第十羽「エマージェンシー・クアベル!」

 

 

 

 

 クラークという男は人生の岐路に立たされていた。いや、とうに立っていた。ただ気付いていないだけだった。それとも気付かないフリをしていたのか。

 どれだって一緒だ。馬鹿にでも分かる言い回しを難しそうに並べたところで、答えが遠のくだけで中身までは変わらない。シンプルにすれば、彼が言いたいのはつまり……。

「……なんだって俺がこんなこと」

 この一言につきる。天上宮バベル……その最下層の床を踏みながら、クラークは自問した。

 手元には小振りなプレートが一枚。その上には煮崩れたシュクレロと、歯ごたえの悪そうなパンが乗せられている。ご丁寧に冷えたゼリーのおまけつきときた。素晴らしい昼食だ。檻の中で食べる餌などなんでも一緒だろうに。

 言わずもがな、これは収監されている比翼者ヴァイカリオスたちに与える餌だ。食事とは呼べない。死んだ能なしの代役として監視官に抜擢されたクラークは、はれて陰気な監獄の給餌係というわけである。

「……」

 良心は痛まないのか? これは福祉施設としてあるべき姿か? なるほど光に影はつきものだろうが、はたして自らの人生を棒に振ってまで、名もろくに知らぬ片翼者メネラウス達の為に影を踏む必要はあるのか? 相応の見返りを貰っているだろうか?

「……ええい」

 クラークは考えるのをやめた。やめざるを得なかった。既に自体は分水嶺を超えてしまっている。ここで二の足を踏んだところで将来が保障されるわけでもない。

 葛藤の時間はとうに終わったのだ。たった一度……たった一度のあやまちが、次へ、次へと彼の心を蝕んでいった。事態はもう数の問題ではない。

 仕方なく選んだ選択肢でも、運命は決まってしまうものなのだから。

 かちゃりと扉の鍵を開く。そして、紛失しまいとポケットの奥へ。フェーミュイの二の舞はゴメンだ。続いてクラークは、檻が立ち並ぶ薄暗い部屋を見渡した。

 霊安室だってもう少し賑わうだろうに。檻の中に収められた子供たちは、もう彼に見向きもしない。ただ黙って床の方を見つめ横たわり、あるいは壁を見つめ横たわり……言葉の一つもなく絶望に打ちひしがれていた。

 結構なことだ。絶望している内はまだいい。もうどうにもならぬと諦めた辺りから、彼らは彼らでなくなるのだから。

 みな年端としはもいかぬ子供達だ。成人している者は一人もいない。髪は竹箒たけぼうきのようにガサついており、死臭に似たのある香りを纏っている。なにより瞳に光が一筋もない。

 奪ったのは自分なのだ、自分たちなのだ……クラークはそう言い聞かせる。そののち一つの檻へ歩み寄り、小柄な少年へと餌を差し入れた。

 少年は何も言わない。ただじっと見ている。まだ壁を見ていてくれたほうが救われるというものだ。光が宿っているべきその瞳をクラークに向け、生気のなさをこれでもかと見せ付けていた。

「……そんな目で見んなよ。俺だって、やりたくてやってるわけじゃねえのさ」

 懺悔にしてはえらく遅い。クラークはなおも続けた。

「出してやりてえのは山々よ。いくらお前が片翼かたよくだからって、日に日に衰弱していくのを眺めていい気分になるほど……俺ぁ人間できちゃいねえのさ」

 少年は何も言わない。分かっているのかいないのか、相変わらず黙したまま、餌に手をつけるでもなく、面白くもないクラークの面構つらがまえを眺め続ける。

「けど、どうしようもねーんだ。管理官に逆らったら巨空鷲ハレハグラの餌にされちまう。死にたくねーだろ、俺だってそうさ。このままでいいとは思っちゃいねーが、他に選択肢なんざ……」

 葛藤か。馬鹿げた話だ。クラークは自嘲する。そんなものは、とうに過ぎていてしかるべき通過儀礼だ。今この檻に餌を差し入れていることが、自身の中に眠る黒い部分の証明に他ならないというのに。

「……ぼく」

 檻の中、少年が小さく呟き、遠慮がちにしばたく。

「ぼく、どうして、閉じこめられたの?」

「……〝再統一〟に必要だからさ」

「さいとういつ……」

「意味分かるか?」クラークは鼻で笑う。「分かんねえよな。俺だって分かんねえよ。笑えるだろ、管理官にほいほいついていったはいいが、何言ってんのかもよくわかってねーんだぜ。馬鹿丸出しって感じだよ、我ながら」

 一度差し入れたプレートを引き戻し、パンを千切りながらクラークは続けた。

「でけーことするんだとよ」

「でかい?」

「そ。言葉をぶっ壊して、心が剥き身で、世界が愛と優しさで……」

「……つまり?」

「今よりは、お前らが生きやすくなるってことらしいぜ」

 いいことだ。理想的ではある。そこに彼らがいるかいないかは別として。

「……おう、坊主」と、クラーク。「俺はなりそこないが嫌いだ。すなわちお前が嫌いだ」

「……きらい。ぼくが、きらい?」

「あぁー嫌いだね。大嫌いだ。できれば目の前からは消えて欲しいが」

 再びプレートを差し入れるクラーク。

「……だからって、死んでくれとまでは思わねーよ」

 少年がパンの一欠けを手に取る。煮崩れたシュクレロを小振りなスプーンでその口に運び、口内でパンを軟らかくしてから飲み下した。

「……笑えるぜ。普通、そんなもんだろ。殺してやるとか、死ねとか、口じゃなんとでも言えるさ。自分が手を下すわけでもねえんだからな。

 だが、いざむちを持って叩けって言われたら……。なにも本気で死んでほしいと思ってるわけじゃねーよ。ましてや自分の手を汚してまで……」

 クラークはたまらず口を噤んだ。不思議な話だ。懺悔を纏うと、片翼かたよくというのは神の様相にすら思える。不足を知る者が必ずしも利口なわけではないが──こんな……思春期すらろくに迎えていない子供を檻に入れて何になるというのだろう。

 なんだ? 俺は一体何を解決しようとしている? 管理官はなにをやろうとしている?

 大体、未来を約束されていないのは俺たちだって同じじゃないか。

 俺は、俺たちは、この〝再統一〟の先に──この先に、いるのだろうか?

「……」

 クラークは曲げていた膝を伸ばして立ち上がる。えらく重い。たかだか三分程度でこれだ。ずっと同じ姿勢のままでいる子供たちの痛みなど、想像もつかぬ。したくもない……。

「おう坊主」

「んー?」

「死にたくなかったら管理官の言うことだけは聞いとけ」

「んー……」

「あの人にゃ逆らうな。言うことさえ聞いてりゃそのうち出られる」

「やだ」

 煮崩れたシュクレロを飲み干し、少年は答えた。

「……なんで?」

「あの人、好きじゃない」

「……」

 馬鹿野郎、俺だって好きじゃねえよ──言葉がクラークの口から飛び出そうになる。事実だが、彼にそれを口走る権利はなかった。

「でも」少年がクラークの目を見た。「おじさんがそうしろって言うならそうする」

「ふざけろ」顔を背けるクラーク。「俺ぁてめーの人生にまで責任持てねえんだよ」

「? もてない? じゃあ誰がもつの?」

「誰ってお前、自分以外に誰がいるんだ……」

 そうとも。自分以外に誰がいるというのか。

 クラークという男以外の誰に、クラークという男の人生の責任が取れるのか。

「……フライング・ダッチマン」

「?」眉間にむずがゆさを覚える少年。「なに、それ」

「昔の言葉だ。地に足着かねえ難破船」

 クラークはついに振り返らなかった。無駄だと知っていた。

「俺のことさ」

 

 

 

 

 クラークは仕事が出来る男だ。何事も迅速にこなす。一度決めたことは何がなんでもやらねばならない──それは敬愛していたリフターの教えであり、言葉通りクラークはそうあった。

 体調や時間的余裕の有無に関わらず、やれと言われたことは必ずこなしてきたのだ。それも極めて従順に、かつ即座に。

 そこに例外はなかった。反抗を決意し、片手には槍を……そうして扉一枚向こうに眉なしの男を向かえた今日においてさえ例外ではなかった。

 やれと言われたことは必ずこなしてきた。全て他人の言葉だ。言われるまま従った。

 長いものに巻かれるとはそういうことだ。流れに逆らわず笹船のようにたゆたうのが、彼なりの世渡りの秘訣だった。これはクアベルなる者から──片翼かたよくを好まない彼が彼女と話したことは一度もないが──その生き様の片鱗から盗んだものだ。

 きわめて利口な生き方だ。大体の人間はそう生きる。不要な衝突や反抗は船のを大きく狂わせるからだ。その手の世迷言は、ここぞという時においてのみ使われるべきもので……でなければ、魂を値踏みされる。

 クラークにとっては今がここぞという時だった。今こそが魂を値踏みされる時だった。流されるまま生きることの恐ろしさを知ったのだ。

 自分こそがその結末だ。操縦桿を他人に任せた船乗りの行く末だ。川の深さすら知らぬままあれよあれよと流れに流され、気付けば滝壺の淵にいる。

 我を通すことは利口な行いではない。が、時と場合によってはその限りではない。もうすぐ船が落ちると気付けばどんな馬鹿でも舵を取る。

 そういうものだ。それはそう、天上宮の闇を知りながら、我が事になるまで妄信の目隠しを拭えなかった、クラークという馬鹿な男でも、だ。

「……」

 長い夢を見ていたようだ。酔いが覚めた。クラークは重々しく扉を叩いた。前置きの一つもなくリフターの声が返ってくる。

「階級を」

「……六層巡回および七番ケージ監視官」喉がひりつく。「……クラークです。覚えておいでですか、フェーミュイの後任の……」

「覚えている」

「管理官にお話が」

「話とは?」

 扉越しにリフターの声だけが返ってくる。

「……中に入っても?」と、クラーク。「お取り込み中ですか?」

「いや。私は構わない」

 淡白な声だった。私は構わないと。では誰に構うというのか。

 ああ。分かっているとも。そういうことだろう。

「……失礼します」

 クラークは扉を押し開け、一歩踏み込み────そして即座に長槍を構えた。

 左から刃。読み通りだ。火花と、金属音。槍をいで老躯の刃を払う。ウスターシュの顔をとらえるなりクラークは突っ込んだ。

 一瞥いちべつした卓上、リフターの手元に水晶スピーカー。波を伝える水晶の性質を利用して音波を拾うためのものだ。全て聞かれていたに違いない。

 やはりか。その程度か。クラークという男の扱いなど、この天上宮においてはその程度だというのか。そいつはどうにもむかつく話だ。四度、五度と二人の得物えものがぶつかる。

 クラークの顔は苦々しげだ。だが、ウスターシュには微笑む余裕すら見受けられた。

「とんだ氷山の一角だな……!」

豪華客船オーデロナマサでも気取ったつもりか?」

 ウスターシュが踏み込む。一歩遅れるクラーク。舌打ち交じりに突き出した刃が綺麗に寸断された。まだだ、切り口が斜めだから凶器にはなる。クラークはそう踏んで次の攻めに出た。それが間違いだとは気付けなかった。

 長物の利点は失われたのだ。距離を詰めねば攻められない。だが彼の体は縮まった間合いに追いついていない。ウスターシュはすばやく目をつけ、手元の剣を投擲とうてきする。

「なに!?」

 クラークは辛うじてそれを弾く。そうするしかない。弾き終えた頃にはウスターシュは懐にいる。寸断した槍の切っ先を片手に。

 避けるか? 間に合わない。クラークは左腕を盾にする。切っ先が深々と前腕を貫く。かまうものか。右手の槍でこの老いぼれの頭を貫けばおしまいだ。

 ──左目のすみ、卓上の辞書。

 ウスターシュはそいつを拾い上げて槍を防ぎ、老人らしからぬ頭突きをクラークの鼻先へ。

「く……」

 よろめくクラーク。戦意はまだある。だが、ウスターシュの辞書に容赦という言葉はない。陶器のペン立てを引っ掴み、跳躍とびざま、思い切りカーペットを後ろに蹴りだす。足元をもっていかれたクラークがバランスを崩した。

 あっけないものだ。決着は一撃だけだった。陶器の破片が飛び散り、頭蓋骨をかち割られたクラークは床に沈んだ。

 リフターはその間中ずっと微笑んでいた。ただそれだけだった。手元のマグカップから立ち上るコーヒーの香りを嗅ぎながら、二人の死闘をただ見ていた。

 ウスターシュは立ち上がって襟を正す。それから串刺しにされた辞書を拾い上げ、槍だったものを引っこ抜いた。

「失礼。部屋を散らかしました」

「今のは良かったぞ、ウスターシュ」

 リフターは笑顔のまま言った。

「今度はカーペットを変えずに済んだ」

 

 

   ◆

 

 

 まだ胃の内側がついている。引きずり出して洗浄してやりたい気分だ。

 どうしてこうなったのか。もうこの庭の土を踏むのも何回目だ……自問しつつ、ビーガンは雑草を断ち切った。とくに景観を乱すわけでもない、ささやかなりし雑草を。

 なりたくて庭師になったわけではないし、取り立てて草花が好きだったわけでもない。ただ家業を継いだだけだ。

 旧時代、現在の天上の民の先祖が暮らしていた国……つまり、返報へんほうラスタバルカ帝國ていこくでは、死人の魂を草花の種に宿して大地に返す埋葬法──〝樹木葬じゅもくそう〟が主流となっていた。世界樹を信仰する宗教のならわしだ。

 ビーガンの家系は代々その〝樹木葬〟を生業なりわいとする。庭師は庭師でも死の庭師だ。大洪水で同業者はほとんど死に絶えてしまったものだから、天上においては数少ない樹木葬の扱い手というわけである。

 それがどうだ。いまやただの庭師だ。まだ死の庭師と揶揄やゆされた方がハクがつくというものだ。ランチタイムにオムレツを食べて死線を彷徨さまよう庭師がどこにいるというのか。

「ビーガン、ちょっといいかい」

 小窓から顔を出し、マダムがビーガンに手招きする。そらきた。これだ。ビーガンは魔吸器マスク越しにむっとする。してみただけで文句を言うわけではない。それが庭師の生き様だ。庭がなくては庭師足り得ない。

「……なんです」

「まぁ来い」

 刈り込みばさみを放り出し、ビーガンはと歩を進める。気だるげだ。別に死に掛けたからというわけではなく。チネッタが箒を掃く手を止めて、ビーガンの行く手をさえぎった。

「ねえ。マダムといっつも何の話してるの?」

「……雑用ですよ。契約外の仕事を押し付けようって言うんです」

 チネッタは眉をひそめる。どうにも締まりのない顔だ。締まりのないものを見たからそうなるのだろうが。

「……あなたさぁ、断りきれないって感じよね」

かどを立てるのは好きではありませんから」 

「たまにはガツンと言ってみたら? 言いたいこと言ってみればマダムだって態度を改めるんじゃない? 舐められてんのよ」

 しゅしゅ、と格闘技の構えを取って拳で空を切るチネッタ。支えを失った箒が力なく倒れる。今日も掃除は終わりそうにない。

「自分の気持ちに正直になってみれば何か変わるかもよ?」

 チネッタは、どこか意味ありげにそう言った。

「……言うに事欠いてこの小娘は……」

「あん? なんだ?」

「なにも……」

 正直もなにもあったものか。別に嘘をついてきたわけではない。問題はその領域にも達していないのだ。すなわちビーガンという事なかれ主義の庭師は、自分の気持ちというものをどこまでも仕舞い込んで生きてきた。

 一歩。必要なのはその一歩だ。お空の上のネズミ達は、往々おうおうにして陳腐で難儀な命題を抱え込んでしまっている。庭師のビーガンもその一人だった。

 別に何かを変えたいわけではない。変えてどうしたいというわけでもない。

 ないのだが──こう代わり映えのしない日々が続いては、悪戯心の一つも舌を攻め立てるというものだ。

「……いいでしょう。たまにはガツンと言ってやりますよ」

 やってやるという表情で庭師は言った。

 綿のような軽やかさのローブを纏い、マダムは帽子を深く落とした。いやはや、並々ならぬおめかしだ。さぞや高い店に行くに違いない。ビーガンはそう当たりをつけた。

「これから少し出る。後を頼んだよ」

 老婆は言う。これではまるで自分のほうが使用人ではないか。ここだ。踏み出せ庭師、死の庭師。

「……マダム。今日こそは言わせて頂きます。僕はシッターでは」

「ヌヴジャコーツ」マダムは遮った。「エクストラオールドが二缶」

「……魔煙草マーガレットを頂けるのはありがたいですよ。しかし……」

 ビーガンは一応そう答えてみせる。いつまで〝今日だけ〟が続くのかは彼にも分からない。どうにもマダムはビーガンが煙草好きだと思い込んでいるふしがあるが、実のところ週に三本も吸えばいい方だ。早急に是正せねば煙草の隣で寝るはめになる。

 動くのだ。仕方なく選んだ選択肢でも運命が決まってしまうというのなら、今こそ……。

「見てのとおり、僕はこのザマだ」

 魔吸器マスクに手を当てて続けるビーガン。

「こいつか清浄機がないと呼吸もままならない。煙草を吸うには魔吸器マスクを外さなきゃならない。たのしむだけなら草で間に合ってる。僕が煙草を貰っても、吸うところなんて自宅かマダムのところぐらいしか……」

「つまり?」

「……遠慮しておくと言ってるんです。僕は、シッターではありませんから」

 いいぞ。その意気だ。言ってやれ。白黒はっきりつけてやれ! チネッタは廊下で聞き耳を立てながらガッツポーズをした。

「では仕方ない」マダムは攻め方を改めた。「娼館しょうかんに興味はあるか?」

「娼館? いい加減にしてくださいマダム、僕は……」

「男専門の店だ」

 反論は喉元につかえる。それきり出てこなかった。

「専門?」

「そういう別館があるグレーな店さ。お前さんにも合うだろう。店の名はマーコレツ」

「はぁん!?」

 ビーガンは大声を上げる。彼のものだとは思えないほど上ずった声だった。

 マダムも驚いたが、それ以上に驚いたのはチネッタの方だ。

 ちょっと待て。

 もしやこいつ、この優男やさおとこ、私が恋した優男──か?

「マーコレツ! マーコレツですって! あの伝説の亞人娼館!? 多種多様なニーズに応えるため亞人のみならず人間や混血児まで雇用対象に含めた、超一級サービスと在籍嬢のレベルの高さで有名なマーコレツ! 秘密裏に同性への派遣も担っており、かつ顧客の信頼を絶対に裏切らないと言われているマーコレツですか!?」

「……おぉ、ビーガン……おぉ……」

 マダムは遠いはずの耳を押さえる。

「お前、そんなでかい声出たのかい……」

「あれほど探し回ってどこにも見つけられなかったのに……あろうことか優待チケット!? 優待チケットですって! 常識外れの値段から誰も手が出せない、幻のような存在とも言われているマーコレツの! 優待チケット!? こともあろうに!」

 火がぜたようにビーガンはまくし立てる。人が変わったとはこのことだ。マダムでさえも一歩たじろぐ始末だった。

「……好みのタイプは?」と、マダムが問う。

「中肉中背、筋肉質、短髪……いや、丸刈りも捨てがたいが……」

 声にならないうなりを上げ、ビーガンは眉間を押さえた。

「いや待てここは短髪だ……短髪の……出来ればアスカとエウロパニアの混血……二分の一テュラヴァンツ四分の一シューヴァンツいやそれ以下でも……。オプションは? どこまでつけられるんです!?」

「おぉ……ちょっと、ちょっと落ち着け。私の心臓が止まっちまう」

 言ってマダムは胸を抑える。チネッタも同じように心臓のあたりを押さえた。

 なに。なにそれ。そんなのってない。チネッタの心がどくどくと波打つ。怒るのは筋違いだ。分かってはいる。しょうがないことだ。天上宮にはそういう者もやってくる。彼らに理解がないわけではない。それを責めることは誰にもできない。

 できないのに。ああ、こんなの。こんなのって。

「呼ぶなら、交渉はボーイとしな。いや、男の場合は女が来るが……」

「まさか! 余計なチェンジなどごめんだ、店舗に出向くに決まってるでしょう! 頭使ってくださいよ! 投資家ともあろうものが! 自分が何言ってるかわかってるんですか!」

「……まぁ、私ゃどっちでもいいんだが……」

 よくない! 女と喋らせるぐらいなら男の方がマシだ。いやそういう問題じゃない。恋する少女チネッタにとってはそんな問題ではない!

 割って入るか? そんなの駄目だとビーガンを止める? どういう理屈で彼を止める? どんな言葉で取り繕ったって咎めるような意味合いになってしまう。

 チネッタはこらえた。ここで線引きを誤るほど馬鹿ではなかった。だが、この理不尽な恋心に出口を与えてやれるほど利口ではなかった。

「余りものだからね」マダムはチケットをちらつかせる。「捨ててもいいんだが……」

「捨てるなんてとんでもない! それはとんでもないことだ!」

「では、どうするね?」

 にやつく老婆。ビーガンは肝をなめたような顔をした。

「まぁ……たまたま、たまたま今日はここで終わりですから……その、チケットを捨てるのも勿体無いし……環境愛護の観点から言って、紙を粗末にするのは……」

 〝ガツンと言ってやる〟という顔ではなかった。どうも歯切れが悪い。チネッタは苛立つ。流されてばかりのビーガンにか、それとも。

「欲しいかい? 残念だが庭の手入れだけではあげられないね」

「……こんな卑劣なやり方が許されると思ってるんですか?」

「チネッタ、ゴミ箱持ってきなぁ!」

「おい待て! いや待って下さい、冷静にいきましょう」

 ビーガンは襟を正して気をつけの姿勢をとった。自分は棒です、好きな方に振ってくださいとでも言うように。

「お前は庭師か?」

「いえ、ご命令とあらば子供のお守りから猫探しまでなんでも」

「ではお前はシッターだね?」

「イエス・マダム」

「よろしい。留守のあいだ家を頼む」

「しかたないですね。タダでやるわけにはいきません。報酬としてこのチケットは受け取っておきます。なに、仕事というやつは対価を頂かないと無責任なものになってしまいますから。しかたのないことだ」

「……」

「いやーしかたないこれはしかたない。実にしかたない」

「……では頼んだよ」

「いえ、マダム・クリサリス……玄関までお送りします」

 現金な奴だ。バグリスじゃあるまいし。マダムは苦笑する他なかった。

 うつむくチネッタを一目いちもくし、マダムは無言ですれ違う。しまった、聞かれていた。

 しかし、こればかりはどうしようもないことだ。割り切りを知らない少女でもいずれは割り切らねばならない時が来る。少女チネッタにとっては今がそうだった……それだけのことだ。割り切らねばならない事態の重さはさておき。

「……ビーガン」

 チネッタが服の裾を掴んで呼び止める。虫の居所がよくないようだった。頼りなく垂れた前髪のせいで顔までは見えないが、つるのごとく張り詰めた剣呑な声色だ。

「……いや。がつんと言ってやるとは言いましたよ。しかし時と場合によって……」

「約束だから」

「はい?」

 まだだ。まだ涙を滲ませるには早い。チネッタは顔を上げた。

「また私のオムレツ食べるのよ。あなたさっきそう言った」

「……言いましたが」

「絶対だよ」

「食べられるオムレツをつく」

「絶対だからな!」

「はぁ……」

 それだけ言って、チネッタは引き揚げる。八つ当たり気味に廊下の芥箱ごみばこを蹴っ飛ばし、少女らしからぬ勇み足でリビングへと戻っていった。

「ぬあぁあー! ぜってぇー負けねーし!」

「……すごい顔になってるよ」ジズが問う声が聞こえた。「なんかあったの?」

「なんでもない! びっくりするぐらい、なんでも、ない!」

 マダムの背筋が一段と曲がる。ビーガンはいよいよわからないという顔をした。

「……なんです、あれは」

「はまらんピースは何をしてもはまらんということだ」

「ピース?」

 庭師の目は難問に右往左往。恋のわずらいに良薬は得難えがたきものと知るべし。

 

 

   ◆

 

 

 狭い。息苦しい。墓場だ。文字通り土の中だ。目覚めるやいなやクアベルは頭痛に襲われた。酸素も魔素まそも足りていない。植物かなにかに生気を吸い取られているような心地だった。

「おぉーい」

 呼びかけてみる。返事はない。箱の中で自分の声が反響するだけだ。

 つい、とクアベルは視線を下げる。箱。箱の中だ。ロッカー、タンス、それとも棺桶。何にせよ、背伸びもままならぬ窮屈さだ。身を折った人一人がぎりぎり納まるぐらいの木箱に詰め込まれている。いつぞや見たバベルの檻に劣らない。

 重力のかかり方からして、クアベルは仰向けで閉じ込められている。思い切り足元を蹴ってみるが、木箱が緩む様子はない。外側から何かが押さえつけている。鈍い音と共に振動が伝わり、木箱の角から粉が落ちてくる。なんだこれは。小麦粉? それにしてはやけに茶色い。

 空腹も相まったか、クアベルは粉に触れて指先を舐める。

 苦い。腐ったライムの味がする。粉と呼ぶには少し荒削りで、歯の内側がざりざりと嫌な音を立てた。

 土。土だ。土? ちょっと待て、土? ひょっとしてここは────土の中か?

「…………」

 あわれクアベル、よわいは二〇歳。一世一代の夜襲やしゅうは生き埋めという結末に終わった。

 引きつり気味の笑みがこぼれる。クアベルは頭を抱えた。比喩ひゆではなく。つるぎもなければつちもない。せめて魔酒マキュールの一つもあればなんとかなったのだが、どういう理屈か石の羽も使えないとあっては、か弱き二〇歳の少女の力では──マダムの庭において二〇歳を少女と呼ぶかはさておき──この窮地を脱する術がない。

(なんだこりゃ。なんで空の上で土の中に入んなきゃいけねーんだよ)

 鳥のさえずりが聞こえる。夜襲からは過ぎて八時間といったところか。一夜明け、土の中のクアベルに更なる危地が訪れた。

(トイレいきたい)

 クアベルは自分の選択を悔いた。恐らくは今生唯一にして最大の後悔だ。後悔することすら面倒臭がるクアベルにとっては、さぞ物珍しい本気の後悔だったろう。

 当たり前だが棺桶に用を足す為の穴はない。死人は尿意をもよおさないからだ。だが生き埋めとあっては話が変わってくる。クアベルは再び深く頭を抱えた。膀胱が緩まぬよう、太ももをもじもじとよじりながら。

(くそ……馬鹿か……なんで出撃前にサンクレールのモカなんか飲んだんだ……それも大きい奴……。サンクレールなんて嫌いだ……あんな美味しいもんが二十四時間売ってたら誰だって買うに決まってるだろ……)

 人は意識しまいとすればするほど意識してしまうものだ。クアベルは尿意に恋したわけではないがそれは恋に似ていた。素数ヌヴジャコーツを数えても、呼吸を整えても、頭に浮かんでくるのは下着と木箱をアンモニアで濡らす不衛生な女の姿だけだ。

(……まずい。限界だ。するか? するしかないのか?)

 知っての通りクアベルは無精ぶしょうな女だ。さりとて、面倒だからといってその場で水溜りを作るほど出不精でぶしょうなわけではなかった。腐っても女のはしくれなのだ。

 差し当たっての問題は二つ。どう出るかと、どう出すか。

『やっぱ気のせいよ。この辺、鳥も滅多に来ないし……』

『おかしいな。なんか変な音したと思ったんだけど』

 土の上から少しこもり気味で会話が響いてくる。片方は聞き覚えのあるチネッタの声だ。僥倖ぎょうこうに緩みかけた膀胱ぼうこうをきゅっと引き締め、クアベルは大声を上げた。

「ここだぁー! 出してぇー!」

『やっぱりなんか聞こえる』

『この下からだわ』

「チネッタぁー!」

『……クアベル?』

 葉をめくるような声だ。チネッタの眉が吊り上がったのがわかる。

『あんた、いつうちの庭で死んだの?』

「ババアに埋められた! 助けてくれ! 挨拶に来ただけなのに!」

『いくらマダムでもそんなことで埋めたりしないわよ』

「実際埋められてんだからしょうがねーだろ! 早く出してくれ! 漏れそうなんだ!」

『漏れそうって……あんたいつからそこにいんのよ』

「わかんねーんだよ! さっさとレスキューミー!」

 かんばしくはない状況だ。チネッタ一人ならどうとでも言いくるめられたろうに。

『何してるんです?』

 事態は悪化する。今度は男の声だ。これもまた聞き覚えがあった。

 たしか、天上宮で……。

『人が埋まってるの』

『マダムめ。そういうことか』

 クアベルはぐるぐると頭を巡らせる。尿意のせいでいまいち記憶のキレが悪い。いま股下を緩めればそっちの方のキレはいいだろうが──いや、冗談は後だ。

 ようやっとでクアベルの頭にビジョンが浮かぶ。そうだ、庭師だ。天上宮の庭園を手入れしに来る、リフターお抱えの優男やさおとこ

「おい! お前、その声、知ってるぞ! バベルの庭師だろ! 出してくれよ!」

『え?』今度はジズの声だ。『バベルで働いてるの……?』

『……ええ、たまに。掛け持ちしてるんです。こっちと違って庭師以上の仕事は求められませんが……』

「雑談すんなぁ! こっちは生き埋めなんだぞ!」

 ホームとアウェーでのダブルワーク……並ならぬ図太さの神経だ。そういう意味では肝の形はクアベルと似ているのかもしれない。生憎と庭師の方は世渡りのコツを熟知しているものだから、まかり間違って生き埋めにされたりはしないが。

『出さない方がいい』

『え、でも……』

『マダムにちょっかいでもかけに来たんでしょう。出せば何をするか分からない』

『私、こいつ知ってるわ』チネッタが口を挟む。『バベルの頃の友達よ。前から面倒臭がりな奴だったけど、まさか死ぬのも面倒で生きたまま棺桶に入るなんて』

「んなわけあるかぁ! つーか今でも友達だろ!」

『あんた、めんどくさくなったら人間関係全部リセットするじゃない。ぱったり手紙も寄越さなくなったくせに。ほんと都合いいんだから』

「んぐぐ……」

 ド正論に下唇を噛み、いよいよ彼女は攻め方を変えることにした。クアベルは手段を選ばない。過程よりも結果を重視する。拿捕だほすべき敵に泣き付いたという過程よりも、小便漏らしの悪名を回避したという結果を重視するのだ。

「チネッタぁ出してよぉ、お願いだから……」

『こんな時だけぶりっ子してんじゃないわよ』

「なんだコラ、お前も年中ぶりっ子だろがよ!」

『あそ。じゃばいばい』

「違う違うチネッタはそこがいいんだって! 助けて下さい! なんでもします!」

『…………どいつもこいつも』

 小さく溜息が聞こえる。そののち足音が遠ざかり、遅れてもう一人の少女の声がした。

『会議するから五分待ってってチネッタが』

「さて、どうしようかしら」

 チネッタは腰に手を当て、困ったように言った。土の下がぎゃあぎゃあとうるさい。地獄の釜が開いたようだ。

「マダム、今日帰ってくるの遅いのよね。ねえジズ、どうしよう」

「ど、どうするって……」

 ジズは困った風に答える。どうするもこうするもあったものか。これから毎日掃除することになる庭に死体が埋まっているとなっては、おちおち夜も眠れない。明晰夢など夢のまた夢だ。肩口に上ったチィちゃんも、困ったようにチィと鳴いた。

 出してやりたいのは本心だ。頭の中の愛と優しさも首を縦に振っている。ジャスパーならどうするか分からないが、もじゃ毛の天使ならそうしただろう。

 しかし──しかしビーガンいわく、彼奴きゃつはバベルの回し者であるという。彼がバベルで働いているというのも大きな突っ込みどころだが、差し当たっての問題は土の下の賊だ。

「……あなたを連れ戻しにきたんじゃない? ジズ」

 言いながらも、チネッタは自分の顎先に触れる。

「にしては妙よね。なんでクアベル一人なんだろ。大体二、三人で来ると思うんだけど」

(……クアベル?)

 ビーガンの頭にシルエットが思い起こされた。アゾキアの顔と一緒にだ。

(……最悪だ。よりによって、アゾキアの……)

 来てしまったものはしょうがない。ビーガンは二人の間に割って入った。

「今はそこを掘り下げてる場合じゃないでしょう。掘り下げるなら土の方だ」

 庭師のビーガン、流石に聡明である。絶妙に流れを断ち切り、チネッタの追及を許さない。ジズも彼の意図をなんとなく汲み取り、軽く頭を下げた。

「知り合いだったんでしょう?」と、チネッタに訊ねるビーガン。

「知り合いっていうか……まあ、そうね。でも、クアベルは職員よ。私はあそこに預けられたクチだけど、クアベルはあそこで働いてたの」

「どんな奴なんです」

「どんな? んー、どんな……」

 ぐで、と箒に体重を預けるチネッタ。

「めんどくさがり。いい加減だったわ。部屋も散らかし放題だし仕事はサボるし」

「誰があなたの話をしろと?」

「喧嘩か?」

「いいから続けて」

「……別に悪い奴じゃないわよ。子供達とも仲良かったし。仕事はテキトーだったけど」

「担当は?」ビーガンが目を細める。「奴は何層の担当だったんです?」

「わかんないわ。あちこちほっつき歩いてたから。いい加減だからあんまり食卓にも出てこなかったし、音痴だからって聖歌隊クワイアにも加わらなかったし」

「なら、やはりこのまま放置すべきです」

 ビーガンはばっさりと切り捨てる。

「マダムに恨みを持つ者は少なくない。大方こいつもでしょう。でなければ、バベルの職員がここを訪れる理由なんてありませんから」

 脱走囚の奪還を除き──一瞬、ジズの目線と交差したビーガンの瞳がそう語る。

「そんなことする奴じゃないわ。きっと大丈夫よ」

「なら、何故マダムは庭に埋めたんです。いくら彼女でも挨拶に来ただけの人間を生き埋めにしたりはしない」

「そう、それよ。なんで生き埋めにしたの? 生きてるってことは、始末する必要がないって判断したんでしょ?」

「……というよりは」

 生かしておく必要があると判断したか。濃厚なのはこちらだろう。

 ビーガンが知る限り、マダム・クリサリスという女は病的なまでに慎重で周到な女であり、ある種の完璧主義者だと言っていい。芽は必ずみ取る。ましてや庭を飾る大罪を知られたとあっては。

(……何を考えている、マダム。どうするつもりだ、この女を……)

 ぽん、とチネッタが掌を叩く。ビーガンが思考から引き戻された。

「出しましょうよ。天上警察に突き出すにしても、どっちみち……」

「突き出せるわけないでしょう」頭をかくビーガン。「こいつはマダムの庭園に立ち入った。違法栽培を知ってしまったんだ。仮にバベルの回し者だったとしても、不法侵入で突き出したとしても、タレこまれてガサ入れを喰らうのはこっちです」

「タレ? ガサ?」

「アスカの言い回しですよ。とにかく、マダムが帰ってくるのを待ちましょう」

「でも、漏れそうだって」

「口実に決まってる」

 漏れそうという言葉を聴いて、ジズも漏らしたことを思い出す。モノは違えど似たようなものだ。最中を見られる心配がないので幾分かクアベルの方がマシではあるが、女の恥に変わりはない。狭いスペースでアンモニア臭が鼻をつく不快さを、ジズはよく知っていた。

「ジズ、あんたはどう思う?」

「わ、私? 私は……」

 あっちに安息、そっちに同情……ジズははかり重石おもしを載せる。どうにも彼女の天秤は性能がよくない。傾斜にしておよそ二度、釣り合いが取れるか取れまいかギリギリのところを見定め、ようやっとのことでジズは重石を降ろした。

 チラつくのだ。天使になどなれはしないとのたまう、過去に囚われた女の影が。

「私は……出してあげるに一票」

 ジズは右手を上げてそう言う。彼女なりの一つの宣誓でもあった。見ていろ陰気な自分もどきめ、お前の見立ての愚かさを証明してやる──そんな気概で言ってやったのだ。

「何を馬鹿な!」

 ビーガンがずい、と詰め寄った。二枚目の眉目が映えるいい距離だ。ジズがチネッタであったなら少し漏らしていたかもしれない。

(分かってるんですか、奴はあなたを取り返しに来てるんですよ。それも一人で!)

 耳打ちするビーガン。声まで優艶だ。骸骨のダミ声よりはずっといい。

(奴が襲ってきたらどうするんです。刃物や鈍器なんかを持っているかもしれないし、魔術の心得があるかもしれない。自分で戦うつもりですか?)

(それは……)小声で応じるジズ。(でも、かわいそうだし……)

(同情するにしても相手を選ぶべきだ)

(……)

 理屈は分かる。ジャスパーでもそう言ったに違いない。しかしジズの中の怪物が頑かたく》なに首を縦に振らせまいとする。愛と優しさは相手を選ぶものなのだろうか? ジズには分からない。また分からないことが一つ増えた。増えていくばかりだった。

(いいですか、聞くところによると薔薇水晶ローズクォーツは愛と優しさの石らしいですが)

 またそういうお話か。もううんざりだ。チィちゃんの耳も垂れ気味だった。

(それだけでは成り立たないんです。愛も優しさもそれ単体では何の意味も持たないし、役に立たない。まっとうするだけの力があって初めてそれたりるんです)

(……ちから……)

(そうです。あなたが万人を愛するからといって皆がそれを受け入れてくれるわけではない。拒絶する人間だっているし、それを邪険にする人間もいるし……)

 一度区切って、ビーガンは続けた。

(……愛につけ込む人間だって、世の中にはいる)

(……)

(ひょっとしたら、土の中の女がそうかもしれない。誰もに等しく優しさを振りまくのなら、それを覚悟した上で、それ相応の心の持ちようで臨まなければならないんです)

(でも、漏れそうだって)

(信じられるわけないでしょう。ただの口実に決まってる!)

(そんなの出してみないとわかんないじゃん)

(……信じるからには裏切られる覚悟を決めなければならない。裏切られても構わないという心……石のような心が必要だ。あなたにあるんですか、その覚悟が。覚悟だけじゃ駄目です。その後を解決する力も必要だ。あなた一人で何が出来るんです)

 なんだか難しい。ジズの頭はぐるぐる回る。分からないものリストもそろそろ満期だ。

 裏切られる覚悟とやらは本当に必要なのだろうか。生憎あいにく、ジズには裏切られた経験がない。だが信じたことはある。例えばお喋りでおちゃらけた、みどりの髪を持つ男なんかを。

 そこに覚悟なんて大層なものは存在しなかったし、そもそも信じること自体が大層なことではなかった。十個ずつメソッドなんて頭をよぎりもしなかった。

 〝あなたを裏切らずにいられるのはあなただけだ〟──レイチェルの言葉が浮かんでくる。どうだろう。本当にそうなのだろうか。だったら誰かに裏切られようとも、自分だけは自分を裏切ってはいけないのではないだろうか。

「なによ、さっきからごちゃごちゃ。めんどくさい話してるわね」

 業を煮やしたか、口を挟むチネッタ。吐息も多めにビーガンが振り返る。

「あなたは黙っていて下さい。いま大事な話をしてるんです」

「長いわよ。大したことも言ってないし。信じるとか裏切るとか今どうでもいいでしょ」

「どうでもいい? 馬鹿な。出して襲われたらどうするんです」

「そうなったらそうなったで考えればいいじゃない」

「は……」

 チネッタは頭をがしがしとかく。なにがわからないのかわからないという顔だった。

「なんなの? うじうじめんどくさい。結局どうしたいの。はっきりして」

「だから、マダムの帰りを待って……」

「マダムじゃなくてあなたの意見を聞いたのよ」

「何度も言わせるな! ここは私の庭じゃなくてマダムの庭だ! 生き埋めにしたのも理由があってのことだろうから、彼女の帰りを待つのが最善だと言ってるんです!」

「待って、どうなるのよ。結局出すことになったらクアベルは漏らし損じゃない。とりあえず出そうって言ってるのよ私は。トイレに行かせて、それから話を聞いて、部屋で待っててもらえばいいじゃない」

「部屋で? 正気じゃない! 夜襲をかけにきた奴を家に入れるなんて! マダムに知れたら首を飛ばされる……!」

 チネッタは顔をしかめた。ビーガンも同じような表情だった。

 擦った揉んだの泥仕合だ。ジズには覚えがあった。主にみどりと老人のせいで。

 きっとピースでいうところの、どうしてもぶつかってしまう部分なのだ。

「さっきもそうだけどさ」チネッタは言う。「あなた、自分の意志で物事決めらんないの?」

「人の考えを尊重していると言って頂きたい」

「決めるのが怖いだけでしょ。マダムマダムってそればっかじゃん」

「当たり前だ。私は雇われで、ここはマダムの家だぞ」

「だったら私の家でもあるわ。ジズの家でもある」

 ビーガンが言葉に詰まる。これを言われては庭師のビーガンに権利はない。ただ立場ゆえの責任があるだけだった。立ちはだかる巨壁は理不尽の化身か。

「クアベルを出すわ」さっさとスコップを掴むチネッタ。「手伝って」

「あなたに責任が取れるんですか?」

「責任を取るのは私達みんなよ」

「少数派の意見は黙殺か」

「三人いるんだから白黒どっちかに転ぶに決まってるでしょ」

「グレーという選択肢があるでしょう」

「私はそのグレーを取ってるのよ。ジズは出したいし、あなたは放置したい。だから私は一旦出すって選択肢を提案したのよ。どうするかはそのあと決めればいい。最終的にどうなるかより差しあたっての問題を解決すべきだわ」

「何を馬鹿な……」

 あぁもう、とチネッタが地団太を踏んだ。

「あんたわかってんの? クアベルはおしっこ漏れそうなのよ!」

「お……」

「私達はそれを知っちゃったのよ、ってことはクアベルは自分がおしっこ漏れそうなのを知られてる状況でおしっこ漏らすことになるのよ。おしっこ漏らすことが女の子にとってどれほど恥ずかしいか! まして男が聞き耳立ててる前でおしっこ漏らすなんて……」

「おしっこおしっこ言うな、はしたない! それに聞き耳も立てたりしない!」

「そういうのが好きなの?」

「誰が!」

 ひとしきり叫んで、ようやくビーガンは冷静になった。頭に上りきった血が下がっていく。チネッタは彼の呼吸が整うのを待って言った。

「落ち着いた?」

 ああクソ。どうにもやりづらい。ビーガンは背筋がむずがゆくなるのを感じた。言ってることは滅茶苦茶だが利口な女だ。どうにも手玉に取られている。

「……間違ってたらどうするんです。あなたが出した答えが間違ってたら」

「そのときはその時よ。それはそれ、これはこれ」

 チネッタはばっさりと割り切って言った。

「選ばないよりはずっといい」

 ジズがはっとする。いつか自分も同じ事を言った覚えがあった。他人の受け売りだがそこは構うまい。なんだかそれが妙に嬉しく思えて、ジズはうんうんと頷いた。

 どこか──自分の背中を押されたような気分になる。

「……どいつもこいつも」

 かぼそく呟くビーガン。チィちゃんだけがその声を拾い、不思議そうに首を傾かし》げた。

「馬鹿なことしないって約束させるわよ」

「ただの口約束だ。信用できるものか。出して暴れたらどうするんです。庭を滅茶苦茶にされたらマダムに首を飛ばされる」

「されないわ。あなたがいるもの」

 自身ありげにいうチネッタ。ビーガンはいよいよ頭を抱えた。

「あなた庭師ガーデナーだけど、庭の守護者ガードナーでしょ?」

 この期に及んでふるい言語での洒落とは笑えない話だ。割りきりがいいと言うべきか、後先を考えていないと言うべきか。

「信用してる」

 チネッタはまっすぐビーガンの目を見た。

「信用してるわ、ビーガン。あなたっていう庭師を」

「…………」

 またこれだ。ラヴロマンスのようなねっとりした音楽が聞こえてくる。ジズは明後日の方へ目をやった。チィちゃんも一緒にだ。なんて綺麗なお空。もう無茶苦茶だ。土の下には水漏れ寸前の女がいて、後ろでは庭師と家政婦が見つめ合っている。

 ようやく根負けして、ビーガンは溜息と共に言葉を吐き出した。これまでもそうであったように、どこまでもしかたなくで。

「……分かった、参りましたよ。出しましょう。ただし、危険だと感じたら即座に私が拘束します。それでいいですね」

「拘束って……」後ずさるチネッタ。「やっぱそういうの好きなんじゃん……」

「そういう意味じゃない!」

「きつすぎ……」

「違うと言ってるだろ!」

 

 

 

 

 待つこと二分。チネッタからの返事が返ってきたのは、いよいよ我慢するのも面倒になってきたな、こうなったら墜ちるとこまで墜ちてやるか……そう考えたクアベルが身を折り、下着に手をかける寸前だった。

『クアベル。出してあげるわ』

「うぉっしゃさすがチネッタ、話が分かる! これはもう世の女たちがほっとかない……」

『でもまず私の質問に答えて。あんた何しにここに来たの?』

「んあ」

 クアベルは目を細める。これは面倒なことになった。それも身の振り方を自分の頭で考えなければならない──特大級の面倒だ。

「だから挨拶しに来ただけだって。何回言わせんだよ」

『いいこと? 私、昨日の夕方はここを掃除してたのよ。その時は何もなかったわ。てことはあんた、私達が寝てる時にここに来て、それから埋められたのよね。

 次ふざけたら部屋に戻るわよ。呼びりんも鳴らさないで、そんな夜中に何しに来たの?』

 ああ、チネッタ。豪胆ごうたんな女。バベルにいた頃はこんな女じゃなかったのに。人は変わる、か。なんともマダムりゅうらしいやり方だ。いよいよクアベルは舌打ちし、成果と面倒を──それすら面倒そうに──秤にかけ、仕方なしに観念した。

「分かったよ、言うよ。そこの女いるだろ、もう一人の奴。そいつを連れて来いって言われたんだよ」

『は? ジズを? なんで? 誰に?』

「誰にって……」

 クアベルはうまいこと言葉を濁した。

「バベルだよ」

『リフターでしょ』ジズが言う。『リフターに命令されたんでしょ?』

『リフターに? なんで?』

 濁す必要もなかったか。クアベルは失笑する。

「馬鹿だなぁチネッタお前。何にも分かっちゃいねーよ」

『なにがよ』

「子供が勝手に家出したらそりゃ探すに決まってんだろ。管理官は全員分の名前を覚えてんだぜ」

『どの口で!』ジズが横槍を挟む。『閉じ込めた癖に!』

「おいおい、なんだか誤解があるみてーだなぁ。後できっちり説明するよ。ていうかそれよりトイレ行かせてくれよ。まず出すモンを出さねーとほんとに膀胱が……」

 嘘は言っていない。膀胱の件に関しては。一拍置いてチネッタの声が聞こえた。

『いいこと、クアベル。満場一致であんたの仮釈放が決定したわ。とりあえずトイレには行かせてあげる。その代わり、妙な真似したら今度は本当に出られなくなるからね』

「チネッタサンキューフォーエバー! 結婚してくれー!」

『いやよっ』

 敵ながら天晴あっぱれだ。クアベルは失笑した。恐ろしいほどの馬鹿だ。クアベル以上に世の中を舐め切っている。あるいはこれを愛と優しさと、どこかの馬鹿者が名付けたのか。

「よっこらせ」

 ざりざりと土を掘る音が聞こえた後、棺桶の蓋を蹴り開け、クアベルはようやく這い出た。不思議と尿意がおさまっている。チネッタの姿を見るなり彼女は顔を綻ばせた。

「久しぶりだなチネッタぁー!」

「いいから早くっ、トイレにっ、行きなさい、よっ……!」

 チネッタの足蹴あしげをものともせず、泥まみれで抱きつくクアベル。

 ジズは混乱するばかりだ。こいつは本当に何をしにきたのか。夜襲をかけにきたという割に緊張感もないし、ウスターシュのような雰囲気も感じられない。

 もしや何もかも私の勘違いで、本当に遊びに来ただけなのでは……そう考えてしまう。

「一分やる。さっさと用を足せ」

 粗雑に言った庭師の手元にはスコップが一振り。ジズはと言えば刀でも向けるみたいに箒を構えていた。それがどうにもへっぴり腰だから、クアベルは苦笑してしまう。

「……ここでしろってのかよ。トイレまで案内してくれよ。一人で行っていいならそれでもいいけど」

「先に行け」と、舌打ちするビーガン。「妙な真似はするな。入って右の……」

「おいおい待てよ、庭師さんよ。お前が案内役? 冗談だろ」

 クアベルはバレないように縄を引っかきながら言う。もう随分とほつれた。あと少しだ。板か何かに押し当てれば千切れるだろう。

 問題はそこからだ。どうする? 見渡す限り、乗ってきた羽馬はねうまは見当たらない。老婆が持ち去ったか、あるいは始末されただ。馬がいなければ逃げようもない。いや、あるにはあるが、現実的ではない。

(……さぁーてどうすっかな)

 クアベルは一瞬のうちにぐるぐると脳味噌を回す。この機敏さが普段から発揮できていればアゾキアの小言も収まるだろうに。

 遠方、草むら。羽馬はねうまが一匹。木には繋がれていない。名は知らないし誰のものだかも知らないがいい馬だ。年老いてはいるが荘厳そうごんさが漂っている。

(……アレにするか)

 クアベルは標的を定めた。愚かにも、庭師に仕えるニチザツという利口な羽馬はねうまに。

「なぁ、勘弁しろって。これでも女のはしくれだぜ。まさか聞き耳立てようってのか?」

「その点なら安心しろ」ビーガンは吐き捨てた。「女に興味はない」

 チネッタの表情が曇る。クアベルはそれを見逃さなかった。それだけで全てを察した。

 チネッタに並々ならぬ執着を持つ、彼女だからこそ……。

「……ムカつくな、てめえ」

 クアベルはビーガンへと詰め寄り、まさしく興味なさげなその顔を睨み上げた。

「嫌いなタイプだ。女でも、男でも」

「奇遇だな」顎先を上げるビーガン。「趣味は合うらしい」

 睨みあう二人。ジズがクアベルの縄のほつれに気付く。あっと声を上げようとした時にはクアベルが先手を打っていた。正確に言えば、先に攻めたのはビーガンだったが、振り下ろされたスコップの角で縄を断ち切ったあたり、クアベルの方が一枚上手だったようだ。

「アホ庭師が!」「こいつッ……」

「あっこら!」チネッタが声を上げた。「逃げんなクアベル!」

 さぁ大変だ。捕虜を放したとあってはいよいよマダムに首を飛ばされる。ビーガンは身の丈ほどの刈り込みばさみを、チネッタは放ったらかされたスコップを……ジズはとても役に立ちそうもない箒を持ち、草原へと駆けるクアベルを我先にと追いかけた。

「だから言っただろうが!」チネッタに怒鳴るビーガン。「出すべきじゃなかった!」

「文句はいいから捕まえる! あっちは崖よ!」

「ホールデンじゃあるまいし!」

 クアベルは原っぱを駆ける。あと少しだ。尿意など今はいい。全ては一瞬で終わるだろう。後で天上宮でゆったりと解き放てば万事解決だ。

 誰の馬だか知らないがご愁傷様、こいつは今日から私の相棒──彼女はそんなことを考える。残念ながら馬のほうが利口だったが。

「ニチザツ!」

 ビーガンが名を呼ぶ。ニチザツはそれだけで彼の意図を汲み、体をひねるやいなや愚かな女へひづめを振り下ろした。

「のわぁ!」

 寸でのところでクアベルが転がる。跳ねた土がまた彼女の服を汚したが、服など二の次だ。

 ニチザツは翼を広げて空へと駆け出す。ビーガンの命令かどうかは定かでないが、とにかくクアベルを背に乗せるつもりはないようだった。

 かくして彼女の逃走経路は絶たれた。戦うしかない。だがどうする? 石の羽が使えないとあっては八方塞がりだ。武器になりそうなのはスコップぐらいか。チネッタからなら奪えるかもしれないが、チネッタに手荒な真似はしたくない。

 なにより、この優男──スコップで渡り合うには、少々余るか。

「……利口な馬だな」

「飼い主に似た」

「ほざいてろ!」

 飛来した妙なはさみを避けながら、クアベルは再び走り出した。庭師道具を戦に使うとは庭師の風上にも置けない奴だ。庭師の基準になど興味もないがそれぐらいはわかる。

(……待て待て、生活必需品の殆どは魔力で動いてんだぜ、いくらなんでも全部封じるわけはねーだろ。羽馬はねうまがいるってことは最低限の魔素まそはあるってことだし……)

 クアベルは頭を回す。そのうち老婆の科白せりふがよみがえってきた。

 〝──アルザル語はただの言語じゃない。それそのものがソフトでありハード……〟

(……まさか?)

 〝──アルザル文字がそうさせる。燃えろと石に刻めば燃えるし……光れと刻めば光る〟

(まさかまさかー?)

 クアベルは足早に草原を走る。物臭なりの精一杯の速さで。

 違う、ここでもない。もっと右か、南の方は。右へ左へせわしなく視線を動かしながらところせましと走り回り、ようやく彼女は歩を止めた。

「……あんのババア……」

 足元、巨石のはじに答えを見る。薄れた緑のす大地にアルザル文字が顔を覗かせた。

 なるほどこの方法ならふだを持ち歩く必要もあるまい。クアベルはようやっと理解した。この蝶の蜜壷という巨石こそが、一つの巨大な魔力封じなのだと。

「……おーおークソったれ。動力言語パワード・ワードサマサマってわけかい」

「逃げ足と違って理解は遅いな。マダムに遅れを取るわけだ」

 追いついたビーガンは刈り込みばさみを一対に分解し、余裕げに歩をつめる。

「コンプレッサーのようなものだ。一定以上の閾値いきちを超えた魔素まそを圧縮して霧散させる」

「……」

「ただの片翼者メネラウスが単身で乗り込んでくるとは思えない。お前、比翼者ヴァイカリオスだな? 残念ながら石の羽などここでは無意味だ。詰んだぞ、女。次はどうする」

「よう、まさかとは思うがよ……」クアベルは睨みを利かせて言う。「庭師風情ふぜいがオレをどうにかしようなんて思ってねーだろうな」

「庭師風情? 庭師風情だと?」

「あぁーそうとも。風情のない職業さ!」

 クアベルが勢いよく一歩を踏み出す。踏み出そうとしてべしゃりと転ぶ。何かが足に絡まっていた。紐? 網? 罠か?

 違う。

 ツタだ。

「……あら?」

「聞き捨てならないな。仮にもはマダム・クリサリスに見込まれた男だ」

 ビーガンが種を撒く。たとえではない。本当に草花の種を撒く。砂粒ほどだったそれらは異様な速さで成長し、蛇さながらの様相でそのつるをのたうち回らせた。ちょうど、ランチタイムで彼のはらわたを這い回った魔草マーブのように。

「庭師をめないで頂きたい」

 今度こそ、やってやるという表情で庭師は言った。