謹厳実直を絵に描いたような男──アゾキアは立ち上がった。彼の瑞々しい手が管理官室の扉を叩く頃には神工天体の自転も半ば過ぎに差し掛かり、中天月のほうが夜の淵に顔を覗かせようとしていた。
「ちょうど、呼ぼうと思っていたところだ」
ワライシロマツの机に両肘を突き、リフターはそう微笑む。
「……管理官」アゾキアの口は、いつもほど開かなかった。「お話が」
「ああ、かまわない。先にそちらの用件を聞こう」
決して侮辱するわけではないが、やはり色味にかける目だ。アゾキアは思わず姿勢を正す。天上宮の〝闇〟を匂わせられた後では、リフターの背に生えている一対の翼も、妙に禍々しく思えてくるではないか。
「クアベルが……」
意を決し、アゾキアは言葉を選んだ。きわめて慎重に。
「三棟四号室のクアベル=ラズワイルが見当たりません。夜勤の日に話したのを最後に、もう四日経ちます」
「では、我々の用件は同じというわけだな」
つるりとした様子で言うリフター。微動だにしないその表情が、アゾキアの焦りと猜疑心に拍車をかける。
「貸し出し記録に彼女の名は記載されていませんでしたが、馬が一頭減っているのは事実です。それも、クアベルが夜勤だと言ったあの日から」
「それも、知っている」
「見張り番の職員を問い詰めました。クアベルはあなたの命令で出向している。彼女はどこへ行ったのです。〝夜襲〟とはなんなのですか。なぜ戻らないのです!」
リフターの沈黙が、今のアゾキアの目にはいかにも白々しく映る。実際、わざとらしくそうしてみただけだろう。出方をうかがっているのだ。
ならば、とアゾキアが先手を打つ。この一歩の危うさを感じ取っていながら。
「関係あるのですか、天上宮の闇とやらと」
「闇とは?」
「……クアベルが言うには、グレーな資金源が存在すると」
「君は、そんな馬鹿げた言い草を信じたのか?」
「まさか。信じられるわけがありません。ここに来たのは、根も葉もない言い草の真偽を確かめるためです」
部屋に目を巡らせるアゾキア。ウスターシュの姿は見当たらない。今なら邪魔は入らない。切り込むなら今だ。やってしまえ、今しかない。
ローブにつけられた、鉱石の翼章──四層の担当者であることを示すその輝きに触れ、アゾキアはリフターに向き直る。
「管理官。自分は、あなたを尊敬しています。だからこそ、そのような噂を聞き流すわけには参りません。以前の五、六層のこともそうです。裏でなにをしておいでなのですか。
再度聞きます。クアベルは何故帰らないのです? 天上宮の闇に触れたからですか?」
「で、あれば……」リフターは笑った。「どうする?」
「いくらあなたであろうと、そんな真似を見過ごすわけにはいかない」
言ってしまった。アゾキアの背中をゆっくりと冷や汗が伝う。クアベルに知られたら、いよいよ痴話喧嘩の仲裁役が必要になるだろう。
それはそれ、だ。後のことは後で考えればいい。
泣くも笑うも諍いも、全てはクアベルありきである。アゾキアはどこまでも自分に従った。道義心に、猜疑心に、義憤に……一番シンプルなところで言えば、クアベルへの思い入れに。
ふと、リフターが手を解いて立ち上がる。たまらずアゾキアが剣を抜く姿勢を取った。緊張と、騎士の血統がそうさせたのだ。もちろん、剣など引っ提げてはいなかったが。
「来たまえ」
リフターの後に続き、アゾキアは石造りの螺旋階段を上る。五層から六層への繋ぎだ。選ばれた者しか入ることを許されぬ、冷えた扉の向こう側。
二人の影が壁をなぞる。嫌な緊張感だった。どうせ翼があるのなら、飛んでいった方が早いのに……アゾキアはそう思う。
やがて、大広間に出た。以前にウスターシュが〝ぼや騒ぎ〟を起こした場所だ。暖炉は未だ修繕されていない。
「……」
違う。やはり、ぼや騒ぎなどではない。部屋のそこかしこに傷が散見される。刃物の類だ。剣を扱うアゾキアが見間違うはずはなかった。
長い廊下の左右に扉が四つずつ。リフターは一番奥の部屋の前で立ち止まる。
「入りたまえ」
木製。普通の扉だ。職員や子供達が使っている部屋と大差ない。だからこそ不気味だった。それならつまり、中身の方が問題だということじゃないか。
ここに? こんなところに、天上宮の闇が?
「闇かどうかは」と、リフター。「入ればわかる」
「……」
手汗がひどい。リフターは丸腰だが、もしや中には──いや、考えたところで埒が明かぬ。一度ためらい、アゾキアは一思いに足を踏み入れた。
「…………え…………」
ふ、とアゾキアの緊張が緩んだ。
室内は至って平凡だった。本棚、二段ベッド。机にタンス。間接照明草。ペン立て。幾何学模様のカーペットに、猫と思しきぬいぐるみ。
──子供部屋だ。ごくありふれた、普通の部屋だった。
二段ベッドに目をやる。赤髪の少女が上に、茶髪の少年が下に。ともに寝息を立てている。見知った天上宮のローブ姿だ。枕元にクレヨンが散らばっていた。就寝前に飲んだのか、空のティーカップも見受けられる。
どちらも翼が片方しかない。四層以下に部屋を持つ少年少女と同じ、ただの片翼者ではないか。
「……この子たちは?」
アゾキアはそう問う。自分でもびっくりするほど間の抜けた声だった。
「比翼者だ」
「なんです、それは。片翼者とは違うのですか?」
「見たほうが早い」
そう言って部屋を出るリフター。また階段をくだる。アゾキアもそれに続く。管理官室に逆戻りだ。卓上のコンソールが二、三弄られたかと思うと、水晶板に映像が映し出された。
先刻の赤髪の少女だ。ベッドの上で膝を抱えている。翼隠衣を脱ぐと、水色の羽が現れた。ぱき、ぱきと小さな音が聞こえ、やがて彼女の羽が結晶の様相を見せはじめる。
「これは……」
「生体鉱物化現象だ。羽に宿った魔素がそれを可能にしている。鉱石の種類は人それぞれ異なるが、仕組みはみな同じだ」
「……」
「我々はこれを、石の羽と呼んでいる」
映像を止め、引き出しから羽根を取り出すリフター。
「手にとってみたまえ」
言われるがまま、アゾキアは恐る恐る羽根に触れた。
羽根……形は羽根だが、確かに石だ。羽根の形をした宝石。ガラスのように透き通っている。机の角に打ちつけてみると、こつこつと無機質な音が返ってきた。
「……馬鹿な」
「長くなるゆえ、詳しくは語らないが……翼を持たざる者たちと同じく、彼女ら〝比翼者〟はごく稀に産まれる。その背に鉱石の羽を宿してな」
「……」
「分かるかアゾキア。この子達の翼には稀少価値がある。狙う者も少なくない。劇場、旅団、闇商人その他、取るにも足らん有象無象の弱小カルト宗教……。実際、比翼者が翼をもがれる事件というのは少なからず存在した」
「……では……この、天上宮の上層は……」
「そうだ。五層、六層は彼ら、彼女ら比翼者を、石の羽を狙う者から保護する為にある」
理屈はアゾキアにもわかる。嘘ではなさそうだ。
だが、何故ここで──福祉施設で……。
「天上警察は何をしているんです。法はなぜ彼女らを護らないのですか」
「彼女らが片翼だからだ」
「ばかな……!」ぎり、とアゾキアの歯が軋む。「そんな理由で見て見ぬ振りを……」
「天上法がそう決めたのだ。ノキア写本がアトラスの民についてどう説いているか、君も知らないわけではないな。この天上において、片翼者は例外なくなりそこないの烙印を押される。それゆえ私はこの施設を立ち上げた」
言葉に詰まり、アゾキアは再び羽根に目を落とした。
「……この羽根が……石の羽が、資金源なのですか?」
「そうだ。羽根は爪や髪と同じく、成長と共に生え変わる。比翼者も例外ではない。抜け落ちた石の羽根を宝石に加工したものを、装飾品の材料として宝石店に卸しているのだ」
「宝石……」
「クアベルに言わせれば、これはグレーな資金源のようだが」
リフターは苦笑してみせる。わざとらしい素振りだが、青年の実直さはそれを疑えなかった。途端に居心地の悪さを感じて、アゾキアは恥じるように目をそらす。
「……申し訳ありません。自分は、何かその……裏があるとばかり……」
「いや、誤解が解けたならそれでよい。君の猜疑心が、天上宮への信仰心から来るものだということは理解している。怪しまれるような行動を取った私の落ち度だ」
「しかし、なぜ隠すのです。これは別に、犯罪行為というわけでは……」
「比翼者という存在そのものが大衆に露見することにより、救える子供たちまで救えなくなる可能性がある。ましてや、ここにいることが知られれば、ならず者による襲撃は免れない。
今まさに──我々はそういう事態に直面しているのだから」
え、とアゾキアが顔を上げた。
「今まさに?」
◆
さて、根城の一つや二つが潰れたからといって、マダム・クリサリスに大した影響はない。両手の指より多く別邸を持っているし、そもそも家など建て直せば済む話だ。ありとあらゆる手段で手に入れた、莫大なる資産がそれを可能にする。
アトラス二等区、スラーナデュロー第十四トーチカにある、アスカ然とした石造りの屋敷。いわく〝嫡天回宮〟──ジズら少女時代ご一行が次に匿われるのは、二昔前なら文化財にでも指定されそうな大座敷であるという。
当たり前だが、片翼者や羽なしは、何らかの形で魔素の力を借りなければ空を飛ぶことができない。従い、天上を行き来する手段は自ずと限られる。
羽馬や、アルザルクラゲ、もしくは魔鳥類……魔虫の類でもいい。とにかく、空を飛び得る生き物を飼い慣らすか、そういうサービス──たとえば鳥人種による送迎など──を利用するか。でなければ、この超高高度に対応した魔装具を使うかだ。
魔女の箒だとか、空飛ぶ靴や絨毯だとか、マダム・クリサリスはその手のものを数多く所有している。してはいるのだが。
「ダメだ」
ツタのドームの中で、呆れ顔のマダムはぴしゃりと言った。訴えを退けられたチネッタが、むっと口を尖らせる。
「なんでよ。空を飛ぶって言ったらホウキでしょ。私、あれ乗りたい」
「もう迎えを呼んじまった。大体、あれは誰でも使えるような代物じゃない。帝国時代の魔女部隊のものだ。魔動車と同じだよ、公的機関から発行される免許が必要になる。根本的な話、お前じゃ魔素濃度が足りない」
「自分はそれで移動するくせに」
「一七〇の老いぼれが箒に乗るか、バカ。地獄絵図だ」
「濃度が問題なら」クアベルが口を挟んだ。「オレとおチビちゃんは乗れるぜ」
「どさくさに紛れて逃げようったってそうはいかん。そら、迎えが来たよ」
どるる、と厳しい排気音が聞こえた。どうやら送迎は車で行われるようである。
マダムの後ろにジズ。その後ろにチネッタ。更にその後ろに捕虜のクアベル。ドームの外に出た彼女らを待っていたのは、一台の黒い魔動車だ。
黄金の排管にアルザル文字がびっしり、タイヤには旧時代の〝マンダラ〟を思わせる魔法陣。水晶ガラスの窓は黒塗りで、車内の様子は判然としない。
クアベルは魔動車の屋根を見やったが、水晶プレートは見当たらなかった。つまり公的運送機関である魔動蹄鉄組合のものではなく、老婆の私兵のようだ。
胴長の車体、その側面に設けられた四つの扉が螺旋状にバラけ、中からわらわらと乗員たち──具体的に言えば、狼人種たちが──姿を現した。総勢十二名だ。
「わんこ……」ジズがぽけらと呟く。「わんこだ……」
「バカ、ありゃあ亞人だよ」今度はクアベル。「ヤクザってんだ」
「ニンキョーって言いなさいよ」最後にチネッタ。「消されるわよ」
ヤクザなる言葉の意味はジズにはわからなかった。職業のようなものだろうか。なんでもいいが、大っぴらに街を歩けるような集団ではなさそうだ。
妙に小奇麗な黒服──ジズが知る限りでは、確か……スーツだったか──を着込んでいて、ネクタイから上が狼の顔つき。どういうわけか、切り傷を拵えている者が多い。腰元には鞘に収まった日本刀が提げられており、袖から覗いた手は毛むくじゃらだった。
狼どもはマダムの前へと整列するなり、一斉に片膝をついて巨石に拳を宛がう。ご丁寧に、尻尾までぴたりと地に伏せて。
「お嬢」代表格と思しき、荒い毛並みの狼が言った。「お迎えに上がりました」
「ご苦労、万葉衆諸君。手間をかける」
「滅相もございません」
「なおってくれ。今日はそういう集まりじゃない」
スーツ姿の狼人間が、一斉に屹立……。少女らはとにかく萎縮する。気を抜いたら笑ってしまいそうな光景だが、連中の威圧感がそれを許さない。
「ミチザネ」
マダムに名を呼ばれた先刻の狼──首級のミチザネが、眼鏡越しにジズらを見る。とにかく瞳が鋭い。人間の目とはまた違った険しさが漂っている。
「荷物ってぇのは」ミチザネがジズらを見やる。「このガキどもですかい?」
「そうだ。話した通り、天上宮からの脱走者が一名。捕虜の職員が一名。うちの家政婦が一名。事態の収拾まで面倒を見てやってくれ。いいね。一応釘を刺しておくが、傷物にしたりするんじゃないよ」
「まさか。それこそ犬も食いませんぜ」
「さてね。空賊というのは、大概がガサツ者だったと聞くが」
「昔の話です。第一、ウチの船長はそんなお方じゃなかった」
ミチザネが、顎で……というか、鼻先で部下に指示を仰ぐ。後部座席の扉がまたバラけて、今度は絨毯状になり、ジズらの足元へと伸びてきた。
「乗りな」と、マダム。「ジズとチネッタは後ろだ。小娘、お前は二列目だよ」
ちぇ、と草を蹴っ飛ばし、クアベルはしぶしぶ魔動車へ乗り込む。
彼女にすれば本意ではない展開だ。そうとうに危うい。しかしジズを言いくるめようにも、ひとまず老婆の目が遠のかねば動きようがないし……。
「ねえ」チネッタが待ったをかける。「マダムも一緒に……」
「心配ない。私のことも、お前たちのことも」
「でも……」
「くどい」
杖の先がチネッタの方を向いた。もう何度も見た丸底だ。だというのに、その向こうに見えるマダムの顔が、いつもより遠く思える。
「お前たちは、花だ。その蕾が開く時までは枯れちゃあならない。少女から女になる、その時まで……。私には、お前たちを守る義務がある」
「……マダム……」
「そうだろう、チネッタ。私たちは、家族なんだから」
「……」
「返事は?」
煮え切らない表情のまま、チネッタは言い聞かせるように言った。
「……合点了解、マダム」
チネッタの後に続き、ジズもゆっくりと歩を進める。足取りは彼女以上に重い。肩口のチィちゃんが鳴いてみたところで、今は気休めにしかならなかった。
競売以前の濃い闇はいくらか拭えども、それでも、家族という名が今のジズには過ぎた言葉であるように思える。血の繋がりもなくして愛と優しさを与え、不利益を被りながらも救おうとするだなんて。
マダムは〝投資〟だと言った。三〇〇〇万という大枚を叩き、ジズの少女時代にその値札をかけたのだ。ジャスパーに至っては、命と自由をさえ差し出した。
それが見返りを求めての行いであろうと、なかろうと……ジズには重い。
救ってくれるなら誰だって良かったはずなのに、いざ救われる側に回ると、その負債をどうやって返せばいいかに苦悩する。ただ、言葉もなく乗せられた期待だけが圧しかかるのだ。
そんなことをされたって、今の私は、誰にもなんにも与えてあげられないのに。
「……あの……」
ジズは振り返る。マダムに何か言おうとして、だけど頭の中で言葉がごちゃごちゃになって……結局、いつものように口を噤んだ。
まただ。夢の中でも、夢から覚めても──私は、自分の爪先ばかり見ている。
「……マダム、わたし」
「ジズ」
葉巻に火をつけ、煙を吐き出し、マダムは言った。いつも、そうだ。多分、そうすることで、言葉の余りを削ぎ落としている。
「無償であれ」
「……」
「愛とは、そういうことさ」
言葉と煙が風に乗る。なにもかもがジズにまとわりついてくるのだ。多分、この先も。永遠ではないと信じるなら、線引きは、自分で記さねばならない。
「家族ですかい」
ミチザネは感慨深そうに言った。少女ら三人を乗せ、手下の狼どももみな乗り込み、あとは彼だけだ。マダム・クリサリスは車を好まない。彼女の資質には狭すぎる。
「そうとも」魔動車を眺めて言うマダム。「お前たちもまた、家族だ」
「そいつぁ家族違いですぜ」
ふん、とマダムは小さく笑う。それが最後だ。蛹の殻が脱げるようにして、その目も声も、吹きつける風に劣らず冷ややかなものへと切り替わった。
「さきがけは誰が?」
「そりゃあ空賊の血に賭けて、俺でさぁ。先祖の先祖がヘクトノガゾナーで、落下傘部隊に。これでも腕はたしかです」
「重畳だ、ミチザネ。シークガルオ空域経由で本店へ運びな。ドゾロに話は通した」
「知りませんぜ、俺ぁ。どうなっちまっても」
憂いを帯びた目で魔動車を見やるミチザネ。尖った耳が風に揺れる。
「職員です。それも比翼者。わざわざ夜襲に抜擢されたってこたぁ、向こうにとっても貴重な人材に違いない。天上宮との交渉カードに、残しておいたほうが──」
「獅子は」マダムが遮る。「谷底へ我が子を突き落とす。そういうのはアスカをルーツに持つお前たちの方が、よく知ってるんじゃないかい」
「なるほど。どうせ首を取るなら、そりゃあ畜生に何を言っても無駄ですなあ」
「獅子は私だ。そして、突き落とされた子は這い上がった」
「なら、育てるんじゃ?」
「害すべき者とそうでない者、愛すべき者とそうでない者がいる。誰もに」
割り切りのいいことだ。ミチザネは苦笑した。この女の寵愛は家族にこそ惜しみなくもたらされるが、それ以外の者には水の一滴ほども与えられぬという。
「とにかく、職員の奴はドゾロに任せな。あいつならうまく値札を貼る」
「抵抗したら?」
「傷はつけるなと言ったはずだ」
「だから、どうするんです」
「庭師に乾杯だ。帰らぬ庭師に」
最後の煙を吐き出して、マダムは葉巻を踏みにじった。
「シャブは、お前たちの専売特許だろう?」
マダム・クリサリスは容赦をしない。容赦のほうが頭を下げる。
◆
ビーガンの居住地は、マダムと同じく浮石の上だ。豪邸というわけではないが、ひとり者の彼が住むには充分な広さがある。
彼の生活の要は、何もかもが他人から与えられたものだ。羽馬と魔吸器は天上宮から、土地と邸宅はマダムから、そして──仕事と給金は、両方から。
そして、そのどちらともが今ちょうど、秤の上に乗せられている。
「……ありがとう、ニチザツ。休んでください」
羽馬ニチザツは凛々しい鬣を振るわせたかと思うと、蹄を鳴らしながら納屋の方へと歩いていった。利口だ。多分、飼い主よりも。
自分の家の玄関を潜るなり、ビーガンの肩はずんと重くなった。魔素の使いすぎもあるし、後悔から来る憂鬱のせいでもある。
何度も……何度も帰った家だ。けど、こんなに暗かっただろうか。
靴箱、間接照明草、炊事用具、ソファ、デスク、生きた魔信機のメタロイス、清浄機にドライヤー、三人は眠れそうな未使用のベッドに至るまで……この部屋のどこに目を巡らせても、大体は貰いものだ。唯一、観葉魔植物だけは自分で育てた。
とうに夜だというのに、ビーガンは灯りもつけぬままソファに腰掛ける。魔吸器を外し、それから卓上に目をやった。円筒状の缶、その灰色を眺め、確かめるように手に取ってみる。
ヌヴジャコーツ・グリッダ──以前にマダムから〝シッター代〟として譲り受けた、上物の魔煙草だ。
一介の庭師が吸うには高価が過ぎる。マダム邸宅の庭師だからこの灰色を手に出来たのだ。わかっているとも、そんなことは。
一本を取り出し、指で挟む。パッケージと同じ灰色の巻紙に、小さな桃色のアルザル文字で素数が印字されていた。図らずもそれを目で追うと、自分の指にまで素数が見えてきた気がする。
フィルターを口元まで近づけ……二秒、十秒、十五秒……色んなものが頭の中に浮かんだ。チネッタとの衝突。クアベルとの交戦。マダムの言葉、アゾキアの言葉……。
情景が増えるたび、脳味噌の隙間にもやが溜まっていくのがわかる。どれが重んじるべきことで、どれが切り捨てるべきことなのか、どの糸同士が絡まっているのか……そして、自分が辿ろうとしていた糸は何色だったのか。なにもかもが、曖昧だ。
(……責任、か)
わかっている。その時はいつか誰もに訪れる。そして、そいつは思ったよりも身のこなしが軽い。よもや、こうも早く訪れようとは。
優待券などは些末な問題だ。あんなもの、あろうがなかろうが、あの局面では庭師の仕事を果たすしかなかった。早い話が選択を間違えたのだ。それだけははっきりとわかる。
いつ──いつ間違えた?
生き埋めの女を、土から出した時……ではない。きっと、あれはマダムの下準備であって、避けられはしなかったのだ。庭師が自分の味方をする……そうせざるを得ない状況を作り上げ、実際にビーガンは──天上宮側の認識としては──マダムの方へついたことになる。
では、ジズの脱走は? マダムが彼女を落札したと、すぐに天上宮へ知らせていれば……。
いや、それこそ最悪だ。マダムだけでなく劇場まで敵に回すことになる。
もっと、もっと前だ。大人しく天上宮だけで働いていれば。マダムの方だけにしておけば。そもそもあんな職場を選ばなければ。庭師になんかならなければ。
──羽なしなんかに生まれなければ、他に、いくらでも選択肢はあったのに。強いて何かが悪だというなら、さだめであるという他はない。
帰結するのだ、全ては。自己の深奥へと。
「……」
そんなものは後の祭りだ。仕方なく選んだ選択肢でも、運命は……だ。選択の時は、いつか誰もに訪れる。その時はその時で決める。そう生きてきた。
だが、一体、何を物差しに選べばいいというんだ。天上宮とマダムがいがみ合った時点で、これまでの平穏などというものは藁の城がごとく崩れ去るのだ。そこに、いち庭師の事情などが入り込む余地はない。
(……いっそ)
いっそ、どちらともから離れるという選択もあるが──それが最も危うい。全てのカードを一度に失い、失った全てがビーガンを追い掛け回すだろう。首が残っている内に、必ず首を縦に振らせる……マダムもリフターもそういう人間だ。
そこにはただ責任と結果だけがあって、荒波の中、誰も自分の船を押してはくれない。
もはやジズがどうこうの問題ではない。三者間の人身売買を知っている以上、連中にとって自分は爆弾だ。仮にジズが天上宮に連れ帰られたところで、完全犯罪の亀裂を野放しにしてはおくまい。
どちらもああいう性格で、決着はどちらかが潰れることでしかつかない。
そして──どちらかに付かなければ、ビーガンという羽なしはもう……。
「……素数。素数。いちと、いちと……」
ぽつりと、ビーガンはうつろに呟く。
秘奥石のライターに火を灯し、口元へ近付け、近づけて──
「……一とその数以外では、割り切れない……」
ぱちん。ライターを閉じ、手つかずの煙草をケースへと戻す。やめだ。そんな気分じゃない。なにか、大事なものまで一緒に吐き出してしまいそうな気がする。
大体、こいつはマダムの賄賂だぞ。手をつけたら、それこそ明確な加担行為ではないか。今ならまだ、何かの間違いで済まされるかも……。
『電話だわ』
机の方から声がした。メタロイスだ。生きた魔信機、メタロイス。
彼女は機人種の一種だ。つまり、電話専用の使用人……もとい、使用亞人にあたる。両腕をぐるぐる回して、彼女は自分の両胸のベルを叩き始めた。鉄を打つ音がけたたましい。
『電話だわご主人! 大変大変、電話だわ! なんて激しいコールなの!』
一つ目の頭が言った。
『あらやだあんた、すごいわ、物凄いうねりだわ!』今度は二つ目の頭。
『困ったさんねぇ、もう。こんなに、あっ……執拗に、ぃっ……』三つ目も続く。
「……わかっている」
『あぁやだ、ちょっとご主人、あん……早く出ないとっ。私、こんなに激しくベルを鳴らされたら、あぁあっ』
「さっさと切れ! 今はそんな気分じゃないっ」
『あぁ駄目、こんなの始めて。これが本当のイタズラ電話って奴なのねぇんっ……』
「黙れ、メタロイス! 留守録にでもしておけ!」
親機の真ん中、子機の両端。全部で三つの顔が急に真顔になって、冷めた様子でビーガンを見つめる。
『ちぇ……』
「いいからさっさとしろ……」
『ハァイ。こちら庭師のビーガンです。ご主人は現在留守にしております。発信のあとにとびきり色っぽくメッセージをどうぞ』
一際艶っぽくメタロイスが喘いだ。どうやらこれが発信音のようである。最悪だ。ビーガンだって、好きでこんなものを置いているわけではない。マダムに無理くり押し付けられたのだ。
そうだ、次に会ったらこれを返そう。それから優待券と、煙草も返して、自分がどこまでも中立であることをあらためて──
『さすがは守護者』
スピーカーから響いた言葉が、ビーガンの目を無理やり押し開けた。
リフターの声だ。か……と、がなりに近い嗚咽を漏らしそうになって、ビーガンはたまらず口元を押さえる。ちくしょう。最悪だ、なにもかも。
覚悟がなかったわけではない。ただ、趨勢が覚悟に勝る速さで迫ってきてしまっただけで。
『天上宮のリフターだ。今日はそちらで働く日だったな。クアベル=ラズワイルという職員がお邪魔しているはずだが、彼女はいつ頃そちらを出たかな?』
「……」
『家に着いてからでも、折り返し……』
二秒、三秒と間を空けて、リフターの伝言は捨て台詞で締めくくられた。
『……いや、いい。終わった頃に、こちらから伺おう。それではのちほど』
りん。そこで留守録は終わったが、終わったのは留守録だけではないようだ。
「────クソッッッッ」
丸めて広げたアルミホイルみたいな表情で、ビーガンは机をひっくり返した。タンスを蹴りつけ、照明草をも打ち倒し、挙句の果てにはロカニカバミの苗を鉢植えごとぶん投げる。
何かの間違いで済む? たわけたことを! どこまで平和主義者のつもりだ! 出遅れた。自分は完全に出遅れたのだ! なにもかも遅すぎた!
放置しておくべきだった! チネッタの──あんな萎びた、カビだらけの小鳥みたいな女のぴーちくぱーちくに耳を貸さずに、お漏らし女を見殺しにしておけば!
「違う……! 違う、そうじゃない!」
情けない話だ。この期に及んで女のスカートで汚れを拭うだと。
しくじったのは自分だ。選んでおくべきだった……自分の手で選んでおくべきだったんだ。流されて折れるのではなく、粘土のように受け流すでもなく、自分の考えを意地でも突き通すべきだった。
そうしておけば────選ばないよりは、ずっといいはずだったのに!
「どうしてッ、どうしてこうなった! どうしてだッッッッ!!」
ソファに、清浄機、散らばるヌヴジャコーツ・グリッダ……。一頻り部屋を荒らして、肩で息をするビーガン。我に返った頃に鏡を覗くと、ばけものじみた表情の羽なしが映っていた。
「……落ち着け……落ち着け、ビーガン……」
呪いのように繰り返しながら、足の踏み場もない床を右往左往。やがて魔吸器をはめたかと思うと、彼はズタ袋に全てを詰め込みはじめた。
給金やら、草の種やら、着替えやら、髭剃りやら。とにかくこれまでの全てだ。女神像に、絵画に、亞球義……マダムから譲り受けた金目のものを何から何まで詰め込んで、昔の女でも絞め殺すように、袋の口を一思いに縛る。
『ご……』横倒しのメタロイスが言った。『ご主人、怖いわ。どこへ……』
「ここじゃないどこかだ。もし誰か来たら……押し入りにあったとでも言え」
『でもでも』『そんなことしたら』『天上宮に恨まれちゃうわ』
「もう手遅れだ」
草が伸びるよりも早く、ビーガンは自宅を飛び出した。庭師道具とズタ袋をいつものようにニチザツへとくくりつけ、中天月の淡い光を受けながら暗天の中を駆る。
雲が、綺麗な夜だった。水晶のざらめ……その細やかな一粒一粒が惜しみなく月光を浴び、広大無辺たる天上に見返りなき灯りをもたらしている。
風は冷たく、しかし穏やかだ。行くあてなどビーガンにはない。どこへ向かうのかは自分で決める。そうするしかなくなった。苦手なことほど付きまとう。
ニチザツだって腹は減るし、どうせ年寄りだ。長くは持たない。飯も食わねばならぬ。羽なしを雇う者などいない。であれば草を売らねばならぬ。すると種がいる。土も水も。となると金がいる。だが、羽なしを雇う者など……。
「……私は……」
空に一人。木は枯れた。金のなる木は枯れたのだ。
ここは広すぎる。翼をその背に持たずして、地に足が着かぬ私には。
◆
雲海を行く魔動車の中、形容しがたい妙な香りが少女らの鼻腔をくすぐった。
魔草だか、香魔だかよくわからないが、とにかく清涼感のある柑橘類の香りだ。その中に、ほんの少しだけ獣臭さが混じっている。ジズが知る限り、わんこは綺麗好きな生き物だから、この狼人間たちも──獣なりに──身だしなみには気を遣っているのだろう。多分。
「なんか臭くねえか、この車」
シート一列ぶん前にいるクアベルが、運転席の狼人種にそう言った。捕虜の身にしては妙に態度がでかい。
「気分がわりいぜ。畜生の臭いがしやがる」
「狼の鼻は」隣のミチザネが答える。「人一倍敏感だ。小便臭えガキは黙ってろ」
「ぁんだと?」
「言っとくが、物のたとえじゃねえ。マジに小便くせえんだ」
「てめえハチ公。あとで絶対きゃんきゃん言わすかんな」
それを最後に、クアベルは憮然とした様子で口を固く結んでしまう。そこからの空気は最悪だった。きっと、沈黙の中でも一番静かな沈黙だ。
車内の空気は、彼女の悪態のおかげでいくらかもっていたようなものだった。
狼どもは一言も喋らないし、ラジオを流す素振りもない。けだものオセロで挟まれたジズとチネッタは、金縛りにでもあったみたいに身を縮めるしかなかった。
頼みの綱は空鼠のチィちゃんだが、こっちもジズに似てうんともすんとも言わない。狼たちを恐る恐る見比べては、自分がどこから食われるかにオッズを張っている。
「……本当なのかな、人身売買って」
まつ毛も伏せがちに、チネッタはそうこぼした。ジズはなんにも言わない。言わないことで充分答えになると思ったからだ。
「つうか」拾ったのはクアベルだった。「今まで気付いてなかったことにビックリだよ。あのババア、お前の他にも何人か引き取ってたんだろ」
「えーと……ミーシャでしょ。ベチノイでしょ。ニケにルルノイ。それとビグリー。
私が知ってるのは三〇人ぐらいかしら。次から次に家を出てっちゃったから、詳しくは知らないけど。私が最初ってわけじゃないから、きっと他にもいたんだわ」
「間が悪いぜ、チネッタ。もっと早くに家を出てれば、巻き込まれずに……」
あ、と思い出したようにクアベルは振り返った。状況に似合わぬ朗らかな顔つきで。
「そうだ。オレと暮らそうぜ。どっか、その辺の空いてる空地にさ」
「そんなお金ないじゃない。雇ってくれるところだって……」
「サンクレールなら雇ってくれるぞ。亞人だって働けるし」
「それ以前に、あんたは天上宮で仕事があるでしょ」
「だったらお前が天上宮に来いよ。なにもあんなババアのとこにいることねーって」
駄目よ、と跳ね退けるチネッタ。
「人身売買の話が本当なら、マダムは私を買ったんだもの。お金が無駄になっちゃう。それに恩もあるし……」
「そんなの別に……」
「私が決めるの。あんたにはあんたの人生があって、私には私の人生があるんだから」
「……」
クアベルはつむじを曲げた。そんなのは言わずと知れたことだからだ。彼女が解決したいのは、それぞれ別々の人生を、いかにして一本の糸に糾うかというところである。
「じゃ、どうすんだよ。ババアか管理官、万が一にもどっちかが逮捕されたりなんかしたら、共倒れになるのは時間の問題だ。お前だって居場所を失う」
「それは……」チネッタは口ごもる。「そうだけど……」
「どうせいつかは独り立ちしなきゃいけないだろ。ババアの方が先に死ぬんだし。遅いか早いかの違いじゃんか」
「……だけど、リフターのところに行くわけにもいかないでしょ。それを言うなら、居場所を失うのはあんただって同じよ」
前の座席に体を乗り出して、チネッタは言う。
「あんたはどうなの。人さらいの片棒を担いでんのよ。そんなところに、平気で戻るの?」
「……そんならお前んとこだって。違法魔草を栽培してるような奴のところに、平気な顔して戻るのかよ。なんであいつがあんなに金持ちか考えたことないのか。絶対もっと悪いことしてるに決まってるね」
今度はチネッタがむっとする番だった。
「マダムはいい人よ。ただの犯罪者とは違う」
「生き埋めは立派な犯罪だぞ」
「人身売買よりマシよ!」
「大差ないだろ。どっちにつくかは、罪の重い軽いじゃ決まらねえってこと。
悪いけど、オレは天上宮の味方だな。あっちを裏切ることはできない。事態が上手く収まらなきゃ天上宮が摘発されて、あそこにいるみんなが居場所を失う。それだけは絶対に駄目だ。天上宮は、存在し続けなきゃいけないんだ」
どんな形であれ──クアベルはそう付け加えた。
「……とにかく、駄目よ」チネッタは頑なだった。「ジズを犠牲にするなんて……誰かの為に誰かが犠牲になるとか、そんな話があっていいわけがないわ」
ジズはびくりと肩を揺らして、また小さく縮こまった。別に、ジャスパーのことを言われたわけじゃない。わかっている。いるのだけれど。
「だから、それじゃあどうするんだよ。対案がなけりゃ解決にはならない」
「考えるのよ。なにか、別の手を……」
青息吐息を天井へ。チネッタはジズに肩を預け、ぐでんと体重を乗せる。
「……空に浮いてるみたい。信じらんないわ、なにも」
「あれこれ考えんなよ、チネッタ。お前は最初から関係ないんだ。どうせ、結末は二つに一つしかない。おチビちゃんが自分で檻に戻るか、それとも無理やり連れ戻されるかだ」
「あんたはそれでいいの?」
クアベルは押し黙った。
「何がなんだかわからないまま、ジズたちはずうっと檻の中で、残りのみんなは幸せで……。それが正しいと思うの? あんたがジズの立場だったら、そんなの嫌でしょ」
「…………」
「ビーガンにああ言ってたけど、自分の立ち居地決めなきゃならないのは、あんたも同じじゃない。ううん。きっと、私たち皆、そうなんだわ。
自分で……自分の言葉でたしかめて、自分の手で、決めなきゃならないのよ」
三者三様、それきり口は開かなかった。窓やら爪先やらに目線を落として、もっともらしく物思いに耽ってみるだけだ。
自分の手で決めるしかない。ジズだってそう知っている。全ての責任を自分ひとりで取るしかなくなってしまう……その恐ろしさも含めてだ。
「……逆の立場……」
ジズは密やかに呟く。どうにもその言葉が引っかかっていた。
自分がジャスパーの立場なら、同じように自分を救ったかもしれない。マダムの立場なら、そりゃあ折角お金をかけたのだから守りもするだろうし、ビーガンの立場だったとしても……生活がかかってる以上は庭を守るしかない。
すなわち、彼女らが自分を守ってくれた、その道理はわかる。
だが──リフターは?
もし……万に一つ、那由他に一つもジズが彼の立場にあったとしたら、一体どういう理屈で自分を閉じ込めるのだろう? ジズにはわからないし、わからない限り許せはしないだろう。
あの男は、一体どういう理由で……何を信じて、私たちを閉じ込めると決めたのだろうか。なりそこないを救う施設なんかを立ち上げ、一方ではチネッタのような片翼者を救いながら、その一方で、なぜ私を──私たちだけを。
同じ比翼者でも、クアベルは自由そのものなのに。
「おじき」運転席の狼人種が言った。「そろそろです」
おじきと呼ばれたミチザネは、なにやら鞄のようなものを背負って、クアベルの腰に毛むくじゃらの手を回す。
「おいコラてめっ、どこ触って……」
ミチザネは聞く耳も持たず(狼のくせに、だ!)助手席の扉を蹴る。またも螺旋状に鋼鉄がバラけて、刺すような冷たさの暴風が車内をかき乱した。
のたうち回るチネッタの前髪、大口を開けるジズのローブ……そして、冷や汗。
クアベルは、遥か眼下、底の見えぬ雲海との距離感にまたチビりそうになる。そのうなじを一筋の冷や汗が伝った。
「なななななにしてんだぁ!」
ミチザネが扉の枠に足をかける。小脇には縛り手のクアベル。上半身は既に外気の中へ放り出されていて、扉から手を離せば綿雲の中へと真っ逆さまだ。
いよいよクアベルの顔は青ざめた。ちょっと待てよ。正気か、こいつ。こっちはただでさえ片翼で、おまけに縛られてるってのに!
「準備はいいか、お嬢ちゃん」
「はえ!? 準備!? 準備って!? いやいや無理無理全然ダメ! ダメだって! おい! ちょっと待てっ、冷静に考えろ! こんな高さから落ちたら……」
「狼とかけて」遮るミチザネ。「なりそこないと解く。そのこころは?」
なんだそれは。ナゾカケか。クアベルは柔らかい頭を捻って、すぐに答えを出した。
「……どちらも〝のけもの〟でしょう?」
「一本!」
「い……」
待ったなしの急降下。二の句を継ぐ間もなく、二人の──一人と一匹の体は、真綿の海へと真っ逆さまに落ちていった。
「あうわぁああああああああああ」
ばばばばば、と耳元で風が暴れている。自分がどこを向いてるのかもわからない。上だか下だか知らないが、とにかくどこかでチネッタが叫んだ気がした。彼女の声だと理解する頃には、もう遠ざかったあとだ。
ここは──いったい高度何シェールだ? 降下から何秒経った? 鳥人種ならいざ知らず、地べたに蹲る犬畜生が、なんだってこんな真似を……。
魔気流が二人を荒々しく撫でた。魔素濃度がぐるぐると移り変わるものだから、クアベルはたまらず口元を押さえる。魔力酔いだ。三半規管までおかしくなってきた。全身の神話細胞が急激な大気中の濃度変化についていけていない。
とっ散らかった視界の中、クアベルはミチザネに目をやった。見なきゃよかった。畜生だけに、畜生が。この野郎、しっかり自分だけ魔吸器をはめていやがる。
やがて、二人は雲の中を抜けた。真下には巨石が見える。もちろん降下速度はそのままだ。このまま順当に行けば、一人と一匹は潰れて混ざってバクテリアの餌だろう。
「押しに押した男とかけて」
「やってる場合かー!」
「クスダマと解く」リュックを掴むミチザネ。「そのこころは!」
「どっ、どちらも……あぁあどちらもっ、どちらもひけばオチるっ!」
「一本! だが──」
ミチザネがリュックの紐を引くと同時、その背に半透明の大きな傘が開いた。がくんと二人の体が揺れて、降下が滑らかになる。
「──パラシュートは落ちない」
「……」
恐る恐る、クアベルは真上を見やった。
パラシュート……というかこれは、アルザルクラゲだ。大昔、外の世界でユーフォウなどと呼ばれていた生命体。けったいな触手でふよふよと魔素を掻いて進み、クラゲは彼女らを巨石の上へと運んでゆく。
「見えるか、お嬢ちゃん」
ミチザネが巨石の方を指差した。屋敷……あるいは宮殿……とにかく、隠れ家にしては余る大きさの建物が窺える。
クアベルはじっと目を凝らして、敷地内の水晶看板に目をやった。どんな建造物であろうと、おおかた反時計回りに連ねられたアルザル文字に、どういう施設であるかが示されているのである。
多くの場合は──というか、あくまで、法を犯さない限りは。
「……えーっと」目を細め、クアベルは遠くの文字を読み上げた。「マーコレツ?」
「きゃんきゃん言うのは、お前のほうだってことだ」
「……」
巨石に降り立つ二人。飛んでいくクラゲ。ミチザネの台詞を反芻し、そしてクアベルは身を捻った。今しかない。逃げるなら、今しか。
「おっと!」
一歩遅い。ミチザネが彼女を組み伏せて、二の腕の血管に針を押し込む。
痛い! なんだ、注射器? しまった────鎮静剤だ。
「この……」
へにゃりと寝そべったまま、クアベルはミチザネを睨んだ。立とうとあがいてはみるのだが筋肉がうんともすんとも言わない。喉まで痺れたか、言葉も満足に出てこない始末だった。
「てめえ、ハチ公……」
「優柔不断な男とかけて、亞人娼館の女と解く」
「く……」
「そのこころは?」
クアベルは犬歯を食い縛った。多分、犬よりも強く。そのうち麻酔が回ってきたか、口元はだらしなく緩み、瞼が重くなってくる。
ふざけやがって。信じるもんか。金をもらったってごめんだぜ。
どちらも────どちらも、●●●●。いくらこだわりがないからって、そいつは笑えない冗談だ。よしんば彼女の貞操観念が、粘土のようなものだったとしても。