第四羽「変態」

 

 

 

 

 戸が見える。暗闇の中にぽつんと立っている、ひとりぼっちの戸だ。

 地獄の門、天国の扉か……いや……あの忌まわしき天上のおり以外ならどこだって構わない。死後に礼節など関係あるまいと、ジズは思い切り扉を蹴破った。

 草原だ。続いて雲が目に入る。自由の瞬間に見納めた景観とは色合いが違う、真昼の空だ。巨石の上らしい。家屋はなく、ただただと野ばらが続いている。

 ジズは羽根を見やった。桃色だ。黒くはない。千切ってこねくり回して綿菓子にしてみる。すんなり出来たので現実ではない。夢だ。とはいえ死後のことなど誰も知らないから、ここが死後の世界で現実の自分はとっくに死んでいても不思議ではなかった。

 ジズは芝生に座り込む。それから一息ついて辺りを見渡した。

 チィちゃんはいない。ジャスパーもいない。一人ぼっちだ。誰もいない。

 そうか。私は死んでしまったのか。じゃあ、なんにもないのも当然だ。なんだ、思ったより暇で、あっさりしてるんだな。死後の世界というものは。

 そうだ、雲に名前をつけよう。ジズは思い立つ。何も難しいことじゃない。全ては感性だ。理屈はいらない。ただ見て感じたままに名付ければいいのだ。

 あっちの雲は輪っかになってるからドーナツ。反対側はショートケーキ。真上の大きい奴は蝶々に似てるからツェダフ。手前の奴はどうだ? そのまた奥の方は?

 そうして六つほど名付けたところで、ジズはごろんと横になる。元から飽きっぽい性格なのだ。頬をちくりと刺した雑草の茎を辿ってみると、石くれの中に根が閉じ込められてしまっていた。

 どうだ緑。なんとか言ってみろ。喋ってみろ、緑。愚かなる緑。琥珀に時を閉じ込められた哀れなる緑。緑。緑。みどり

 思慮深さを思わせるその色を見るたび、ジズは石にされたお喋りマシーンを思い出す。

 何も好んで見ているわけではない。葉っぱか花か、それとも宝石……なんならフリルつきのスカート……なんでもいい。とにかく、緑色のものなんて世の中には石になるほど溢れているのだ。見るなという方が無理な話だ。それだったらまだ、見ても思い出さないようにした方が賢明といえる。

 突き落とした時のひねくれた顔が、どうにも頭を離れない。一〇回、三〇回、もっとだ……一〇〇回は繰り返して見ただろう。

 好きで見たわけではない。曇り空のスクリーンに止め処なく流されるから、壊れた映写機を慰める為に仕方なく見るのだ。映画にしては退屈な、一〇分にも満たない三流フィルムを。

 遠い昔のことのようだ。化石のひびでも見ているみたいだった。自分まであの天上に時を置き去りにしたのではないかと錯覚する。

 再びシネマ・曇り空に映像が流れる。白黒のレトロ調だ。

 天上宮から落下した、その瞬間の記憶。

 どうしてジャスパーは私を庇ったのだろうか──フィルムを見終えると、ジズはまず最初にそう考える。これで一〇一回目だ。まだ答えは出ていない。

 その気になればリフターの首をねることだって出来たはずだ。その方が早かったかもしれない。ウスターシュの時のように、ジズには分からぬ先見の明があったのか、あるいは、もう自分が助からないと分かっていたか……。

 ジズは何度も考える。今のところ最後の考えが最も正解に近いように思う。はらわたに風穴を開けられて、心臓まで串刺しにされて……あれだけ生きただけでも奇跡だ。くたばりかけの鼓動の速さは、きっと奇跡の速度だった。

 愛と優しさだ。きっとそうだ。でなければなんだと言うのか。ジズはそれ以外にこの答えに与える名前を知らなかった。名付け親にしてはセンスが足りない。

「……愛と優しさ……」

 リフターの顔が蘇る。眉のない顔で笑っていやがる。失せろ。ひげも見たくない。ジズは頭を抱えて寝返りを打つ。風がいやに冷たい。薄手の外套は懲りごりだ。

 翼を枕にジズは眠る。夢の中でも眠る。今まで嫌なことを見たくなくて夢に逃げ込んでいたのに、自分もどきにジャスパーの死に様、おまけに天使みたいな女と、夢の中にまで見たくないものが増えてきたものだから、もうこうするしか逃げ道がなかった。

 救いがどんどん失われてゆく。翼もとうとう片っぽだけになり、自由に空を飛べなくなってしまった。そのうち雲の綿菓子も食べられなくなるのだろうか。いよいよ夢中遊泳もおしまいだ。ここからは自由には飛んでゆけない。

 自分の足で歩くしかない。一人で歩き出してゆくしか……。

 不自由はしないはずだ。不自由こそが自分にとっての現実だったのだから。檻を思えば飛べないぐらいは仕方のないことだ。だが、知ってしまったらそう簡単には割り切れない。

 翼に目をやる。羽根はまだ若い。毛並みもそこそこだ。あの時のように黒ずんでもいない。煤ばみもせず陰りもせず、夢中の翼は綺麗な桃色を誇っていた。

 幼いな。なんて、子供っぽい。

「馬鹿みたい」

 ジズは呟く。笑ってみせて、みせたのに、やっぱり膝を抱えた。

 薔薇の色だ。笑わせる。愛と優しさの、唾棄だきすべき色。

 

「それ、楽しい?」

 

 隣で声がした。若い女の声だ。聞き覚えがあった。眠ろうとした時までこれだ。

 声の主はジズの気も知らずに腰を下ろす。柔らかそうな尻肉が芝生を踏む音がした。

 あの女だ。鍵を渡した、あの女。鏡の中にいる、天使気取りの女。

「なんて映画なの?」女は問うた。

「消えて」

「ひどい! 挨拶ぐらいはするものだわ」

「じゃ先にあんたがすれば」

「おはよう」

「おやすみ」

 女は溜息を吐いた。おせっかいな女だ。もじゃっとした髪の毛でもじゃっとした言葉をこねくり回す、認めたくないが天使のような女。

「私、残酷なのは好きじゃないわ。もっと楽しいのにしない?」

「人のシネマにただ乗りするな」

「お金を払えばいいのね。沢山あるわ。夢だもの」

「夢で金なんかもらったってしょうがないでしょ」

「じゃあ何で払うの? 体?」

 ジズは答えない。つまり……可もなく不可もなく。女はくすりと笑った。

「冗談よ」

 悪趣味なジョークだ。ジズは胃のむかつきが加速するのを感じた。そのうち、一〇二回目の放映が始まる。ジズの意志とは関係なく。

「この、映ってる人は誰なの」

「眉なし変質者」

「あら、ひどい言い草。こっちの緑の人よ」

「……誰って……」

 どう答えればいいだろう。知人にしては過ごした時が長い。友達まで砕けてはいない。恋人なんて未来永劫在り得ない。どれもいまいちだ。どれにしたって、過去形だけど。

「同じ穴のねずみ」

「それを言うならむじなよ」

「なんだっていい」

「どんな関係だったの?」

「言葉通りだよ」ジズは独白のように続ける。「同じように檻に閉じ込められて、同じようになりそこないで……同じように……生きようとしてた」

「仲間なのね」

「仲間?」

 そうよ、と女は言う。

「命を賭けるに値する関係だわ」

 一〇二回目の放映が終わる。風音が申し訳程度に静寂を紛らわせた。

「……あんたはさ」

 ジズは珍しくも自分から問いかける。相変わらず、爪先を見たまんまで。

「自己愛ってなんだと思う」

「ナルシシズムだって教えられたわ」

「沈む? 何が沈むの?」

「ナルシシズム。自己陶酔よ。知らない?」

 インテリだ。ジズは沈黙で返した。

水面みなもに映った自分に恋したっていうお話、知ってる? 自分が大好きってこと」

「……自分が大好き……」

「そこだけ聞くと印象がよくないわよね。でも、それって大事なことよ」

「どうして?」

「だって、当たり前じゃない」

 落雷がジズを打った。打たれた気がした。ジズと背中合わせに腰を下ろして、その女もまた膝を抱える。翼同士が触れ合って、片方分だけ鼓動が伝わった。

「当たり前?」

「そうよ。昔の心理学では承認欲求なんて言葉があるけれど……自分を認めて欲しい、褒めて欲しい……それって当たり前のことだわ。誰でも自分は好きなものよ」

「……だったら私はおかしな人間なんだ」

 声の調子が下がった。自分でも分かるくらい露骨にだ。

「私、自分が嫌い」

「どうして?」

「自己愛のかたまりだから」

「おかしなことを言うのね」女は笑う。「あなたが自己愛の塊?」

 何を笑ってやがる。くそ。

 ジズは今すぐ上体を起こして巨石の角で四、五回頭をどついてやりたくなる衝動を抑え──マイルドに言うなら溜飲を下げ、話を続けた。

「さっきの緑の奴……ジャスパーって言うんだけど」

「ジャスパーさん。碧玉へきぎょくね。素敵な名前。覚えておくわ」

「あいつ、私を庇って死んじゃって」

 フィルムを見れば分かることを、回り道して繰り返す。

 怖いのだ。言葉に出すことすらも。なによりも言葉が怖いのだ。

「……軽蔑しないで聞いて欲しいんだけど」

 ジズは口にした。

「悲しさより後ろめたさの方が強い」

「……」

「あんなに泣いたのに。なんでだろう。自分でもよくわかんない。ジャスパーが死んじゃったのは勿論そうだけど、それ以上に……自分を庇って死なれた事が辛い」

「……悲しみじゃないなら、なんて呼ぶの?」

「……わかんない。私、名前つけるセンスないから」

「……」

「でも後味は悪い」

 翼をいじる。愛と優しさの色だ。ジズはまた口元も皮肉げに。

「あんた、前にさ、薔薇水晶は愛と優しさの石だって言ったよね」

「言ったわ」と、女。

「知ってた? 薔薇水晶って、自己愛の石なんだって。愛も優しさも、どっちも自分へのものだったなんて」

 卑下と呼ぶには悲劇の香りを醸し出しすぎている。こういうところも己の本質だ。自己愛の石にはお似合いか。ジズは自嘲気味に続けた。

「私、馬鹿みたい」

 ジズは腹心をく。何か特別な答えを期待しているわけではないから、ほとんどただの独白だった。それでいて、懺悔のようでもある。名も知らぬ女相手にすることではないし、彼女に吐露したところで何があがなえるわけでもないが。

 口にした方が気が楽なのだ。抱え込むよりはずっとましだ。自分が救われたいだけには違いない。自分のそういう見えない部分が、またジズに自己愛という言葉を思わせた。

 女は優しげに口を開く。たぶん、ジズの心情を読み取った上で。

「自分のために死なれたり傷付かれたりしたら、誰だって後ろめたいわ」

「……」

「それは自己愛じゃなくて、罪悪感って言うのよ」

 あなたは、と女は続ける。

「悲劇に浸りすぎよ」

 リフターに言われた言葉に似ていた。曇った悲劇の香りを香水にように振り撒いている女。実際その通りだ。自覚はある。だからあれほど心を刺されたのだ。

「聞いて、ジズ。これは本の受け売りじゃなくて、私の考えだけど」

 女も芝生に寝転がる。

「自己愛っていうのは、我が身可愛さだと思うのね」

「わがみかわいさ」

「そう。自分を愛することと自己愛は、きっと別物なのよ」

 なんだか難しい。ジズにはおぼろげにしか分からなかった。学の有無の問題ではない。感覚としての話だ。

「薔薇水晶は自己愛の石じゃないわ。自分を愛することの大切さを教えてくれる石よ。我が身可愛さを象徴しているわけではないの。そこを間違えてはだめよ。甘やかすばかりが愛ではないんだわ」

 自分を愛する。ジズには理解し得ぬ言葉だった。ただでさえ自分のことが好きではないのに、愛も優しさも刃物がごとき言葉で打ち崩されたいま、彼女にとって愛がいかなるものであるかは難問を極めている。

 ジズの肩に手が乗せられる。声が耳元に近付いた。

 甘い声だ。静かに諭す、慈悲の雨のような声。

「自分なんかと言ってはいけないわ。ジャスパーという人があなたを庇ったのなら、少なくとも彼にとって、あなたは命をかけるに値する人だったってことよ」

「……」

「あなたがあなたを卑下してしまっては彼も浮かばれないわ。悲しむことはもちろん大事よ。でも、それをどう乗り越えていくかはもっと大事」

「……」

「あなたに足りないものは、きっと肯定こうていなのだわ」

 反論しようとしてジズは口をつぐむ。それが正しさゆえの悔しさだと理解していた。

 肯定。そうかもしれない。その通りだ。そうに違いない。投げかけられた言葉が彼女の中に波紋を生み、半信半疑になり、そして確信へ姿を変える。

 翼。生まれ。自由。なにもかも否定続きのジズの人生が何よりそれを証明している。きっと正しい。自己でさえ、彼女の人生においては否定の元に成り立ってきたのだから。

 だが、肯定を知らぬことが自己をも否み、そうして新たに肯定することをも拒むのならば、否定でもって創り上がられた人間は、いかにして肯定を知ればいいのだろう?

 そんなの、堂々巡りじゃないか。卵とニワトリがどうとかで……。

「どうしたら……」

 ジズの手が震える。恐ろしかった。自分の恥部をさらけ出すなんてこと、今まで一度もしてこなかったから。自分にさえ。でも、ここで聞いておかなきゃ、私、きっと一生……。

「……どうしたらいいの?」

 魚の小骨みたいにつっかえていた言葉を、ジズはようやく口にした。

「さあ。私はお医者さまじゃないから、えらそうなことは言えないけど」

 うーん、と……女は両の指を広げて言った。

「自分の良いところと悪いところ、十個ずつ上げてみてはどうかしら」

 素晴らしい提案だ。美徳と悪徳、清濁を知れ、か。ジズには敷居が高すぎた。

「悪いところも?」と、ジズ。

「そうよ。自分のありのままを、ちゃんと見てあげるのが重要なの。美化しすぎては駄目よ、かといって、へりくだりすぎるのも駄目」

「どうして? 肯定するなら良いところだけでいいんじゃないの」

「それじゃあ、自分の半分しか知らないことになるでしょう」

 まるで翼だ、と言いかけて、またジズは口を閉じた。女は続ける。

「良いところだけ知ってるなんて、愛してると言うには程遠いわ。本当に愛するのなら、悪いところも同じだけ知っていないと。好きになるってそういうことよ」

 なるほど真っ当な話だ。どんな立派な翼であろうと片方だけでは飛べはしないのだから理に適っている。ジズにはそう聞こえた。

 そういう意味で言えば、ジズはまだ自分のことを片方しか知らないようである。暗く、煤けていて、卑屈で、皮肉屋で、我が身可愛さのあまり悲劇を振り撒く、そういう部分のジズしか知らない。

 彼女の人生においてジズとはそういう存在だった。自らそうであったのだ。それでさえ胃がもたれて吐きそうになるのに、それではまだ足りないらしい。

 よりつぶさに言えば、それはジズの一部分でしかなく、彼女は自分の半分すら知らないのだ。自分がどういう人間かなどジズにはまるで検討もつかぬ。そういう後ろ向きな部分は次から次へと出てくるが、それらは彼女が自分で自分に貼り付けただけの値札だ。

 いや。私は、そう信じたいだけなのかもしれない。怖いのかな。自分の全てを見てしまったと認めるのが。流行りの服が似合わないの人間だって、打ちのめされてしまうのが。

「自分と向き合って」と、女。「目を合わせるの。ちゃんとよ。あなたが見ようとしないうちは、本当のあなたもあなたの方を見ようとしないわ」

「……」

 私。私。本当の私。一体どれが本当の私? 檻の中で爪先を眺めている暗い私? それともここにいる私? あるいは自分が思い描いた──嫌味っ気の一つもなく、慈悲に満ちた天使のような私? 

 ジズには分からない。見当すらつかない。どこに自分の半分があって、もう半分はどこにあるのか。自分は半分を知っているのか。それとも半分も知らないのか。

 答えは出ない。きっとこの先も出ないだろう。

 彼女の言う通り、ジズがジズとして向き合わない限り、ジズは一生ジズの方を見ないし──答えは一生出ないのだ。

 きっと、どこかでなにかを終わらせて、そこからなにかを始めなければならない。

「……本当の私……」

 ジズの呟きから一拍置いて、一〇三回目の放映が始まる。映画鑑賞もそろそろ打ち止めだ。今日は夢に長く居すぎた。眠りの深さが脱空だっくう凄絶せいぜつさを物語っていた。

「ごめんね、ジズ」女が腰を上げる。「そろそろ行かなくちゃ」

「あんたってさ」ジズは呟いた。「鏡みたい」

 起き上がり、彼女の方に目をやった。もじゃっとした髪の毛に水晶の翼。透き通った瞳にはジズが映っている。過去に置いてきた我が身ではない。今ここにいる自分だ。

 気の抜けた、粗末な顔をした私。なんだか脳天気だ。ジズは思わず笑ってしまう。

「ありがとう」ジズは言った。

「何が?」

「出口を教えてくれた」

「ああ、大鏡おおかがみの……」

 女は後ろ手に両手を組み、ローブの裾を翻しながらくるくると回る。

「お礼なんていいわ。どうせ暇だったもの」

「あんた、何者なの?」

「さあ。天使じゃないことだけは確かだわ。それに、あなたでもない」

 いいや、天使だ。ジズにとっては、ジズだけの。

「私、ロニア」もじゃ毛の天使は言った。「これ、本名よ」

「ロニア」

 口に出してみる。いい響きだ。とてもジズには思いつかない。

「ロニアね。私はジズ」

「知ってるわ。あなたを知ってる」

 ロニアは笑った。いい笑顔だ。一つの曇りもなかった。

 ジズに名付け親のセンスはない。チィと鳴くからチィちゃんなどと安直な名前をつけるくらいだ。だから彼女には、この不規則な胸の鼓動をなんと呼ぶのかが分からない。

 愛や優しさとは似て非なるものだ。信頼や尊敬とも少し違う。

 名はまだ知らない。願わくば薔薇色であってほしい。

「またね、ジズ。自信を持って! 私、あなたが優しいってこと、知ってるから!」

 そうして一対の翼を羽ばたかせ、彼女は空の彼方へと飛んでゆく。

 ここが死後なら天国に違いない。なにせ天使がいるのだから。

 後には澄んだ羽根だけが、ただ雨のように降り注いでいた。

 

 

  ◆

 

 

 それからジズはわんわんと泣いた。どうして布団にくるまっているのか、何故自分の体は綺麗さっぱり清潔になっているのか、この趣味の悪い襤褸ぼろ切れは誰のものなのか、そもそもここはどこなのか……そういう煩雑な疑問の一切をベッドから投げ捨て、やたらに大きな枕を抱き、眠っていた時間の分まで取り戻すとばかりに泣いた。

 胸の隙間を埋めるようにチィちゃんを探したが、部屋を見渡せど見当たらない。名前を呼んだが返事はない。それがどうにも悲しくて、惨めで、涙がよけいにこぼれてきた。

 よりにもよって毛布の色が深い緑なものだから、ジズはまたジャスパーを思い出して泣いた。後ろめたさはまだ彼女の中にへばりついていたが、後ろめたくて泣く奴はそうはいまい。今泣くのは、単純に悲しいからだ。そう思うことにする。

 大粒の涙だ。それでも極めて前向きな涙だった。前へ進むために必要な悲しみだ。悲しい時には泣いておいた方がいい。一度閉じ込めた気持ちはどこへも逃げてはくれない。

 誰のものとも知れぬ枕をぐしょぐしょに濡らし、頭から布団を被る。暗闇が檻の日々を思い起こさせるので慌てて顔を出す。ジズは蓑虫みたいにして布団に包まり、煉瓦の壁をぼうっと見つめた。

 自分について一つ分かった。泣き虫だ。これが少なくとも私の一つだ。ジズをジズたらしめている一つの要素だ。泣き虫なジズ。すぐ泣くジズ。だが、今日ぐらいは泣き虫でも許されるだろう。ジャスパーの名のもとに泣き虫への赦しがあらんことを。

 悲しみの余韻を払拭すべく、ジズはまず部屋のあちこちに目をやった。

 石造りの部屋だ。木枠にガラス窓。瓶詰めにされた蝋燭がいくつか燃えている。暖かいのはその所為だろう。本棚もある。ジズは語学が堪能ではないが、おおよそどれもがアルザル語で記されていることだけは理解出来た。旧時代のものもある。

 続いて、水晶窓から外を覗いた。丑三つ時はとうに回っているのか、やけに暗いが、ここがひらけた野原の片隅であり、周囲に家屋一つないということは見て取れる。

 辺鄙へんぴなところだ。老後の余生を過ごすにはおあつらえ向きだが、好んで生涯を預けようとは思えない。一人なら尚更に。

「……どこなんだろ、ここ……」

 

「ワイロラネメス中天ちゅうてん平原へいげん

 

 ぎ、と扉が開く。男の声だ。きっと拾ってくれた人に違いない。ちゃんとお礼を言わなきゃ。それから挨拶して、ここがどこか聞いて、ねずみを見ませんでしたかと聞いて──

 ──そこまで考え、ジズの頭は固まる。入ってきた人影を見るやいなや、彼女は礼も挨拶も差し置いて、ぎゃあ、と声高に叫んだ。礼節も何もあったものではなかった。

 聞いたのは確かに男の声だが、男かどうかは分からなかった。なにせそいつは表情も皮膚も筋肉も持ち合わせていない、奇怪な骸骨がいこつだったから。

「ほっ……ほね……」

 ジズは思わず後ずさる。初対面の人間に対して──この場合は人間と呼ぶのか微妙な線だが──あるまじき行いと知りながらそうしてしまった。本能的なものだ。

 もう一度上から下まで眺め回す。シルクハットにステッキ、紳士然とした礼服で、首元にはその中身を隠すようにスカーフが巻かれている。手品師だ。だが骸骨だ。どちらも絵に描いたようにぴたりと当てはまる。比喩ではないし他に言葉で表しようがない。

 ジズはたまげた。危うく魂が消えかかるほどに魂消たまげた。

「……」なんだ。どうするんだ。なにか言わなきゃ。なにか……。「……どっ……」

「グッモーニン、ロリィタ! 調子はどうだい?」

 骸骨はお道化どけた調子で笑った。道化そのものだ。これこそが道化だ。剥き身の骸骨に調子はどうかと問われてもぴんとこない。お前よりはいいとしか言えない。

「……骸骨……」

「イエース、アイアム骸骨! びっくりした?」腰を反らせて笑う骸骨。「これ持ちネタなの。初対面の人にやれば大体びっくりしてひっくり返るんだよ。そうだなあ、今まで三〇〇人ぐらいはひっくり返った。これがもう面白いのなんのって」 

「……」ジズは顔をしかめた。単純に面白くないから。「あなた誰……?」

「ほう。あんた何? とは聞かないんだね」

 沈黙するジズ。聞いたところで見た目以上の答えが返ってくるとも思えなかった。骸骨男は背骨を元の位置に戻して彼女へと向き直る。

「僕はバグリス。手品師だ。洗礼名せんれいめいもミドルネームもない、ただのバグリスだよ。生前は別の名前があったんだけど……まぁ、死人の名前なんかどうでもいいよネ」

 バグリスはシルクハットを片手に一礼する。頭蓋骨から伸びるがっさがさの長髪が垂れた。ひどい有様だ。キューティクルが完全に死んでいる。

「何歳に見える?」と、バグリス。

「死後二〇年」

「あっ、四かける五ってこと? 一本取られたなぁ!」

「…………」

 変な奴だ。危ない領域に足を突っ込んでいる。同時に棺桶にも。いや棺桶に突っ込んだのは全身か……ともあれ真人間ではないし人間ですらなかった。

「あの……」ジズはようやく自分のターンを取り戻す。「あなたが助けてくれたの?」

「そうだよ。泉に落っこちてたから持って帰っちゃった」

 斧か。金のジズと銀のジズがいないあたり正直者ではないらしい。

「ありがとう……。あの、鼠……鼠を見てない? 小さい、このぐらいの」

「鼠? 見てないなぁ。もっとも」

 バグリスはジズを指差して言った。

「君という素敵な鼠には出会えたがね」

 なるほど、この野郎さては頭がイカれていやがるな。口説き文句にしては趣味が悪い。骸骨だから洒落で済んでいるようなものの、男の顔で言われたら蹴りの一つでもお見舞いしてやるところだ。

 しゅんと肩を落とすジズを見て、バグリスは帽子を被り直した。

「鼠のことなら心配いらない。それより君の名前は?」

「私、ジズ。あの、実は……」

「天上宮から落ちてきたんだろう?」

「え……」

 先手を打つバグリス。不穏な沈黙が流れた。生唾が幼い喉を下る。血が冷たい。

「……なんで知ってるの?」

「さぁ、何故かな」けた、と顎が鳴る。「どういう理由が考えられる? 例えば僕がバベルの回し者だったりしたら、それはなんとも腑に落ちる話だと思わないかい?」

 ジズは言葉を失する。反対に骸骨は笑った。常に笑っているように見える顔が、影の所為で余計に不気味に映る。

「さぁ」影と微笑み。燭台の火が揺れた。「行こうか、ロリィタ・ジズ」

 立ち上がったバグリスがいやに大きく感じる。猜疑心のせいだとわかっていても。

 甘い話には裏がある。疑うべきだった。泣き虫なジズ。どこまでも幼く甘い女。後ずさるも水晶窓より後ろには下がれない。あの時と違って落ちる心配こそないが、今度は逃げ場がどこにもなかった。袋の鼠、か。

「い、行くって……こんな時間に……どこに……」

「どこだと思う?」

「や、やだ……いかない……」ジズの声が震える。「あんた、普通じゃない……」

「1《ジャン》」マントがジズを覆い──「2《テューラ》」──ステッキが床を突いた。

「3《サン》!」

 そうしてマントが剥がされる。暖炉も本棚も蝋燭の火も、全てが綺麗さっぱりと姿を消し、変わりに鉄格子だけが彼女の視界を遮っていた。

 そこはもう石造りの家などではない。ジズはこの景色に見覚えがあった。

「……なんで……」

 円状に並んだ座席。赤い絨毯と長い階段。入り口と思しき絵画。閑散とした壇上。檻の中のジズには耽美たんびなドレス。爪の先には赤いペディキュア。

 彼女は劇場の壇上にいた。天井から垂れ下がっている照明植物が、囚われの鼠を檻とともに照らし出す。その桃色の翼がもっとも映えるであろう明るさで。

「ブラボー! 見事な魔法です、種も仕掛けもございません! 観客の皆様、この卑しき骸骨バグリスめに盛大な拍手を! これぞ世紀の一大奇術にございます!」

 バグリスは大声を上げる。観客などどこにもいないのに、さも衆目が自分を見つめているかのように大仰に一礼した。

「出して!」鉄格子を引っ掴むジズ。「出してよ! 何するつもりなの!」

 檻を揺らすが壊れる気配はない。どころか床板に固定されていた。

 同じだ。仄暗い牢獄の感覚が再びジズの体を縛り付けた。不自由と絶望の肌触りだ。

 バグリスが近付いて顔を寄せる。本来目があるはずの場所にぽっかりと空いた洞穴ほらあなは、ジズをその困惑ごと飲み込んでしまいそうだ。

競売けいばいだよ」

「競売……?」

「そうとも」

 指で作った輪っかから、バグリスはジズの瞳を覗いた。

「君の値段を決めるのだ」

 

 

  ◆

 

 

 ノース・アトラス巨石区きょせきく第十四トーチカ。入り組んだ迷路のような路地の深奥に、その建物は人目を避けてひっそりと屹立していた。

「あっ。サンクレールだっ」少女の声は雨の中でもよく通る。「ねえマダム、ちょっと寄ってこうよ。珈琲コーヒーが飲みたい気分」

「泥水だ、あれは」老婆は言った。「気品に欠ける。大人ぶるんじゃないよ、加糖派のくせに」

「ちぇ。やっぱり珈琲派と紅茶派はわかりあえないのね」

 付き添いの使用人、チネッタは頬を膨らませる。この老婆は自分の腑に落ちぬ場所には頑として行きたがらない。名残惜しそうにサンクレールの品書きを眺め、降りかかる雨粒に煩わしさを覚えながらマダムの後を追った。

 土砂降りと暗闇。路地裏を行く二人の女。辺りにも幾つかフードを被った影が見える。知人ではないが、ここを尋ねる目的は同じだろう。

 入り口を潜ると、受付には燕尾服の女性が一人。看板に貼り付けられた半紙に上映項目こそ書かれてはいるが、その大半は何者が上映を望んだ瞬間に作られる。中身など決まっていないようなものだ。そもそも存在しないのだから。

劇場シアトルへようこそ、マダム」

 女性が一礼する。ミステリアスであれという劇場の教えどおり妖しげな目だが、どことなく不慣れな感じがした。

「見ない顔だね」

「ああ、ああ、申し訳ございません。ご挨拶が遅れてしまいました。私、クロチエ。クロチエ=麻枝あさえだ=ウェズラチューレと申します。以後お見知りおきを」

 カールした黒髪を揺らし、クロチエは再び丁寧に一礼する。チネッタと同じぐらいの歳だろう。その割には随分胸の大きさに差があるようだったが。

「レイチェルはどうした?」と、マダム。「やめたのかい?」

「いいえぇ、まさか。私の教育係をつとめたあと、競売の助手に回りました」

「ふん。世代交代はいいことだ。司会もさっさと代わってくれればいいんだが」

「死ぬまで続けるおつもりですよ、旦那様は」

「なら一生続くね」

 クロチエは困ったような表情で肩をすくめた。

「本日はどの映画を? 〝水晶の翼〟などが一押しですが」

「どんなストーリーだい」

「幽閉されていた地下牢より脱獄した片翼かたよくの天使が、少女時代を取り戻すお話です。とっても快活な娘が主人公ですのよ」

「高くつきそうだね」

 全ては隠語だ。マダムはポケットから一枚の羽根を取り出す。

「レイトショーで頼む」

 青紫の幻想的な色合いは、巨空鷲ハレハグラと呼ばれる怪物のもの。常連かどうかを判別する、いわば会員証のようなものだ。応じてクロチエがくすりと笑い、胸元からチケットを取り出した。

「かしこまりました。本日のシアターは……かのくらき医者の名画……〝指揮者不在の演奏会〟ですわ。あ、ええと──」老婆の手元に彼女の目が移る。「そちらの木箱は? よろしければお預かり……」

「いや。必要なものだ」

「さようですか」

 すまないが、とマダム。

「チケットをもう一枚くれないかい」

「あら」チネッタへと微笑むクロチエ。「そちらのお嬢さんも?」

「社会勉強さ」

 チネッタは失笑した。社会の輪から外れた女が、社会勉強だなんて口にしたものだから。

 二人は歩を進める。一直線の長い廊下だ。ささやかな火を灯された燭台が壁に連ねられており、名画を収めた額縁が幾つも掛けてある。美術館のようだった。

 ただの絵ではない。入り口なのだ。マダムは慣れた様子で歩み、〝指揮者不在の演奏会〟と題された名画の前で立ち止まる。チネッタもそれにならった。

「キュビズムって言うのかしら」と、チネッタ。「私、こういうのよくわかんない」

「絵を見に来たわけじゃあない。ところでチネッタ」

 仮面をはめて老婆は続ける。鼻から上を隠す型のものだ。これもまた、この劇場においては必需品だった。チネッタにも同じものが手渡される。

「なによ」

「男を知ってるかい?」

「はぁ!?」チネッタの瞳が右へ左へ。「馬鹿にしないでよねマダム! 私、もう十七歳よ。エ……性交渉の一つや二つぐらい、一端いっぱしの動物として当然の……」

「はて……うちに男が来た覚えはないが……はて……」

「……」

「はて……」

「しつっこいなあ!」

 老婆はじっと瞳を見る。勢いだけで全てを看破したという様子だ。実際に彼女の邪推は正しい。チネッタが耐え切れずに頬を赤らめて顔をそむけた。

「……文句ある?」

「正直でよろしい。不慣れな嘘は女を下げる」

「つかなきゃ上手くなんないじゃない」

「少し触られるがびっくりするんじゃないよ」

「触られる?」

 そうとも、とマダム。

「絵を描いた奴が、ふしだらだったのさ」

 その言葉を最後に、二人は絵画へと──日ごとに変わる〝入り口〟へと足を踏み入れる。

 纏わりつくねじれた油絵の色合い、額縁の中へと飲み込まれる二人。全身をもみくちゃにされながら、チネッタは必死にスカートを押さえた。

「ちょっ、いやー! どこ触ってんだこのっ……あー! 助けてマダムー!」

「やれやれだ」

 下町の劇場、絵画の奥。その正体はオークション会場。

 荒れた空模様の遥か下、一つの人身売買の幕が開かれようとしていた。

 

 

   ◆

 

 

 そいつは檻の中にいた。人間なのは間違いない。だが檻の中にいる。立ち上がるほどの高さもない、ショーの動物を入れるような鉄格子に、そいつは閉じ込められていた。

 クソったれが。夢ならよかった。夢じゃなかったら耐えられない。

 斜めに切り揃えられたすみれ色の長髪。薄紫の落ち着いたドレス。口元にはルージュ、流し目はミステリアス。すらりと端麗な脚は崩され、女の秘密が授けられていた。

 ジズだ。檻の中にいるのは、今度こそ紛れもない現実のジズ自身だった。

 希望が太陽なら絶望は月だ。臭くて聞いていられないのなら、朝と夜に変えてしまってもかまわない。とにかく、そいつらは変わりばんこに顔を出す。

 ジズは魔学者まがくしゃではないから、どちらを頭にアルザルが始まったかに興味はない。終わりの方がよっぽど大事だ。自分が死ぬ瞬間にどちらが最後のテーブルに乗っているかが問題なのだ。だからといって過程がおざなりでもいいわけではない。最後に希望が待っているからといって、年がら年中が夜では気分も滅入ってくる。

 本当に変わりばんこなのか? 絶望の後には希望があった? 本当に? ついえてしまったものでも希望と呼べるのだろうか? ジズは自問する。それから自答し考えを改めた。

 変わりばんこなどではない。コイントスに似ている。確かに表も裏もあるが、要は最終的な確率が半々なだけで、投げればどちらかが連続する時が必ず出てくるのだ。

 ジズの出目は最悪だった。檻に叩き込まれ、出られたと思ったら突き落とされ、助かったと思ったらまた檻へ……。今テーブルは何周目なのだろうか、今度こそ希望が来るのだろうか、それともまだ絶望がやって来るのか、はたまた希望の顔をした絶望がやってきて持ち上げては突き落としに来るのか。

 もうどうにでもなれ。知ったことか。ジズはそんな心持ちで檻を睨みつけた。

 狒々色ひひいろの金属で出来た格子だ。蹴ろうが殴ろうがびくともしない。

「気分はどう?」

 声の主にジズは一瞥いちべつをくれてやる。この狭苦しい檻の中に、何を好き好んで二人で入らなければならないのか。それも自分と同じ陰気な顔をした腹の立つ女と。

「あんた、なんなの?」

「だから、私はあなたよ」

 もう一人のジズは言った。相変わらず爪先の方を眺めたまんまで。夢ではないのに、確かにそこにいる。ひょっとしたらジズの頭がいかれてしまったのかもしれない。

 不思議な感覚だ。自分の顔をした女と肩が触れるほど近くにいるのに、まるで親近感が沸いてこない。なにか、こう、出来そこないを見ているような哀れな気分になってくる。

 ああ、そうか。私を見ているとき、皆もこんな気分だったんだ。

「あんた、私がこうなるって知ってたんじゃないの」

「さあね」

「ふざけないで!」

 ジズはジズの顔を引っぱたいた。引っぱたいたつもりだったが、掌は彼女の顔をすり抜け、そこには何もないという風にただ空を裂いただけだ。

「よかったじゃない。あなたが待ってた日よ。自分に値札が貼られる日」

「……あんたも待ってたじゃん。これでおさらばってことね。清々せいせいする」

「ううん。私は出られないわ。多分、もうしばらくはこのまんま。お似合いよね。私なんかに値札がつくわけないし」

 もう一人のジズは言った。曇った悲劇の香りを香水のように漂わせて言ったのだ。

 こいつを見ているとつくづく思う。なんて難儀な人間なのだと。その面倒な香りが鼻を突くたび、ロニアの言葉の一つ一つが思い起こされる。

 良いところを十個、悪いところを十個。差し詰めこいつは悪いところ十個だ。その内の一つなどではない。十個奪ってまだ余りある。

「なんなの、あんた」ジズは毒づいた。「私の悪いところだけ詰め込んだみたい」

「だったらどうする?」

「顔も見たくない」

「あらそう。でも私はあなただから、それって自己嫌悪よね」

 図星を突かれ、ジズは思わず顔を背けた。目が合ったわけでもないのに、そんなこと一度もなかったのに、ばつが悪くて目を逸らしてしまった。

「私は別に」もう一人のジズは言う。「あなたのこと嫌いじゃないけど」

 ジズは影を振り払った。答えることを拒むように力強く腕をいだ。霧のようにすみれ色が掻き消され、そしてまた独りに戻る。それきり彼女は現れなかった。

「……私だって」

 私だって。

 本当は自分のこと────

「お似合いですよ」

 舞台袖から燕尾服の女がやって来る。土を焦がしたみたいな茶色い髪だ。すっとした鼻筋と長い睫毛まつげが落ち着きを窺わせる。身なりのゆえもあるだろうが、服が彼女を飾りつける以上に、彼女自身が服に価値を与えているようだった。

「失礼。わたくし、助手のレイチェル=アメラス……もう百年以上この仕事を続けていますが」

 彼女───レイチェルは軽く一礼する。背中には、お決まりの隠翼衣デュラルケット

「まともなかたを見るのは、随分と久しぶりなもので」

「……まとも……?」ジズは苦笑した。「そう見える?」

「そのドレスも、もう長いこと使われていませんでしたから」

「……そうなの」

「ええ。商品の価値によって、あてがわれるドレスが異なりますので」

 ジズは失笑した。ここまで落ちぶれた片翼かたよくも珍しいということか。これのどこがドレスだ。襤褸ぼろ切れではないか。服まで彼女を嘲笑っている。市場に並べそうもないし、並んだところで買い手はつかないだろう。

 殺処分待ちの、型落ち品みたいに。

「……競売って何するの」

「オークションです」

「オークション?」

「あなたは商品です。最初は一〇〇万ゼスタからスタートして、そこから参加者が思い思いの金額で入札する。値段を吊り上げていくのです。誰も入札できなくなった時点での最高価格の入札者があなたを手に入れる。落札することになります」

 要するに、とレイチェルは続けた。

「あなたに値札を貼るのです」

「……値札……」

 ああ。やっと分かった。いつか戯言ざれごとをのたまったのは、私じゃなくてあいつの方だったのだ。ジズの中のが一つ晴れた。

 ジズは愛玩動物を飼ったことはないが、家畜というのがどういうものかは知っている。店のケージから出たところで飼い主の家に閉じ込められるのだから、どっちみち自由とはほど遠い。そんなものを自由と呼んではならない。あの晴天の下、しがらみ一つなき本物の自由の味を知ってしまった後では尚更だ。

 首輪と買い合わせの自由など、ジズは求めていない。

「……誰も入札しなかったら?」

「殺処分です」

 万歳三唱! 鼠の人生ここに眠る。ジズは鉄格子にもたれかかった。

 これもまた運命か。こうもころころ日ごとに変わられては、自分のさだめもわからない。

殺鼠剤さっそざいとか使うの」ジズは聞いてみる。

「殺鼠剤?」

「私、鼠だから」

「? 失礼、意味が分かりません。鼠とは?」

 レイチェルは真顔で問う。確認や冗談などではない。本当に意味が分からないのだ。

 無理もないことだなと──思い込みでしかないにせよ──ジズはそう思った。

 自分と違って、彼女には立派な一対の翼があり、それでいて顔立ちも整っていて、服に頼らずとも佇まいに気品がある。負い目を感じるところなどなに一つないのだ。片翼の鼠の気持ちなど理解できまい。

「……カビ臭い檻がお似合いの、鼠だってこと」

 彼女の心中を知ってか知らずか、レイチェルは眉一つ動かさない。曇った悲劇の香りをアルともザルともせず、ただ淡々と続けた。

「いつも通りの進言をさせて頂くなら」

 〝いつも通り〟の進言……ジズは失笑した。数多の競売に携わってきたであろう彼女にしか出来ない言い草だ。その場に座り込み、レイチェルはジズを見据えて足を崩す。

「このように、鉄格子に寄りかかるように。流し目で爪先を捉えて、少し服を肌蹴て。極力、薄幸そうな少女を演じるのです。涙も流せるとなお良いでしょう」

 無茶を言うなとジズは思った。ただでさえ襤褸切れ一枚ほどのさちしか持ってないのに、これ以上何をどうやって薄めろというのか。

「心得のようなものです。あなたが着ている服もその一貫ですよ」

 言われ、ジズはスカートの裾を引っ張ってみる。安い素材だ。端の方がほつれてもじゃもじゃになっている。ロニアの髪の毛みたいだった。

「……これが? なんでそんなことするの?」

「その方が反応がいいからです。人身競売に来るようなお客様は、みな多少の趣味嗜好の違いはあれど、そう──変態ですから」

さいあく」ジズが顔をしかめる。「変態に気に入られるためにこんな格好するの」

「ええ。そうした方があなたのためです」

 立ち上がり、レイチェルは再び続ける。

「洪水以前、征服者が先住民を……いわゆる人間が亞人あじんを隷属させていた時代ならいざ知らず、アトラスでは売られるところによっては奴隷でも身分を獲得できます。

 同じように競売に出され、富裕層の妻にまでなった者も少なくない。競売の成功はあなたの人生を左右します。運が良ければ、家政婦で済む場合もありますから」

 ジズは家政婦という言葉の意味するところを、あえて深くは問わない。ただ炊事だの掃除だのをするだけなら、わざわざ仮面をつけてまで人身売買の会場に来なくとも、そこらの都市で雇えばいいのだから。

「……運が悪かったら?」

「羽をもがれてローストに」

 ジズの丸焼き、ジズのパテ、蒸しジズ、ジズのフリカッセ。思いつく限りのメニューを並べてみる。豪勢とは言えない。下手物好きの悪食どもにはそれがいいのだろうか。

「……薄幸って言われても、私、これ以上薄めらんない」

「ええ。ですから」

 しかめっ面のジズの瞳を見て、彼女は言う。

「そのままのほうがいいでしょう」

 レイチェルは顔を近づける。青みがかった目がジズの心の深淵を覗いた。

「あなたに足りないのは〝肯定ザレニョ〟だ」

 ロニアみたいなことを言う人だ。それも彼女よりも力強く厳然と──心の鋳型を正すように言ってのける。ジズは目をぱちくりとさせた。

肯定こうていしなさい、ジズ。己の過去を肯定しなさい。自分の中のせいだくを見つめなさい。過去の全てが今のあなたをしている。そのどれか一つでも欠ければあなたはなかった」

「……」

「自分自身を肯定しなさい。何を前にしても揺るがぬアイデンティティと、絶対的な自身への信頼を持ちなさい。それを他人に求めてはいけない。あなたを裏切らずにいられるのはこの世でただ一人あなただけだ。あなたを一番よく知るあなただけだ」

「……肯定……」

「悲劇の香りを噛み締めなさい。煤ばんだ過去もあなたの一部です。存分に酔いなさい。

 ただし、溺れてはいけない。驕らず飾らずへりくだらず、あなた自身を肯定しなさい」

 唱句。戒め。ジズの耳にはのようにも聞こえる。彼女が解きほぐすのには少し時間がかかりそうだったが、恐らくそれは樽に詰めたワインを熟成する過程みたいなものだ。菫色のうら若き葛藤を結実させる為に、なくてはならない問答……。

「……それも、いつも通りの進言?」

「いいえ。あなたのための言葉です」

 それだけ言い残し、レイチェルは再び舞台袖へと消える。闇に溶けていく彼女の背中を見ていると、幕の向こうから割れんばかりの拍手が響いてきた。

『──皆様、本日もお集まり頂きありがとうございます。さて本日は大層な雨模様でありますが、今日こんにちでは雨雲が我々の上を通ることも珍しく……』

 バグリスの声だ。姿は見えないが、骸骨がけたけたと笑っているのが想像できる。

 始まろうとしているのだ。ジズの人生を賭けた、俗悪なる人身競売が。

「…………」

 天上宮の日々は彼女からありとあらゆるものを奪った。

 信頼を、信仰を、親愛を、そしてなによりも──少女という一つの時代を。

 恋もなく、友もなく、夢もなく、希望もない……無い無い尽くしだ。少女時代の象徴として唯一奪われなかったはじめてさえも、見知らぬ誰かに奪われる羽目になるに違いない。

 略奪。彼女の人生は略奪と悲観に満ちている。限りなく陰惨で薄暗く、卑屈で窮屈で鬱屈した精神性。今のジズをジズたらしめているのは、そこはかとない闇の数々だ。

 収監当時よりも肉付きは良くなった。髪も背も伸びたし、顔つきも大人っぽくなった。胸もほんの少し、少しだけ大きくなった。横腹の贅肉も、まあ少し増えた。

 けれど、それは彼女が望んでそうなったわけではない。もっと別の、抗い難い力を持つ怪物みたいな何かがそうさせたのだ。

「……は……」

 私の体は育ってゆく。私以外の誰かの為に。これまでもそうだったし、この先一生そうだろう。お似合いですよと言われるのも当然だ。私が私を見たってそう言うのだから。

「あははっ」空っぽの声でジズは笑った。「はははは!」

 舞台袖の奥、表情も窺えぬ闇の中、レイチェルは相変わらず平淡な目でジズを見ていたが、彼女があんまりにも──それこそ何かのタガが外れたように笑い出すものだから、思わず問いかける。

「怖いのですか」

 どうしたのか、とは聞かない。ジズと同じように競売にかけられた数多の鼠……その末路を見てきたであろう、他でもない彼女にしか出来ない問いかけだった。

「ははっ……はは……はぁ……なんだか、おかしくって」

 見慣れた筈の自分の体が、不意に知らない誰かの物みたいに思えてきて、ジズは思わず膝を抱えた。いっそ他人の物であってほしいとさえ願った。

 だが、何度ふくらはぎをつねってみても、痛むのは変わらず自分の足だ。似つかわしくない大人びた色のペディキュアが塗られた、貧弱で愚鈍な鼠の足。

 ああ。馬鹿げた話だ。だからお前は爪先を見ていたのか。もやがまた一つ晴れた。

 自分の意志などどこにも介在しないまま、体だけが大人になってゆく。

「私、また泣いてんじゃん……」 

 ジズはまた泣いた。今度は静かに泣いた。泣いてばかりだ。泣き虫だ。清濁で言えば恐らくは濁に分類されるであろうそれは、しかし確かに彼女の一部分なのだ。

 陰りにして薔薇あり。ジズは認めた。一歩目として泣き虫な自分を認めることにした。自分はそういう生き物なのだと自分に戒めた。

 でなければ、この涙を噛み締めていなければ……私は、私でなくなってしまいそうだ。

「馬鹿みたい」

 お前はあの時口にした。今日か明日、あるいは来月、それとも一生このままかもと。

 その見立てのなんと卑屈なことか。しかし何もかもその通りだった。求めた自由は今日ここにはなく、緩やかなる死の影はまだ私の首元に付きまとっている。

 檻の中の自分は何も言わなかった。恨み言も、名残惜しささえ見せず、相変わらずただただ爪先を眺めていた。ああ、そういうところだけはなんとも私らしい。

 私はジズ。お前はジズ。いつまでたっても自分になれない、蒙昧もうまいにして哀れなる女。

 囚われの雛。陽を知らぬ鼠。薄暗き日々を生きた己の姿見。

 悲劇に酔い痴れ自由に焦がれた、馥郁ふくいくたる煤ばみし陰りの薔薇だ。

 だけど。

「私はあんたとは違う」涙目で、ジズは自分の影を睨みつけた。「違うもん……」

 あがきだった。

 この狭苦しい檻の中、人生を他人に買い叩かれる為の檻の中、自分の全てが誰かのものになろうとしている天下の分け目……どこにも自分の意志が介在せぬ絶望の中において、涙……。追い炊きした悲しみに浸かることを選ぶ、そのこころ。

 心だけは手放すまいとすることが、ジズに成しうるたった一つの反抗だった。

 それだけは確かにジズの意志によるものであり、他ならぬジズの物だ。

 そう信じるしかない。

 仕方なく選んだ選択肢でも運命が決まってしまうのなら、そう、信じるしか……。

『それではそろそろお披露目いたしましょう! レイチェル、幕を開けて!』

 闇が彼女を彼女たらしめてゆく。襤褸ぼろを着た少女には似つかわしくない瞳だ。

 だが、それゆえ……それゆえに、だ。恐らくはこれが、薄汚い地下牢で蝕まれた薔薇の陰りこそが、皮肉にも彼女の美しさの本質なのだと……そう思わせる。

「……薄幸はっこう

 そう、小さく──檻の中の彼女はおろか、自分にしか聞こえないほどかすかな声で──

「やはり、そのままであるべきだ」

 レイチェルは呟き、暗幕を開けた。

 

 光がジズの目を貫く。感嘆の声と拍手が彼女の耳に雪崩れ込み、視界がまばゆさに慣れてきた。

 弧状に連なる座席には、貴族ばかりが並んでいる。悪趣味な金銀宝石が服のいたるところに散りばめられており、大概の人物は恰幅かっぷくが良い。仮面で目元こそ隠してはいるが、その醜悪な中身までは隠しきれていない。口元の皺を見れば、この場に聖者など存在しえないことは一目瞭然だった。

 一人の例外もなく翼隠衣デュラルケットをその背につけている。あてつけがましさすら感じる光景だ。

 ギラついた光に目を焼かれながら、ジズはと客席を睨みつけた。

『ご覧ください! こちらが世にも美しい桃色の羽を持つ……フェザーコード〝オペラ〟! 我が劇場シアトル史上でも際物きわもの中の際物にございます!』

 バグリスが大仰に手を広げて言う。主役を食うとはこのことだ。だが観客は骸骨の手品師になど見向きもしない。見慣れているのだ。視線は全て彼女の方へと注がれていた。

「くそ馬鹿っ、こっから出せっ!」

 ジズは薄幸というワードに中指を立ててってみる。進言などクソ喰らえだ。応じて観客たちがざわつき始め、バグリスが彼女の方へと歩み寄った。

「この腐れガイコツ! 腐乱死体! 馬の骨! がりがり!」

 あらん限りの罵詈雑言を並べる。並べたつもりだった。バグリスは笑うだけだ。

「諦めたまえよぉ、ロリィタ・ジズ。その檻は絶対に壊せない」

 たとえ、とバグリス。

「石の羽を使ったとしてもね」

「クソったれ!」

 おまけとばかりに大足を上げて檻を蹴りつけ、ジズはむすっとしたまま座り込んだ。

「パンツ見えてるよ」

「死ねぇ!」

 吐き捨て、やたらと丈が短いスカートの裾を引っ張る。それでも太ももの上半分を隠すのが精一杯だった。これも演出の一貫だろうか、忌々しい。

 観衆は相変わらずざわついたままだ。二〇〇あまりの客席から一度に向けられる奇異の目は、やはり気分のいい物ではなかった。

 レイチェルの言葉通り、ここに来るような片翼者メネラウスは──眉のない男の所為かはさておき──大半が意志をがれ、心をくじかれ、人形同然に成り下がっているだろう。万に一つ心が残っていたとしても、そのほとんどはレイチェルの進言に従うはずだ。

 ましてや、大足を上げて檻を蹴りつけるような元気は残っていまい。悪く言えば品格が感じられず──よく言えば快活で個性的といったところか。落札して持ち帰ったところで、従順な家政婦になるはずもない。

 だからこその商品価値なのだ。ただの人形では物足りない好事家こうずか達が彼女を屈服させるのにたのしみを見出すであろうことは、時折大きく聞こえてくる彼らの声からも明らかだった。

「えらく活きがいいな。バベル上がりにしては珍しい」

「こりゃ骨が折れそうだ。折るだけで済めばいいが」

「二週間というところですかな。いや、長いのはそこから……」

 〝変態〟──レイチェルの言葉を思い出し、ジズは忌々しげに衆目を睥睨へいげいした。

『さあさあ皆様、いかがでしょうか!』

 檻の上に片肘を突き、バグリスは続ける。

『もっと近くで見たい? ノンノン、それは私だけの特権です! どうです、素晴らしきこの美貌! 歳はだいたい十七! 性別は女! 生まれはセントガメラル第三トーチカ、ハレハグラ・ドゥラハ! 身長は仔犬二匹分、体重は子猫九匹分!』

「八匹だっ!」赤面して叫ぶジズ。「痩せたの!」

『あ、そう? 失敬失敬。胸・腰・足は上から──』

「いつ測ったんだぁー!」

『愚問だな、シンデレラ。もちろん君が寝てる間に』

 とんでもない変態だ。見立ては間違っていなかった。いや違うレイチェルが測ったのだと、あるいはバグリスは実は女なのだと、ジズはそう信じることにした。

『はいはい分かりましたよ分かりました。三銃士はお楽しみということで」

「楽しむな!」

『いやはや、やはり十七という思春期真っ只中のお嬢様ですゆえ。毛先の痛み一つを口にするのもはばかられるお年頃でございましょうなあ』

 バグリスが歩み寄る。ジズは気付かなかった。檻から隠翼衣デュラルケットがはみ出ていることにも、隣で陰った骸骨の眼孔が、その薄い布地に向けられていることにも。

 一瞬。まじろぎよりはやくバグリスの手が動く。真正面から眺めている観衆でさえも目視が敵わず、ただ一人レイチェルだけが目の端で辛うじて追えるほどの、ほんの一瞬だ。

 あまりにも鮮やかなその手つきは、自身に何が起こったかを彼女に悟らせない。背中を風が撫でた程度の感触だ。客席からどよめきと拍手が上がった理由を、ジズ一人だけが理解出来ていなかった。

「……?」眉をひそめるジズ。「なに……?」

「ロリィタ・ジズ」

「……っそのロリィタって言うの……」

 けたけたと笑う手品師。ジズは首をかしげる。その手に掲げられている布きれが自分の隠翼衣デュラルケットだと気付いたのは、目を凝らしてすぐの事だった。

「へ……? あっ……」

 ジズは思わず背中を押さえる。いくら檻で裸身に慣れたとは言えど、観衆の奇異の目に翼を曝すことへの抵抗感までは拭えなかった。あるいはレイチェル並の胆力があったならば、どこ吹く風で明後日の方向を向いていられただろうが。

 右側の肩甲骨から生えている澄んだ奇跡──どこまでも薔薇然とした輝きを放つ彼女の翼が、橙色の照明と衆目の元に暴かれた。

「いつの間に……!」

 紳士然とした姿の癖して中身はとんでもない変態だ。手品師にあるまじきクソ野郎。変態がバレるからスカーフを巻いているに違いない。

 バグリスがジズの憤りを遮り、彼女の翼を千切れんばかりに引っ掴んだ。

「いっ……」

『見て下さいこの翼! 透き通るような桃、桃、ピンクぅ! あぁ正に天より降り立った愛と優しさの御使みつかい、あるいはかぐわしき薔薇そのものではありませんか! いかな聖者も聖人君子も──大天使でさえ勃起必至の絶頂不可避! まさしくマーヴェラス!』

「いたっ……痛いっ……!」

 髪の毛を無理矢理引っ張られている気分だった。背を鉄格子に押し付けられ、痛みと屈辱とで彼女の表情が苦悶にゆがめば歪むほど、観客の口元には笑みが浮かぶ。

『エーンド……』

 手袋越し、バグリスの右手が羽根に触れる。打って変わって一段と繊細で淫靡な手つきだ。優しく宛がわれた五指が秘部を明かすように開かれ、彼女の翼の付け根が明るみへ晒された。

 羽毛にへたりは無い。毛先も整っている。石でもないし、陰ってもいない。未だ幼いままの付け根は、彼女が無垢であることの象徴だった。

 泣き虫なジズには厳し過ぎるシチュエーションだ。恥辱で涙が出そうになる。だが、ジズは泣かない。泣かないと決めたのだ。バグリスの方を睨みつけ、ただただこの骸骨の気まぐれなお遊びが早く終わるのを祈った。

無垢イノセンス! 実に綺麗な根元です、見えますか皆さん。まるで赤ん坊だ!』

「くたばれ! 変態、異常者、ろくでなし!」

『それに』

 付け根をなぞる指先。感じたことのない痺れにジズの体が小さく跳ねた。

「っう」

『感度も実に良い』

「や、……め……ろっ」

 食い縛った歯の隙間から声が漏れる。自分の声じゃないみたいな音が漏れた。甲高く、甘い。雌猫の声だ。どこかいやらしい。次いでバグリスが檻へと手を入れる。骸骨の腕は鉄格子の狭さをものともしない。

「や……」

 手袋が秘部へと伸びる。ジズは拒むように脚を閉じたが、襤褸切れの向こうの下着のそのまた向こう、薄いすみれの原っぱの奥にある禁足地をひとたびなぞられ、きゅっと足をきつく閉じたものの再び開いてしまった。

 怪物はここにもいるのだ。ジズは初めて知った。悦楽という奴もまた彼女の意志などお構いなしで口を開けるたぐいの生き物か。じんわりと秘部が痺れ、筋肉が弛緩してゆく。

『さぁ、ここで一つ余興に参りましょうか! わたくしめの手袋に塗られておりますは、洪水時代の魔酒マキュール魔草マーブを混ぜた一種の媚薬、即効性催淫剤……その名も!』

「やめ」またジズの体が跳ねた。「ッん」

『〝聖母の谷間アソモラネッチ〟!』

 どことなくふしだらな響きだ。快感の中でジズはそう思う。とはいえ薬の名前よりはジズの声の方が何倍も不道徳な響きをしている。認めたくはないが事実だった。

 バグリスは抵抗する彼女の太ももを物ともせず──どころかそちらにも手を伸ばす。触れすぎず、離れすぎず、毛を逆立たせた猫をなだめるように柔肌を撫で回す。その指が内股を遡るにつれ、またジズの口元がだらしなく緩んだ。

『いかがです、この表情! 声を立てまいとしてはいますが、はたして彼女はあと何分耐えられるのか?』

 怒りと屈辱。恍惚と含羞がんしゅう。痺れと切なさの中、ぐちゃぐちゃに入り混じった感情がのたうち回る。

(やばい……)ジズは必死でくちびるを結ぶ。(なにこれ……)

 まるで洪水だ。もはや自分では歯止めが効かない。客席では往々にして悪趣味な歓談が飛び交う。注がれる視線に耐え切れずジズは目を塞ぐが、そうすると快感だけが閉じた視界の中を動き回るので、再び目を開けざるを得なかった。

 気を抜けば求めてしまいそうになる。一度指が離れてしまえばおのずと腰を突き出しかねない。理性が首元を撫で回され、ごろごろと喉を鳴らしているのが分かった。

「これは儀式だ、ロリィタ・ジズ。安心したまえ。君の悦びの書に栞を挟んだりはしない」

 バグリスが耳元で言う。不幸中の幸いのつもりかクソったれなます切りにしてやる。そう叫びたいところだったがジズは黙って聞いていた。どこか違うところに意識を傾けていなければ飲まれてしまいそうだった。

「解放するんだ。本当の自分を。そうすればお客様がたも君を買ってくれる」

 解放。快感で我を忘れるのが解放とは恐れ入る。素晴らしい宗教だ。ジズは失笑した。失笑したつもりが途中でうずきに襲われて喘ぎ声に変わってしまったので口を閉じた。歯を食いしばり、一文字に唇を結び、出来うる限り足をばたつかせる。しかしばたつかない。鼻腔を抜けて漏れてくる嬌声を聞くたび、自分の意志のちっぽけさを知る。

からを脱ぐんだ、ジズ。君はさなぎだ。羽化し、羽ばたき、蝶になるんだ」

「この……へっ、変態……」

「変態さ」バグリスは言った。「これは、そのためのオークションなんだから」

 力なくジズの足が開く。濡れたすみれ色の恥丘が照明を浴び、てらてらと淫奔いんぽんな輝きを見せつけた。観衆にも、バグリスにも、もちろんジズ自身にも。それがまた彼女の羞恥心を甘噛みし、漏れ出す音素を艶やかに薄めてゆく。

(なんで……私、なんでこんなことしてるんだっけ……)

 ジズの意識はおぼろげだった。チィちゃんがどうとか競売がどうとかそんなことはもう頭の中にはなかった。寄せっぱなしの悦楽の波と、この恍惚がいつまで続くのか……その二つだけが脳細胞を隙間なく埋め尽くしていた。

 さっさと終わってほしいのか、もっと続いて欲しいのか……ジズはそこまで考えなかった。出来れば終わって欲しくないと答える自分がいそうで怖かったのだ。

(変になる……このままじゃ、わたし……)

 気持ちいい。ジズは認めた。認めてしまった。襤褸切れを膨らませる二つの突起が何よりの証拠だった。悶えるたびに布が擦れ、またそこに切なさを産む。息の荒さにまで犯されている気分だった。水音も喘ぎもただの波の塊に過ぎないはずなのに、その全てが彼女の顔を火照らせた。頬は薔薇より薔薇色で、吐息は桃より桃色だ。

『体が動いているよ、ロリィタ・ジズ』

「そっんなッ……こと、ないっ……」

 言いながらもジズは腰を宛がう。手袋の向こうの骨ばったバグリスの指に亀裂を押しつけ、なんとも淫らに浅ましく秘部への刺激を求めた。

 乱れている……その一言に尽きた。それはたとえば、客席で老婆と共に鑑賞している一人の少女が、思わず自分も同じ場所を布越しにさすってしまいそうなほどに。

 突如、バグリスが愛撫をやめる。悦楽の波が引いて、はじめてジズははっとした。離れてゆく服の裾を引っ掴みそうな自分が信じられなかった。

『手品師に種明かしはご法度はっとですが、ここでネタばらし!』

 バグリスは照明植物に手袋をかざして続けた。

『実はわたくし、催淫剤など塗っておりません!』

 観客がざわめく。拍手や口笛まで聞こえてくる始末だった。

「嘘……うそっ、そんなの……」

『事実であってほしかった?』バグリスは振り向く。『なぜ残念そうなのかな?』

 ただでさえ赤い顔をジズは一層赤らめた。切なさはとうに見透かされていたのだ。その言葉に興奮を覚えたであろうことも、恐らくは。

「残念なわけあるもんか!」

 ジズはそう叫んだが否定に足るだけの説得力はなかった。薬が使われていないとなれば尚更だ。衆目に恥部を晒し、朝露のように芝生を湿らせ、声高にっているだなんて。

 そんなの、まるで────

『では確認したまえ』

 バグリスがマントをひるがえす。どこからともなく現れた鏡に、あられもないジズの姿が映し出されていた。

『ご覧。君はいまどんな顔をしている?』

 鏡。鏡だ。覗きたくもない鏡。ジズは真っ直ぐに自分の姿を見る羽目になった。というより釘付けにされたのだ。

 鏡の中で股ぐらを放り出してあごよだれを這わせている、淫乱な雌猫じみた姿に。

「あ……」

 恍惚だ。酩酊している。物欲しそうに目を細めて眉を下げ、なんともだらしなく口を開けている。天使から程遠いだ。まるで────変態じゃん。

 なんていやらしい顔つき。ふしだらな女。神に唾を吐くような痴態。心中でそう罵るたび背筋せすじが小さく震え、言葉が背骨を通って快感を運んでくる。そうして罵倒のすべてが体のあちこちへ飛び回り、最後に胸の真ん中へと返ってきて恍惚をもたらした。

『君は興奮している。秘め事を曝して甘く喘ぐ、淫らな自分に興奮しているんだ。これだけの人に見られているんだよ、皆が君を見ている。ああ、なんて恥ずかしい』

 バグリスは耳元で言った。

「この変態」

「ぅ……」

 強調された言葉が彼女の胸を突く。それでまた感じてしまうというのだから自分でも嫌になってくるが、自分ではどうしようもなかった。背徳すら心地よいのだ。

 再びバグリスが秘部をこねる。今度は翼も同時にだ。指が触れた瞬間またジズの口から声が漏れた。締まりの悪い喉元だ。堪え性がない。鏡に映った自分の乱れようすら興奮の材料にしながら、彼女は悦びに全てを委ねた。安堵すら覚えていた。

「変態。変態。変態。変態」

 バグリスは繰り返す。あえて違う言葉は使わない。それを繰り返すことに意味があるのだ。彼女をもっとも悦ばせる言葉それだけを、ただ丁寧に繰り返す。ときに語気を強め、ときには嘲笑うように、抑揚を変えながら何度も何度も。呪いとも暗示ともいえるやり口で、彼女の中に眠るマゾヒズムの殻を剥いでゆく。

 それは、どこか眉のない男のやり口に似ていた。この骸骨もまた彼と同じく──ベクトルは違えど──言葉の使い方を心得ているのだ。

 舌でも噛み千切ってやろうかとジズは考えた。インモラルな自分の姿に興奮を覚え、あまつさえ求める……その事実に救いようのない恥ずかしさを覚え、一思いに羞恥心ごと殺してやりたくなる。だがそうはしなかった。

 死にたくなかったから、ではない。もっと単純な理由だ。死んでしまえばこの気持ちよさが終わってしまうからだ。狂おしい。愛しさすら感じる。

 ジズは求めている。もう誰の目にも明らかだった。

「さぁ、脱殻だっかくするんだ。君の本性をまず一つ暴く」

 バグリスはより深く手を宛がい、指の付け根により近い部分で彼女の突起を挟む。脱殻とは言ったものの薄皮越しにだ。そうして描かれた円がジズにより芳醇ほうじゅんな快感を与え、彼女の中に溜まっている気持ちよさ全てを引き連れて終わりへと導く。

「駄目っ……やめてっ! やだっ……やだっ! 無理無理ほんとにもうっ」

 そうして彼女は身をよじった。

「────────ッあ」

 一際甘い吐息。よだれが垂れる。ジズは大きく跳ねた。絶頂だった。

 沸騰する脳味噌。累積された快感の全てが下腹部から心臓を通って全身へ駆け巡り、彼女の全身を一つの淫乱な塊に変えた。指先に握った汗でさえ肌を犯しているように思えた。

 きゅっと足を閉じ、痛いほどにバグリスの腕を締め付け、そこにさえ拠り所を求めるように彼女は達した。

 小刻みな刺激が体を幾度も震わせる。小さい波だ。それでいて一つ一つがしっかりと快感の塊でもある。なまめかしさを残したまま生唾を飲み込むと、すっと頭が冴えていった。

 何秒経っただろうか、意識に空白が生まれる。何かが彼女を包んだ。正体は知らない。だが安らぎのたぐいだ。

 ジズは檻に寄りかかり、鏡から目を逸らし、力なくしなだれて爪先の方を眺めた。

 満たされたように思えるが、一方で、まだ欲しがっている自分もいる。罵られれば何度でも絶頂できそうだった。

 マゾの方が生きやすいとはこういう意味だったか……今となっては知る由もないが、ジズはジャスパーの言葉を今更になって飲み下した。自分こそが馬鹿にしていたマゾヒストそのものだったのだ。これでは立つ瀬がない。

 私はマゾヒストだ。ジズは認めた。というか否みようがなかった。あまり聞こえのいい言葉ではないし、いい部分なのか悪い部分なのかも分からない。

 もっと。もっと欲しい。もっと気持ちよくなりたい。今の感覚を、もう一度。ジズはここが分水嶺だと言い聞かせ、自分に歯止めをかけた。気持ちよさで泣きそうになる。自分のひけらかした痴態を思い出すと死んでしまいたくなる。

 だが、まだ泣かないし死にもしない。ここで泣けば思う壺だ。あそこでやめられたら狂ってしまっていた。幸か不幸か、彼女の最後の理性を奮い立たせたのは、屈辱の果ての絶頂だ。

 催淫剤が使われていないのならば、きっとバグリスの言葉がその役割を果たしていたに違いない。言葉の力を軽んじてはならないのだ。

『気持ちよかったかい?』

 バグリスが余韻に水を差す。ジズは半開きの目の端に彼を捉え、なんとも被虐の精神を知るマゾヒスト然とした、いかにもマゾが興奮を覚えそうな口調で吐き捨ててやった。

「変態……」

『ぅワーオ! 変態ですって、頂きました! 皆さま、このたぐいまれなる変態少女に盛大な拍手をどうぞ! 録画したそこのムッシュー、出口で没収しますので悪しからず』

 呪わしい。ステージで痴態を晒したことよりも、この変態にあの絶頂をもたらされたのが屈辱でならない。後で蹴り崩して骨という骨を滅茶苦茶に組み合わせてやる。

『さぁ皆様、お分かり頂けましたでしょうか! ロリィタ・ジズは生粋のマゾ! ド変態! 趣味が合う方とそうでない方がいらっしゃるかと思いますが、鏡の中の淫靡いんびな自分に興奮するその資質は────紛れもなく本物の、変態でございます!』

 湧き上がる観衆。余韻はまだジズの体を包んでいた。

 その緩やかな痺れと疲れは、ふつふつと沸いてきた敵愾心てきがいしんすら掻き消してしまうほど心地よい。天使の揺り篭に横たわっている気分だ。このまま眠ってしまえばどれほどいい夢が見られるか。

 バグリスはぐったりしたジズを見やり、ステッキを高らかに照明へと掲げた。

『ムッシュー諸君。それではこれより素晴らしき競売、今宵の第二幕に参りましょう。生粋のマゾヒスト、ロリィタ・ジズを──』

 軽薄な声に芯が通った。

『──殺してみたいと思い絶頂不可避マーヴェラス

 恍惚が瞬く間に霧散する。仕方ないのでジズは頭を回すことにした。

 はて、オークションというやつは死体を売るためのものだっただろうか?