亞人娼館マーコレツ。その二〇〇〇年の歴史は伊達ではない。人は選ばせるが人を選ばぬ。相手が羽なしであろうが片翼者であろうが、通話の一本さえあれば、彼らはどこへでも顧客を迎えにあがるだろう。絶対的な秘密性を保障された〝極超超常軌的手段〟でもって。
もちろん、ただ分かり難い場所に隠されているというだけで、店舗の入口は極めて開放的なものであるから、客は自らの足で訪れることも可能である。
事実、ある一人の女は狼と一緒にパラシュートで落下してきたのだ。そうして彼女は意識を失い、目覚めて一悶着ののち今に至る。
「ノン。もう一度です」妙に鼻にかかった声がする。「さぁほら言ってみて」
「……へぇー」今度はクアベルだ。「なんでもかんでも知った風に言うんスねー」
「ノォーンっ!」
上ずった叫び声と共に、ぴしゃり、と鞭か何かで壁を叩いたような音が反響した。
〝研修室〟と名付けられたこの部屋は物寂しい。置いてあるものはと言えば、陶器の浴槽と籠と棚、それから鏡と山積みのタオルに観葉魔植物。
あとは、クアベルにはその用途が見当もつかぬ、でこぼことした板状の浮き輪……ほかに、妙にねばつく水粘土だけだ。
繰り返すが、亞人娼館マーコレツ。その二〇〇〇年の歴史は伊達ではない。〝亞人〟という名を看板に掲げるだけあって、四八箇所に遍在する店舗……それらの担当支配人はみな亞人であった。クアベルが運ばれてきた、ここ、二〇箇所目の店舗もその例には漏れない。
壁を叩いた、妙に甲高い声の主──彼か、彼女か──は、蟲人種なる亞人だった。
支配人だけあって身に纏っているのは細身のスーツである。が、赤茶けた甲冑のような顔、その鼻先から長い二本の触角が伸びており、口と思しき場所には湾曲した牙が数本。真っ黒なぽっちも見受けられるが、恐らくこれが瞳なのだろう。
長身であるが、鎧に似た首から下の構造は──服の上からでは──人間とそう変わらない。百足……多分ムカデだと、クアベルは顔からそう認識したが、それにしては足が少ないように思う。手元は棘ばっていて異形の様相であるが、腕も足も二本ずつだった。
(……寒い)クアベルは内心でぼやいた。(なんでオレがこんなことに……)
鎮静剤から目覚めた今や、クアベルはあられもない下着姿である。もちろん自前のものではない。どうして断言できるのかって、そりゃあ彼女の下着は庭師との戦いで以下省略だ。
サテン生地の黒い下着を纏ったまま、くちん、とクアベルはくしゃみをかました。
恥も外聞もへったくれもなく彼女は胡坐をかいている。愛情にとか友情にとか、三流崩れの小説家が落ち着きなく繰り出すような物の喩えではない。本当に胡坐をかいて座っているのだ。度重なる破廉恥の応酬で、彼女の羞恥心は完全に麻痺していた。
足元には洗面器。中には、水……水と、水粘土を混ぜたもの。彼女に課せられた苦行とは、ひとまずこの水粘土に両手を突っ込んで一心不乱にこねくり回すことであった。
なるほど、地獄である。彼女はアスカの宗派ではないから、死後の世界に水粘土をこねくり回すだけの地獄があるかどうかは知らない。だが、サイノカワラと同じようなものだろう。
「いいですか、あなた。クアベル」
むすっとしたまま手元を動かすクアベルに、百足の亞人が話しかけた。
「そういったお客様には〝ぁすっごーい! 物知りなんですね! 私、自分が知らない世界のお話って大好きだから、もっと聞いてみたいんですぅ!〟と言うのです!」
「……はぁ」ぶっきらぼうに応じるクアベル。「物知りなんすね」
「だから、ノン!」ぴしゃり。百足の触角が壁を打つ。「全ッ然違います!」
最悪だ。なんだって自分がこんなこと。この世の最悪を全部まとめてごった煮にしたものがこちらになります。足こそ痺れていないがクアベルは痺れを切らしそうだった。
「あなた」百足は続けた。「やる気あるのですか?」
「あるわけねーだろが。あん? 言ってみろよ。オレがいつテメーんところの風呂屋の求人に応募したんだ? 履歴書届いたか? 面接したか?」
「総支配人より話を伺っているのです。あなたの許可など必要ノンです。さっさと実技講習を終えて本番に入ってください。ああ、この場合の本番はそういう意味じゃなくて……」
「死ね」
「死ねとはなんですか!」
「この場合の死ねはそのまんまの意味だよ」
「揚げ足を取らないで下さい!」
揚げ足を取られたらしい百足は続ける。何本目の足だかは知らない。なんなら、今こいつが組んだのが腕なのか脚なのかもよくわからない。
「この業界は厳しいのです。そんな接客態度じゃプレミアキャストなど夢のまた夢ですよ」
「何回言わせんだ、ムカデ野郎。オレは天上宮の職員だぞ。こんなアングラな店で働けるか」
「そうでもない。ダブルワークを組んでるキャストもいます」
「天上宮と?」クアベルの手が止まった。「嘘だろ? 誰だよ」
「誰かは言えませんが……嘘ではノンです」
百足がクアベルの顎に指先を宛がう。昆虫特有の冷たく滑らかな、それでいて筋張った感覚が、おぞましさのもと彼女を総毛立たせた。
「あなた、自分の立場を……」
「ひぃいやあぁあああああ」クアベルはたまらず絶叫した。背筋がぞくぞくする。
「騒いだって無駄です!」
「むむむむむ虫っ、虫は無理っ、勘弁してくれ! やだやだやだやだ虫はやだー!」
「むぅ。私、こんなナリでも結構繊細なんですが」
困ったように言って、百足は厚手の手袋をはめる。そののち、涙目で呼吸を荒げるクアベルが落ち着くのを見計らい、先刻と同じようにその手を首筋へと伸ばした。
「さて、仕切り直しをば」
「……取り乱しただけだ」と、クアベル。「全然ビビってなんか」
「自分の立場を理解しておいでですか?」
百足は彼女のたわ言を断ち、一対の触角を研ぐように擦り合わせる。しゃり、しゃり……と耳障りな異音が鳴った。
「足癖の悪いお嬢さんだ。あなたはマダム・クリサリスの爪先を踏んだ。彼女に牙を剥くとはこういうことですよ。報復や清算などと名付けるまでもない。これは、当然の結果なのです。降り注ぐ雨粒が天上へは昇らないように」
「……」
「良かったですね、比翼者で。それにまだ若い。あと三歳老けていたら空きはなかった」
もっと早く生まれてくるべきだった。クアベルにどうこうできた話でもなかったが。
「いいですか、選択肢は二つしかありません。当亞人娼館、マーコレツの在籍嬢として相応の働きをするか──でなければ、させられるかです」
「ごめんだね、どっちも」
「ノン」と、百足は懐から注射器を取り出す。「聖母の谷間と呼ばれる薬です。シリンダーで一本分も打てば三日は狂人同然だ。そして、解毒薬は草に長けたものでなければ作れない」
クアベルは頬を引きつらせる。くすりとも笑えない話だったがそうした。
「誤解しないで頂きたいのですが、マーコレツはキャストの体調を第一に優先しています」
チラつかせてみただけなのか、百足はそう言って注射器を収める。
「どのような人種であれ、不足があれ、その健康を損なうような真似はしたくない。やりがいと奉仕の精神こそが……」
「やりがいだと? 自分の体を売るのにやりがいもクソも……」
ばちん。百足の触覚がクアベルの頬を叩く。いやに軽い。手加減されたか。
「職に貴賎はありません」と、百足。「どのような仕事であれ、罵るべきではない」
「……ってーなゴミムシが」
「ノン。私は百足です。あなた──泡姫という仕事をなめておられるようだ。股を開いて金を貰うだけの女はマーコレツには存在しません。プロ意識を持って頂きたい」
「なにがプロ意識だ。要は春を売るんじゃねーか」
「当館をそこいらの三流娼館くずれと並べてもらっては困る」
百足は曲げていた膝を伸ばし、こつこつと室内を歩き回る。
「人はサービスに対価を払います。マーコレツの設定金額は業界最高峰。いいですか、値札の数字を安直に下げるべきではありません。金額とは、信用なのです。そこにはあなたの信用も含まれる。あなたの信用はマーコレツの信用に繋がる。そして、マーコレツの信用は支配人の信用に繋がる」
なにより、と振り返る百足。
「お客様はこのお店に、単に欲望を満たしに来るわけではありません。わかりますか、これは一種のリラクゼーション・サービスなのです。体の疲弊を、心の憔悴を……癒すため。全ては癒すためです。絶え間なく続く日々の隙間に安息を求め、お客様はマーコレツへ訪れる」
「……」
「欲望は往々にして醜いものです。言葉にするのを憚られるような望みもありましょう。他者と違うことはそれだけで糾弾の理由になりうる──悲しくも。
誰もがソプラノで愛を歌えるわけではない。孤独に苛まれる方もおりましょう。叶う人もおりましょう。叶わぬ人もおりましょう。それゆえ慰めずにはいられないのでしょう」
ヘリクツだ、と……クアベルは心中で唾棄する。なんだか癪に障ったから。
「そういう瞬間。それが単純であれ、複雑であれ、行き場のなくなった衝動に、飲み込まれそうになる瞬間……熱病の亀裂に、我々マーコレツは存在するのです。全ての人が自らを殺めず誰も滲ませず、永久に無辜でいられるように。
これは、社会になくてはならない仕事なのです。それゆえ旧時代から続いてきた」
「仕事なんてな大体そうだろ」
気だるく呟いて、クアベルはまた水粘土をこねはじめた。
「金を貰って人間抱かせんのが救済かなにかだと思ってんなら、頭がどうかしてるぜ」
「救済なのですよ、これは。ノキア写本が神であり、社会だというのなら、我々はその両方に歯向かっている。愛されぬ者、愛せぬ者。一人の伴侶では満足できぬ者。同性愛か、孤独ゆえか、子孫を残せぬ者。口には出来ぬ性癖を持つ者。それらみな全て。大きくも小さくも全て」
葉……鉢植えの中の小さな葉を主脈に沿ってなぞり、百足は言った。
「我らが総支配人いわく────神が救い漏らした者たちを、マーコレツは救うのだ」
「カルト野郎が」
一蹴され、肩をすくめた百足。そうしてまた彼、あるいは彼女は続ける。
「誰でもいいから抱きしめて欲しい……そんな瞬間があなたにもあるはずだ」
「……」
クアベルは手を止める。思い起こす。
そういう瞬間がないわけではない。不安で孤独で切なくて、ひとりぼっちが無性に怖くて、ぎゅっと強く抱いて欲しい──求めて欲しい瞬間がないわけではないのだ。
だが──誰でもいいなんて、縁を冒涜したような話があるか。
「……ないね」クアベルは手を動かした。
「遠い明日で知る」
粘土をこねるクアベルの肩をぽんと叩き、百足は囁いた。
「肯定するのです、クアベル=ラズワイル。お客様の全てを。我がマーコレツの鉄則だ。体は心の浅くを濯ぎ、言葉は心の深くを満たすのです。ときに両方が必要となる」
「馬鹿げてるな。そんなのは誠実な愛に取っとくものじゃないか」
「うーん」百足は牙を打ち鳴らした。喜んでいるのだろうか。「顔に似合わずロマンチストですねえ。しかし、愛はそれこそが誠実であり、それを求める心は嘘をつかない」
「誰の言葉だか知らねえがロクな偉人じゃねえな」
「ノン。偉人ではない。亞人の言葉です。つまり私の言葉だ」
「くっだらねぇ」と、クアベル。「オレはゴメンだ。どこの誰ともわかんねーような、馬の骨以下のクソつまんねー男に抱かれるぐらいなら……」
舌をやんわりと噛んでみて、それからクアベルは言った。
「……死んだ方がマシだ」
とても、怖いことだけれど。いや、そうか。どっちみち、寿命でないと死ねないんだ。
「はて」百足が意味ありげに腕組みする。「あなた……」
「なんだコラ、なんか文句あんのか?」
「もしや、体を許した経験がない?」
「んなワケねーだろ殺すぞテメー」
「では、男性が苦手? もしくは嫌い?」
ぴこぴこと触角が動く。図星だったものだからクアベルは驚いたが、当てられたところでどうというわけでもない。
「テメーに関係ねーだろ」
「そうはいきません。女性が性の対象になるならそういう役割を与えねばなりませんし、担当ドライバーのキャスティングもありますから」
「そもそも働かねーっつってんだろが」
「廃人にしますよ。いいから答えなさい。レズビアンなのですか?」
「やめろ」ばしゃり。水粘土がこぼれた。「その言葉は、ムカつくからやめろ」
「……」咳払いを一つ。襟を正す百足。「失礼。私としたことが。軽率でした」
ずき、とクアベルの羽が疼く。虫歯のようだ。虫だけに。笑えない。痛みを誤魔化そうと、彼女はぽつりぽつり言葉を垂らす。
「……関係ねーんだよ。男とか、女とか。なんで誰もわかんねーんだ。関係ねーやつらばっかりが、わかったように言う。わかってなきゃいけないみたいに言う」
水粘土。どろりとした鏡にクアベルという女。クアベルという、女。言葉を紡ぐ。自分へと言い聞かせる。そうして過去を確かめる。自分の鋳型をさすってやる。
錨のような言葉だった。彼女にとっては。深い水底に穿たれた、自分を繋ぎ止める鎖。
なぜ。
なぜオレは、女なんだ。
「関係ないとは?」百足が食い下がる。「バイセクシャル?」
「自分にないものを持ってる人に惹かれる。つまり、皆に」
「そんなの、誰もが持っているじゃありませんか。みんなあなたとは違う」
「だから、別に誰でもいいんだよ」
「誰でもいいなどと……」
「うるせえ」クアベルは遮った。「そうだよ、誰でもいいわけがねーんだよ。そんなの人間を舐め腐ったクズの考えだ。でも、結果的には誰でもよくなっちまう」
自分が何を言ってるのか、自分でもよくわからなくなってきて、そうしてクアベルの言葉はこんがらがる。こんがらがって……自己の深奥から言葉を引きずり出すしかなかった。自分が思っている一番単純な言葉を、一番飾り気なく紡ぎ出すしか……。
「誰でもよくて、誰でもよくはなくて……一番綺麗だと思った奴が、たまたま女だった。それだけの話じゃねーか。なにがストレートだ、なにがゲイだ、なにがレズビアンだ」
「……」
「そんなもん、そう呼ぶ奴も、呼ばれたがる奴も、自分でそう呼ぶ奴も──……」
犬歯も露に、クアベルは吐き出した。
「……クソ食らえだ」
そうして、またクアベルは水粘土をこねはじめた。たぽたぽと響く丸い音の中、百足が溜息をついて、彼女へと新たに言葉を投げかける。
「あなた、水商売には難儀が過ぎるようだ」
百足は棚の上の小瓶から飴玉を取り出した。包装紙を剥いて現れた天体みたいなそれを、彼──あるいは彼女は──棘ばった口元で転がしながら、クアベルにも一つ勧めてみる。彼女が受け取りを拒んだものだから、それもやむなしと瓶の蓋はきつく閉められた。
「苦労するでしょうね、あなたを愛した者は」
足の爪先を、きゅっと丸めては伸ばし……何度も繰り返しながら、ドゾロの言葉に顔を曇らせるクアベル。
「そして」ドゾロは続けた。「あなた自身も苦労してきた。誰かへの愛を育むことに。悩んでおられますね? 自分が抱いた感情が、恋心なのかどうかよくわかっていない」
「好きなものは好きだ」
「それですよ、まさに。あなたにとって好きなものは全部〝好き〟なんだ。大事にはしたい。だけど、恋かどうかは自分じゃわからない。憧れ、友情、信頼、羨望、独占欲、嫉妬心……。色んなものがごちゃ混ぜになっている。だから誰でもよくて、誰でもよくはなくなる」
「……随分言い切るじゃねーか」
「言いますよ。あなたの中で、友情と尊敬と恋愛感情は同じような波長を持つエネルギーだ。だから誰でもいい。等しく惹かれる。だが、等しく惹かれるがゆえに虚しさも感じる」
そう……なのだろうか。それすらクアベルにはわからない。彼女の中で性は錯綜している。こんなにも強い言葉で言われてしまったら、たとえ間違ってなくたって自分を疑ってしまう。
ああ。心が弱いのかな。それが悪いとは思えないけれど。
「なぜ言い切れるかと言うと」と、ドゾロ。「私もそうだからです」
なんだ、それは。慰めのつもりか。自分も小さい輪の中からさらにはみ出した、どこまでも仲間はずれの一人ぼっちだと……そう言うのか。赤子におしゃぶりを与えるように。
反吐が出る。クアベルは頭に血が上るのを感じた。
一人ぼっちだ、誰だって。なぜお前なんかに哀れみを向けられねばならないんだ。
「色んな人と寝ますよ。狼だろうが、鳥だろうが、蛇だろうが……雄だろうが雌だろうが関係ない。そこに、相手の精神性への敬意さえあれば」
「……なぜ」伏し目がちにクアベルは問う。一応、後学のために。
「なぜ? 愚かな質問だ。性交渉は最上級のコミニュケーションだからです。私にとってはそういうものだ。人の新たな一面を見るのは、単純に楽しいじゃありませんか。それが、自分にとって完璧に映る人間であれば尚更だ。お互いが、お互いの人間性を──手札を見せる。
不思議とね、そういうとき……不完全な部分ほど愛おしく思えるんですよ」
ドゾロが羽を見下ろしたのがわかった。
「あなたにとって、性交渉は恋愛と深く結びつくようなものではない。もちろん、特別な行いであることに変わりはありませんが──あなたはそれよりも人間としての繋がりを重視する」
水粘土まみれのねばついた手で、クアベルは自分の胸に触れた。
「……人間……」
「んまぁ、私はぶっちゃけ肉体的な部分に惹かれて寝ることも多いですがね。でも悪いことだとは思ってませんよ。だって、美しいし触ってみたいと思ったんですから。ムラっときちゃったらしょうがないでしょそんなもの」
「台無しだよ」
「そんなものですよ。そして、人と人などその程度のものでいい」
亞人はすっぱりと言ってのけた。どうにも天上宮の教えとは馬が合わないようだ。理解することを結果のほうに持ってくるだなんて。
「動物だ、我々は」ドゾロは言った。昆虫のくせに。「心の繋がりを求めるか、体の繋がりを求めるか、贅沢にも両方に繋がりを求めるか……そういう違いがあるだけで」
「……」
「愛し、愛されることは──もっと原始的で、単純な状態であるべきだ。一夫一妻制など実に馬鹿らしい。人は人ひとりのみを深く愛すべきだ、などと定めたから……我々のように開放的な価値観を持つ者が、異常者という値札を貼られるのです。
愛は性差を問わず、みな誰もを愛して良くあるべきだ」
「……後ろのほうには同意できない。おかしいのが自分だってことぐらいはわかってる」
少なくとも、今のアトラスじゃ……クアベルはそう続ける。
「オレは皆を好きになれる。けど、なれるだけ。惰性でそうなっちまうだけなんだよ。望んでそうしてるわけじゃない」
「望まないのなら断ればよいのでは?」
「それは……だって……」口ごもるクアベル。「わかっちゃうんだ、求めた相手の気持ちも。それに、別に減るもんじゃないし……」
百足が肩を落とした。ついでに触角も少し垂れ下がる。
「欲張りですね。求められることに依存している。捨てるべきピースを選別できていない」
「……はん」糸を引く水粘土を眺め、クアベルは苦笑する。「そうかも」
「残念。理解はして頂けなかったようですね。同士を見つけたと思ったのですが」
「いや、理解はしたよ。そういう考えがあるのはわかった」
だけど、とはにかむクアベル。惨めさからか、安堵からか……とにかく自然にそうした。
「オレには耐えられないな。独りは怖い。支えがないと──誰かを支えにしないと、しがみついてないと……立ってられない。ダメだとわかってても、そうしちゃう」
「わかりますよ、時々は。続けて」
「続けてって……」唇を噛んでみて、やっぱり彼女は口を閉じる。「もう何も出ない」
「まだ出るはずです」
百足が手を伸ばす。クアベルが怯える。怯え損だった。指先が彼女の頭に添えられて、手袋越しにごつごつとした触感が伝わった。
「孤独なものは、溜め込むものだ。そうしてまた孤独の深みにはまる」
「……」
「キャストのメンタルケアも仕事のうちです。話すといい。望むのなら」
ぽけら、と小口を開けたまんまのクアベル。何故だか知らないが涙腺が暖かくなってきて、彼女は慌てて目を伏せた。
(なんで。泣くな。くそ。馬鹿。泣くな。泣くな……)
掌を返したように耳触りのいいことを言いやがって。くそ。変な奴だ。虫のくせに。
いや、虫だろうと人だろうと関係ないんだ。多分、言葉はそういうものだから。そういうものであってほしいと思う。誰もそう思わなくたって、クアベルはそう思うのだ。
ああ、多分、こういう瞬間なんだ。誰でもいいから抱きしめて欲しくなるのは。
「……不安になる」
声が震えてしまった。ず、と鼻だけを啜ったあと、必死で涙をこらえて彼女は続ける。
「なにも考えてないと、不安になっちまうんだ。おかしな話だろ。めんどくせーからなんにも考えたくないのに、なんにも考えてなかったら、それはそれで妙に落ち着かない。一人じゃ、どんどんダメになっていく気がするんだ。だから……」
「……だから?」
「……頭の中を、脳味噌の隙間を、埋めてくれる人が好きだ。そういう人は誰だって好きだ。男でも女でも関係ない。その人のことばっかり浮かんできて、なんにも手につかなくなって、やらなきゃいけないことに仕方なく手をつけて……終わったら、またその人のことを考える」
「……」
「心の穴を埋めてくれる人なら……きっと、誰だって、好きになっちゃうんだ」
目元の熱が引く。感傷に耐え切ったクアベルは、ぎゅっと目頭を押さえて苦笑した。
「最悪だ」
「なぜ笑うのです? 笑いませんよ。私だって、本当はそうかもしれない。あなたがあなたを笑ってはいけない。それがあなたなのだから」
「……そうかな」
「いいのです、それで。自分を悩んで、嫌って、認めて、愛して……そこでようやく始まる。
愛の一つがそうあるように──最後に自分のところへ戻ってくれば、それでいいのです」
天上宮で聞いたような教えだ。長い責め苦が終わったかのごとく、クアベルの溜飲は自然と下がった。頬に触れた枝毛が妙にこそばゆくて、うなじの方へと長髪を纏め上げる。
感じる。自分が女であることを。煩わしいとも思う。区切りなどどうでもいい。だから全部なくなってしまえばいい。男を男たらしめ、女を女たらしめ、そうでない者たちを扱いやすい鋳型で締め括ってしまう──言葉。
この、力を得てしまった言葉の世界が、どうか。
「……滅びますように」
「はい?」
「なんでもない」
スーツの袖が正される。百足は彼女の背を叩き、橙色の翼を見下ろした。
「黄玉の比翼者。あなた、名前は?」
「クアベル。クアベル=ラズワイルだ」
「私はドゾロ。ポセニュサモ=ジレーソヌ=グンツォドゾロ。支配人、とお呼び下さい」
ドゾロは支配人だ。この亞人娼館マーコレツの。
そして────ここにいる全てのキャストを支配する者でもあった。
「よく聞いて、クアベル」
ぬるい、声。ドゾロの両手が、そっとクアベルの頬へ添えられる。彼女は拒まなかった。
「安心なさい。重要なのは体ではなく心だ。心からの愛が誠実である限り、そこに穢れはありえません。誰もあなたを責めたりはしない。逆の立場なら、あなたも誰かを責めないはずだ」
一歩。緩やかに。
「あなたを責めるのは常にあなただ。自分を愛することが人を愛することに繋がる。同様に、人を愛することもまた、自分を愛することに繋がるのです」
また一歩。強かに。
「孤独な者にしか分かち合えぬ痛みもある。あなたにはそれが出来る! 隣人愛、ですよ! 孤独な者は愛に飢える。あなたがそうであるように。自らの全てを肯定してほしくなる」
そして、苛烈にまた一歩。
息を一つ。最後は囁くように──しかし確実に、ドゾロは彼女の心に足を踏み入れた。
「愛してゆきましょう。救ってゆきましょう。そして救われましょう! ここ、マーコレツもまた真実の愛を追究する場所。その光は、日陰にも日向にも平等に差す」
「……」
「あなたには天使になる資格がある」ドゾロは首をかしげた。「ここでは孤独じゃない」
触れる鼻先。鋭利な異形の口元が軋む。クアベルは床へと視線を落とした。
天使。そうか。なりそこなってなどいない。間違ってるのは社会の方だ。そして亞人娼館はその社会に疑問を呈している。やり方は違えど天上宮と同じ、人となりの全てを誠実に直視した上で、絶対的な肯定で以ってより良き方向へと導く──
──絶対的な……。
(……違う)
同じなものか。ただ孤独の穴を埋めてやるだけが隣人愛ではない。必要なのは認めること、他者を他者として尊重する心だ。そこには肯定と否定の二つが存在する。していなければならないはずだ。隣人愛は無償であれど、決して無条件に誰もに与えられるようなものではない。そんなもの、誰でもいいのと同じことじゃないか。
隣人を愛することは隣人の全てを是とすることではないはずだ。愛することと認めることは似て非なるもののはずだ。良いところもあり、悪いところもあり……それでもそういう人間もいるのだと、存在を尊重してやることが──真の隣人愛ではないのか。
全てを肯定? それではただの甘やかしではないのか。蛾や枯れ草を蝶よ花よと盲に愛でることは、誠実な愛などではないはずだ。
いや、ない。それが誠実であってなるものか。よしんばそれを求める心が、人間という動物の根本にどれほど心地よく響くものであろうとも。
「…………違う、はずだ」
呟くクアベル。だめか──ドゾロは急いた。それゆえ上手くはいかなかった。
「さあ、クアベル。立って。あなたには〝カサブランカ〟の天使として働いて頂きます」
「……」ゆらりと、クアベルは立ち上がった。「……待て」
「カサブランカ! 百合の花! 早い話が、同性愛者の女性専門のコースです! 往々にして理解してはもらえぬその孤独を! 葛藤を! 寂寥を! あなたなら……」
「待てったら!」
彼女の怒号がドゾロの言葉を掻き消す。遅れて残響。そののちドゾロは突き飛ばされた。
「あぶねーところだ」クアベルは耳の穴をかっぽじる。「管理官に感謝だな」
「……」体勢を立て直すドゾロ。「何がです?」
「不毛だぜ。やっぱりここはグズの掃き溜めだ」
似ている。リフターのやり口と。責め、問いかけ、自覚させ、相手の言葉をすら糾弾に利用し、心の隙間へ言葉を滑り込ませ、鍵をこじ開け、人となりを丸裸にする。暴くだけ暴いて、最後には甘やかしか。
数多の者が、そうしてここで働かされてきたのだろう。少年も、少女も、亞人も。天上宮に収監された比翼者がリフターの言葉に打ちのめされるのと同じだ。理解者を演じることで依存させる。
ここも、亞人娼館もまた────完全犯罪の舞台か。
クアベルは散々見てきた。だからわかる。ここで折れれば、後はずるずると落ちるだけだ。
そんな泥舟に誰が乗るものか。いくら自分が粘土みたいな女だからって。
「おたくも大概ズレてんだろうなあ」と、クアベル。「ご高説は為ンなったぜ、ありがとよ。けど、それとこれとは話が別だ。何度言われたってこんなところじゃ働か……」
触角の鞭が床を打つ。割れんばかりの勢いだったし、床は実際に割れた。
その、百足。脅迫にも懐柔にも失した人非人の、挑みかかる形相たるや。
「──失、策」と、ドゾロ。「急ぎましたか。まだまだですねえ、私も」
「お前なんぞは管理官の……足元にも及ばねーよ」
「……これは一本」
クアベルはせせら笑う。心では勝った。勝った、つもりだった。
彼女は忘れていた。こういうとき、言葉で届かなくなったものを届かせようとするとき……往々にして、どういうものが使われるのかを。
自分だって、散々使ってきたはずなのに。
「断るというのであれば──」
飴玉を噛み砕くドゾロ。破片が散った。
「──あなたの大事な人たちに、ここで働いてもらうだけです」
「ふっ……」ばちゃり。洗面器がひっくり返る。「ふざけんな!」
四半秒前の柔和な表情をかなぐり捨て、クアベルはドゾロに掴みかかった。
「ババアに喧嘩売ったのはオレだ! 他の奴は関係ねーだろ!」「おやおや……」
剣幕と声量ばかりは一丁前にクアベルは吼える。それでもまだ自分が冷静だと信じていた。だから足元を見られる。あとはもうただただ我武者羅なだけだ。襟を掴んだ両手に、押し倒してぶん殴ってやろうと力を込めてはみるが、いくら細身のドゾロとて腐っても亞人……彼女の力では押すことも引くことも敵わぬ。
「人懐っこいのですね、あなた」
嘲笑、だろうか。ドゾロは僅かばかり腰を曲げ、彼女の顔を覗き込む。
「あまり大人をなめない方がいい。嫌ならやめて頂いて結構。その子の名前、出身地、家族構成から交友関係まで洗いざらい調べ上げて……」
「やめろ! こんなところにチネッタを……」
「──チネッタ? ほう。チネッタ、というんですか」
「ぇあ……」しまった。口が滑った。「ちがう、今のは……」
慌てて後ずさるクアベル。零れた水粘土に左足を持っていかれてすっ転んだ。くそたれが。なにも二重に滑らなくたって。彼女は頭を押さえながら、なんとか打開策を考えるが──
「歳はいくつです?」──ドゾロの問いに「十九、十八。それとも十七……」クアベルの眉が揺れてしまう。百足の目はそれを見逃さなかった。
「あァーあ、十七歳。ちょうどいい塩梅だ。さぞや、年配のお客様が好むであろう……」
「知るかッ」彼女は左腕を振りかぶった。「ッつーの!」
ぱち、と可愛らしい音がして、クアベルの拳が難なく受け止められる。追って、彼女は翼をドゾロの横腹へ添えた。いつも気だるげで腫れぼったい眼を怒りで切り開いて。
一方、亞人ドゾロの異形なりし口元はきちきちと鳴いた。やはり笑っていやがる。
「忘れてねーだろうな、オレは比翼者だぞ」
「私に亞能力は通じない」
触角を垂らしてみせるドゾロ。甲殻の上に、びっしりと古代アルザル文字が記されていた。マダム・クリサリスの庭にあった魔力封じと同じ類のものだ。より複雑な文字列にも見える。
ただの烙印、ではない────動力言語による身体の魔力的拡張だ。
「孤独なもの同士」と、ドゾロ。「もしかしたら、好で見逃してくれるかも……なんて、一瞬思いませんでしたか?」
「思うわけあるか」
「私に心を許してしまったのが何よりの証拠。あるわけないでしょ──そんな、虫のいい話」
クアベルは下唇を噛んだ。いつもの秤など持ち出すまでもなかった。大事なもの、護るべきものはもう決まっていたし──決めざるを得なかったからだ。第一、ここを強行突破したとて彼女には天上宮へ帰る術がない。
「しつこいようですが」と、煮えきらぬクアベルへ言うドゾロ。「もう覆せませんよ。いっそ割り切ってポジティブに考えたほうが、人生楽しくないですか?」
クアベルの顔が醜悪に歪んだ。醜悪なものにあてられたから。
「やっぱりテメーはゴミムシだ……!」
「安心してください。あなたはあくまで贖罪の為に連れてこられただけだ。亞人娼館に相応の貢献を頂いた暁には、きちんと無傷で解放します。お友達にも手は出さないし、二度と関わることはない」
「そんな虫のいい話あるわけねーだろ!」
「嘘ではない。我々は告発など恐れていないし──万が一にも店舗の所在が割れたところで、訪れた全てをねじ伏せる。二〇〇〇年も続いてきたってことは……そういうことなんですよ」
──闇社会の、権化……。クアベルはそう感じた。虫ケラの後ろには娼館、娼館の後ろには出資者、出資者の裏には闇社会そのものが広がるか。
立ち込めた暗雲の大きさなど考えたくもない。こんな連中と比べたら、人身売買などは有象無象のうちの一つだろう。たかだかクアベル一人には──いや、あのリフターにだって、どうこう出来るような話だとは思えなかった。
強大すぎる。敵に回すには、あまりにも……。
まただ。クアベルに出来ることは、またもや機を待つことそれのみである。これ以上はどう言ったって押し問答が続くだけだろう。でもでもだっての嵐なんて、想像するだけで面倒だ。埒が空かぬとなれば、最後に使われるのはシャブ入りの注射器に違いない。
惰性のツケか、結局は。自分が粘土みたいな奴だから、ここで水粘土をこねる羽目になった──ただそれだけの話じゃないか。
(……無理だ)握っていた拳を解くクアベル。(どうしようも……ない)
頭に上りきった血が下がる。彼女には、もはや運命を丸呑みする他に手立てはなかった。
これを知ったら、チネッタはなんて言うだろう。軽蔑されるだろうか。穢れた淫売だと罵られるかもしれない。いや、そんなことを言ったら、もっと遡って自分を裁かなきゃならない。チネッタに愛を囁いたのに、アゾキアとずるずる関係を続けて──裏切ってきたじゃないか。 付き合ってるだとか付き合ってないだとか、そういう話じゃない。誠実な愛への裏切りだ。同時にそれは、アゾキアへの裏切りでもある。たとえ惰性の繋がりだったとしても。
馬鹿だな。こんな面倒なことになるなら、とうの昔に突き放しておけば良かったんだ。
生きてきてしまったんだ、オレは。要するに──〝来るもの拒まず〟の精神で。
(撒いた種か)しゃがみこんで、クアベルは膝を抱える。(庭師じゃあるまいし)
刃物のような言葉を使った。自分の心でもって切れ味を知っていたからだ。いずれはそれが自分に跳ね返ってくるともわかっていた。なのに使った。手軽で、便利で、握りやすいから。
まあいいかで選んで、まあいいかでそうして……仕方ないかと馬鹿を見る。繰り返していくだろう。この先もずっと。そうやって、色んな奴に見放されていくんだ。
わかってるよ、チネッタ。オレが変われば話はそれでおしまいなんだし、変わろうとすれば始まりだってするだろう。だけど、無理だ。面倒なんだよ。変わることさえも。変わるべく、自分を変えることすらも。
だって、だってそんなの、どうしようもないじゃないか。かくあれと生まれてきてそこから抜け出せないのなんて、しょうがないことじゃないか。環境だとか、言葉一つだとか、そんなもので人間は簡単に変わったりしない。
こんなに──こんなにも難しいことだから、オレは悩んでいるんじゃないか。
「……めんどくさ」
すとん、と。三角座りのまま尻を下ろし、クアベルは絶え入るような声で呟いた。ドゾロが触角をひょいひょいと動かしてみせる。
「いいのですね?」と、ドゾロ。
「…………」
「ンン。利口です。どうにもならないことをどうにかしようとするべきではない」
言って、ドゾロは鉢植えの中身をひっくり返す。草の根と土に塗れて、なにやら金属じみた円盤が姿を現した。
蓄音機だ。録音されていたか。ドゾロがそいつを拾い上げて電源を切る。
「……録って、どうすんだ」ぼうっとしたままクアベルは問う。
「送りつけるんです、天上宮に。もう戻れませんよ。あそこには」
芯まで腐ったやり口だ。繋がるかもしれぬ糸をさえ断とうという。
そうかもな。戻れないかもしれない。戻ったところで居場所があるかもわからない。きっと皆は理解してくれるだろうけれど、自分自身が耐えられないかもしれない。
失うか。そうして、なにもかも。リフターからの信頼を、アゾキアからの恋情を。
チネッタ。もしかしたら、お前さえも。
嫌だな。もう嫌だ。面倒くせえ。考えたくねーんだよ。後のこととか、先のこととか。自分がどうとか他人がどうとか、何が裏切りで何が誠実だとか。
だるいな、なにもかも。悩むことについて悩んでしまうことさえも。
だったらいっそ、ここで一思いにやらかして、なにもかも無茶苦茶に──
(……なにもかも)
ふと、籠を見やる。脱ぎ捨てたローブ……そのポケットから何かはみ出ていた。
なんだ。あんなもの持ってたか。オレのものか? 糸で出来た、狸のような人形。
いや。オレのものじゃない。たしか、夜襲の日に。
〝────いいのか? お父さんにあげるんだろ?〟
〝────もう一個作ったからいいの!〟
〝────二つあるんだったら、一つはママにあげな〟
〝────だってママ、来ないんだもん。お仕事忙しいからって〟
〝────分かった、もらっとくよ。ただし、もしママが来たらママに渡す。いいな?〟
「……」
クアベルは人形を眺めた。感傷、というわけではない。ただ眺めた。糸と糸が折り重なった部分を見て、よくもこんな面倒臭いものを創ったな、などと思う。心がそうさせたのだとも。
こんな幾重にも編み込んだ面倒の果てに、希望があると信じるだなんて。
馬鹿じゃねーのか。来るわけねーだろ。だからお前を手放したんだろ。ああ、そうだよな。子供ってのは思ってるほど馬鹿じゃない。わかってんだ、あの子だって。自分を捨てた母親が会いに来るはずないことぐらい。
なのに待ってる。わかってるよ。それでも待つんだろう。どうにもならないことがどうにかなったら、もしかしたらって。
わかるよ。ちくしょう。わかっちまうんだ。こんな人間だから。
「……子供かよ」クアベルはぼやいた。
「はい?」
「ごめん、アゾキア……」
聞きこぼしたドゾロが問い返すが、クアベルの目は人形に向いたままだ。
ドゾロはそれを見る。次に彼女の翼から黒ずみが引いていくのを見て、極めて冷静に状況を飲み込んだ。
失策だったか。ローブなど始末しておけば良かった。あんまりにその黒が似合っていたばっかりに。与えてしまったのだ、心の皹を縫い合わせる糸を。
百足の触角が大気中の微細な魔素をとらえた。震えている。共振している。この女が放つ、きわめて凄烈な感情の振れ幅にあてられていやがるのだ。
この女は──クアベルは、問うている。自己の奥深くに、自らを。
(……めんどくせーな)
クアベルは。
(……めんどくせーけど)
クアベル=ラズワイルは。
(……これ以上めんどくせー自分になるのは……もっと面倒だ)
足を胡坐に組み直し、それから彼女は勢い良く立ち上がった。無造作な橙の長髪が、雨粒を受けるようにして天を仰いだ彼女の顔面に被さる。
「……マジ──クソだりぃな」
薄紫の瞳。その端にドゾロを捉え、クアベルが言う。いつも通り、気だるそうな声で。
「それが」と、ドゾロ。「あなたでしょう?」
「らしいな。でもって、それで散々痛い目に合った」
「そうして今度も痛い目を見る」
「いいや。もう飽きた」
クアベルは口元にへばりついた髪の毛を、ふっと一息吹き上げ──そして、石の羽を右腕に添わせた。迸る黄玉の光と共に、彼女の翼が鉱石の煌きを帯びてゆく。
「とりあえず、あまりを数えることにする」
「まったく……」項垂れつつ、触角を構えるドゾロ。「虫の手にもあまる」
二人は動く。一瞬だった。クアベルの羽は槌への形態変化を待たずして、鉱物化した尖端を脆くも砕かれる。異音とともに散ったのは黄玉の破片だけだ。ドゾロの触角には毀れはなく、刻まれたアルザル文字が常磐色の光を帯びているだけであった。
「ね?」ドゾロは首を傾げた。「どうにもならないでしょう?」
羽先を失った彼女の翼からどろどろと血が滴る。苦悶の表情に脂汗を滲ませ、それでも呻きだけはあげまいと鋭い犬歯を食い縛りながら、クアベルはドゾロを睨みつける。生体鉱物化の応用で裂創周りの細胞を鉱石化させ出血を防いだのは、脈拍が落ち着いてからだった。
──ドゾロの言う通りらしい。今はまだ。
クアベルは頭を目一杯回した。同じ轍を二度と踏まぬために。
彼女とて闇雲に抗ったわけではない。鉱物化自体の発動は確認できた。文字の配列が巨石の魔力封じと異なるのであれば、その機能も異なると──彼女はそうあたりをつけ、そしてその読みは当たった。
触角の文字列は魔素を霧散させているわけではない。衝撃で石の羽が砕けたということは、接触するその瞬間まで鉱物化が解除されなかったことに他ならないのだから。
つまり、石の羽はまだ使える。この触角の隙さえ窺えば勝機はある。勝機でなくとも、逃げ出す好機はあるはずだ。
待つのだ、反撃を。
「忘れんなよ」呼吸を整え、クアベルは言う。「チネッタに手を出したら殺してやる」
「私の場合は足ですがね」
「はん。扱いづらいぜ、オレは。ノイローゼと勝負するんだな」
言ってみて、クアベルは自分でもおかしくなってきた。
まったくだ。どうしてこうも自分の芯を掴みあぐねた人間なんだろう。口は悪いし、ずぼらだし。自分がもう一人いたらと思うとそれこそノイローゼになりそうだった。
よくも周りの奴らは、オレなんかに愛想つかさずにいたもんだ。
いや……そうしてくれていたんだろう。オレが胡坐をかいていただけで。
「好機など、待つだけ無駄ですよ」見透かしたように言うドゾロ。「マーコレツは不沈艦だ。そうやって反抗的な態度をとり続けるつもりなら、死ぬまでここで待つ羽目になる」
「そうかい。化石になってから思い出しな。オレが比翼者だったことを」
それに、と……クアベルは鉢植えを足蹴にした。
「待つのは得意だ」