ちょっとお手洗い行ってくる、なんて言い訳はマダムには通じない。伊達に歳を皺を重ねてきたわけではないのだ。だがチネッタの方もどこか抜けてはいるが馬鹿ではないし、そのぐらいは分かっていた。分かっていたにも関わらず席を離れたのにはそれ相応の理由がある。そうしなければどうにも収まりがつかなかったのだ。
「……ん……」
マダムに悟られようが知ったことではない。これが庭師のビーガンだったらまた話は違っただろうが、一回りも二回りも上の老婆に今更何を恥じるというのか。マダムも女だ。女だったのだ。それぐらいは理解してくれるだろう。
わざわざ口に出すほど下世話な性格でもない。そう信じている。
「んー……」
回りくどい言い方はやめよう。要するに彼女は自慰をする為に席を立った。バグリスの手つきとジズの甲高い声のせい……そういうことにしておく。
無意識の内に左手がスカートに伸びたものだから、チネッタはもう無我夢中でお手洗いへと駆け込んだ。このまま放っておけば壇上でよがり散らかしている女の二の舞になり兼ねないと判断したからだ。
少女チネッタは欲望に正直だ。食欲も、睡眠欲も、性欲にしたってそうだ。彼女は度々男を振り回すが三大欲求には振り回される。とはいえ、ところ構わずというわけではない。我慢が出来ないだけだ。
そしてそれは致命的でもある。夜中だろうと我慢できなければチョコレートを齧るし、掃除が控えていようと我慢できなければ眠るし、そしてそこが劇場の中であろうと──どうしても我慢できなければ──自慰に耽ったりもする。
「私じゃない……っ。私は違うっ。あんなもの、見せる方が悪いんだから……」
チネッタは自分の秘部が好きではなかった……いや、股ぐらの怪物を愛でる人間などそうはいないだろうが、ともあれ彼女はそこを白日の下に曝すのを嫌っていた。
見た目の問題ではない。もっと生理的な説明しがたい嫌悪だ。茂みをなくしてもそれが和らぐことはなかった。なんなら触りたくもないし、触らせたくもない。
しかし疼くものはしょうがない。虫に食われた部分を掻いてはいけませんと言われるほど意識するようなものだ。
チネッタの解決策は至って単純なものだった。要は直接触らなければそれでいいのだ。布越しなら甘く引っかいてもいいし擦り付けてもいい。その為だけに布地のバリエーションを増やしたといってもいいくらいだ。よく行く生地屋の店員も、まさか性具を買い漁る感覚で下着を見に来ているとは夢にも思うまい。
「ふ……」
スカートの裾を食んで、チネッタは声を押さえつける。左手で右胸を、右手で秘部を。彼女が知るところそれがもっとも手早く怪物を収める方法だった。
ジズと時を同じくしてチネッタもまた絶頂した。個室の角に背中を預け、彼女は力なくその場にへたり込む。上質な虚脱感と倦怠感だ。何度味わってもやめられそうにない。
「…………」
ひとしきり行為に満足するとチネッタはいつも悄然とする。べたつく下着を排水溝へ見送るわけにもいかないし、かといってそのまま履けるほど心が大らかなわけでもない。
今日に限っては、替えの下着なんか持ち合わせていないし……よもや、オークション会場で下着を濡らすことになるなどと誰が想像できようか。
こういう時のチネッタはドライだ。悪く言えば雑だった。
「……ままよっ」
使い古しの雑巾みたいに下着を引っ掴み、手洗い場のゴミ箱へと投げ捨てる。致し方ない。私の人生において、時には履かない勇気も必要だっただけのこと。なに、どうせ捨てるつもりだったやつだ。劇場には悪いが、手間が省けたということにしておく。
だったらスカートじゃなくてパンツスタイルにすればいいのにと自分でも時折思う。だが可愛さには変えられない。回りまわってそれが自信に繋がるから。
「またやっちゃった……」
手を漱ぎながらチネッタは言う。毎度のことだ。いつも後悔するが改善はしない。後悔まで含めて一つのプロセスなのだ。ついでに少してらついた顔を洗い、おまけ程度に魔草の香水を振りかけてお手洗いを後にする。
そうして戻り際、淫猥な〝入り口〟相手に彼女は決死の防衛を試みた。なにせ今度は下着がないのだ、絵画ごときに指を突っ込まれでもしたらたまったものではない。ジズがしたように必至でスカートの裾を押さえ、髪をぐちゃぐちゃにされながら会場へとたたき出された。
『──殺してみたいと思い絶頂不可避』
場内に戻るなりバグリスがそう言ったものだから、チネッタはどきりとする。急転直下とはこのことだ。
「ちゃんと片してきたろうね?」
席に着くなり、マダムは素知らぬ顔でそう問う。ああそうだ。こいつはこういう女だった。チネッタは仮面の下の頬を赤らめたまま沈黙する。察しろと言っているのだ。これもまた少女特有の性質だった。
「お前まさか」丸眼鏡をあげるマダム。「いま、履いてないのかい?」
「……」
「捨てるなんて。金貨の価値を? いいかい、チネッタ。そもそも正しい行為ってのは……」
「あぁーあぁー! こんちくしょらばっちゃーい!」チネッタは吼えた。「なに? お小水をお足しになられてただけですけど! 私の下着なんかどうだっていいでしょ!」
「……まあそりゃそうだ」
だったら聞くな。チネッタは毒づく。それから壇上に目をやった。
バグリスがステッキを翳している。ここからだ。この競売の本分は、処女性の陥落などではない。問題はその先にあった。
「ここからだチネッタ。しっかり見てな」
「……知ってるわ」
人前での絶頂ぐらい可愛いものだ。バグリスはあれでいて絶妙な線引きを弁えている。これから行われる悪趣味なショーに比べれば、痴態の一つごときは些末ごとに過ぎない。あれは、バグリスにとって手段の一つに過ぎない。
人は自分の何を暴かれたらもっとも屈辱を感じるだろう。罪? いいや、違う。嘘? それだとまだ足りない。それじゃあ性癖? 馬鹿をぬかせ。どれでもない。
本性だ。等身大の姿見に自分自身のありのままを映し出されたとき、人はえもいわれぬ屈辱を覚えるのだ。自覚の内外など問題ではない。お前はこういう人間だと一切の逃げ場なく看破されることは、自分自身への信頼をすら揺るがしかねないのだ。
こうあるはずだと信じていた自分の姿からかけ離れた自分がそこに映った時、人はそれを素直に認められなくなる。自分自身を愛せなくなる。やがて乖離し、そいつを閉じ込め、本性に背いて生きようとする。歪んだ自己愛が強ければ強いほどそうなるのだ。
「私は知ってる」
彼女もまたそうだった。
なにより過酷なのは次の段階だということをチネッタは知っていた。
自らの経験から、いやというほど。
◆
『紳士淑女の皆々様! これより本物の手品をお見せいたしましょう!』
マントに包まれた檻が消えるのには一秒とかからなかった。どこからともなく出現させたように、どこへともなく消してみせる。手品師とはそういうものだ。後には鏡とジズだけが残されていた。
ジズは駆け出した。四の五の考えるのは後だ。オークションの定義についてなど後で辞書でも引けばいい。今ただ一つ確かなのは、この骸骨が鼠を殺処分にかけると言い放ったことだけなのだ。
『おぉっとどこへ行くんだいロリィタ・ジズ』
骸骨は眼前に現れて道を塞ぐ。これもまた手品のように。ジズは反対側へ駆け出す。そっちにもまた骸骨が現れる。瞬間移動のマジックを見ている気分だ。やむなく客席へ行こうとすると、今度はドレスの首元にステッキを引っ掛けられて壇上へ放り出された。
弄ばれている。これも競売の余興の一つでしかないのだ。骸骨は顎骨を打ち鳴らして、けたけたと不気味に笑うだけだった。
「なんなの!」
『もう一度言ってあげようか。私は今から君を殺す』
「意味わかんない、私をどうしたいの!」
『安心したまえ、殺鼠剤など使わない。手品のように消してあげよう』
「最っ悪!」
手近の骨壷が目に入る。ジズは恥辱の姿を払拭するようにそいつを引っ掴み、貧弱な小娘なりに精一杯の力でバグリスへと投げつけた。えらく高そうな壷だが知ったことではない。ここの金持ち連中にとっては、壷など角砂糖のように買い直せるものだ。
『【貨殖の駑馬】』
帽子を振るバグリス。ギザギザになった穴の部分が怪物の口のように大きく広がり、向かってきた骨壷を蓋ごと丸呑みしてしまう。味わいも歯ごたえもへったくれもなく一口でだ。そうして間髪空けずにステッキが振られ──
『【虚飾の駿馬】』
──花が開くようにその姿が広がる。ステッキではない。傘だったのだ。風でひっくり返ったみたいになった傘の部分には、これまた帽子と同じようにギザギザの洞穴がぽっかりと空いている。どっちも生き物みたいだ。そこから夥しい数の小さな影が飛び出し、我先にとジズへ飛び掛かった。
「わぶっ」
攻撃された。駄目だ死んだ。ジズは一瞬死後の世界について考え、そして自分の考えが早計だったことを知る。体一面に飛びかかってきたのは剣や剃刀などではない。ざらついていて、薄く頼りなく、かと思えば硬くて冷え切っているものもある。
(……お金……?)
硬貨と、紙幣だ。大小金銀あり通貨の種類もさまざまだが、少女がお小遣いにもらえる額からはかけ離れている。
『かーらーの!』バグリスは続ける。『魔導解花』
硬貨と紙幣がジズの元から離れ、ぐるぐると渦を描き、蛇みたいに螺旋を作って骸骨の方へ飛んでいく。天井へ向けられたステッキの先端を頂点に、彼を包み込むようにして財貨の蛇がとぐろを巻いた。
『────【欲深き素封家の金轡】』
バグリスは重くそう言う。道化に似つかわしくない厳かな声だ。人となりの全て、あるいは意志と呼ばれるものを乗せているような言葉……言霊。
石でもなければ羽でもない。だが似たような物だとは理解できる。そしてその推察が正しければ、おおよそこの手の不思議な力は一種の攻撃の為にあるもだ。
あいつの……碧玉の翼がそうだったように。
『さぁ──ご来場の皆様、準備のほどはよろしいでしょうか! 悪銭身につかず、金は天上の回り物! お待ち兼ねの投げ銭タイムでございます! この哀れなる少女ジズたんに慰めを、あるいはこの卑しきバグリスめに施しをどうぞ!』
それが開始の合図だったのか、観客達が善は急げと立ち上がり、壇上へと所持品を投げ込み始めた。万年筆、杖、帽子に革のベルト……傘を投げ込む馬鹿までいる始末だった。
ナイフまである。こうなることを知っていたとしか思えぬ準備の良さだ。とすれば、今まで売られた数多の片翼者も、この邪なる骸骨に同じように翻弄されたに違いない。
なんとも金持ちというのは悪趣味な道楽を嗜むようだ。ジズは横目で客席を睨みつけ、それから眼前のバグリスへと目を戻した。というより、バグリスを囲んでいる貨幣の蛇を見た。
きっとあの蛇が私を引っ掴んでくるのだ。蛇というのはいつだって鼠を丸呑みする生き物なのだから、鼠の名前がジズでもマゾでも構いはしまい。そう予測してジズは構える。
だが、つたない警戒は二秒ともたなかった。
『【弾め】!』
ステッキをジズへ向け、骸骨はそう叫ぶ。これが第二の合図だった。大蛇が体の一部を切り崩す。火花のように散った硬貨と紙幣が彼女の方へ飛びかかった。
わぁと声を上げ、ジズは身を捻る。破裂音と共に硬貨がステージの床板をブチ抜き、紙幣が卒塔婆のごとく突き立てられた。
ジズはぞっとして立ち上がる。そうしてまた駆け出す。その軌跡をストーカーばりの執念で硬貨と紙幣が抉ってゆく。直撃には至らない。遊んでいるのだ、この骸骨は。
『さぁどんどん行こうロリィタ・ジズ! ちなみに──』
そしてまた、どこからともなく現れた骸骨は行く手を遮る。
『逃げることは出来ない』
「あぁあもういやぁああああ」
ジズは叫んだ。腹の底から叫んだ。叫んで走ってつまずいて転んで、また立ち上がって走り出した。誂えられたのがドレスじゃなくて襤褸切れだったことに少し感謝する。動きやすさでいえばこれ以上のものはなかった。いやどうだろう、これからお前自身がそうなるのだという嫌がらせかもしれない。
「やだやだやだやだもうっ、もうっ、もうッッ!」
ジズはところせましと壇上を駆け回る。その姿は正に鼠だ。彼女が無我夢中で右往左往し、時に投げ入れられた品々に足をひっかけるたび、客席からは下卑た野次と口笛が聞こえた。
見世物。これではまるでショーの曲芸動物だ。愛玩動物と、家畜……それから殺処分待ちの型落ち品とショーの動物では、はたしてどれが一番まともなのだろう。
分からない。だがきっと一番悲惨なのは──殺処分待ちの曲芸動物だ。
『どうしたどうしたロリィタ・ジズ! このままでは殺されてしまうよ!』
「お前にだろ!」
混乱だけが彼女を動かしていた。檻に競売に、公開絶頂。骸骨の手品師に物を食べる帽子と金を産む傘。挙句の果てには見世物まがいの公開処分と修羅場が矢継ぎ早に来たものだから、ジズの脳味噌はもうぐちゃぐちゃだ。
希望と絶望のテーブルがどうだとか、ジャスパーの死についてがどうだとか、なんとも達観した風な悩み事は確かに尊かったはずなのだが、今となってはもう頭の隅の方に追いやられてしまっていた。
(足痛い! 息が苦しい! もうやだ、もうやだほんとに……)
止め処なく彼女を襲い続ける、硬貨の弾丸と紙幣の刃。床が穴あきになっていく。鼠に食われたみたいだが、残念ながら食われるのは鼠の方だ。こういう時でも軽口を考えるだけの頭は働くらしい。きっとあのお喋りな碧の影響に違いない。
(どうしよう、キリがない……。こんなの、このままじゃ……)
ジズは考えた。ひたすらに考えた。鼠なりに小さな脳味噌を回すことにした。こんな時チィちゃんならどうする? 走り回ってあの骸骨に噛み付いてやるのだろうか? ロニアならどうする? こっちは今ひとつ想像できない。おっとりしているからつまずいて串刺しにされそうだ。
じゃあジャスパーならどうした? いやあいつは駄目だ参考にならない。あいつには石の羽があるのだ。そうでなくとも自分の幸運を盲目的と言っていいほど信じているし、何より自身への絶対的な肯定がある。この状況でも打破できると信じ込み、そして実際にその通りに打破してみせるに違いない。
(そうじゃなくて、私は……)
私はどうする? どうすればいい? 石の羽も使えず、自身の幸運を信じているわけでもなく、自身への絶対的な肯定も足りない私は、どうすればこの場を切り抜けることが出来る? 確かにマゾだが死神との鬼ごっこを楽しめるほどマゾなわけではない。
愛と優しさではどうにもならない時もある。例えばこういう時だ。頭のイカれた骸骨相手では、愛も優しさも金ほどの魅力さえ持たない。くそ。くそ。くそくそくそ。
他に私に何がある? ジャスパーには幸運と自信があった。自信が幸運を引き寄せていたと言ってもいい。ならば私には何が出来る? 私について分かっていることはなんだ? たった二つだ。泣き虫と、マゾヒスト。ジズという女は泣き虫のマゾヒスト。
泣き虫を信じて、マゾを信じて……そうして私はなにを引き寄せる?
そのこころは──すなわち万歳三唱。鼠の人生ここに眠る、だ!
『ほらほら、まだかねロリィタ・ジズ! そろそろ壊す床もなくなってきたよ!』
バグリスは落ちている品々を拾い、帽子で飲み込んでは傘から吐き出し、次々に〝換金〟を行って刃と弾丸を補充していく。それがまた彼女の退路を断った。文字通り湯水のように金を使い、容赦なく札びらを切る。
わからない。こんなことを繰り返して何の意味があるというのか。疲れ果てた自分が死んでしまえば、最後に困るのは──
──はっとして、それからジズはすっ転んだ。
(違う……)膝を押さえ、また立ち上がる。(それじゃ私を拾った意味がない……)
硬貨の弾丸と紙幣の刃は、彼女の髪先や爪先、あるいは頬や鼻先寸でのところを掠めども、いまだ直撃には至っていない。考えてみれば当然のことだ。ジズは一つもやを晴らした。
こいつには、私を殺す気など初めからない。
いくら数寄者だろうと死体を買ってどうなるというのか。だったら最初から死体で連れてきてホル魔リン漬けにでもしておけばいいのだ。
薄幸という商品価値を高める為に貧相な服を着せ、生まれや身長、体重にいたるまで大仰にのたまい、鼠の素養を品定めするように性癖を暴いたのだ。どれも死んでいては意味がない。
畢竟、これは一つの余興……観客達が商品に入札するか否かを決める、最後のプロセス。
抗えば、そこに価値を見出され、高額での入札が約束される。そうして売り渡されてゆくに違いない。屈服させることが大好きな──レイチェルいわく〝ド変態〟達のところへ。
「……」
ジズは理解する。理解して足元へと目をやる。だが納得まではしなかった。
ナイフが見える。頼りない刃だ。手に持ったところで、紙幣の刃すら防げはしまい。観客もそれを理解している。その頼りない刃でどこまで足掻けるかが本題なのだから。
武器を取るか? 歯向かうか? 死に急いだ碧の鼠に倣い、鼠なりの底意地をこの底意地の悪い骸骨へと見せ付けてやるか? 恐らくはそれが最適解だ。
だが、果たしてそこにジズの意志は介在するのだろうか?
初めからそうするように仕向けられていた状況で、進言に従って生き延びたとして、それは彼女が自分の意志で選んだ結果だと言えるのだろうか?
仕方なく選んだ選択肢でも、運命は決まってしまうものなのに。
抗い歯向かい牙を剥き、この骸骨の計略にまんまと乗せられた形で自分が生き延びたとして、趣味の悪い金持ちに買い取られ──そうして──そうしてどうなる?
いや、違うな。そんなことで──この先わたしはどうなってゆけるというんだ?
それは自由か? 自由と呼べるか?
相手の好きな時に呼び出されて、言われたこと全部に首を縦に振って、羽の割れ目まで曝け出すのが? 馬鹿を言え。愛玩動物と変わらない。
そんなのまるで──
「……奴隷じゃん」
ジズは呟いた。そうとも、答えは断じて否だ。首輪と買い合わせの自由などジズは求めていない。このジズは求めていないのだ。
傍らにはナイフ。ジズは走る。時だけが過ぎる。彼女には分からぬ。正解だろうか。自信はない。だが意志はそれでいいと言っている。
「……」
ジズは歩幅を狭め、やがてその歩みを止める。バグリスも何かを感じ取ったのだろう、刃と弾丸を自らの方へと引き戻し、財貨の蛇を従えたまま彼女と睨みあった。
「……アー、ハァーン。逃げないのかい、ロリィタ・ジズ」
「好きにすれば」
「それは賢明な判断じゃあないな」
足元を刃が穿つ。ジズは退かない。膝は震えている。手に汗を握る。それでも退かない。
怖い。どうしようもなく怖い。けれども退くわけにはいかない。
知らなかった。自分一人の意志で決めるのが、これほど怖いことだとは。
「私は……」肩で息をしながらジズは答える。「あんた達の思い通りになんかならない」
バグリスは顎に手を当てる。求めたところではないのだろう。だが感心している風でもある。予想と違うがこれはこれで、と言ったところか。
『それは、殺されてもいいということかな?』
「言葉が軽いよ」
軽口が口を突いて出た。ジャスパーが背中を押した、気がする。
腸の底から何かが湧き上がる。出所の知れぬ巨大なエネルギーだ。泣き虫な少女一人に牙を与え、それでもまだ余りある絶対的な力。
自分の手で選べとジャスパーは言ったのだ。それが生き様になるにしろ死に様になるにしろ、檻の外に踏み出した以上、選ぶ権利は同時に義務でもあった。
「殺されるんならそれでもいい」
意志を。ただ明確な意思を。口を開けて滴る雫を待ち、与えられるものを与えられるがままに貪る──────染み付いた家畜根性に決別を。
「選ばないよりはずっといい」
ジズは、自分の意志でそう言ってやった。
◆
「こいつはこいつは……」
骸骨は惹かれながらそう言った。
この少女は生きている。肉体的な話ではない。精神的な話だ。まだ死んでいない。折れていない。野に屹立した花が雨風を受けてなお背を伸ばしている。そんな具合だ。
『ンンン絶頂不可避ッ!』
バグリスは天を仰いで言った。
『不肖バグリス、感服いたしました! いやはや見事なり不屈の少女の意志。さしもの私めも斯様な悪逆の限りを恥じるばかりでございます! まったく新しい形で示されました──この反抗心! いかがでしょう皆様! この健気なる少女に盛大な拍手を!』
会場が大きく揺れる。観衆の征服欲を充分に刺激したのだ。ショーは大成功と言っていい。ショーがここで終わりだったのなら。
『認めよう、ロリィタ・ジズ。私の完敗だよ。なるほど君の中で培われた意志という奴は……かくも強固で、自らの命が揺らいでなおブレぬもののようだ!』
バグリスの手元に炎が立ち上る。現れたそいつの尻尾を引っ掴み、骸骨手品師は一瞬ブレた少女の瞳へ突きつけるようにして見せびらかした。
『だが、友達の命はどうかな』
骸骨は笑う。まだ足りない。それだけでは足りない。
彼女の本性を暴きたいのだ。金に換え難きものだからこそ。
◆
「チィちゃん!」
尾をつかまれたチィちゃんがばたばた四肢を振り回す。バグリスは悪戯にその鼻先をつつき、時にはくるくると尾を回してみせた。ちょうど、庭師が伸びきった蔦をどうやって整えてやろうかと考え込むみたいに。
ジズは頑なだった意志が激情に捻じ曲がるのを感じた。鼠など見かけていないと嘯いたバグリスの声が思い出され、これもまた彼女の心とは関係なく堪忍袋を逆撫でする。
檻を過ごした同胞だということもあるのだろう、自分のことのように腹が立ち、自分の尾が捕まれているように首筋が痛んだ。
鼠に逆鱗があるかどうかをジズは知らない。鱗というぐらいだから鼠にはないのかもしれない。それでも今のバグリスの悪ふざけは、どのパフォーマンスよりも彼女の腸を煮えくり返らせた。鼠の逆鱗に触れたのだ。
「チィちゃんを返して!」
『君はこの競売の本質を理解したと思っているようだが』
鼠。空鼠。片翼の鼠。その煤けた羽を掴んで広げ、バグリスは一歩遠ざかる。
『お客様が求めているのは……反抗心じゃない。見たいのは、君の本性なのだ』
右へ、左へ。一歩、二歩、三歩。骸骨は鼠片手にステージを闊歩する。
『意志で自制できる程度のものを本性とは呼ばない。そんなものには、誰も興味がないんだ。興味がないんだよ、ロリィタ・ジズ』
本性とは、とバグリスは続ける。
『追い詰められて追い詰められて、そのまた先でも追い詰められて、とうとうどこにも逃げ場がなくなって……そう、まさに袋の鼠……そういう時にこそ顔を覗かせるものだ。
理性、意志、自己への戒め、律する心、ひいては善悪! そういった檻の全てをブチ壊して出てきた怪物こそ──その鼠が持つ本性と呼べる。そこではじめて、だ』
ジズは感情を押し殺す。ただ律そうとする。余計なことを喋ってはならぬと、とうに過ぎた碧色の悲劇がそう忠告してくるものだから、彼女は黙って下唇を噛んでバグリスの手元を注視した。
何をどうやって追い詰めるつもりなのか、なんとなく感じ取ってはいたから。
『誰しも怪物を飼っているものだ。君が知っている程度の君などどうでもいい』
「……チィちゃんを放して」
『いいとも。前向きに検討してあげよう』
リフターの言葉が甦る。バグリスが懐に手を入れた瞬間、ジズは地を蹴った。ナイフか鋏か刀、それとも殺鼠剤……なんだっていい。とにかく、バグリスがそういう手段でチィちゃんを痛めつけようとしているのは明らかだ。悲劇の再現を看過するほどジズはのろまではない。
だが、彼女にはあらゆるものが足りなかった。碧玉ほどの無茶を押し通すだけの胆力もなく、かといって警邏の頬を噛み千切るだけの鼠ほどの度胸もなかった。悲劇とはそうして起こるものだ。
いくら聡かろうが知は力たり得ない。ジズはそれを知っている。知っている筈だったのに、考えもないまま財貨の蛇へと突っ込んだ。
『おっと』
冷えた金貨と萎びた札束が骸骨を包む。ジズは手を伸ばす。
一足。わずかに一歩だけ遅れた。鼠なりに精一杯足を動かして前へ進んだつもりだった。
だが遅すぎた。骸骨はもう後ろにいた。片方の手に桃色のハンカチを携えて。
『手品師には、手品師なりのやり方がある』
翻ったハンカチから鉄の塊が現れる。人の口か、あるいはガマ口の財布……見てくれはどうでもいい。虎バサミだとか、鼠取りだとか、とにかくそういう〝挟む〟タイプの罠の一つだ。鋸状の口元はバグリスの帽子と傘によく似ている。
いやらしくもその罠は、碧玉と同じ深い緑色で出来ていた。
『なつかしい色だろう?』
「最っ悪……!」
チィちゃんは太っちょな方ではないが、その体には少し大きすぎる。足だけを挟むには難儀するサイズの罠だ。ならばどこをどう挟むのか。ジズは考えたくもなかった。
「やめて!」
『手品師は鳩を殺さない』
バグリスがチィちゃんの腹を撫でた。
『パートナーだからだ。お互いをよく理解しているし、言うことを聞けばご褒美もあげる。
なら言うことを聞かない鳩はどうする? 自分の牙でもって飼い主に歯向かい、誰が手品の手伝いなどするかとその手を啄ばんだ鳩は?
調教、するしかない。鳩だってタダじゃあないんだ。言う通りにすれば餌がもらえると体に覚えこませる。いや──言う通りにしなければ餌はもらえない、と……理解させるんだ』
チィちゃんに言葉は通じない。これまでもそうだったし、これからもそうだ。共に檻の中を過ごしたという共通点さえあれば、相手は碧玉だろうが鼠だろうが一緒だった。
碧。碧。お喋りな碧。ロニアはあいつを仲間だと言った。ならば彼女にとって唯一の仲間は死んでしまったことになる。とすればもう、あの仄暗い悲劇の香りを薄めてくれるのは、悲しくもチィちゃんという鼠一匹だけだ。
空鼠のチィちゃんという、たった一人の友達だけなのだ。
ジズは泣きそうになる。また、自分の強気な言葉……鞘走った剥き身の言葉が余計な結果を招いてしまった。そう自責するには充分すぎる傷痕だった。
羽が疼くのを感じる。悲劇が鎌首をもたげているのだ。後ろめたさが身体中を巡り、彼女の両足をその場へ留めた。
まだ強く覚えている。天上宮から落ちた時、ジズはぎゅっと鼠の体を抱いた。片翼の天使が抱き合わなければ飛べないように、彼女はチィちゃんの体を強く抱いたのだ。そうしなければ心がバラバラになって、どこかへ行ってしまいそうだったから。
じゃあ今度はどうする? チィちゃんが死んでしまったらその時は何を抱けばいい? 何を抱けばその悲しみを紛らわせることが出来るのだろう? 誰の肩を抱いて孤独の中を一人落ちればいいのだろう? その寂しさは誰に縋って満たせばいいのだろう?
ひとりぼっちになってしまったら、心まで不出来になってしまう。
『いいかい、手品師は鳩を殺さない。だが──鼠はパートナーじゃない』
チィちゃんの瞳がジズをとらえる。ジズもまた瞳でチィちゃんをとらえた。助けを求めているのか、それとも自分が何をされるのかも分かっていないのか、言葉は通じないからジズには分からない。それでよかった。言葉など通じない方が救われた。
彼女には、どうすることも出来なかったのだから。
ジズはもう何も言わない。黙って目を逸らした。予感していたし、覚悟もしていた。今度は先刻のように純然とした覚悟ではない。諦めと呼べるものだった。
おおかたそのままチィちゃんを放し、それから〝君が離せと言ったから〟などとのたまうのだ。ジズはそう当たりをつけ、そしてそれはその通りになった。
がちん、といやな音がする。友達が死へと向かう音だ。続いて鳴き声が聞こえる。いつものチィチィという声と違って頼りがない。断末魔にしては可愛らしいが、苦しみの色は十二分に聞き取れる。
ジズは目を閉じこそしたが、耳だけは塞ごうとしなかった。
「おっと、やってしまった」
バグリスはそう言ってジズへ目をやる。黒ずむ桃色の翼を見る。それから、退屈そうに罠とチィちゃんを二、三度揺さぶり、ぜいぜいという小さな息遣いを確認してからジズの足元へと放った。
『なんということでしょう! 不肖、このバグリス世紀の大失態! 哀れなる鼠が腹から真っ二つに……!』
筋書き通りの科白だ。ジズの両目はただ陰る。力なく跪いてチィちゃんに触れ、まだ暖かい柔らかな体を抱いた。布地に暖かな血が滴り、その髭が鼻先をくすぐる。
死に体だ。だが生きている。ジズも鼠も生きている。ジャスパーは死んでしまった。
チィちゃんももうすぐ後を追うだろう。私の番はきっと来ない。ずっと自分の番が来ないまま、自分の大事な何かを失い続けていく人生が待ち構えているのだ。
曇った悲劇の香りが、またジズの内側から滲み出した。
『君が離せというから』
じわじわ。じわじわ。翼は黒ずむ。彼女の輪郭に黒が見える。上質な黒だ。怒りと悲しみが入り混じった、何物にも染められぬ真っ直ぐな黒。
「憎いかい、ロリィタ・ジズ」
願ったり、叶ったり……そういう調子で、バグリスはジズへと語りかけた。
「憎いだろう。大事な大事なお友達を殺されてしまったんだ。
正直になりたまえ。建前の愛や優しさなどではなく、君の本性を見せてみたまえ。あいにく私は理想化などに興味はない。見たいのは〝君がなりたい君〟ではないんだ。こんなものでは僕の興味は満たされない。お客様も購買欲をそそられない」
興味。購買欲。ジズの中に呆れが生まれ、やがてそれが棘を纏って怒りへと変わる。
「殺したな」ジズは呟いた。「そんな……」
『聞こえないよ』
「そんなくだらないことのために、私の友達を」
『もっと大きな声で!』
拳を握るジズ。そのたび反吐が出そうだ。胸の奥がむかむかして、ぐらぐらして……。
それでもジズは押さえた。涙と共に、ありとあらゆるものを吐き出すまいとした。ここから出せと口うるさく檻を蹴り付ける獣を、鋼鉄の鎖でぐいと踏ん縛った。
最後のあがきだ。ここで飲まれればもう後はない。最も過酷にして残酷な最後の線引きだ。試されている。私は今、自らの翼に試されている。お前は愛と優しさの名を持つに足り得る、薔薇なのかと……翼はそう問うている。抗えるものなら抗ってみせろと、そのドス黒い疼きで語りかけてきている。
陰りに飲まれてなるものか。意志まで奪わせてなるものか。ジズは耐えた。唇をぐっと噛み、肩を怒りに震わせ、それでもまだ耐えていた。私に触れるな、摘ませてなるものかと、頑強な意地を棘さながら尖らせて粘りに粘った。
だというのに。
「そういえば」と、バグリス。「ジャスパー君も、君の愚かさゆえに殺されたそうだね」
悪趣味な骸骨は薔薇へ手を伸ばした。その桃色を摘まんとすべく、尖った緑にまで手を出してしまったのだ。己の指を刺すと知りながら。
「なんで……」ジズが静かに目を上げる。「なんで、知ってるの」
それはもう彼女の目ではなかった。迸る憤りにその身を呑まれた、鼠と呼ぶには鋭さが過ぎたけだものの炯眼だ。彼女の中になみなみと注がれた怒りの波が表面張力を失い、器の外へと勢いよく零れ出した。
「だから、君たちはなりそこないなどと呼ばれる」
「馬鹿にするな」
ジズは。
「泣かないんだろう? 次はどうする? 殺してみるかい? 君には怒る権利がある。取れるものなら愚かな鼠達の仇でも取ってみるといい」
「私の友達を馬鹿にするな」
「事実じゃないか」
ジズという少女は。
「馬鹿のせいで死んだ連中を、馬鹿と呼ばずになんと呼ぶんだ」
「私の友達を馬鹿にするなァッ!」
煤ばんだ陰りの薔薇は、背中の怪物が目覚めるのを感じた。
「────さぁ見せろ、フェザーコード・オペラ。君の、貌を」
ジズの心がひっくり返る。脳みそがすっと冴え渡り、体の中が冷え切ってゆく。
輪郭が黒に撓む。漏れ出た憎悪の粒子だ。彼女の翼が醜悪に捻じ曲がり、その柔らかな羽を鋭利な棘へと変える。怪物が彼女の心を染め上げてゆく。
飲まれる。闇が私を丸呑みする。
ドス黒い翼がのたうち回る。その鋭利な羽先は、バグリスの頭蓋骨を打ち砕こうと奮え、軋々と音を立て────
────そして最後の闇の淵、ジズの瞳は輝きをとらえた。
目の端に映る。小さな光だ。鏡。鏡だ。バグリスが取り出したまま置いてあった鏡。菫色の怪物が映っている。怒りに呑まれたその顔は、とても薔薇とは呼べないものだ。
ああ、その通りだ。なりそこないだった。なりそこないとして生まれ、なりそこないとして死んでゆくのだ。私は薔薇にはなれない。なれるはずもなかった。
言葉に甘えた。悲劇に溺れた。我こそは煤ばみし陰りの薔薇と、鼻につく執拗な悲話のカビ臭さを振りまいた。天使になれると高望みした。
愛に憧れ、優しさに焦がれた。慈愛の塊に手を伸ばした。卑しく屈み、鬱々と屈み、自分の背筋を誰かが正してくれると信じて地を這った。救いですら他人に求めた。救ってくれるなら誰だって良かった。だから手を伸ばしたのだ。
月でも太陽でもない、もっと明るい何か。自分を変えてくれる何か。夢に縋らなければ満足に空も飛べない、檻に閉じ込められた鼠のような自分を変えてくれる何か。
自分を天使にしてくれたなら、きっと誰だって良かったのだ。
私は薔薇。悲劇の薔薇。薔薇水晶。自己愛の塊。わがみかわいさで出来た綿菓子。脆く崩れやすくしつこいぐらいに甘く、肌にべたつくなりそこない。
わがみかわいさで碧玉の色すら曇らせる──ただのわがままな怪物だ。
やっと分かった。嫉妬だったんだ。だからロニアを邪険にした。その慈しみの輝きに中てられるたび、自分の影が面積を広めていくようで。
光は強いものだ。陰を晴らすことはあれど逆はそうない。明るければ明るいほど闇は深まる。たとえ、それが善意でもたらされたものであったとしても。
変われると言い聞かせる自分がいた。変われぬと言いくるめる自分もいた。どっちを取ればいいかジズには分からなかった。
だから甘えた。自分が傷付かない方をとった。変わる覚悟も明確な意志もないまま、家畜が糞尿を垂れ流すように願望や泣き言や恨み節を託ち、人は変われない生き物なのだと自らの轍すら踏みにじり、どこまでも後ろ向きに自分の中の陰りを認めた。
共生とは言えない。ただの依存だ。自分の過去を従えることと自分の過去から抜け出せないことは大きく異なる。どちらに首輪がついているかが問題なのだ。どちらが檻にいるかが問題なのだ。過去の自分か、それとも今の自分か。
そうだ。檻にいるのは過去の自分であり、過去の中に求めた自分なのだ。その両方を孕んでいる。鏡に映った醜い生き物こそが、他ならぬ私の本性だった。暴くまでもなく奴はそこにいた。私の内側にずうっといたのだ。謳われる愛と優しさに齟齬を覚え、吐き気すらもよおし、しかし同時に憧れもした。どこか悪い気分でもなかった。
これを自己愛と呼ばずしてなんと呼ぶ?
ただ在るがままわがままに、私はいつでも怪物だった。
人は変われない生き物だ。ジズは、そう肯定してしまった。
ハロー、アルザル。私は自己愛の塊。
もういいだろ。はっきりしたよ。なりそこないはなりそこないらしく、呑まれて終わるのがお似合いだ。結局一匹の愚かな鼠は、天使になりたかっただけだったんだ。私なんかが天使になれるはずもなかった。
望むところを与えてやろう。私の孕んだ香りの全てを飲まれるがままに放ち、醜悪なる鼠の本性を見せつけてやろう。そうして奴らは笑うのだ。
陰りが満ちる。翼が染まる。薔薇よ。さらば。二度と会うまい。
私はもう、お前の輝きには耐えられない。
『────卑屈になってはだめよ』
鏡の中から声がする。そいつはジズに寄り添って、そっと翼に手を添える。後ろから彼女を包み、そして白く細い腕で両手を握った。
『きっとあなたは、自分の姿をちゃんと見たことがないんだわ』
ジズを成す全てが語りかける。夢か現かその狭間か。茨の蛹の中、彼女の中身がどろどろに溶け出し、そして形を変えてゆく。天使はそう言って、また出口を教える。出口だけを彼女に預けては、その先へは自分の足で進めと促してくる。
わからないな。何故。どうして、ロニア。どうして私を救おうとするの。
救われたその先へ歩みだすことは、こんなにも苦しいことなのに。
足りないものは愛だとわかっているはずなのに。無償で、無条件で、無抵抗で、ささくれや剃り残しなんて一つもない、まっさらでつるつるな愛だと知っているはずなのに。
たった一言、そのままでいいよと甘やかしてくれればそれでいいのに、どうして。
今でさえ、こうもわがままに拠り所を求めてしまう、私。こんな私なんかを。
私なんかを、どうして……。
『自分なんかと言ってはいけないわ。ジャスパーという人があなたを庇ったのなら、少なくとも彼にとって、あなたは命をかけるに値する人だったってことよ。自分を卑下してしまっては彼も浮かばれないわ。
悲しむことは勿論大事よ。でも、それをどう乗り越えていくかはもっと大事』
乗り越える。どう乗り越えればいい?
私はどうする? どうすればいい? 石の羽も使えず、自身の幸運を信じているわけでもなく、自身への肯定も足りない私は、何をどうすればこの場を切り抜けることが出来る?
他に私に何がある? ジャスパーには幸運と自信があった。ならば私には何が出来る?
私について──分かっていることはなんだ?
『綺麗な羽根。薔薇水晶の桃色の羽根。優しさと、愛の色よ』
鏡に目をやる。桃色だ。鮮やか……と言えば、鮮やかか。
足さずに、引かずに、真っ直ぐ見て──これが、私の色か。
『薔薇水晶はたしかに愛と優しさの石だ。それがお前の翼であり、お前自身の象徴でもある。俺たちの羽ってなぁそういうもんさ。
だが──優しさのほうが常にお前の味方だとは限らねえんだぜ』
現れたジャスパーはそう言った。
そうだ。優しさが常に私の味方だとは限らない。彼にとっての幸運だって同じことだ。なのに、裏切らずにいられるなんて。
どうだ碧玉。お前はどうだ。最後まで自分を貫いて死んだお前はどうだ。死ぬ間際まで己の幸運を信じ、そして自らの正解を信じていたお前はどうだ。
お前なら、こんな時なんと言った? 迷う私になんと声をかけた?
ああ、そうだ。そうだろうな。お前ほど愚かな男なら、愚直なまでの男ならばきっと。
自分が信じた運という奴を、最後まで裏切らなかったに違いない。
進言に、学んでみるか。幾数多の言葉たちに。私のこれまで、その全てが私を私と成しているのなら。鼠も鏡も碧も含め、この陰りさえもが私であるなら。
受け入れて、考えて────私にできることは。私にもできることは。
『自信を持って、ジズ』
ロニアが言った。
『あなたが優しい人だってこと、私、知ってるから』
できることは──裏切らずにいることだけだ。
最後まで優しさを裏切らずにいよう。愛と優しさが私を裏切ろうとも、私だけは愛と優しさの味方でいよう。そうあるように、そうしよう。信じることで引き寄せよう。己の桃色が愛と優しさであると信じ、そうなるように生きてみよう。
ジズは問うた。目で返した。言葉は使わなかった。
碧玉は何も言わない。皮肉げに口を歪めて手を振り、そして結晶となり霧散する。
散らばった輝きが闇を裂き、ジズの繭の中を照らし出す。そうして全ての鏡像が消えた。彼女の欠片を借りて語りかけてくる、自分を眺めていたもう一人の自分──そのすべてが。
刹那か。それとも劫。
長い、長い、一瞬の出来事だった。琥珀の中、時と共に閉じ込められていた気がした。
碧。碧。愚かなる碧。最後まで歯向かった敬服すべき誇り高き碧。
お前が────お前がこの闇に打ち勝とうとしたのならば────私はきっと、これを乗り越えなくてはならない。自分の意志でもって乗り越えなければならないのだろう。
お前はそうした。眉なしの首を刎ねるではなく、私を救うことを選んだ。たとえそれが仕方なくでも、その運命の元に今の私が生きている。
ならば。
ならば私は────私も。私なりの、小さな牙で。
チィ。鼠は小さく鳴いた。涙はないけれど、きっと泣いていた。黒い翼を振りかざしたまま静止し沈黙する彼女の指先に擦り寄り、その陰りを分かつように鼻先を近づける。
その痛々しく小さな温もりが、彼女を闇から引き戻した。
泣くものか。ジズは決めた。自分の意志でそうと決めた時以外は、決して泣かないと自分に誓った。薄幸の少女を演じる為になど間違っても泣いてやるものか。体が我が物でなくなろうとも、心まで奪わせてなるものか。そう決めたのだ。
いつか、揺らいでしまうかもしれない。私は弱いから。それでも誓う。そう信じる。そうあろうとしていれば──いつか、本当にそうなれる気がするから。
「……そうだよね」
愛と優しさが自らを成すのなら、泣くべきはその為だ。愛と優しさの為にのみ、自分は泣かなければならないのだ。下卑た目で人を値踏みする奴らの為に、ましてや人の心を踏みにじる眉のない絶望などに屈して泣いてはならない。
「ごめんね、チィちゃん。痛かったよね」
愛と優しさ。薔薇水晶。ならば私は薔薇であろう。
「痛かったよ、私も。ずっと……長いあいだ、ずっと……」
その桃色を裏切らず、石に相応しい人になろう。煤ばみし陰りも私の一部だ。悲劇も含めて私を愛そう。自分を愛し誰かを愛し、そうして育んだ愛と優しさを、誰かの陰りを濯ぐために使おう。
だから。
「今、助けてあげるから」
愛であろう。
優しさであろう。
その名に恥じぬ薔薇であろう。
意志を。ただ明確な意思を。口を開けて滴る雫を待ち、与えられるものを与えられるがままに貪る、染み付いた家畜根性に決別を。
────ただ、明確な石を。
「…………絶頂不可避」
バグリスは呟いた。骸骨の身ですらその美しさに魅入られた。己の陰りが吸い込まれていくように感じた。
薄幸──その言葉がよく似合う。飾り付ければ度が過ぎる。隠そうとすれば陰りが滲む。
慈しみを思わせるその表情が、彼女が彼女であることを肯定していた。手品師の戯れにも、俗悪な衆目にも、眉のない絶望にも打ち崩せはしないであろう、絶対的な色だ。黒い翼はその陰りを散らし、あるべき桃色へと姿を変えた。
そこには愛があった。愛と優しさがあった。黒い翼はその陰りを散らし、あるべき桃色へと姿を変えた。彼女のあるがままとしてその色に染まったのだ。
自己への絶対的な愛があり、そして無償なる隣人への愛があった。
花弁が散る。桃色が舞う。巨大な薔薇を背に少女は言う。
ただ在るがまま我がままに。
薔薇水晶のジズは、静かに怪物をねじ伏せた。
「────【煤ばみし陰りの薔薇は馥郁と】」
逡巡の果て、薔薇より色濃く薔薇色に、石の蕾が咲き渡る。
薔薇は言っていた。陰りも茨の碧も含めてこそ、私は私たり得るのだと。
◆
凡俗どもは奇跡を目の当たりにした。花を模った石の羽は、見るもの全ての脳味噌から時を奪い去り、そして薔薇が咲く壇上に置き去りにしたのだ。
『薔薇色……』
バグリスは呟いた。意志に係わりなく。
石の羽……羽? これは羽と呼べるのか? これでは石の花ではないか? バグリスは自問する。だが、背中から生えているということは間違いなく羽だ。彼女の言葉に従ってその姿を現し、彼女の翼に相応しい色合いを持ち、そうして照明の元に燦然と輝いている以上、それが彼女ら比翼者特有の生体鉱物化現象によるものであることに疑う余地はない。
答えとしては正解だ。最適解とは呼べないが基準は満たしている。要するに〝石の羽〟という特別な商品──比翼者一人一人に天から与えられた才覚がどれほどの美しさなのかを買い手に説明できれば……それでいいのだ。それこそが競売に求められていたものであり、悪趣味なパフォーマンスの存在理由でもあった。
数多の競売を捌いてきた骸骨は、生まれて初めて自分が死後の体であることを悔いた。その桃色の輝きは瞳をなくした二つの洞穴にさえかくも美しく映ったのだ。これが生身であったなら──価値観だけでなく心すら奪われていたに違いない。そしてそいつを取り戻すことは永劫叶わなかっただろう。
ジズは手を翳す。薔薇が踊る。バグリスは思わず構えた。死ぬことなどとうに忘れた身であるにも関わらず構えてしまった。久しく忘れていた反射だった。繰り出されるであろう一撃に耐えられる自信がなかったのだ。
だが、ジズの矛先は骸骨ではなかった。バグリスなど眼中にも入っていない。花から伸びた茎の先端……注射器の針のように尖ったそれは、彼女が勢いよく腕を振り下ろすのに従って、瀕死の鼠の胸元を一思いに深々と貫く。
『ん!?』
バグリスは混乱する。これも彼の人生では随分とご無沙汰なことだった。よもや自分が観客たちと同じように唖然とする日が来ようとは。
触手のように伸びた無数の茨が鼠の体を包む。次いで茎が脈動し、応じて頂点の花弁が黒く染まりながら膨れ上がった。陰りを吸い上げているようにも見える。
まるで、採血だ。
「……注射器……」
バグリスはまた声を漏らした。今度はマイクを通すのも忘れてだ。
細い棘が鼠の皮膚を這い、そうしてその薄皮を破り、ズタズタにされていた皮膚組織を繋ぎ合わせてゆく。外科医の執刀を見ている気分だ。鼠の表情から徐々に苦悶の色が消えてゆき、輪郭に纏わりついていた死の色が霧散し、足早だった呼吸が落ち着いてくる。
斯くして一通り傷を縫い合わせると、流れ出していた血液は桃色へと変性し、ついには氷のように凝固し始め、薔薇水晶の瘡蓋となって腸の傷口を塞いだ。
「……アガペーだとでもいうのか」
骸骨手品師の人生にもまた、鏡というものはなかった。まったくないといえば嘘になるが、生前の分を含まなければ覗いたことは殆どない。スカーフの巻き方から服の裾あわせまで全てレイチェルが教えてくれるのだ。強いて言えば彼女が鏡のようなものだ。
彼は我が眼を疑う。自分の相貌の方がよほど疑いようがあるが、鏡なき彼の生涯においては些細なことだった。あっても大して気にはしないだろう。
手品師はおおよそ奇跡としか呼べぬ所業を見て、安直に〝聖母の谷間〟などとふざけた薬の名を上げた自分を恥じる。続いて、奇跡の域に未なお達し得ぬ自分の手品を叱責し、しめしめよくやったと過去の自分を褒めてやったりもした。
これでは本物の聖母だ。泉が人を癒すようなものだ。奇跡のような──いや、奇跡そのものだ。他になんと呼ぶ? なんと呼べばいい? バグリスは博識だが、人の心の機微においてはその限りではない。同様に人の成し得る奇跡の名もまた知らなかった。
魔法。これでは本当に、種も仕掛けもない魔法だ。
石の羽というのはそういう物だ。この世界に一本の樹がもたらした粒子はそれを可能にした。感情粒子という名の魔法の素粒子は、魔素はそれを可能にしたのだ。
バグリスはそれを知っている。自身もその恩恵に預かっている。世界樹の葉の元に授かった魔法の力があればこそ、彼は本物の手品師なのだから。
だが手品師には信じられなかった。力というのは得てして人を傷つける為にこそ与えられるもの……魔の導きによって開かれる花だ。種も仕掛けもない慈愛の心や善意などはそこに一切関与しない。
たといこの奇跡の名が愛と優しさだと知っていようと、この闇の淵でそれが花開くなどとは誰が信じよう。あまつさえその力が、立ちはだかる闇を斃す為でなく、自身を護る為でもなく、他者の痛みを癒す為に解き放たれたものだなどと。
事実になってしまえばそれらはもうただの裏付けでしかない。彼女の明確なる意志は激情の全てを跳ねのけ、自ら望むところの力を掴んだのだ。
愚かな女だ。信じるか。この期に及んで、愛と優しさなどという姿なきものを。
「──さぁ、次はどうするの」
ジズは言った。巨大な薔薇を背にきっと前を向き、自らが癒した鼠を抱きながら、バグリスへと言葉を投げかける。
薄幸が、襤褸をまとって立っていた。
「これが私の答えだ。次はどうするの」
ジズは膝をつく。陰った薔薇に生気を吸われながら、しかし眼だけは確然とバグリスの眼孔へ向けて。
「…………」
飲まれる。人の身ならばとうに飲み込まれている。バグリスはふるえた。
この凛とした少女が持つ不屈にして不変の、気高さに満ちた桃色の瞳に。
「あんた達の思い通りになんかならない……」
ジズは一歩進む。血色の悪い顔をしかと前へ向け、鏡にしがみついて一歩を踏み出す。踏み出した。小さな一歩だ。あまりにも頼りない。だが偉大なる一歩だった。
鼠の小さな歩幅なりに、強く踏み出した一歩だったのだ。
「私は……私なんだから……」
意志だ。牙にも似ていた。鼠が持つ唯一の武器だ。殺処分待ちの型落ち品とは思えぬほど、力強い言葉。揺るがぬ肯定がそこにはあった。
疲弊の只中にいる。もはや意識も空ろだろう。すべては虚勢だ。バグリスの敵ではない。
ならば、なぜ──何故私は一歩下がってしまった? 何を恐れた? 力ではなければ、一体何を……。
薔薇の花弁が散る。劇場を桃色の結晶が満たす。ジズは花吹雪の中に力なく倒れ込んだ。その頬に鼠が擦り寄って、どうもありがとうとでも言う風にぺろぺろと舐める。薄れる意識の中、彼女はそっと鼠に触れ、安堵するように瞳を閉じた。
「……呆れたな」帽子を押さえ、財貨の蛇を収めるバグリス。「若さってやつは……」
表徴された慈愛の結晶は、見紛うことなき無償の隣人愛の元の大輪だ。あたかも、そう……神と呼ばれるものが与える、見返りなき無代の愛だ。
バグリスは神を信じない。彼の中に神はいない。ならば何者がこの奇跡を?
天使だとでもいうのか。無償の愛の、化身だとでも。
そんなタダより安い隣人愛など────いや────タダより高いものなどない!
『ンンンンンンンンン絶頂不可避ッッッ!』
バグリスは傘を掲げる。競売史上もっとも高らかに。舞い散る薔薇水晶の花弁の中、天使はここにありとでも言う風に、頂へとその先端を向けてやった。
『────紳士淑女の皆々様!』
変態は終わった。蛹は羽化し、その美しき羽を見せたのだ。もうこれ以上、彼の演出は必要ない。脱殻の宣言が劇場の外にまで轟き、一歩遅れて耳を劈くほどの拍手が会場を揺らす。
ただの拍手ではなかった。観衆達の高揚と奮え、それから緊張からの解放までもが詰め込まれた、音と感情の爆弾だ。
『劇場に咲いた一輪の薔薇! 傷を癒し、穢れを浄化する薔薇水晶の翼を持つ比翼者──彼女の名はジズ! ロリィタ・ジズ!! もはや語るが烏滸の沙汰! 我々は今宵、天使の運命を見届けます! 果たして彼女の競売市場価格やいかに!
ムッシュー、入札は挙手にてどうぞ! 第一手、開始価格は一〇〇万ゼスタから!』
わっと手が上がり、それから声が上がる。
五〇〇、六〇〇、六五〇、七〇〇、八〇〇。ジズの三倍は生きたであろういい歳の大人が、我先にと血眼で大金をつぎ込んでゆく。上がる手が多すぎてバグリスの捌きが追いつかない。もはや秩序と呼べるものはなかった。
彼らは奇跡に奪われたのだ。その瞳を、かくも鮮やかに。
『八五〇!』『九五〇!』『一〇〇〇!』『一〇五〇!』『一二〇〇!』
上がる。上がる。まだ上がる! バグリスは心躍らせる。彼は素封家だが、今日に限っては懐に入る金額などは問題ではなかった。
ただ見届けたいのだ。この残酷なまでに美しき桃色……煤ばみし陰りの薔薇の馥郁たる香りが、どれほどの金額を叩き出すのかを。
ああ、なんて惜しいことを。
こんなにも鮮やかな色ならば、あわよくば、自分のものになってくれれば──
『────二〇〇〇』
しわくちゃの手を上げ、マダム・クリサリスは遂に動いた。
鶴の一声だ。老婆の呟き一つで、劇場を埋め尽くしていた野次雑言の類が、ぴたりとやんで静まり返る。時が止まった……ような気がした。
一拍置いて、客席が喧騒を取り戻す。幕が開いた時よりも喧しい。バグリスは予定調和だと知りながらも、最後まで演出を貫くべく両手を広げてお道化てみせた。
『静粛に! 静粛にっ! えー……七五番の方、そちらのマダム。そう、そちらの貴方です。失礼ですが今なんと?』
マイクを片手に立ち上がり、老婆は続ける。おいおいこの年増ついにトチ狂いやがったと、チネッタはそういう心持ちで引き笑いを浮かべた。
『二〇〇〇万ゼスタだ』
言葉の重みに変わりはない。どころかその意志を更に揺るがぬものにする。背格好こそ整直で素顔は窺えぬままだが、しわがれたその声とインテリ然とした落ち着きが、観衆達に相当の老獪さを思わせた。
彼女の言葉が競売荒らしの為のジョークではないことは、幾人かの男達が匙を投げるようにペンを放り出したことからも明らかだった。
魔酒一本はおよそ二〇〇〇ゼスタ。魔草一鉢でその半分。一〇〇〇万ゼスタあればマダムの屋敷ほどではないにしても小さな家が建てられる。チネッタの下着などせいぜい魔酒一本ぶんと同じぐらいだ。万年補欠の勝負下着でも四〇〇〇ゼスタで事足りる。
ならば天使は? 天使の値段は? その背に薔薇を従えた、愛と優しさを象徴する類稀なる天使の値段は? はたして家二つ分を注ぎ込んでなお余りあるだけの価値があるのだろうか? いくら石の羽が特別だと言えど、そこまでの価値が彼女にあるのだろうか?
チネッタには分からない。だがマダムはそういう女だ。値段などさして問題ではない。欲しいと思ったものは何がなんでも手に入れる。
マダム・クリサリスは値段を見ない。彼女が値段を決めるのだ。
『はっはぁ素晴らしい! 失礼ですがあなた貨幣の価値をお分かりでないようだ。それとも店ごと買うおつもりかな? いいですか、悪戯入札は固くお断りします。二〇〇〇万ゼスタなんてのは、とてもじゃありませんが個人で用意できるお金では』
壇上へと投げ渡される木箱。放物線を描いて飛来したそれを、バグリスは貨殖の駑馬で飲み込み、そして虚飾の駿馬で吐き出す。
次いで、軌跡を描いて翳された杖の先からは夥しい数の一万ゼスタ紙幣が吐き出され、細雪よろしく舞い散った。美しいが、薔薇には劣る。
『金を崇めるだろう、守銭奴』マダムはせせら笑った。『神にも悪戯はある』
『……アー、ハァーン。こりゃ大変失礼をば』
わざとらしく一礼するバグリス。骸骨と老婆の視線が交差する。
『入札を認めます、最高価格更新! 七五番、二〇〇〇万ゼスタです! さぁ、他にどなたか入札する方は? はい、十三番のあなた! そこのマドモアゼル!』
巻き髪の婦人が手を上げる。観衆は息を呑んだ。この金額まで昇れば大多数の凡人には手の出しようがない。あとはどちらが競り勝つかを見届けるばかりだった。
『二三〇〇万』と、婦人。
「マ、マダム……」チネッタは思わず漏らした。「これ以上はやばいって」
「いや、乗せる」
小娘の杞憂だ。マダム・クリサリスは胸元のブローチを外し、バグリスの方へと放り投げた。チネッタの制止など気休めにもならない。同じく帽子に飲み込まれたそれは、ダイヤの粒となって降り注ぐ。
『二五〇〇万』今度はマダムだ。『二五〇〇万ゼスタだ』
落とすのはこの老婆だ。会場の誰もが確信していた。石油王が国一つまとめて売り渡そうとも入札をやめはしまい。
婦人の歯が軋んだ。涼しげな老婆の目元に苛立ちを覚え、より強く見返す。だがマダムには効果がない。淑女に似合わぬ口元と共に、若き婦人もブローチを卓上に置いた。
金だけでなくプライドが乗っているのだ。意味を持たぬ矜持だった。
マダム・クリサリスに対してあらゆる恫喝は効果を持たない。彼女自身が恫喝そのものだ。若き婦人は再度ブローチを卓上に叩きつけ、反撃とばかりに言う。
『……二七〇〇』
それを皮切りに沈黙が訪れる。老婆は何も言わない。淑女は口元に笑みを浮かべる。ここに来て大番狂わせか──誰もがそう思ったが、しかし老婆は再び口を開き──
「ぎゃーマダム!」チネッタが頓狂な声を上げた。「駄目だってそれだけはっ……」
『三〇〇〇』
──とどめを刺した。静かに卓上へ置かれたのは、セピアがかった懐中時計だ。妙に年経たレトロな、悪く言えば古ぼけた色合いをしているが、滑らかな光沢と質感は失われていない。一級のヴィンテージであることは、入札を認めたバグリスの目が保障している。
『三〇〇〇だ。終わりだね、小娘。だが気骨だけは歓迎しよう』
老婆はこともなげにそう言い、小振りな着火機を取り出して葉巻の先端へ火をつける。熟成された上質な魔草から煙がくゆり、二十半ばの小娘では理解しがたいその芳醇な甘さでもって婦人を煽り立てた。
『大人の世界へようこそ』
マダム・クリサリスは丸眼鏡を押し上げた。
忍びやかに余生を過ごす老人の目ではない。積み上げた経験則の元に全てを捻じ伏せる──暴力的な哲学の持ち主の炯眼だった。
絵に描いたような敗北に、婦人が唇を噛む。ブローチを首元へ戻し、彼女はやけ気味に席を立った。
もはや誰も挙手はできない。打ち止めだ。バグリスが傘で床を突くと同時、今日だけで何度耳にしたかも分からぬ、割れんばかりの拍手があがった。
『終了! これにて今夜のレイトショーは終了です! 歴代最高価格更新! 絶頂不可避ッ! 信じられない金額だ!
アトラス史に残る奇跡の競売を征したのは七五番、マダム・クリサリス! フェザーコード〝オペラ〟、ロリィタ・ジズ──薔薇水晶の翼を持つ愛と優しさの比翼者──その少女時代、三〇〇〇万ゼスタで落札ですッ!」
散らばった紙幣は物言わぬ。されど命を値踏みする。二〇〇〇枚の紙幣と鉱石のブローチ、それからセピアの懐中時計が、ジズの少女時代に貼られた値札だった。
「さて」烏合の衆の只中、老婆は笑った。「長いぞ、ここからが」
マダム・クリサリスは値段を見ない。彼女が値段を決めたのだ。