◇
それはちょうど冷え込んだ夜、クアベルが出撃する直前のことであった。
「さあ、こうなっては黙ってはいられません。惑星を二重構造にすることは厳しく禁止されています。かくして女神ノキア=ベラト=クロロエニは神々の輪を……」
管理官室に幼い声が響く。フェザーコード・クリスこともじゃ毛の天使……ジズにとってはまさしく天使……少女ロニアは丸椅子に小振りな尻を乗せ、旧時代の本を朗読している最中であった。小難しそうな顔を作っては、時々うんうんと唸ってみせる。
正確に言うなら、リフターに書物を──まさしく子を持つ母親のように──読み聞かせている最中である。眉なしの男はいつもと同じく椅子に腰掛けているが、机の上には書類も珈琲も見当たらない。それほど聞き入っているのだ。
この読み聞かせは読書と絵画に加え、彼にとって欠かせない日常の一つであった。何者にも邪魔されず、何者をも傷つけない、尊ぶべき安息の時間である。
ロニアの手元に握られた一冊の分厚い本は、この部屋の本棚にあるどの書物よりも年代を、そして知性と不気味さを感じさせた。なめし革らしき装丁はボロボロに剥がれており、用紙も茶色く古ぼけている。表にはまじないに似た妙な古代文字が記されていて、魔物の骨と思しき枠組みがなんともいかめしい。
「神々の輪を……えっと……えっとぉ……なんだっけ……」
頭を抱えるロニア。リフターが助け舟を出してやる。
「それは〝追放〟と読むのだ」
「あっ。追放。追放されてしまいました。おしまい」
ノキア涙海溝創世詩篇、第一章──涙から広がった宇宙の始まりを説く、言わば神話の一つである。ロニアはそっと本を閉じ、リフターへと微笑みかけた。
「変な女神様ですよね。皆にいろいろ貢がせてたら追放されるだなんて」
「人のこころを利用する人間というのは……大体そうなる運命なのだよ」
眉こそないが、リフターの表情には安らぎが見られる。声もどこか柔らかい。壇上で弁舌を振るう時や、無能な看守を怪物の餌にしてやる時とはまるで別人であった。
「たしか、そういう人間のことを……なんだ、姫と言うのだったか」
「姫? お姫様なのですか?」
「蔑称だよ。血筋や家柄の話じゃあない」
「変な言い回しもあるんですね。お姫様なのに」
言って、ロニアは再び本を手にとってみせる。
「ノキアるいかいこうそうせい……誰が書いたのですか?」
「わからん。著者の部分は古代アルザル文字だろう? トゼアノン・ナソンタラから発掘したはいいが、文字が旧すぎて誰も解読できなかった」
解読のために雇った無能な識者は巨空鷲の餌にしてやったのだが、リフターは心にしまっておくことにする。
「さすがに私もわかりませんね……ここまで古いと……」
「見つかったのが翻訳版の写本でよかったかもしれんな。もしも本文まで古代文字だったら、私は今頃地上に降りて、文字の手がかりを探しているに違いない」
「それは駄目ですよ」ロニアが微笑む。「地上に落ちたら死罪になってしまいます」
「承知しているとも。だからこうしてお前に朗読を頼んでいる。地上に落ちたお前に」
リフターはロニアの翼隠衣に触れる。彼女の方もそれを許した。ロニアの頬が赤らみ、肩が小さく跳ねる。
「ご主人様は文字が読めるのでしょう? それならご自分でお読みになれば……」
「なんだ、嫌ならそうと言ってくれれば……」
「い、いえ! そうじゃなくて……」両手の指先を合わせるロニア。「ご主人様はいつも本をお読みになっていますから、その方が頭に入るかなって……」
「それでは駄目なのだ」
「はあ」ぽかんと口を開けるロニア。「何故です?」
「声に出して読むと、心に届くからだ。昔、よく本を読み聞かせられていた」
「お母様にですか?」
「ああ……母上にだ。昔はそれが一般的であったらしい。寝る前に、絵本を読み聞かせる……子守唄と似たようなものさ」
そう言ったリフターの目元には大きなクマがふたつ。
「自分で読むのと、お前に読み聞かせられるのとでは──感じ方が違うのだ。より鮮明に頭に情景が浮かぶ。目を閉じ、深く沈み、自分が海深くにいるかのような錯覚さえ……」
「……」
「中身は同じだというのに」リフターは笑った。「言葉というのは面白いものだな」
「面白い……ですか」
「そうとも。扱われるのが同じ意味を持つ言葉だったとしても、話者によって受け取りかたが変わる。たとえば……」
小さく咳払いをして、リフターは人差し指を立てる。
「歯磨きはしたか? クリス」柔らかに言うリフター。「──と、私が言うのと」
「はい」
「歯磨きはしたか? クリス」今度は低い声で。「──ウスターシュがこう言うのでは」
「印象が違いますね。なんだか、ウスターシュ様のほうは、急かされているような、怒られているような……そんな印象です」
どちらも厳格なウスターシュがやりそうなことだ。たまらずリフターが笑みをこぼす。
「今度言いつけておくとしよう」
「ご主人様!」
「冗談だよ」
「もう……」
ロニアは頬を膨らませる。ウスターシュは怒らせると怖いのだ。
「ともかく、このように感じ方が異なる。一言一句違わず同じなのにだ。言葉は左右される。聞き手が話者に対して抱く意識に、そこに込められた抑揚に」
「魔素が……えっと、感情粒子がそうさせるのですか?」
「学者が正しければな。花ですら形を変えるようだ」
「花が?」
「リチャード=ストレイトウィーザーいわく──」
リフターの目つきが真剣なものに変わる。言葉を言葉として重んじる時の鋭い瞳だ。教壇に立つ教師のようだった。
「──花を入れた容器を二つ用意する。片方には毎日〝ありがとう〟と言葉をかけ続け、片方には毎日〝枯れてしまえ〟とかけ続ける。あとはわかるだろう」
「……片方は、本当に枯れてしまうのですか?」
「そうだ。それが感謝の言葉やポジティブな言葉であるか、また、怒りの言葉やネガティブな言葉であるかどうかでも変わるそうだ。水の結晶やコメなどでも同じ現象が確認された」
「それ、地上で聞いたことがあります。でも、誰も真に受けなかったって」
ロニアは両手を広げて、一本ずつ指を折ってみせる。
「アルザルの外にはいくつも言語があったんです。だから、違う国の言語ならどうなるんだ、とか、水に人種があるのか、なんて言われて……」
「視点が間違っているのだよ。言語の分類などさしたる問題ではない」
波だ、とリフター。
「ポジティブな言葉にはポジティブな感情が宿る。逆もしかりだ。それは、発せられた言葉がそういう周波数を持っていることに他ならない。怒りの言葉には、怒りの感情粒子が、労いの言葉には、労いの感情粒子が……悲しみには悲しみ、軽蔑には軽蔑……そこには人種も宗教も影響しない。感情とは差し詰め、真なる共通言語だ」
「……なんだか難しくてよくわかりません。つまり?」
「つまり……」
リフターはなるべく言葉を噛み砕いた。ここは壇上ではないのだ。
「〝ありがとう〟という言葉に宿った、その気持ちを表す抑揚……感謝の波形をした感情粒子……これが花や水に影響を与えた。従い、そこに言語の違いは影響しない」
「……」
「ああ、つまり……〝ありがとう〟という言葉を口にする際、怒りの気持ちを込める人間などそうはいない。だがもし、そういう感情で花に言葉をかけ続ければ……」
「同じ〝ありがとう〟の言葉でも、花は枯れてしまう?」
「仮説だが、恐らくそうなる」
卓上のインクボトルに羽ペンの尖端を浸し、リフターはペンを持ち上げる。インクが重力に従って滴り落ち、ボトルの中に小さな波紋を生んだ。
「全ては波だ。私もお前も波なのだ。花も水も米粒も。波は共振する。宛がわれた波の影響を受けぬ道理はない。人体における六〇パーセントが水分であるのなら尚のこと。脳波が人体を調律するのと同じくして──言葉の波もまた、人体を変調し得る」
ロニアはぎゅっと手を握った。覚えがある。
自身もまた何者かを、数多の者を……言葉によって変えてきたのだ。
「気をつけなさい、クリス。言葉は人を変えてしまうのだ。良きに進むも、悪しきに進むも、言葉のかけ方一つで変わってしまう。それは頼もしき盾になり得るが──また同時に、危うき矛にもなり得る」
「はい」
「言葉の力を軽んじてはならないよ。安易に人を傷つけてはならない。相手の立場になって、それを尊重し、よく選んで言葉を口にしなさい。美醜でなく、性差でなく、その先にあるその人の魂こそを見定め、そして理解することが必要だ。そうすることで人は、人に愛と優しさをもたらし、また自らも愛と優しさを身につけてゆく」
「心得ています。私を変えたのも、ご主人様の言葉ですから」
ところで、とロニア。
「ご主人様は、その思想を本にしたりはしないのですか」
「まさか。たしかに思想の啓蒙が一つの使命ではあるが、それは生の言葉によってこそもたらされねばならないし、私にチハヴォスク=ゼロツフスキーほどの学はない」
「私は、読んでみたいですけれど」
「書くことと喋ることには大きな違いがある。文筆家がみな饒舌なわけではないし、弁舌家がみな筆上手なわけではない。これも言葉の面白いところだ。形にするのは苦手でね」
それに、とリフターは椅子に背を預ける。
「誰も信じはしない。言葉の力を、身をもって知らなければ……」
「……」
尖るリフターの目。じわりと滲む黒い粒子。
陰りだ。ロニアはそれをいち早く察した。そういう風に出来ていた。
身を乗り出し、ロニアはリフターの膝の上へ跨る。そっと口づけ。触れる顎鬚、離れる唇と感触の余韻。言うまでもなく未成年との淫行は天上においても犯罪である。だがバレなければそれは完全犯罪だ。合意の下の一つや二つ、人身売買に比べればどうということもあるまい。
「……あの……」とろんとした目のロニアがローブをずらす。「その……」
右の鎖骨が露になったところで、リフターのほうが待ったをかけた。
「駄目だ、クリス。今日はもう遅い」
もじ、とためらいがちにロニアが身をよじる。
「でもぉ……」
「眠りなさい。ただでさえお前の体には負担をかけている。私も今日は疲れているんだ、いずれまた、時間がある時に……」
ロニアは渋々といった様子でローブを正す。仕方のないことだ。こればかりは彼女一人ではどうしようもない。リフターにも相応の時間と集中力が求められる。
ふと、思い出したようにリフターは問うた。
「〝拡大解釈〟の調子はどうだ?」
「問題ないです。むしろ、前より自由になってきています。雲のない地域は難しいですけど、それ以外ならほとんど……」
「体調も問題ないか? なにか困ったことは?」
「ありません」
「嘘はいけないな、クリス」
バレたか。どれがバレた。茶器を割ったことか。豆をぶちまけたことか……それとももっと──本当にバレたらいけない話か。ロニアは出来るだけ動揺を表に出さぬよう顔をそむける。もうそれ自体が動揺を証明していた。
「清掃官から聞いたぞ。結局、シーツは買い換えたそうだな」
少しだけ緊張が緩んだ。思っていたものとは違ったようだ。しかし、胸を撫で下ろす余裕はロニアにはなかった。それはそれで、バレると心底まずい話だったから。
「そっ……それは……」
「なにをやらかした?」
「……なにもやらかしてませんっ」
「正直に言うんだ、クリス。お前にもしもがあってはならない。あのシーツに付いていた血はなんだ。これは私やお前だけの問題ではないぞ。再統一に関わるもの全ての命運を左右する」
やがて、ロニアは肩を震わせながら言った。
「……お……」
「お?」
「女の子に……普通、そんなこと聞きます? いくらご主人様でも、そんな……」
「……」
クッションで顔を覆うロニア。これには言葉の覇者もお手上げだった。
「……いや、すまない。そうか。いや、違うんだ。違うんだクリス」
「なにが違うんですか!」
「違う! 聞くんだクリス。あまりに血が多かったものだから、てっきり私はその、拡大解釈でまた何か、大変なことをやらかしたのかと……」
言えば言うほど言葉がこんがらがってくる。そのうちリフターは引き下がった。男であればそうするしかあるまい。
「……いや、私が悪かった。すまない。この話はやめよう」
「そうしてくださいっ」
「……だが、何かあればすぐに言うんだ。どのみち、まだ再統一までには余裕がある。いや、できたというべきか。何にせよ、睡眠はしっかり取りなさい。強いたのは私だが、体に負担がかかるほどやる必要は……」
大丈夫です、とロニアは遮る。
「私も望んでいるのです、ご主人様。あなたの理想を望んでいます」
「……」
「人々がお互いに歩み寄り、理解し合い、そうすることで、言葉によって傷つけあわずに済む……愛と優しさに満ちた世界を」
天使は笑う。その笑顔にはインク一滴の曇りもなかった。
リフターは彼女の瞳を覗く。その奥に自分を見た。
鏡。鏡だ。この磨き抜かれた無垢なりし瞳は、見るものを映す艶やかな鏡。あるがままの姿よりも人を美しく高潔に見せてしまう、鏡の領分を越えてしまった鏡。
彼女の瞳を通してこそ、自分は無欠でいられるのだと──リフターはそう思う。
「おやすみなさいませ」
「ああ。おやすみ、クリス。いい夢を」
「はい。ご主人様も、いい夢を」
閉じられる扉。すると、また彼の中の孤独がダミ声を荒げた。怪物はいつでも耳元にいる。野望の名を持つそれは寝かせまいと鼻息を荒げ、ロニアの声を上塗りするのだ。
望めば安息もあろう。深く眠れば夢の一つも見ることが出来よう。だが、それでは駄目だ。それだけのものを秤に載せてきた。もはやこの盤上に待ったはない。
「……いい夢を……」
窓の外、遥か中天には白ばんだ月光の輝き。この天上ではあまりに眩しい。
夢。夢とはなんだ。叶えるべきものだ。いや、そうじゃない。自分の場合はそうかもしれないが、彼女にあるべきはもっと漠然としたものだ。
甘く、自由で、わがままで、後ろめたさも悲しみも寂しさもない、輝きに溢れたなだらかな道のりだ。どうにもならぬことに打ちのめされたりだとか、それをどうにかしようとしてしまったりだとか……そんなことで葛藤する必要がない、他人に施された愛と優しさで全てうまくいくような……そんな道をこそ、彼女は歩まなければならないのだ。
あれは幸せを望む人間だ。他人の幸せを誰より望み、そして、実際にそれをもたらすことが出来る人間なのだ。陳腐だが、まさしく天使のように。
誰より優しく、誰より慈悲深く、誰より愛に満ちている。その瞳に自らを見透かされれば、誰もが自らの罪を悔悟し、愚かさを恥じ、陰りを濯がれ、清き芳情の雨に打たれたかのごとくまっさらな気持ちになり、そして──そして、理想化した自らの姿に近付こうとしてしまう。
あれは鏡だ。理想化した自己を映す鏡。誰もを力強く肯定する鏡。
誰より愛と優しさを知り、人の気持ちを理解し、歩み寄り、そしてその蟠りを解きほぐしてやることが出来る、慈悲の権化とでもいうべき天使だ。
彼女には幸せを望む権利がある。いや、よしんばこの世の誰もがその権利を生まれながらに掴んでいようとも、真っ先にそれを手繰り寄せるべきは彼女なのだ。
だが、彼女が歩もうとしているのは。自分が歩ませようとしているのは……。
ああ、何億光年の光路の彼方へと散らばるような、あまりに無残な幸福ではないか。
それをすらお前は望むと言い、そして私は背負うだろう。
幸せならばそれがいい。それ以上はない。
だが願わくば、許されるならば、それをもたらす者は他でもない──
「……」
リフターは目を閉じる。落ちてゆく。怪物と共に奈落の底へ。
深く、深く、ただひとり、まどろみの淵へ────
「わふえふぁー!」
どばん、と扉を開けてクアベルが飛び込んできた。リフターの安息などはこの程度のものである。お天道様はしっかり見ているということだ。
「……待ったはなし、か……」
「ふぁい?」
「……なんでもない」
なんだかクアベルの声がもごついている。舌足らずどころの話ではない。よくよく見れば、トコナッツ・チップスが散りばめられたドーナツを口一杯に頬張っているではないか。
「ふぁっふぁふぁっふぁ」
クアベルはそう言って、ソファの上から麻布の小銭入れを拾い上げる。忘れ物を取りに来たようだ。となると、差し詰めさっきの言葉は〝あったあった〟というところか。
変えたばかりのカーペットにチップスの破片がこぼれる。リフターはなにも言わなかった。というより、何もかもが突然すぎて言葉が出てこなかった。クアベルと喋る時は大体そうだ。結局なにも言わないまま、不愉快そうにその目を細める。
「……」
「ふぁあ、ふぁんひふぁん」
クアベルは寝ぼけ眼で敬礼をかましてみる。相変わらず締まりはない。
「ふぃっえひはーふ」
「待てクアベル」
ドーナツを頬張ったまま、クアベルはひょいと振り返る。
「うぁんふふぁ」
「食べながら喋るな」リフターは続ける。「それと物を食べながら私の部屋に立ち入るな……いや、どこだろうと歩きながら物を食べるな。まずノックをしろ。それから、その寝癖も……ええい、突っ込みどころの多い。貴様は黒ひげ危機一髪か」
「ふぁんふふぁふぉえ」
「旧時代の玩具だ。海賊を模した人形を樽に入れて……」
「ふぁー」
「聞き流すな。まず飲み込め。いつまで咀嚼し続ける気だ。野生動物の親か」
「んふぁあ、ふぉろふぉーわふふぁふぁんふぁひふぉいふいふぉんふぁふぁふぁふぁ」
「……」
いよいよ何を言っているか分からなくなってきたので、リフターは解読を諦める。二、三、食べカスをこぼしたのち、やっとのことでクアベルがドーナツを飲み込んだ。
「いいか、まず人の部屋に入る時はノックをしろ。歩きながら物を食べるな。歯を磨いたあとなら尚更やめろ。虫歯になるぞ。それと、寝癖ぐらいは整えろ。礼儀と品性の水準をもう少し引き上げるべきだ。大体、今回のこともそうだ。貴様が寝坊だのサボりだのを平気でやらかすから罰を与えることになる。聞いているのかクアベル=ラズワイル」
リフターは怒涛の勢いで言ってのけたが、糠に釘を打つような感触だった。
「やだな管理官、オレもう二〇歳っすよ。やめてくださいよみっともない」
いい大人らしいクアベルは胸を張ってみせる。チップスのあまりが口についていた。
「恥ずかしくないんスか、いい大人にそんなこと注意するなんて」
「……? いや待て、何故そうなる? 立場が逆だ」
「相手の立場になって考えろってよく管理官が……」
「そういう意味ではない! いい大人にそんなことを注意しなければならない私の身にもなってみろ。とにかくもう一度歯を磨け」
「えぇ。そんなん個人の自由でしょ。安心してくださいよ。ほら、歯並びいいでしょ」
いぃー、とクアベルが口を横に引っ張り、歯茎の色をもリフターに見せびらかす。もちろんリフターは溜息をつくだけだった。
「貴様の歯並びなどどうでもいいし、そもそも虫歯と歯並びは関係がない。重要なのは歯並びではなく歯磨きの質だ」
「あれ。あったと思ったんだけどな。でも生え変わりの歯は全部引っこ抜いたっすよ」
「いつの話だ。ついでに舌の根も引っこ抜いておくべきだった」
む、と頬を膨らませるクアベル。
「なんすか。管理官が無理やり引っこ抜いたんじゃないすか。昔は糸でくくって引っ張ったのだ、とか言って。オレめっちゃ泣いてんのに。市中引き回しの刑にでもする気かっつー……」
「その減らず口を閉じろ。本当に市中引き回しの刑にするぞ」
「うす」
「まったく貴様は世話を焼かせる……」
「焼き加減どうすか?」
「いいから黙れ」
むすっとした顔でクアベルが口を閉じる。ただでさえ寝不足がちのリフターは疲労困憊だ。いくら心が強かろうが、身体の軋みが嵩めば気疲れもしよう。
はて、なんの話をしに来たのだったか……あれでもないこれでもないとテーブルの書類やら文房具やらに目をやりながら、リフターは眠りかけの脳味噌に鞭を打つ。
「……ああそうだ、貴様に進言を託しに来たのだった」
リフターは完全に寝ぼけていた。託しに来たもなにも、ここは管理官室である。クアベルも話がよくわからないのか、眉元をくしゃりと潰す。
「……歯磨きした後に物を食べるなって、わざわざ言いに?」
「私がそんなに暇に見えるか?」
「だってこんなところで無駄口叩いてるし……早く仕事に戻った方がいいすよ」
「貴様がそれを言うのか……一体どんな育ち方をしたらこんな……」
「育てたのは管理官すよ」
「いやちょっと待てなにかおかしい。そもそも私の部屋にいきなり来たのは貴様だ」
ぽけ、とクアベルは口をあけた。
「管理官」
「なんだ」
「疲れてるんスね」
「貴様のせいでな!」
リフターはこめかみを押さえた。血圧を測ったことはないがそう良い数値ではないだろう。血中魔素もなんだか不安定に感じる。
「待て、貴様に言い忘れていたことがあった。オペラが食い下がるようなら……」
「羽だけでもいいんでしょ?」
「それは本当に最悪の場合だ。代わりを探すのも手間になる」
リフターは水晶カメラの操作盤を弄る。また気が重くなる仕事の始まりだ。
「ゼブラの件は報告を受けたな?」
「……脱獄に失敗した奴すか? ジャスパー? でしたっけ?」
「そうだ。オペラを庇って石になった」
画面の中、地下牢に碧が一つ。ジャスパーだ。愚かにも彫刻の運命を選んだ碧玉の男。
石像となった彼をノイズ越しに眺め、リフターは薄っすらと笑みを浮かべた。ロニアに見せたようなぬるい微笑みではない。そこにはただ邪気のみがある。
「石というのは面白いものだ。あれほど強固で頑なな癖に、割れる時はあっさり割れる」
「まーたポエムすか」
「まあ聞け」画面を叩くリフター。「オペラの心には皹がある」
「ひび」
「そうだ。埒が空きそうにない時は、今から私が言う言葉で刺すがいい」
「はあ。なんなんすか」
「お前のせいでゼブラは石にされたのだと──そう言ってやれ」
クアベルはいい加減に右手を振った。趣味の悪い男だと思いながら。
「そんなうまくいくっすかね。水晶ちゃんはみんな意固地だし……ロニアちゃん見てりゃわかるでしょ」
「石の羽を持つ者はみなそこに理想を見出す。そうあろうとするのだ。己の片割れを探し求めるように」
まさに、とリフター。
「五分五分といったところだな」
「……」
「まあ、駄目なら駄目でかまわないが、やってみるだけやってみるがいい」
リフターはインクに人差し指をつけ、そして真っ直ぐに立ててみせた。
「言葉一つで、薔薇は輝きも煤ばみもするのだから」
「汚れますよ」
「水を差すな!」
「水に差したんでしょ」
その日はリフターの完敗であったという。
◆
正直に言って、リフターのやり口はクアベルの趣味ではない。善悪の問題ではなく、回りくどくて面倒だからだ。しかし、この埒が空きそうにない状況においてそれが最適解であるあたり、やはりリフターは切れる男であった。
どちらかというとそういうやり方は、自分ではなくロニアの方が──
「ちっ。管理官めっ」
性懲りもなく伸びてくる庭師のツタをかわしながら、クアベルは考える。
石の羽のゴリ押しで削りきるというパワープレイも出来なくはない。庭師の種のストックはそう多くないだろうし、見たところ大きく体内の魔素濃度に影響するようだ。同じことを三、四回……は甘すぎるか……八、九回繰り返せば庭師はお陀仏だろう。
憂うべきはマダム・クリサリスの帰還だ。いくら石の羽封じがあるとはいえ、二〇〇を回ろうかという老体にああも軽くあしらわれたのだ。その実力も自ずと計り知れるというものだし、あれでも底は見せていまい。
出遅れればこちらがやられる。ならばクアベルの打つ手は一つだ。
底の見えぬ老婆が来る前に、秘めた奥の手をショウ・ダウンし──ジズを揺さぶる。
「……やるかぁ」
攻めの手を止め、面倒臭そうにクアベルは呟く。ビーガンも応じて身構えた。身構える理由があった。
彼が知る限り、比翼者のみが持つ石の羽は、例外なく持ち主の内面に姿を似せる。それは、たとえばジズの象徴である〝薔薇水晶〟の石の羽が、彼女に恥じぬ薔薇の姿で、傷を癒す力を──一つの意志の結実として──発揮したようにだ。
襲撃者・クアベルも、比翼者である以上その例には漏れない。彼女の左肩から生えた黄玉が彼女の象徴であり、人魚姫だか地獄の番犬だか、それとも死体の繋ぎ合わせだか分からぬ三つ首の怪物も……まあ、彼女がその外貌を快く思っているかはともかく……彼女に恥じぬごった煮加減というわけだ。
問題は見てくれではない。見てくれから読み取れる〝石の羽〟の正体だ。
ジズの薔薇で言えば注射器だし、石になった名を借りればジャスパーなどは剃刀であった。要は石の羽という奴は、なにかしらのアイテムを模るのだ。そして大抵の場合、それは石の羽が為し得る出来事に直結する。注射器なら吸い上げるし、剃刀なら切る。
だがクアベルの羽はといえば、そいつが何であるかが全く読み取れないではないか。
魔物博物館に展示されている結晶標本か、せいぜい悪趣味なインテリア。間違っても注射器などではないし、剃刀にも見えない。
(……何が来る……?)
怪物そのものだとでも言うつもりか。列車、ベビーカー、それとも庭師に合わせて芝刈り機か……機能的にはおあつらえ向きだろうが、そいつは陳腐が過ぎるか。
ビーガンは頭を回したが、ぱっとは思いつかない。これは致命的なことだった。事と次第によっては初撃を見切り損ねての即死も充分に有り得た。
なんだ。何が来る。物臭な女らしい物臭な羽とは。そこから浮かぶものとは。
「【放蕩娘・芥浚い】」
轟くクアベルの宣誓。応じて魔素が輝くなり、彼女の翼──〝クリちゃん〟の三つの大口が傘みたいに開いた。巨石へと打ち込まれた人魚の尾は、錨さながらだ。
「────つかまれ!」
叫ぶビーガン。滑車を回したような音に続いて突風が吹き荒れ、雑草と礫が巻き上がった。
「なに!」チネッタは言われるまま柵にしがみつく。「なんなの!」
「掃除機だ!」
慌ててジズも大木に抱きつく。風で体が持っていかれそうだ。髪はぐちゃぐちゃ、翼隠衣も半分脱げかけ、おまけにローブから下着が見えそうだがそれどころではない。
ジズはクアベルの方をちらりと見て、見なきゃ良かったと後悔した。
ただの風じゃない。一八〇分コースの意味は相変わらず分からないままだが、掃除機という言葉の意味は理解できた。
巻き起こる三つの竜巻。〝クリちゃん〟の大口へ色んな物が飲み込まれてゆく。ビーガンの庭師道具に畑の土、竹箒にスコップ、おまけにマダムの庭の草。とうのジズ自身も気を抜けば吹っ飛ばされそうだった。
人魚じゃない。掃除機だ。クアベルの肩口にあるの石の羽は、分別もなく全てのゴミを飲み込んでしまう、厄介極まりない代物だった。
「大雑把すぎるだろうが!」蔓に捕まり言うビーガン。
わっちゃわっちゃと飛び交う雑多な小道具の数々。時折〝クリちゃん〟が飲み込みそこねた葉っぱやら土やらを顔から引っぺがし、クアベルは黄玉の隣で高笑った。
「あっはっは! 吸い込め吸い込め! ほれほれどうしたクソ庭師!」
その表情たるや満面の笑みである。尿意のことなどどこ吹く風らしい。
くそ。なにがそれはそれ、だ。やっぱり出任せじゃないか。未練がましく選択を責めてみてから、ビーガンはより強く蔓を握った。
「このずぼらが! お前のような奴がいるから清掃業者が泣きを見るんだ!」
「ずぼら? とんでもない。オレの羽は潔癖症なんだ。心が汚れた奴は許せねえってさ!」
吸引が勢いを増す。柵が根元から飛んでいったものだから、チネッタは慌ててそこらの雑草にしがみついた。
「いやぁああもうなんなのこれなんなんマジでなんなんこんちくしょらばっちゃーい!」
チネッタはいよいよ半泣きだ。口走る言葉まで無茶苦茶になってきた。髪のセットが台無しだし、お気に入りの給仕服も泥だらけ。ヘアゴムを失くしてツインテールの片っぽがご臨終、挙句に靴まで片方持っていかれた。二万ゼスタもするやつなのに。
「クアベル!」風に負けじと声を張るチネッタ。「あんた私を殺す気かぁー!」
「任せろチネッタ! お前は吸い込まないように心がけるぜ!」
「あんたマジふざけんじゃないわよ何しにきたのよ! こんなことしてマダムが帰ってきたらタダじゃすまないんだから……」
チネッタの頭が急に回った。
(……そうよ。そもそもこいつは何しに来たのよ。妙だわ……)
家出した少女をバベルに返す? その為だけに石の羽を全開にして辺り一帯を派手に除草?
そんな過激な話があってたまるか。阿呆でもおかしいとわかる。ましてチネッタはマダムやクアベルの見立てほど阿呆ではないのだ。
「あっ」
ジズの手が木から引っぺがされる。チィちゃんが小さく鳴いた。
「ひぃあぁああああ」
「ジズ嬢!」目元を覆いながら叫ぶビーガン。「石の羽を使え!」
「どうやって使うのぉ!」
「羽なしが知るわけないだろがぁ!」
ぐるぐると回るジズの視界。死に物狂いで掴んだ雑草もぶちぶちと音を立てていく。
たちの悪いアトラクションみたいだ。フードに捕まったチィちゃんの両の目も、ぐるぐると渦巻きを描いている。ジズもそこそこに体重は軽いほうだが、ネズミなどはもっと軽いのだ。右へ左へ縦にと揺られ、今にも掃除機に吸い込まれてしまいそうだった。
「あわわわわわわ」
ジズの頭はもうごちゃごちゃだった。ただでさえポンコツでパニクりやすい脳味噌は完全にオシャカ。どうすればいい。どうするんだっけ。
そうだ名前だ。羽の名前。名前を呼ばないと。
名前……名前? なんだった? あの薔薇はなんて名前だっけ?
ぶりっじ……違う。ろけっと……違う。ばげっと……バゲットセット?
「ばっ……ばげっとせっと……ばげっとせっとなんとかー!」
完全にやけだ。羽はうんともすんとも言わなかった。
「なんでだぁー!」
「そこから動くな!」
雑草を掴みながらビーガンがジズの方へにじり寄る。愛とか優しさとかそういうわけではない。ただ庭師としての使命が──もとい、一八〇分コースへの執念がそうさせた。
突風に崩れるビーガンのバランス。チネッタが叫んだ頃にはもう遅かった。庭師の体は宙に浮かんで、掃除機の大口へと一直線。あわや、というところで刈り込みバサミの片割れを地へ穿ち、ツタを絡ませて延命治療。
「あっはっは!」高笑うクアベル。「見ものだぜ庭師! いや見世物か!」
まるで、凧だ。か細い一本のツタが辛うじてビーガンを中空にとどめている。風前の灯とはこのことだった。
「よう、おチビちゃん」クアベルは腕組みしながら言う。「お前が抵抗せずについてきてくれるってんなら、石の羽を解除してやってもいいぜ」
罠だ。そうとわかっていながらジズの耳には触りが良く聞こえる。それを知ってか知らずかビーガンが声を荒げた。
「耳を貸すな!」
「だ、だって……」ジズはもう半泣きだった。「このままじゃ……」
「あなたが行ったら僕はマダムに首を飛ばされる。それだけは絶対に駄目だ! 庭師の誇りにかけてそれだけは許されない! 優待券を没収されてしまう!」
誇りの部分はほとんどおまけだった。
「そうよそうよ!」今度はチネッタだ。「私一人でこの庭片付けろっての? 冗談じゃあないわよ、アンタも手伝うのよ!」
「大体考えてもみろ! 大人しくあなたが身柄を差し出したところで、こいつが攻撃をやめる保証はどこにもない!」
そんなこと言ったってどうしろっていうんだ。くそくそくそ。ジズはやけっぱち気味に歯を食い縛る。
「お前もお前だよ、おチビちゃん」
ジズに眼をやって言うクアベル。
「羽の名前も知らねえ分際で三〇〇〇万ゼスタだと? まぐれあたりで石を使えたような奴が、大層に薔薇水晶だって。比翼者なめてんじゃねえよ。愛と優しさが聞いて呆れるね!」
「黙れバカ! そんなの私に言われたって知るか!」
「そうそうそれそれ。そいつがお前の本性だ。気に入らない奴を睨みつける時の顔、反射的に出てきたきったねえ言葉……それがお前なんだよ、フェザーコード・オペラ」
自分の影が重なる。そうしてまた心の脆さを思い知る。暴風の中、ジズは必死にクアベルを睨みつけた。
「オレは檻にいた頃のてめえを知ってるぜ。給仕のついでに一度見てる。どうだい、あん時と比べて何か変わったかい。えらくいい子ちゃんぶってるように見えるが」
「黙れ!」
「そいつはただ──なりたかった自分を演じてるだけじゃないのかな」
このあたりの言葉はクアベルのアドリブであった。それにしては中々出来がいい。餅は餅屋というところだ。
「猫被んのは自由だけどな──」
クアベルはまだまだ追い討ちをかける。頭に浮かんできた言葉の中から、極力切れ味の鋭いものを選び抜いて。
「檻から出たぐらいで変われると思ったら大間違いだぜ。思春期を檻で過ごしてんだ。そこで生えちまった根っこはこの先ずっとお前につきまとうんだよ。わかるかおチビちゃん。お前の中身はあの時のまんまだ」
「うるさい……!」
「お前がオレを出そうなんて言わなきゃあこんなことにはならなかったし、なったらなったで大人しくついて来れば話はすんだんだ。なんでそうしなかった? それが最適解だってことぐらい馬鹿でも分かるだろ。結局お前の言ってる愛だの優しさだのは──」
「うるさい!」
「──我が身可愛さなんだよ!」
わがまま。わがみかわいさ。棘がジズの心臓を締め付けた。きゅっと口元が引き締まって、喉の奥が酸っぱくなってくる。
ジズはたまらず耳を塞ぎたくなる。けれども吹き飛ばされては本末転倒なので、ぐっと雑草を握る手に力を込める。そのうち汗で滑ってきて、また次の草に手を伸ばす。
そんなことを言ったらチネッタだってクアベルを出す方に一票入れたじゃないか。それすら片翼の生まれのせいだと言うのだろうか。自分のせいだとか、自己満足だとか、比翼者だからどうだとか、うるさいうるさい。聞きたくない。
だって、だってそんなの、どうしようもないじゃないか。かくあれと生まれてきてそこから抜け出せないのなんて、しょうがないことじゃないか。環境だとか、言葉一つだとか、そんなもので人間は簡単に変わったりしない。
こんなに──こんなにも難しいことだから、私は悩んでいるんじゃないか。
「ムッカつく……」
ジズに吐ける精一杯の暴言だった。いつもそうだ。泣き虫は、泣きそうなる苛立ちと恥ずかしさと悔しさを、当て所ない怒りに変えて吐き出すしか術を知らない。
だって、誰も教えてくれなかったじゃないか。泣きそうになったらどうすればいいかなんて私は知らない。ただ泣きたいように泣いてきた。
知らないなら、そうするしかないじゃないか。
「……」
半べそをかくジズの姿に、クアベルは一人で納得した。
なるほどリフターの言う通りだ。言葉一つで薔薇は煤ばむ。
この女──強気なうちはたいがい強気だが、一度崩れるとめっぽう弱いらしい。
「はん」鼻で笑うクアベル。「手に取るように分かるぜぇ、おチビちゃん。お前のメンタルはガタガタだ。足りないものを、割り切りだとか虚勢だとかで誤魔化そうとしてる……そういう女の顔だね。本当は今だって泣きたくてしょうがねーんだろ」
「知ったようなこと言うな……!」
「知ってるから言ってんだよ」
潮時だ。クアベルは上っ面だけ鼠に同情してみて、それから悪趣味な切り札を突っ込んだ。
「────ジャスパーだってお前のせいで石にされちまったんだろ」
棘が心臓に食い込んで、ジズの呼吸が止まりそうになる。精算できたはずなのに、踏ん切りがついたはずなのに、まだまだ痛みが後を引く。この先もずっと。多分、一生。ついこの間のことのようで、ずっと昔のことのようで。
クアベルは目を細める。効いてる効いてる……ではなく、なんだ効くのか……といった心境だった。慈悲こそないものの、そこまで悪趣味にはなりきれなかった。自分だって比翼者の身なものだから、自我との葛藤がどれほど熾烈であるかはよく理解している。
だが──それはそれ、だ!
「どうなんだおチビちゃん。自覚してんのか? 今だって、お前の愛と優しさがそこの二人を振り回してんだぜ。お前のせいでこうなってんだぜ! 大人しくバベルで夢浸りになってりゃこうはならなかったのに」
うるさい黙れ。なんでそんなこと知ってるんだ。くそくそくそ。どいつもこいつも。
ジズはひたすら毒づく。口を開けたら泣いてしまいそうなので頭の中でそうした。
「お前の悩みはな、愛と優しさとどう向き合うかなんてご大層なモンじゃねえぜ。自分が一番傷つかずに済む答えを探してるだけだ。
だって自分の願望は叶えたい。でもその為に誰かを傷つける覚悟はない……でもでもだっての、ただのワガママだね。脱走した時だってそうだろ。迷わずさっさと飛び降りてれば余計に傷つかずにすんだんだ。ジャスパーも、おまえ自身もな。
結局おまえは、自分のわがままで自分を雁字搦めにしてんだよ!」
お前のせいだ。お前のせいだ。お前のせいだ。わかるかオペラ──リフターの声がこだまする。ぐしゃりとジズの顔がつぶれる。クアベルがほくそ笑んだ。
「気持ちは痛いほど分かるぜ、おチビちゃん。オレもそうだった。ダメな自分がどうにも嫌いで、そのくせ羽は掃除機だし。綺麗好きの羽らしくそうあろうとしたけど、どうにも上手くはいかねえし…………アゾキアには怒られるばっかりだし……」
「……」
「だからオレは受け入れることにしたんだよ。物臭っていう自分の本性を。考えてみりゃあそうだよな。掃除機じゃ細かいところまで綺麗にできないし。綺麗好きの羽だと思ってたのが、実は自堕落の羽でもあったってわけ。
そっからは楽だったぜ。背伸びしたのが間違いだったんだ。石の羽は自分の姿見だけど、鏡は自分の背丈を大きく見せてくれたりはしない。ありのままが一番ってやつさ」
垣間見た油断。種を撒くビーガン。しかし、伸びてきた触手をクアベルの羽はなんなく振り払う。力の差を誇示したようにも見えた。降伏の他に手立てはない……ジズにそう思わせるためのパフォーマンスだ。
舌打ちしながら草にしがみつくビーガンを見やって、クアベルは仕上げに入った。
「もう一度言うぜ、おチビちゃん。オレと来るんだ。それが最適解だよ」
「……さいてき……」
「ほらほらどーすんだ。このままじゃ二人が! 時間と違ってオレは待ったりしないぜ」
ごうごう、ごうごう。揺れる揺れる。ジズの秤はおぼつかない。ニチザツがたまらず空へと逃げた。揺れた振り子にまた揺さぶりをかけるべく、クアベルの背から生えた怪物がその黄玉の輝きを増す。屋敷ごと飲み込まれるのは時間の問題──というより、クアベルのさじ加減の問題だった。
「……ええい」業を煮やしたのはチネッタだった。「見てらんないわ!」
あけすけにポジティブな女には、底なしにネガティブな女の葛藤など関係ない。チネッタは気が短いのだ。迷う暇があったらとにかく体を動かす……そういうタイプである。
それが幸と出るか不幸と出るかは時と場合によるが、この状況に限っては正解だった。
クアベルが自分を石の羽の餌にすることはない──直感を根拠に、チネッタは一思いに柵から手を離す。あっとジズが声を上げた頃には、もう彼女の体は掃除機めがけてお空をぶっ飛ぶ最中だった。
「げっ、馬鹿!」
誰より先にクアベルが焦った。翼の輝きが収まる。応じて〝クリちゃん〟が吸い込むのをやめ、家の残骸と雑草がはらはらと地へ落ちてゆく。
この機を見逃すほど愚かな庭師ではない。ビーガンは残り少ない種の一つを瞬く間に成長させ、触手でジズとチネッタを引っ掴んだのち、ダイナミック伐採を免れた樹林の影へと諸共に身を潜めた。
「なんて無茶を!」チネッタに詰め寄るビーガン。
「だってあいつは私を吸い込んだりしないわ。そういう奴だもん」
チネッタはあっけらかんとそう言って、ボサボサの髪を整える。この状況でキューティクルの心配とは、とことん肝が据わっているか、それとも単に馬鹿なのか……ビーガンには判断がつかない。馬鹿な上に肝が据わっているのかもしれない。つまり最悪だ。
ぐじぐじと響くすすり泣き。膝を抱えて塞ぎこむジズ。チネッタは涙目を覆うジズの両手を引っぺがし、苛立った様子で彼女を引っ張り上げた。
「さっさと立つ!」
「ごめんなざい……」
「反省はあと! 泣くのもあと! この状況をなんとかする方が先でしょ!」
クアベルは舌を巻いた。庭師に……ではなくチネッタの強かさに。暫く会わない間に随分とまあ豪胆になったものである。
だからといってやることは変わらない。さっきは不意を突かれただけだ。あんなものは所詮その場しのぎ……状況が解決へ進んだわけでもないし、同じ手は二度も食わないし……庭師の始末が簡単なことにも変わりはない。
「聞こえてるか、おチビちゃん。一分やる。こいつが最後のチャンスだぜ。そこの二人を助けたかったらオレと来な。教えてやるよ。羽の使い方も、お前自身の救い方もな」
ぎらと目を開く三つ首の怪物。黄玉を一際強く輝かせ、クアベルは口元を歪めた。
「来ねえってんなら──今度は本当になにもかも吸い込むぜ」
脅しではない。こいつは本当にやる。やれるだけの力がある……。ビーガンは手元の種子を数えてみた。
数える必要はなかった。残り一つだ。もう失敗は許されないが、簡単なことではない。
「早く拘束してよ」チネッタは簡単に言った。「私、もう掃除機は嫌よ」
「駄目だ、隙がない。次かわされたらおしまいだ」
「だからってジズを差し出すわけにはいかないじゃん」
「うるさいな、だから頭を回してるんです」
眉間を押さえるビーガン。その手に握られた小振りな草花の種を、チネッタがひょいと引っぺがした。
「とりあえずこれ使ってみて駄目だったらその時考えましょう」
「馬鹿を言うな!」種を奪い返すビーガン。「あなたのそういうその場凌ぎの短絡的な考えがこの状況を招いたんだぞ! 何がその時はその時だ!」
「だからあなたを頼ってるでしょ!」
「わがままは身の丈にあったものにして下さい。自分じゃどうしようもできないのに、責任を取るなんて簡単に言うもんじゃない」
「あーあーうるさい連帯責任よ連帯責任。ほら早くなんとかしないとマダムに怒られるわよ。優待券! ゆ・う・た・い・け・ん! 没収されちゃうわよ」
「その単語を出すな! いまナーバスなんだ! 少し黙ってろっ」
ビーガンの堪忍袋もそろそろ限界だ。今にもブチ切れそうな血管が額に浮いている。
極力矢面に立たぬよう、ジズはひっそりと膝を抱えていた。チィちゃんも一緒に身を縮こまらせる。
「あなたも頭を回してください。どうするか考えるんです」
ビーガンの言葉がジズへと飛んできた。そう簡単に見逃してはくれないようだ。
「というより……もはや、あなたがどうしたいかだ」
どうしたいか。どうしたいかだって? ぐずりと鼻水を拭って、ジズは頭を悩ませた。ただでさえ皺だらけの脳味噌がますますしわくちゃになっていく。
私一人の問題じゃない。バベルに戻れば誰もが困る。皆の色んな行いを無駄にしてしまう。ジャスパーが自分を逃がしてくれたのも、バグリスが自分を拾ったのも、マダムが自分を買い取ったのも、チネッタがオムレツの焼き方を教えてくれたのも、ビーガンがマダムの言いつけを守ろうとしているのも──何もかも、全部。
かといってこのままでは屋敷が壊滅する。みんなそろって掃除機の中だ。
ジズは比翼者だから石になるだけですむ。あの時こうしていれば、などと悠長に四八三年分ほど後悔もできよう。けれど、チネッタはただの片翼者だし、ビーガンに至っては羽なしだ。マダムだってあの老体で家を建て直さねばならなくなる。
「……」
決断はジズには重すぎた。
自分のせいで誰かが死ぬのはいやだ。だからといって皆がしてくれたことを無駄にはしたくない。けれど檻には戻りたくない。結局ただのわがままだ。
このままじゃみんなが。でもでもだって。ジズは同じ問答を繰り返す。そうするようにして過ちまで繰り返そうとしている。わかっているけど決断できるほど大人じゃない。
死んでしまいたい。それすらも我が身可愛さだ。責任と重圧から逃れたくてそう思ってみた程度のものだった。なにもかもクアベルの言う通りだ。
私は自分に向けられた全ての優しさを、我が身可愛さで壊そうとしている。
どっちか選べなんて無理だ。どっちも大事なことなんだ。どちらか片方でも欠けてしまえばきっと飛べなくなってしまう。翼がそれを体現している。
だったらそれを言葉にすればいい。選ぶのが無理ならそう言えばいいし、檻に戻るのが最善だと思うならそう言えばいい。なんとかして欲しいのなら、そう言ってみるのもいいだろう。
けれど、ジズにはそれが出来ない。ジズの中の恐怖がそれを許さなかった。
選ぶのが無理だと言えば優柔不断だと思われてしまう。檻に戻るといえばビーガンの機嫌を損ねてしまう。なんとかしろなんて言ったあかつきには、力もないのにワガママな奴めと思われもしよう。
これは夢じゃない。もう檻にいた頃とは違う。目覚めた時に全てがなかったことになるわけじゃないし、明晰夢のようにみんながみんなジズの思い通りに動くわけではない。蝋燭は食べられないし雲は綿菓子にならない。皆がそれぞれ生きていて、それぞれの考えを持っている。誰もがジズの気持ちを汲み取ってくれるわけではない。
言葉はその隙間を埋める為にあるものだ。口にも出さずに自分の気持ちを悟ってくれなんて無茶なことだと理解している。
だけどもし、もし思うように言葉が伝わらなくて、気持ちが伝わらなくて、隙間が広がってしまったら……。
「……」
怖い。ジズはただ恐れていた。形も知らぬ己の本性が、我が身可愛さという怪物が、言葉を通じて這い出てきてしまうのではないかと──そしてそれが、ジズの意志とは関係なく相手を食い散らかしててしまうのではないかと──ただ恐れていた。
そんな場合でないことは重々承知していた。それでも恐れずにはいられなかった。
眉のない男の言うとおりだった。言葉の力を軽んじてはならない。ジズの気持ちを、言葉が常に正しく伝えるとは限らないのだ。そしてそいつは一度口から放たれれば、否応なく記憶に残ってしまう。
刃に似ている。無闇に吐き出せば他者を傷つけるが、抱え込めば自らを傷つけるもの。
「……わたし……」
言の刃がジズを裂いた。それに対して頭の中で並べた言葉でさえジズを締め付けた。
ああ。言葉など、いっそ通じないほうが救われたのだ。
このまま迷い続けることだけは正解じゃない。正解じゃないとわかっているのに。
「……ジズ嬢を差し出すしかない」
ようやく口を開くビーガン。チネッタが目をひん剥いた。
「はぁ? 正気?」
「無理ですよ、この状況をひっくり返すなんて。これだけ庭が荒れたら、どっちみち優待券は没収される。お手上げです。万歳三唱。しょうがない」
ビーガンは投げやりにそう言う。頭のゼンマイが切れたようだった。対してチネッタの表情は曇る一方である。ストレスの原因は彼女なのに。
「……なにそれ。しょうがないからそうするの? そんなの解決の放棄じゃない。
ほんと、どこまで灰色なんだか……」
ぶちん。ビーガンの血管が悲鳴を上げる。ただでさえ近寄りがたい目つきが地雷原のように味気なくなって、とうとう庭師の脳味噌は我慢の限界を迎えた。
「だったらあなたが私の盾になって突撃でもかましますか? それなら奴はうかつに攻撃できない。どうします?」
「出来るわけないでしょそんなこと!」
「出来るはずだ。私が頼めばあなたはやる」
ビーガンは努めて冷静に言った。冷静だったかはともかくそういう声色だった。
あえて、あえてそういう言い方を彼は選んだ。
「──あなた、私に惚れてるんでしょう。やってくださいよ」
ばしん、と乾いた音。チネッタの掌が庭師の頬を張る。空気が乾いた、気がした。
僅かにズレたマスクを正して、ビーガンは彼女の瞳に宿った怒りを見下ろす。
「つけ上がってんじゃねーよ」チネッタの目は冷たかった。
「それはあなたのほうだ」
「なにがよ」
軽蔑と失望とがチネッタの中でぐちゃぐちゃになる。ビーガンが溜息をついた。
「さっきあなたがやったことと似たようなものだ。人の好意につけこんだ……奴が自分を吸い込むはずがないと思ったからああしたんでしょう」
「……それは……」チネッタの語気が弱まった。「しかたないじゃない」
「しかたないだと? 運命はそうして決まる。よくも私を値踏みできたものだな」
「……なに怒ってんのよ」
「勘違いの上に胡坐をかくのもいい加減にしろと言っている」
状況も最悪なら空気も最悪だ。ジズはさっきよりも強く膝を抱え、流れ弾が飛んでこないようにと必死に祈った。
最悪だ、なにもかもが。
「いい機会だ。はっきりさせておこうか、あなたの勘違いを」
ビーガンの眼中には、もうチネッタしかいない。行き着くところまでキレてしまったのだ。それはもはや防衛の為の攻撃だった。
「いいかチネッタ。私はな、あなたのような女が大嫌いなんだよ」
防戦一方、庭師の攻勢。かくして盾が矛になる。堪忍袋はついに爆発した。