」
「……」
「ジズをとっ捕まえて聞けよ。天使がどうとか……」
「ネズミに、天使だと。おとぎ話のつもりか」
「俺たちは檻にいたんだぜ。おたくらのせいでな」
ジャスパーは床へとぼやいた。
「夢ぐらい、見るさ」