第六羽「拡大解釈」

 

 

 

 

 睡魔の肩口を酸素ボンベ片手に登り、彼奴きゃつに根を張ってビバークをかます。ジズは登山家ではないが、夢への潜水は登山に似ていた。

 ジズは歩いた。自分の足で歩いて登った。ふかふかのスポンジで出来た小山だ。頂上には生クリームの雲がかかっていて、飴細工あめざいくの木々にグミのつたが絡まっている。

(……お菓子の山)

 てのひらを見る。生命線に異変はないが、人差し指が一本多かった。

 夢だ、と……彼女は看破かんぱする。この小さな気付き、認識こそが、夢の世界に意志を介入させる手段──つまりは、明晰夢めいせきむを自在に操るための必要条件だった。

 三匹のヒヨコが虎をくちばしでつつき殺したかと思うと、次のシーンでは自分が列車を乗り過ごしており、列車に乗っていたと思えばバスの中で芳香剤を暖炉にくべている……夢のほとんどは、そういう支離滅裂なものだ。

 ジズはそれでは満足できなかった。どうせ全てがまやかしなのだから、良きも悪しきもみな思い通りになる方が楽しめる。

 必要なのは認識だ。かくあるものだと認識することで、夢の世界はそう振る舞い始める──そのメソッドを、ジズは誰かに習ったわけではない。

 されど言外に理解していた。明晰夢という、全てが思い通りになる世界への鍵は、神に似た視点から繰り出す〝絶対的な認識〟なのだということを。

「そうね。明晰夢を見るのって、意外と大変なのよね」

 ロニアの声だ。もじゃ毛の天使はどうにも仕事をサボりがちらしい。包み紙の茂みを抜けると、クッキーの地面を爪先でざりざりとこすっている彼女がいた。

「おはよう、ジズ」

「おはよう」

「今度は〝おやすみ〟って言わないのね」

「だって朝だし」

「早起きなのね。私、この時間はまだ寝てるわ」

「私だって寝てるよ。夢の中にいるんだから」

「そう。そうね、そうだわ。その通りよ、ジズ」

 キャラメルのベンチに腰かけるロニア。ジズも隣に座った。

「今日は映画は見ないの?」

「……いや、今日は……」

 ジズは赤面して顔を伏せる。駄目だ。今フィルムを流せば映写されるのは競売の一幕に違いない。まさかレイトショーをポルノにするわけにもいかないし……。

「えい」

 ロニアがぱちんと指を弾く。続いて雲海のスクリーンにレトロがかったノイズが走り、恍惚とした表情のジズが映し出された。

「わぁああー!」

 半狂乱でロニアに掴みかかるジズ。当のもじゃ毛はくすくすと笑うだけだ。それも艶かしい流し目でスクリーンを見ながら。くそ。この女、天使か悪魔かどっちなんだ。

『この変態』

『ぅ……』

 甘い声だ。顔が薔薇より赤くなる。たまらずジズは耳をふさいだ。

「ジズ、あなた」隠されたロニアの口元から、笑みがこぼれる。「受け身なのね」

「消して!」

「はいはい」

 再びロニアが指を弾く。あわや絶頂というところで未成年閲覧禁止のレイトショーが終わり、晴天に薫風くんぷうが吹いた。

「散々な目にあったのね」

「あの骸骨、次会ったら絶対殴る」

「あら。じゃあ二回殴らなくてはならないわ。私の分ってことにしておいて」

「二回?」

「知らない? 右の頬を殴られたら、左の頬を差し出すものよ」

 それは知っている。有名な昔の本だ。しかしああも悪魔然とした、まして人を騙すことを生業なりわいとしている手品師が信じるものだろうか。

「バラバラになっちゃうかも」

「骸骨だもの、また組み立てればいいのよ。なんだったかしら……ぷら……ぷらも……そう、プラモデル! 頭から足を生やしてやればいいわ」

 そう言って笑うロニア。柔和な顔つきのくせに存外えげつない発想だ。意外な一面だった。知れば知るほど分からなくなる。不思議な女だ。吸い寄せられる。ついそのすべてを知りたくなる。

 知識があり、言葉遣いも丁寧で、どこか気品がある。明るく、前向きで、慈しみに溢れた天使のような女……自分と正反対のこの女が、どんな過去を経て作られてきたのか……ジズには想像もつかなかった。お世辞にもユーモアのセンスがあるとは言い難いが、そこはジズも同じことだ。

 陰り。陰りこそがジズをジズたらしめていた。陰りがあっての薔薇だった。

 ならば──ならばこの女は?

 天使の生き写しのようなこの女は、一体どんな少女時代を過ごしてきたのだろう。

「ねえ、教えてロニア。あなた、何者なの?」

 ロニアは一瞬きょとんとする。無言のままざりざりと足先でクッキーを弄び、それから彼女はジズの方に向きなおった。

「前にあなた」と、ロニア。「自分のこと、ねずみだって」

 ジズはどきりとした。

「……ロニアには言ってない」

「でも、思ってたでしょう?」

「……うん」

「私も同じよ」

 同じ。同じ? 同じとはなんだ? ジズは眉をひそめる。私とあなたは正反対だ。ひとかけらたりとも同じであってなるものか。

「値札が貼られるのを待ってる。でもね、ジズ。私、天上宮のこと、そんなに嫌いじゃないのよ」

「え?」

「だって、それが私の値札だもの」

 はた、と目が覚めた。唐突に始まり唐突に終わる。夢はいつもそうだった。こっちが感傷に浸る余裕など与えてはくれない。思い出すのは既視感きしかんを覚えてからだ。

「……あれ……」

 体が温かい。ベッドの上だ。毛布もある。窓の外からは小鳥の鳴き声。なんだ、また私は、知らない場所にいるのか。

(……何の夢見てたんだっけ……)

 ジズは自問する。さっきのはただの夢だっただろうか。明晰夢だったら覚えているハズだ。しかし感覚は確かだった。指の本数を数えた気がする。思い出せない。

 なにか、大事な夢をみたような気がしたのに。

 ごろり。ジズは仰向けになる。

 もう夢は覚めた。今度は現実だ。しかし眼前が妙に暗い。今日は生憎あいにくの曇り空か、夢でもないからシネマが見れるわけでもなし、雨で気分が滅入るしでいいことなしの──

 ぱちり。ジズは目を開ける。バグリスの空洞と目があった。

「バッ……」

「グッッモーニンロリィイイイタジィズゥハッハァアアアアアアア!」

 懐中時計は午前九時。クソったれ。こっちが夢だったら良かったのに。

 少女はけたたましく朝一番を叫んだ。それはもう、鶏の方が目を覚ますほどに。

 

 

  ◆

 

 

 惰性だせいは人を縛る。地に足を引きずり込み変化を躊躇ためらわせる。職務、人間関係、ひいては着るもの食べるもの……積み上げてきたものが大きければ大きいほどそいつは重さを増してゆき、手放すことさえ億劫にさせるものだ。こいつもまた、怪物と言える。

 惰性が絡んだ習慣ほど無意味なことはない。そこにあるのは妥協だけだ。面倒だからこれでいいやと、オムレツとトーストのプレート……昨日と同じ朝食を食べ、今更いまさら派手に着飾るのもなあと、昨日と同じように服を着合わせる。

 クアベル=ラズワイルは惰性と自堕落じだらくとものぐさの塊だった。仕事においてもそうだし人間関係においてもそうだ。昨日と同じ服を着るよりも、新しい服を選ぶほうが億劫おっくうに感じる。

 自堕落でものぐさな彼女は、二度寝をかました挙句に腹痛がひどいと布団に包まり、惰性で交際している生真面目きまじめな恋人へ仕事の代理を頼み、こいつは面倒なことになってしまったまあいいかと、これもまた惰性と自堕落のままに夜半の警邏けいらをすっぽかす。

 そうして管理官のところに呼び出され、こいつは面倒なことになったとその扉を叩く。全て自分の自堕落が招いた結果なのに。というか、だからこそそれがどうにも面倒で、かと言ってこの自堕落を治す気合いもないし……もう、悩むのも面倒になってくる。

 クアベル=ラズワイルはそういう女だ。締まりのない声にも分かりやすく現れていた。

「クアベルでーす」

「まず階級を言え」と、扉の向こうから答えるリフター。

「えー、五層巡回担当クアベル=ラズワイル。性別は女。年齢は二〇歳。好物はダズベリー。寝起きはまああんまりよくないッス。身長は」

「貴様は健康診断に呼ばれたのか?」

「や、リフたんが呼んでるよって言われたんで来ました」

 入れ、とリフターが声を返す。いい声色だ。渋く気高く、程よく枯れており、なによりクアベルの気の抜けた声と違って締まりがある。

 彼女はこれまた面倒臭そうに扉を開け、先ほど目覚めましたおはようございますと言わんばかりの、よれた肌着姿のまま敬礼した。

「ドーモ。遅れました」

 敬礼とは呼べぬだらしなさだ。うやまいも礼節も見当たらなかった。翼隠衣も皺だらけ。枝毛の混じった薄い橙色の長髪は右へ左へと滅茶苦茶にねじれており、今の今まで彼女が眠りこけていたことを容易に想像させる。

 身なりを整えていないのは時間がなかったからではない。あったところで彼女は整えない。いつもそうだ。誠実で規律にうるさく自堕落を許さぬ、あるふでまめな男がいなければ、彼女はそのものだった。ナマケモノが服を着て歩いているのと大差はない。紫の瞳を覆うまぶたが半開きなのも、寝ぼけまなこだからではなくいつものことだ。

「クアベル。隣室の者に伝言を与えたはずだぞ。私は何時に来いと?」

 はて、とクアベルは頭を小突く。

「午後十時……いや、九時だったかな……まぁ遅れたんだからどっちでも一緒でしょ」

「今は何時だ?」

「一夜明けて午前九時すかね」

「……貴様は相変わらず……なんだ……相変わらずだな」

 リフターはそう言って、半分えぐれた食べかけのオムレツからさじを離した。言葉の覇者でさえ言葉を見つけられなかった。これは偉業だ。アトラス史に残る奇跡と言っていい。クアベルにしか出来ないことだった。呆れの境地だ。更にクアベルは追い討ちをかける。

「管理官、オムレツ冷めるっすよ。食べ終わるの待ってるんでどうぞ」

「……今に始まったことではないが……清々すがすがしいな貴様は。恐怖すら覚える」

「いや全然それほどでも。あっ珈琲コーヒーもらっていいすか、朝ごはんまだなんで」

「…………好きにしろ」

「いぇい」

 言うが早いか、クアベルは棚から陶器のコップを取り出す。紙へと湯を注ぎ、まあこんなものかとその香りに鼻を近付け、最後に小瓶の中の角砂糖を手にとって──

「砂糖は二つまでだぞ」

 ──六つ入れた。

「砂糖がなんスか?」

「もういい」

 リフターは落胆する。リフターともあろうものが落胆する。眉間にしわを寄せ、熱を失ってゆくオムレツを見やり、漂うバジルの香りから意識をクアベルへと向け直した。

「貴様のおかげで私のモーニングは滅茶苦茶だ」

「オレのモーニングなんていつもバーニングですけど」

「だろうな。察するに余りある」

 クアベルは湯気の立つ陶器を片手に持ち──椅子があるにも関わらず──ソファの上の枕を放り出してそこへ座った。

 天上宮最高管理官の部屋を我が物のように闊歩するのだから、もうリフターは溜息すら漏らさない。呆れるだけこころの無駄遣いというものだ。

「呼び出された理由は分かっているな?」

「ウィッス。腹痛でサボりました。すんません」

「それはいつものことだ。腹痛ではないのもいつものことだ」

「あらバレちった。いやでも嘘じゃないですよ管理官。ちょうどあの、満月の日だったんで」

「それ以上ふざけたら貴様の細胞周期を紙に書いて警邏の手引きに追加してやるからそのつもりでいろ」

「……ウース」

 クアベルは口をつぐむ。それすら渋々しぶしぶといった様子だ。よく言えばどの警邏よりも肝が据わっており、悪く言えば何も考えていない。

 リフターは頭を抱えた。厄介なのはこういう相手だ。何も考えていない相手……。

「いいか、サボるのはまあいい。いや良くはないが、貴様ならまあ百歩譲って見てみぬ振りをしてやる。問題は四層の者に代理を頼んだことだ。ウスターシュに聞いたぞ」

 ち、とクアベルが舌打ちした。心底面倒くさそうに。

「あのじじい、チクりやがったな」

「言葉をつつしめ。いいか、五層から上には私が許可した者以外入れてはならない。奴らが逃げた後だから良かったものを。あと一足早ければ石の羽を見られていたんだぞ」

「オレがアゾキアに代理頼んだから着くのが遅れたんスよ。お手柄じゃないですか」

「そもそも貴様が代理を頼まなければこんな面倒にはなっていない」

「なるほど一理あるカモ。以後気をつけます」

「気をつけるだけでは駄目だ。遵守じゅんしゅしろ。二度目はないぞ」

「ウィーッス……」

 お構いなしで砂糖を継ぎ足すクアベル。リフターはまた大きく溜息を吐いた。

「貴様に言葉が通じている気がせん」

「願ったり叶ったりでしょ」

「願うだけで叶うものか」

「んったって、まずは願わないと始まんないでしょ」

「言葉遊びだそんなものは。旧時代の……なんだったか、低俗な音楽家……」

「シュティード=ジェイ=アーノンクール?」

「そう、それだ。奴の言葉と同じだ。プライドと飯がどうとかいう下らんジョークだ」

「うへぇ」クアベルは肩をすくめる。「オレ、アルバム持ってんのに」

「ともかく、本来なら二ヶ月は無給与のペナルティを与えるところだ。処罰は追って伝える。以後このような真似は厳しく謹んで貰おう。アゾキアだったか、あの手の真面目過ぎる人間は厄介だ」

「あぁー確かに。そこは同意ッス。ありゃ真面目過ぎる」

「貴様は不真面目が過ぎるがな」

「ちょうどいいでしょ、バランス取れて」

「ほざけ」リフターは吐き捨てた。「人は足りない物を埋め合うようには出来ていない」

 静かな語気だ。それでいて力強い。こういう声色の時は大体自らの経験則に基づいている。物臭ものぐさなものだから、クアベルはそれについて言及したりはしないが。

「これから講演だ。昼には戻る。クリスを頼んだぞ」

「え。まだ寝てるんじゃないすか。あの、眠り深いし」

「健康な生活というのは規則正しい起床から始まる。天使の目元に寝不足でクマがつくことなどあってはならない。今すぐ起こして朝食を与えろ」

「はぁ……」

 クアベルはにやにやと笑った。

「ロニアちゃんの何がそんなにお気に入りなんスかねぇ」

 

 

   ◆

 

 

 庭師にわしのビーガンは、その名が示すとおり菜食主義者だ。

 羽馬はねうまの肉も高空魚こうくうぎょの肉も、一片たりとて口にはせぬ。朝食は果物と穀物で賄われる。今朝の朝食がナッツとイチゴ、それから幾つかの野菜をミキサーにかけたものであったように。

 菜食主義者であることとは関係なしに彼の朝は早い。五時に起床し、六時にはもう庭に出て草花の手入れにかかる。常に早めの行動を心がけ、ありとあらゆる不足に備える。そう、あるじに──マダム・クリサリスの気まぐれな思いつきによって、グレーな庭に正午より早く呼び出された時のためだ。

「お待たせしました」

 ビーガンは菜食主義者だ。従って、食う為に家畜を飼ったりはしない。ニチザツと名付けられた一匹の羽馬は、彼にとってパートナーのようなものだった。

 焦げ茶の毛並みと巨大な翼、瞳は凛とした青。長い尾とたてがみは相応に歳を思わせるが、発達した四肢の筋肉は若きに勝るとも劣らず、ひづめにもひび一つ見られない。

 およそ一二〇年という羽馬の平均寿命からすれば、今年で一三〇を回るニチザツは十二分に老躯と言える。視力を失った左側の目が遮眼革ブリンカーで覆われているのも仕方のないことだった。

「行きましょうか、ニチザツ」

 呼びかけに応じ、ニチザツは前足の付け根辺りから生えた翼を少し下げる。あぶみに足をかけ、手綱たづなを取り、ビーガンは彼と共に午前十一時の雲海うんかいを駆けた。

 日が巡りきっていないものだから、少し肌寒い。マスクの中が呼気で潤う。ニチザツはその蹄鉄ていてつで魔素の気流を踏みしだき、翼で波をいで雲を裂く。

 いい朝だ。風も悪くない。晴天の天上はいつだって美しい。世界樹せかいじゅイグナシアの巨大な幹を取り囲むようにして設けられた浮遊石タユタイトの線路上、けたたましい汽笛を響かせながらイグナシア中央快速の始発が走る。遠目に覗いたその窓の向こうに、幾人かのはねなしが見受けられた。

 アトラスの民は大多数が翼を持つ。雲の上に住んでいるのだから当然と言えば当然だ。翼を持ち、かつ高空の魔素濃度マソノードに適応したものだけが洪水を生き延びたのだから。

 羽なしは圧倒的なマイノリティだ。片翼者メネラウスは差別されるが羽なしは差別されない。より冷酷に、ただ区別される。アトラスの住人は翼がないものを同胞とは看做みなさない。翼があるかどうかは、たった一つにして明快な、それでいて最大の違いなのだ。

 誰もが飛べる世界において、飛べない者の不自由は考慮されない。右利きが多数派を占めている世界ではほとんどのものが右利きを前提に作られる。それと同じだ。であれば、少数派の為の手段は同じ少数派が用意するしかない。

 イグナシア中央快速はそうして造られた。いつ、誰によって、どんな方法で──ビーガンは成り立ちまでは知らない。彼が生まれるずっと前の話だ。ともあれ、空を駆る列車のお陰で、羽なし達はある程度の高度までは足が届くようになった。

 なったが、ビーガンは列車に乗らない。これも、菜食主義者であることとは関係がなく。

 嫌いなのだ。羽がないことは不自由なのだと認めてしまうようで、どうにもあの窮屈な鉄の棺桶かんおけが好きではなかった。

 マダム・クリサリスにしても同じことだろう。いや、あの老婆の場合、単に社会との接触を避けているだけかもしれないが。

「ありがとうございます。ここでいいですよ」

 老婆の敷地である一塊いっかい浮遊石タユタイトは、名を蝶の蜜壷ツェダフ・カヌナヌフという。

 なんてことはない。雲の形が蝶の羽に似ているからそう名付けられただけだ。大概の浮島うきしまは雲の形に合わせて名付けられる。

 ビーガンはここにやって来て、そのいびつな雲の輪郭りんかくを見下ろすたび、ツェダフではなくヘザロザではないかと失笑したくなる。もちろん働き口を失うわけにはいかないので、口には出さない。

 ビーガンはニチザツから下りて彼の頭を撫でてやり、マダムの屋敷へと芝を踏んだ。

 樹に手綱を縛り付けたりはしない。ニチザツは利口なのだ。仕えて五〇年の主を待つように、ただ従順にその帰りを待つ。なによりビーガンは不自由が好きではない。魔吸器マスクにしたってそうだ。装着しなければ天上の大気に耐えられないから、そうしているだけで……。

 りんごん、と門の前のベルを鳴らし、ビーガンは襟元を正した。マダム・クリサリスは服装にうるさいのだ。減給されるわけではないが言及はされる。彼が襟を正し終えるのと同じくして、壁に貼られた札のアルザル文字からマダムの声が返ってきた。

『〝人助けのホガストレガンダ〟』

「〝ワスネフは潜る〟──ビーガンです」

『入りな』

 合言葉、だ。マダム・クリサリスは部外者の侵入を許さない。万が一のときはその事実ごと消してしまう女であり、聖域をけがされることをひどく嫌う。

 それゆえビーガンの仕事はいつも命がけだ。草花の断ち切りを二ミリでもしくじれば一巻の終わりを意味する。庭師生命も、単なる生命も。

「すまないね、朝早くから」

 玄関に入るやいなや老婆が出迎える。年の一度あるかないかの珍事だ。そしてこういう時は大体年に一度の厄介が待ちうけている。ビーガンは身構えた。

「構いません。庭の手入れを? まだそれほど伸びてないと思いますが」

「いや。今日は庭師として呼んだんじゃない」

 そらきた。厄介ごとだ。また魔草マーブパーティーでも始めようというのか。それもこんな朝早くから。とても隠居した老婆の生活とは思いがたい。年寄りは早起きだというが……。

「いつもの庭師道具は持ってきてるかい」

「は?」ビーガンは首をかしげた。「矛盾してる。そりゃ、庭師ですから道具は……」

「草も入ってるね?」

「少しなら……」

「ロシユラコダトダミを一房ひとふさ買いたい」

「コダトダミ? 鎮静草ちんせいそうですよ。それに一房って……」

「実は……」

 そこでマダムの声は途切れた。

「離せぇえええええ」

 叫び声だ。少女、だろうか。ビーガンは思わず部屋の奥を見やって、それからマダムの方を見る。犯罪の香りがしていた。それも、完全になりそこねた犯罪だ。

「誰かんですか?」

「……いや、そういうわけじゃないんだが……」

 マダムは言葉をにごした。

「……入りな。見りゃ分かるさ」

「……ちょっと待って下さい。犯罪じゃないですよね?」

「犯罪は犯罪だが」マダムは言った。「完全犯罪だ」

「……」

 庭師のビーガンは仕方なく歩を進める。この家はグレーの塊だ。それも、限りなく黒に近い……どころか、白一滴を混ぜたから黒ではないと言い張っているようなものだった。

 もちろん、自前で魔草マーブを違法栽培している彼が言えた義理ではないが。

 どったんばったんと暴れる音が聞こえる。獣のたぐいか。まかり間違って少女を魔物にでもしてしまったのではあるまいか。なにやらもう一つ鳴き声がする。

 あの、使用人の小娘……チネッタの声だ。部屋に入るなり、ビーガンは固まった。

「ぬぁー離せぇー!」

 少女が二人。チネッタと……名も知らぬ、すみれ色の髪の片翼者メネラウス。顔も真っ赤に拳を振り上げる彼女を、チネッタは手足を駆使して押さえつけていた。めくれたスカートから下着が見えている。品格もクソもあったものではない。

 そして眼前には人ならざるもの。ビーガンがよく知る骸骨の手品師だ。今にも殴りかかりそうなジズを前にして、バグリスは相変わらずけたけたと笑っていた。

「おや、グッモーニン、ビーガン! 昨日はよく眠れたかいハッハッハ!」」

「……そっちの彼女は」

「彼女かい? ロリィタ・ジズだ! 中々のキレ具合だろう?」

「……」

 ニチザツは利口な馬だ。馬は飼い主に似る。つまり、ビーガンは利口だ。バグリスの顎骨あごぼねが蹴飛ばされるのを見て、彼は大体の事態を推察した。

 ああ。落札されたんだな、この少女……ジズは。

「このへんたいッ」ひっくり返った虫みたいに暴れるジズと──「一発殴らせろぉ!」

「落ち着きなさいよ!」──彼女を拘束するチネッタ。「カップが割れるでしょーが!」

 バグリスがジズらの方へ向き直り、チネッタに傘の先端を向けて言った。

「チネッタ」

「……なによ」

「ちょっと痩せたかい?」

「死ねぇ!」

 ひっくり返った椅子。投げつけられたであろう枕。散らばったキャンディーとぶちまけられた紅茶。鼠が部屋中を駆け回った跡が窺える。空気清浄機も横倒しになっているし壁の絵画も傾いているときた。

 コメディだ。しかしユーモラスとは言えない。白昼十一時の静謐せいひつは見る影もなく、そこには混沌だけがあった。響き渡る少女達のわめきと骸骨の高笑いは、晴天の天上の美をビーガンの中から華麗に奪い去る。

「…………」

 立ち尽くすビーガンに歩み寄り、マダム・クリサリスはけろりと言った。

「ご覧のありさまだ」

「パーティーよりひどい」

「だろう」マダムは腕組みして頷く。「そういうわけでコダトダミがあると助かる」

「納得しました。僕もその方が助かる」

「代金は後で支払おう。紅茶を?」

「頂きます。あと煙草も頂きたい」

 ビーガンは魔吸器マスクを外して言った。

「犯罪じゃない方の煙草を」

 

 

   ◆

 

 

 淑女しゅくじょと呼ばれる生き物が絶滅したことは周知の通りだ。これはなにもアルザルに限った話ではない。ヒノモトの系譜こそこの天上に受け継がれはしたが、ヤマトナデシコの精神は洪水に飲まれて消えたらしい。

「どうなってんのよ!」

 貴婦人は乱暴に机を叩いた。ほら見ろ、淑女などいやしない。しとやかであってしかるべき端正な身のこなしの貴婦人でさえこのザマだ。怒りと屈辱でゆがんだ顔に浮き上がったしわが、今まで並び立ててきた暴言の数を思わせる。

「なんなのよあのババア、聞いてないわよあんなの!」

「騒がしい一日だ」

 リフターはそう言って詩集を閉じる。シェイクスピアーの愛のソネットだ。

「本すら読めん」

「本。本ですって! 本なんかどうでもいいわよ! どうせ裸婦画かなんかでしょ! そんなモン読んでる暇があったら下調べぐらいしときなさいよ!」

阿婆擦あばずれの声はこうも耳に響くものか」

「アバズレ? アバズレですって? 私が?」

「貴様以外に誰がいるというんだ……」

 きんきん声が飛び込んでくる方の耳を塞ぎつつ、リフターは彼女をなだめる。

「カーミラ。私の日課を知っているな? 読書と絵画だ。私にとって唯一無二の安寧あんねいだ。食事と睡眠に次いで尊い時間だ。決して薄汚い女の声で邪魔されていいものではない」

「日課。はっ。もじゃ毛の女とズッコンバッコンも追加するべきだわ」

「それ以上下品な物言いを続けるなら、その下品な巻き髪を片方切り落としてやる」

「なにそれ脅し? なめんじゃないわよ、お返しにあんたの下品なひげを剃り落としてやるわ」

 とウスターシュが刃を抜く。二の句は継がせない。カーミラのねじれた金髪が麦のごとく散り、繊細な臙脂えんじ色の絨毯を整髪剤で汚した。

 彼女は唖然として髪に触れる。どうもバランスが悪い髪型だ。チャームポイントというには呪いに寄りすぎている。藪医者やぶいしゃが床屋をやったってこうはならない。

「左も?」

 リフターは淡白にそう言う。それで充分だった。

 彼は物静かな人間だ。カーミラという騒がしい手甘てあまし者とは大きく異なる。彼は書斎で猿のように机を叩いて大声を上げたりはしないし、口先だけの恫喝などは決してしないし、可能な範囲でしか脅さない。

 そのうえ、大体の事は可能の範疇はんちゅうに入る。だからこそ彼の恫喝は効果を持つのだ。最初はなから別れる気など更々さらさらないヒステリー女が吐き捨てた「一旦距離を置きましょう」などというゴミ同然の戯言たわごととはわけが違った。

 カーミラは渋々怒りを納める。応じてウスターシュも曲刀を納めた。次に余計な罵詈雑言が鞘走さやばしれば、後に続くのは彼の刃だろう。

「いいか、カーミラ。最初から貴様にオペラを競り落とせるとは思っていない。マダム・クリサリスはアトラス一の財力を持つ女だ。先見の明もある。あれは投資の天才だ。貴様のような成金の股がいくつあっても稼げない額を奴は一晩で稼ぐ」

「……」

「私は貴様になんと言った? 万に一つでも落とせたら落札額の倍を支払うと言ったな。だが競り落とせなくとも構わんとも言った。分かるかカーミラ、がめつい女。貴様が勝手に欲目を出した。その挙句の果てが今のヒステリーだ。異存はあるか?」

「だったら最初からアンタが金を渡しなさいよ」

「契約というのは信頼の上に成り立つものだ。持ち逃げしない保証がどこにある? 悪魔だろうと貴様に融資したりはしまい。他に言い分は?」

 カーミラは小さく舌打ちする。伴っていびつな巻き髪が揺れた。

「……分かった、分かったわよ。ないわよ、なにも。オール・アレニョよ管理官様」

「よろしい。私も暇ではない」

 にべもなく続けるリフター。一方のカーミラはといえばクアベルほどの肝の持ち主ではないものだから、インテリアよろしく黙って突っ立っているウスターシュを睨みつけ、散切りにされた巻き髪の片割れに思いを馳せるばかりだった。

「落札額は?」リフターが問う。

「三〇〇〇万ゼスタよ。どうかしてる。三〇〇じゃないわよ、三〇〇〇よ」

「強気だな。手品師の懐で湯が沸くか」

 冗談じみた言い草をして、リフターは眼前で指を組む。

「羽は見たか?」

「そりゃもうばっちり。薔薇水晶よ。つーか薔薇そのものよ」

 ブローチに目を落とし、カーミラは競売の光景を思い起こす。

「……薔薇よ、薔薇。羽が薔薇になんの。ただの薔薇じゃないわ。なんていうの、注射器……そう、注射器。くきが注射器みたいに刺さって、ぐいーっと黒いのを吸い上げて……」

「素晴らしい」ウスターシュが呟く。「浄化ブリーチングですな」

 続いてリフターも微笑んだ。

「クラスターと同じ性質……腐っても水晶だ」

外察がいさつ部隊を?」

「いや、行き先はわかった。駒を動かそう。まずは一つ様子見だ」

 浄化。クラスター。様子見。水晶。何がなにやら分からぬ言葉が飛び交い、カーミラは顔をしかめた。

「あんたさ」と、カーミラ。「なんであんなガキにご執心なわけ?」

「何故だと思う?」

「そりゃ、あんたの性癖が歪んでるからでしょ」

 リフターが溜息をつく。呆れを通り越した失望の表情で。もっとも、元から品薄の人望など失しようもないが。引き際と勝負所を履き違え、眉なしが言葉を失した今こそが攻め時とばかりにカーミラはまくし立てた。

「好きなんでしょ、子供が。おーやだやだ。女の子の友達いなかったわけ? 嫌われたのがトラウマ? コンプレックスの塊だわ。聖人君子気取ってる癖して、中身は性根の腐った人間性に難ありのド変態だわ。福祉の心だとかなんとかかっこつけてるけど、結局は子供を引き取れれば誰だっていいんじゃない」

「カーミラ」

「なによ、脅すの? また私を脅すわけ? 自分の中身が本当はちっぽけで、何の才能もない凡人だって分かってるから、攻撃せずにはいられないんでしょ? 

 馬鹿にしてんじゃないわよ。見た目や上っ面だけかっこつけたってね、意気地なしの中身は意気地なしのままなのよ。あんたっていつもそうよね。自分の中身を誤魔化す為に、無理くり言葉で取り繕ってる。一生さなぎのまんまだわ。

 バベルを建てたのだってどうせそんな理由なんでしょ。自分の汚い中身をちょっとでも綺麗なものだと思いたいんでしょ! 何が愛よ、反吐が出る。カマトトぶってんじゃないわよ!」

「カーミラ」

 より強い語調でリフターは言う。しかし婦人は止まらない。もはや蛮族だった。存外、肝は据わっているようだ。クアベルほどの余裕はないが勝気ではある。

 いや、どうだろう。この女の場合、単に莫迦ばかなのかもしれない。

「なによ、なんか文句あるわけ? 実際その通りじゃない。このロリコン。あんたのオキニのもじゃ毛にしてもそうだわ。天使にでもなったつもり? なりそこないの分際で一々鼻につくのよ。ほんと翼が足りない奴らって頭も足りてない──」

 そこで彼女のヒステリーは途絶えた。

 カールした巻き髪が再び床に落ちる。今度は首から上も一緒にだ。続いて胴体が倒れこみ、離れ離れになった頚動脈から噴き出す血液がカーペットを赤く染め上げた。

「失礼」涼しい顔で血振りし、ウスターシュは刃を収める。「手元が狂いました」

「うん?」跳ねた血を拭うリフター。「狂っていたのはこいつだ」

 婦人の顔は死してなお醜かった。

 

 

   ◆

 

 

 挽いた豆を紙の上に敷き、九五度のお湯をゆっくりと注ぐ。そうして珈琲がにじみ出るようにしてジズの溜飲りゅういんは徐々に下がっていった。

 五感がひどくあやふやだ。眠気こそないが、体がいやにだるい。意識の明度が下がっているらしい。ソファがぐっと太ももを押さえつけていて、立ち上がろうにも立ち上がれない。

 ロシユラコダトダミの効果は抜群だった。ビーガンが育てたものだからということもあるだろう。魔草紅茶マーブティーにしたものをチネッタが無理くりジズの口に流し込んでから、一分と経たないうちに彼女の目はとろんと落ち着いた。用法容量はお世辞にも守られているとは言い難いが、ブツそのものが違法なのだから些細なことだ。

「落ち着いたようだね」

「落ち着いたっていうか」と、チネッタ。「飛んでるんじゃ……」

 ハッピー・ハッピー! 私は鶏! 真っ赤なお空を三本足で駆け回る、八匹目の七面鳥! ドーナツの雲をついばみ、月をポケットに。お代は明日の私持ち。どんなに辛い経験をしたって明日のご飯が地球儀のパンケーキなら万事解決。夢はまだ終わらない。どんどん走らなくちゃ。なんせ明日はバニラの怪物がクラッカーを届けにやってくるんだから! 

「えへへ」ジズは笑った。不気味に笑った。「ねへへへへ」

「ちょっと、アンタ大丈夫?」

「ザリガニだぁ」

「やばいな……」

 呟き、チネッタはビーガンの方へ向き直った。マスクをしている時には見えなかった、すっと通った鼻筋と美麗な口元が彼女をどきりとさせる。

「ほんとに鎮静草ちんせいそうなの?」チネッタの問いに──

「庭師を疑うんですか」──ビーガンが答える。

「だって、どう見ても」七面鳥となったジズを差すチネッタ。「ラリってるわ」

 目の焦点が合っていない。お空の上の遥か向こうを見上げている。腰はと椅子に預けているのに、心がどこか別の場所に行ってしまっているようだった。

 ジズの頬はうっすら紅潮こうちょうしており、時折うわごとのように何事かをぼそぼそと呟いている。それもさることながら笑顔が絶えないというのが不気味だ。せいぜい真上にあるのはシャンデリアぐらいのものなのに。

「鎮静に伴う一時的な幻覚作用です」と、ビーガン。「五分もすれば醒めますよ」

「アンタ配合間違えたんじゃないの」

 いいや、とバグリスが口を挟んだ。

「彼女は薬が効きづらくてね。少し強めに配合でいいんだよ。眠剤とかも」

 少し……これが、少し強め? チネッタは引き笑いを浮かべる。二分と経たずにお空の果てまでブッ飛ぶような代物しろものだ。劇薬じゃないか。

「とはいえ」顎骨あごぼねくバグリス。「これはちょっと強すぎるぞ、ビーガン」

「すみませんね。薬剤師ではないので」

 素知らぬ顔で返すビーガン。

「ねえ。あんた」チネッタがバグリスに問う。「ビーガンと知り合いなの?」

「草を売ってもらってるんだよ。例えばそう……聖母の谷間アソモラネッチの調合に使う奴なんかを」

「サイッテー……」

「お望みなら君も買うといい。ほんの五〇〇〇ゼスタだ」

「なっ……」赤面するチネッタ。「なんで私がそんなやらしい物!」

「だって君は性への探求心が並ならないじゃないか」

「殺す」

「ショーの途中で席を立ったろう? トイレを掃除するクロチエの身にもなってみたまえよ。なにも捨てなくたって、洗えば全然まだ履ける……」

「だーっ! ストーップ!」

 くつくつと笑うバグリス……見られていた、くそ。チネッタは下唇を噛んだ。あの壇上から片隅の観客の動きまで把握するとは、あながちその目も文字通りの節穴ふしあなながらただの節穴ではないらしい。骸骨の癖に上等な目を持ちやがって。

 彼女はちらりとビーガンの方へ目をやった。黙々もくもくと煙草をふかしている。職場の女中が淫乱だろうが末通女おぼこだろうが興味はないのだろう。我関せず、と涼しい顔だ。だがチネッタの方はそうはいかなかった。

「ねえ、私別に興味津々とかじゃないからね」

「お黙りチネッタ」マダムが制止する。

「聞いてる? もしもしビーガン? ビーガンさん? ちょっと、あなたに言ってんのよ!」

「うるさいよチネッタ」

「わたしそんなんじゃないからぁ!」

「黙りなって言ってんだろチネッタぁ!」

 老婆の怒号と小娘の騒乱を左耳から右耳へ受け流し、ビーガンはマダムから頂戴ちょうだいした煙草に舌を巻いた。

 二〇本入り一缶二四〇〇ゼスタ、ヌヴジャコーツ・グリッダ……珍しい風味だ。それでいて目覚ましい。なるほど灰色グリッダが示すとおり缶は灰色だが、葉の香りには陰一つない。葉巻ほどの重さはないが重厚さの影がしっかりと喉に落ちる。並の市民には易々と手が出せない代物だ。朝一の呼び出しの代償にしては悪くないだろう。

「いい煙草だ」乾いた咳をしながらビーガンは言う。「パッケージが灰色というのもいい」

素数ヌヴジャコーツの上物だよ。気に入ったなら缶ごと持って帰るかい」

「缶ごと?」ビーガンが驚く。「こんな上物を? いいんですか?」

「まだ腐るほどある」

 マダムは笑う。本当に腐るほどあるのだ、比喩ではなく──彼女がふかしている葉巻がそう物語っていた。年間一〇〇〇本単位でしか製造されない〝ワグニヤ〟だ。目の前の一本だけですらビーガンの時給を上回りかねない。一缶あたりの値段など想像もつかぬ。

「さて……」神妙な声色で言うバグリス。「本題に戻ろうか。マダム・クリサリス」

 卓上へと向けられるステッキ。虚飾の駿馬シャドラナーンから羊皮紙と羽ペンが吐き出され、対面のマダムの手元に収まった。

「契約書にサインを。公正な競売の下に君はロリィタ・ジズを落札した。劇場シアトルの決まり通り、彼女の身柄は君に引き渡される。煮るなり焼くなり、だ」

 マダムは羽ペンを手に取り、筆先を紙につけ──ペンを手放した。

「マダム・クリサリス?」

「サインの前に一つ聞いておこうか」

「おや」がこ、とバグリスが口を開けた。「ご趣味は、とか言わないでくれよ」

「お前、この娘をどうやって手に入れた? 厄介なことしたんじゃないだろうね」

「ひっどい言い草だな。するわけないじゃないか、大事なお得意先相手に」

 この娘は、とバグリス。

「自分で脱空だっくうしたのだよ。逃げてきたのだ」

「は?」チネッタがソファから首を伸ばした。「バベルから? なんで?」

 マダムが瞳を細める。ビーガンは目を伏せた。

「意味わかんないんわ。逃げなくたって、待ってれば引き取られるじゃない。寝床も食べ物もあるのに、なんで逃げ出す必要があるの? 家出? 誰かと喧嘩したとか?」

「チネッタ」マダムが顎先あごさきで廊下を指した。「席を外しな」

「なんで? 私、仲間はずれ?」

「なんでもだ。ビーガン、頼んだよ」

 ご指名だ。どうやら今日は庭師ではなくシッターとして呼ばれたらしい。半分も減っていない煙草を水晶ガラスの灰皿へ消し、庭師は渋々チネッタの手を引いた。

「ちょっと……」

「いいから。玄関口の掃除がまだでしょう。今日はいつにもまして雑だった」

「んぐ……そんなん言うならあなたがやってみてよ」

 チネッタの後ろ姿に溜息をつき、マダムは再び葉巻へ火をつける。

「チネッタには言ってないのかい」と、バグリス。

「なにをだい」

「天上宮のことをだよ。もっと言えば、その裏を」

「言う必要があるか?」

 ふ、と吐き出されるワグニヤの煙。続いて濃厚なバニラの香りが立ち込める。

「世の中には知らないほうがいいこともある。そういうことの方が多い。あのは……ただの片翼者メネラウスだ。その上どうしようもないことに、リフターを敬愛してる」

「ああ、それは本当にどうしようもないな。悪趣味だ。だが、バベル上がりはみんなそうさ」

とらわれた子供たちは違う」

 マダムの目線が窓の外へ流れる。チネッタが気だるげにほうきをばたつかせていた。曲がりなりにも給料を貰っている仕事ぶりには見えない。

「あのは割り切るということを知らない。教えればリフターのところに詰め寄る」

「放っておいたってロリィタ・ジズが……」

「口止めするさ」

「無駄だね」

 バグリスは食い気味に言った。

「かたや心優しい管理官のお導きでベッドとシャワーのある生活を、かたや呪わしき産まれのせいで髪もかせず檻の中。彼女らの話が噛み合わなくなるのは目に見えてる。

 嘘が得意なたちに見えるかい? ロリィタ・ジズはそこまで器用じゃない。洗いざらい聞き出したチネッタが羽馬はねうままたがって、天上宮に突撃するのが見えるようだ」

「…………」

「話が合うのは〝競売で買われた〟という部分だけさ。そこに至るまでの過程には雲泥の差がある。性格もきっと真反対だ。まず仲良くはなれないぞ。

 パズルのピースじゃないんだ、人間は足りないものを埋め合うようになど出来てはいない。きっと、お互いのためにならない」

「……今日はえらく口が回るじゃないか。ステージでもないのに」

 無機質な笑顔のままの手品師。マダムは黙って彼の眼孔がんこうを直視する。

「いいか、マダム」と、バグリス。「リフターは必ずここに来るぞ」

「……」

「バベル上がりの比翼者ヴァイカリオスなんてのは、そもそも存在しない。存在してはならない。完全犯罪がそこなわれるからだ。リフターは必ず──」ジズを指すバグリス。「このり戻しに来る」

「承知の上だ」

「気持ちはそうだろうが……君もとしだ。昔のようにはいかない」

「それで、私にどうしろというんだい」

 バグリスが詰め寄る。大きく広げた両手をテーブルへ突き、じ切れんばかりに首をかしげてだ。それはそれは空腹にく怪物のようだった。

「────ロリィタ・ジズを僕に引き渡したまえ」

 そらきた。マダムはうんざりした様子で目を伏せた。

「そんなことだろうと……」

「なかったことにしよう、あの競売は」

「ふざけるんじゃない」マダムは語気を強める。「引き渡せというなら何故競売に出した? ああ、言うなよ、分かってる。お前さんは結局、このの翼に目がくらんだだけだ」

「そうともそうですはいそれ正解!」バグリスは笑う。「僕は彼女に恋をした!」

 虚ろなジズへとその五指が向けられた。

「この美しい薔薇色の翼……いや、薔薇そのものだ! 愛と優しさとかいう爆笑必至の輝きを、なんとも信じがたいことに彼女は飼い慣らしている! 競売を始めて随分経つが、あの手のものは初めてだよ! まさに絶頂不可避マーヴェラス! さぞやいい玩具おもちゃに……」

「お前のそれは」マダムが遮る。「人がカリスマに惹かれるたぐいのものだ。恋とは、呼べない。愚かな市民がリフターに心酔しんすいするのと同じだよ」

「そうかい? 憧れというのは……おおよそ恋と大差ないと思うがね」

「救いようのないクソったれだ。死んでもここまで馬鹿だとは」

「死などないし、他界たかいは魂の在り方を変えたりしない。君の価値観が耄碌もうろくしているのだ」

「届かないものに手を伸ばすんじゃない。踏み外すよ」

「分かっていないなあ、マダム・クリサリス。手が届くものに憧れたりはしない。リフターもそうだったろう。自分にないものを持っている者をこそ、人は特別と名付けるのだ」

 バグリスはわざとらしく首をかしげる。命知らずにもこの老婆の神経を逆撫さかなでしているのだ。死んでいる身だからこそ出来る芸当だった。

「とにかく却下だ」と、一蹴するマダム。「お前は落札を認めた」

 流れるように羽ペンで名を記し、マダムは葉巻で印を押した。

「契約成立だ。これで、このは私のものだよ」

「残念。残念だ。ああ、心底残念だが……確かに」

 契約書を帽子の胃袋へ放り込み、バグリスはさっさと立ち上がる。

「クリス=アリス=レグレンターニ」

「その名で呼ぶな」

「万が一があったら僕を呼びたまえ。〝金銭〟の悪魔は八五〇〇MgHzマグヘルツだ」

 左の指で輪っかを作るバグリス。

無償ロハで引き受けよう。ロリィタ・ジズをバベルに返したくないのは本心だ」

「そんなことしたってお前の物にはならないよ」

「だからじゃないか」

 手品師は深く帽子を被った。表情はうかがえない。帽子がなくとも判別はつかない。笑っている……ように見える。いつだってそうだ。本心までは見えてこない。

「ならばいっそ誰の物にもしたくはない」

 天下のマダム・クリサリスにさえ、火柱の奥に消えた骸骨の本心は分からなかった。

 

 

   ◆

 

 

 物臭ものぐさなりに物事の好き嫌いはある。クアベルにとってはリフターの部屋のカーペットがそうで、誰に吹聴ふいちょうするわけでもないささやかなお気に入りの一つだった。

 模様はシンプルな花柄、色は白。ほこりも目立たない。素晴らしいことだ。グリフォーンの羽毛でも使われているのだろう、実に手入れがわずらわしそうではあるが、土踏まずを撫ぜる柔らかな感触にはそれだけの価値があった。

 あったのだが。 

「……管理官」クアベルはぼやいた。

「まず一つ目の罰だ」にべもなく答えるリフター。「掃除で勘弁してやる」

「管理官?」

「なんだ」

「掃除って……」

 クアベルはカーペット……だったものへ視線を落とす。数少ないお気に入りの姿はもうそこにはなかった。処女の睫毛まつげにも勝る柔らかな生地は見る影もなく、巻き髪の女からあふれた血がこびり付いている。汚した本人からは謝罪の言葉もないときた。死んでいるのだから、文句を言うあてもないというものだ。

かたしておけ」

「いや、片すって……どうすんスか、これ……」

巨空鷲ハレハグラにでもやっておけ」

 マジかよ勘弁してくれ。クアベルは出来る限り小さな声でそう呟く。心中に収めるには大きすぎる憂鬱ゆううつだった。汚すだけでは飽き足らず始末しろと来た。

「オレ、このカーペットお気に入りだったのに……」

「欲しいか? 持っていけ」

「いや、いらねえすよ……つーか、誰だよこれ……」

「カーミラだ」

「ああ……あのうるせえ女……」

「不満が?」

「まさか」クアベルは失笑した。「世の中にゃ、死ななきゃ治んねー病気もあるっつーことッスよ。お喋りと皮肉屋、それと自信家」

「つまり貴様は三重苦か?」

「あんたが言うかね……」

 クアベルは軽口を叩く。そばで見ていたウスターシュの目が尖ったことなど気にもしていない。良くも悪くも度胸のある女だ。それゆえ重宝ちょうほうされる。

「それからもう一つ罰則を与える」

「んええ……」

「まあ聞け。蝶の蜜壷ツェダフ・カヌナヌフの一軒家に老婆が住んでいる。名はマダム・クリサリス」

「つぇだふ」呟くクアベル。「たしか、チネッタの住んでる……」

「そうだ。そこにオペラがいる。挨拶がてら奪還を。最悪石の状態でも構わない。ああ、庭師は殺すな。天上宮の景観の為に必要だ。それ以外は殺してもかまわん」

「チネッタもすか?」

「チネッタ?」

 リフターがクアベルを見返した。

「なぜ分ける必要がある?」

「や、なんとなく」

「チネッタは特別ではない。凡人だ」

「アンタにとっちゃそうだろうけどな」

 クアベルは微笑む。だが、言葉の端に滲み出ているのは敵意だ。これもまた天上宮において彼女にしか出来ないことだった。恐れ知らずか豪胆ごうたんか、でなければただの能無しか……いずれにせよ、毛だらけの心臓だ。

 曲刀のつかに手をかけたウスターシュへ、リフターが左手で待ったをかけた。

「チネッタ=ツェヴチーニ」と、リフター。「比翼者ヴァイカリオスでもなく、言刃フラッグ持ちでもない。亞能力者あのうりょくしゃではなく、ただの少女だと記憶していたが。貴様にとっては特別か?」

「特別だよ。みんな特別さ。オレにないものを持ってる」

「ないものとは?」

「社交性、真面目さ、それとも言葉の使い方……まぁなんだっていいけど……兎に角ジャカロプ、自分に足りないものッスよ。あんたみたいな完璧超人には分かんねーだろうけど」

 リフターは苦笑する。

「一つ覚えておけ、クアベル」

「なんスか」

「人は足りないものを埋め合うようには出来ていない」

「それ朝も聞いたし……」

「重要なことだ。だから二度伝えた」

「……へいへい。肝に銘じておきますよ」

「そうしておけ。銘じる肝がある内にな」

 隙を見つければすぐこれだ。クアベルは八つ当たり気味にカーミラの胴体を蹴っ飛ばし、お気に入りだったカーペットでくるんで、血の跡を残しながらずるずると引きずっていく。

「クリスはどうした?」

「起こしましたよ。すんげー眠そうにしてたけど」

重畳ちょうじょうだ。就寝時間もきっちり守らせろ。無闇に拡大解釈されては困る」

「簡単に言ってくれるぜ……」

 ずるずる。ずるずる。女一人の亡骸にしてはいやに重い。気分のせいか、こいつが不摂生の化身だったのか、それとも亡骸に詰まった恨みつらみのせいか……。

 陰鬱な表情でお荷物を引きずるクアベル。右側の翼隠衣デュラルケットまでしょんぼりしている。すれ違いざま、ウスターシュが彼女に声をかけた。

「しくじるなよ、クアベル。〝再統一さいとういつ〟は近い」

合点了解アイ・スィー……」

 面倒だ。クアベル=ラズワイルにとって、天上宮に住む人間は、どいつもこいつも面倒の塊だった。しかしながら天上宮という場所はお気に入りであるため、住み続けるのであれば面倒とも付き合わなくてはならない。

 それは例えば、彼女の面倒を見る真面目な人間であったり、リフターという厄介な闇の塊であったり、はたまた口うるさいウスターシュのような人間であったり。

 心底面倒だ。しかし、彼女は割り切ることを知っている。白黒つけずにのらくら生きるのがクアベルなりの人生の秘訣だった。長いものに巻かれておけば人生は大体うまくいく。死体の処理だとか、脱走囚の奪還だとか、そういう面倒ごとは無心に首を縦に振り、いなしておけばいいのだ。

 野望はいらない。意志もいらない。漂っていればそれでいい。

 クアベル=ラズワイルはそういう女だ。しかしそれはなんとも奇妙なことである。

 はて、こうも意志なき粘土のように曖昧な女に、なにゆえ天上におわす神は石の羽を与えたのだろうか?

「……なんででしょーねぇ」

 比翼者ヴァイカリオス・クアベルは問う。いつものことながら返事はなかった。右肩の翼に聞いてみても、何も答えてはくれないのだ。

 そりゃそうだ。だってそいつは面倒が嫌いな、彼女そのものなんだから。

 

 

   ◆

 

 

「ねへへへへ。違うよぉそれランタンだって」

 三匹のヒヨコが虎をくちばしでつつき殺したかと思うと、次のシーンでは自分が列車を乗り過ごしており、列車に乗っていたと思えばバスの中で芳香剤を暖炉にくべている……夢のほとんどはそういう支離滅裂なものだ。

「何言ってんのぉショートケーキだよ。靴底貸してよぉ」

 ジズは明晰夢めいせきむの達人だが好んでそうなったわけではない。地下牢の日々ではそれぐらいしか楽しみがなかったし、それですら楽しみというよりは自己防衛の一種だった。まあ、理由はどうあれ稀有けうな特技に違いはないが。

 しかしさしものジズと言えども、魔草マーブ由来の白昼夢……夢か幻覚か線引きが曖昧なものまでは支配できなかったようで、んはっ、と間抜けな声を上げて目を覚ました頃には、自分が誰の靴底にショートケーキを乗せたのかも覚えていなかった。

「…………うん?」

「起きたかい」

 ジズはかすんだままの眼をこすった。対面で珈琲をすする老婆の顔をまばたき混じりに眺めるが、何度思い返してみても面識はない。さては彼女も幻覚なのだろうか。

 オレンジ色の丸眼鏡に、悪趣味なスカーフ……。誰だ、この女は。

「……どうも」一応、ジズは返事をしておく。

「あんた、自分が何してたか覚えてるかい?」

「……何って……寝てて……起きたらバグリスが……」

 バグリス……そうだバグリスだ! 愛と優しさですら抱き締められぬ華美と悪徳の化身! 痴態の数々を思い返し、ジズは思わず立ち上がる。

「バグリスはどこだぁー!」

「でかい声出すんじゃないよ!」たまらず耳を塞ぐマダム。「奴は帰った」

 テーブルの下から鼠が飛び出してきて、ジズの胸元へ駆け上がる。前足の付け根から腹にかけて傷痕が目立つが、動きは健康そのものだった。

「チィちゃん!」

 チィチィ。鼠は小さく鳴いてジズの頬へと鼻をこすりつける。なんとも仲睦なかむつまじき片翼かたよく達。足りぬものを埋め合っているのではなかろうが、老婆の目には求愛にすら映った。

「鼠を飼う趣味はないんだがね。友達を取り上げるわけにもいかない」

 飼う? 鼠を飼うと言ったか。いや違う。飼われるのは私のほうで……。

 そうか。競売は終わった。ということは──私は、この老婆に落札されたのだ。

 絶頂、脱殻だっかく、陰りの薔薇……明晰夢よりよほど夢らしい光景をおさらいし、やっとのことでジズの頭は重い腰を上げ始めた。遅れて警戒心がえ始め、彼女の目を尖らせる。

「ようこそ比翼者ヴァイカリオス。天使になりそこなった気分はどうだい?」

 リフターの常套句じょうとうくだ。眉こそあるが、どことなく奴を彷彿ほうふつとさせる。睨みをきかせるジズを小さく鼻で笑い、マダムは椅子により深く背を預けた。

「先に挨拶をしておこう。私はクリサリスだ。マダム・クリサリスと人は呼ぶ。あんたを落札した。マダムと呼びな。敬語を使うんだよ」

「……私をどうするつもり」

「先にこちらの質問に答えてもらおう」

 チィ。分かっているのかいないのか、鼠がジズの代わりに返事をして、彼女の肩へとしがみつく。烙印じみたタトゥーの上に小さな鼓動が乗っかった。

「バベルから抜け出してきたそうだね」

「……それがなに」

「イエス・マダムだ。それと敬語。次はないよ」

「……イエス・マダム」

「何年あそこにいた?」

 押し黙るジズ。一年は三六五日、カレンダーにカウントされない〝日食〟と〝月食〟の日を含めれば三六七日だ。少なく見積もっても一〇〇〇日は檻に捧げていることになる。あまりに長い日々だった。直視すら拒みたくなるほどに。 

「……分かんな……分かりません」

「では聞き方を変えよう。バベルに入った時のことは覚えているかい」

「……イエス・マダム」

「何歳の時だ」

 嫌な話だ。なるべく早く自分史のページをめくり、ジズは回顧録かいころくを終わらせる。

「……十二歳の時。あっ、そっか……だから……多分、五年ぐらい……」

 ジズはたまらず手を握った。十二歳の頃より、ほんのちょっとだけ大きな手を。

「……五年も……」

 いつまで続くのかとあれほど呪っていたのに、終わってみれば陳腐なものだ。口で五年と言われても、ジズの身体にはまるで響いてこない。

 失った五年を何が証明してくれるのだろう。せいぜい伸びた背丈と膨らんだ胸ぐらいだ。あまりに無為無策。無味乾燥。失うばかりで何も手に入れていない。長い、長い夢から覚めて、気付けば十二歳の朝が来た──そんな気分だった。

 現実味が、どこにもない。こっちが夢だと言われたって、いっそそっちの方が……。

「五年か。気の毒だよ。だが、厳しい言い方をするとお前は──」

 マダムは微笑んだ。

「──運がいい」

「運がいい?」

「そうとも。幸運だ」

「ふざけないで!」

「大真面目さ。お前は脱空だっくうできた」

 びく、とジズの肩が震える。チィちゃんもそれにならって揺れた。

「空を見ることすら叶わなかった者も大勢いるだろう」

 みどりが脳裏をぎる。幸運の碧。乗車券を取り損ねた強かな碧。それはそうだ。石の檻に閉じ込められたジャスパーに比べれば、ジズは遥かに幸福と言える。人前での絶頂も、競売も……はらわたに風穴を開けられて石になるよりは……ずっとマシだろう。

 ジズは押し黙る。それでも納得はしなかった。誰かと比べて幸福だから──そんな言い回しに意味があってたまるものか。誰にだって望む権利はあるはずだ。彼より彼女よりはマシだから、なんて……そんな理屈をいくつこねたところで、自分が感じている不幸の濃度が下がってくれるわけじゃない。それはそれ、これはこれだ。

「まあ、そう睨まないでおくれ。見ての通り私は女だ。優男やさおとこならまだしも、お前さんを玩具おもちゃにして遊ぶ趣味はないし、男で遊べる歳でもない。私はバグリスと違って変態じゃないからね。そういう意味でも運がいい。

 なによりお前はあと一歩で、檻に逆戻りするところだったんだよ」

「逆戻り……?」

 マダムが葉巻へ火をつけた。劇場シアトルの時と同じように。

「競売にバベルの回し者がいた。三〇〇万なんてのは僅差さね。私が勝負に勝ったのは、娘の形見の懐中時計を手放したからだ」

「……ごめんなさい」

 ジズは頭を下げた。ちょっと待て私が謝るのはなんだか筋違いなのではないか──薄々そう感じつつも謝っておく。なっちまったと言われても他にどうしろというのか。突き詰めてしまえば自分が好きで入札したものなのに。でもでもやっぱり罪悪感が……。

 ジズの心境を知ってか知らずか、マダムは鼻で笑う。

「思い出は甘美だが、後を引きすぎるのはよくない。酒と同じだよ」

 そうなのだろうか。後ろ髪を引かれ放題のジズには分からなかった。年季や飲酒経験の有無で理解できる話でもないのだろう。

「さて」マダムがジズに向き直った。「どうするつもりか、と聞いたね。お前はどう思う? 何故私はお前を買ったと思う?」

「……羽が」ジズは答えた。ジズなりに。「石の羽が欲しいから」

「お前はクソバカか」

 なりそこないに次いで馬鹿呼ばわりと来た。そのうえクソのおまけつきだ。

「石の羽ごときに三〇〇〇万も出すぐらいなら、葉巻でも買った方がマシだ」

 ごとき。ジズの脳味噌に電流が走る。自分の価値などそこにしかないと信じていた……信じ込まされていたジズにとっては衝撃的な言葉だった。

「……私、葉巻以下ですか……?」

「気付かないかい。見ての通り、私には羽がない」

 言われて初めてジズは気付いた。歳経た頼りない背中に翼隠衣デュラルケットが見当たらない。誰もが当たり前のように持っているものを、ジズでさえ片方は持っているものを、この老婆は一つも持ち合わせていなかった。

「私もまた天使のなりそこないだよ。いや、なりそこなってすらいない。初めからなることを許されなかったんだ。誰が決めたわけじゃない。神のおぼしというやつさ」

 マダムは羽のない肩をすくめる。

片翼者メネラウスの出生確率はおよそ一〇〇〇人に四人……それに比べ、羽を持たず奇形児として産まれた……私や、外にいる男……ビーガンという名前だ、後で紹介するが──いわゆる〝羽なし〟の出生確率はその半分を下回る。どちらも出生要件を満たした上でその確率だ。ビーガンのように、心肺機能に難を抱えるケースも多い。皮肉な奇跡さね」

 ジズは窓の外に目をやった。パチパチとつたを切る庭師の口元には、なにやら妙な管のついた難儀なマスクが見受けられる。吸い込む魔力を調整する為のものだろう。

「アトラスでは、翼を一対持つ者が多数派を占める。そうでなければ同族とは看做みなされない。建前はどうあれ誰もがそう思っている。天上法の基準となったノキア写本にそう記されているからだ。飛べないことがどれほど不便か、お前さんなら分かるだろう」

「……イエス・マダム」ジズは強く答えた。「いやというほど」

「正直でよろしい。私がここで生活している理由の一つさ。アトラスは少数派にとってあまりにも生き辛い。なにより、羽なしを邪険にするゴミどもがムカつくんだよ。しょうもない選民思想に染まりやがってからに。ああクソ忌々しい」

 吐き捨て、マダムは苛立ち気味に新しい葉巻へと火をつける。いつの間に先刻の一本を吸い終えたのだろう。外の男と違って、彼女の肺は魔力も衰えも意に介さないらしい。

「法がなければ一人残らずブチ殺してやりたいところだ」

 過激すぎる。敵に回してはいけない人間だ。ジズは直感した。

「すまないね、少々興奮した。ともあれ、私は辺鄙へんぴなところで暮らしているが──今年でもう一七〇になる」

「ひゃくななじゅう!」頓狂とんきょうな声を上げるジズ。「私の十倍……」

「そうだ。認めたくはないが、流石にこの歳では身体も思うように動かなくてね」

「……つまり?」

 マダムが窓の外を指差す。つられてジズもそちらを見る。ツインテールの少女が気だるげにほうきもてあそんでいた。ご丁寧にも女中じょちゅうの服で。

「あの……チネッタと同じだ。あんたには今日から使用人として働いてもらう」

「使用人?」

「そうだ。掃除、洗濯、料理、買い物……要するに家の世話をしてほしい。小間使いだ」

 ジズは当惑する。当惑して、それから口にするか一瞬迷い、結局マダムに問うた。

「それで三〇〇〇万も……?」

「不思議かい?」

「だ、だって……私なんかっ……」おっと、悪い癖だ。ジズは思わず口をつぐむ。「あ……そうじゃなくて……使用人なんか、もっと安くで雇えるんじゃ……」

 ジズの言う通りだ。まだ、石の羽が目当てだと言われた方が腑に落ちる。それでもマダムは笑みを崩さない。ひよっこめ、まだまだだね──そんな表情だ。

「私はね、お前の少女時代を買い取ったんだ」

「……少女時代」

 持論だが、とマダムは続ける。もちろん異論は認めないスタンスで。

「およそ少女と呼べるのは二〇歳までだ。甘えた女はいつまでも少女でいようとするが、世の中はそう甘くない。可愛さを美しさに変えなければならない時が必ず来る。芋虫だって蝶になるんだ、二〇を超えれば一人の女にならなくちゃならない。男も同じだ」

「……女……」

「お前は五年間をバベルで過ごした。檻というさなぎの中にいたんだ。女になるまでの階段が十九段あるとすれば、同い年の子が十七段目を踏んでいるのに、お前はまだ十二段目だ。

 分かるかい。一段飛ばしで階段を上っていかなくちゃならないんだよ」

「……」

「それはとても過酷なことだ。だが強いられる」

 強いられる? 女になることを? 一体誰が強いるというのだろう。ジズはジズだ。ジズがどういうジズであるかは他ならぬジズが決めることなのだ。少女であるとか、女であるとか、そんなことまで他人に舵を取られるいわれはない。

「私がなぜクリサリスと呼ばれているか分かるかい」

「……前世がさなぎだったから」

「そういうあざとい答えが似合うのも若いうちだけだ」

 むっとするジズ。そんな言い方をされても思い浮かんだのだからしょうがない。

脱殻だっかくさせるからだ」

「……だっかく?」

「そうだ。お前たちの〝少女〟というからぐ」

 老眼鏡の下、鋭い眼。ジズは思わず瞳を逸らす。壁にかかった蝶の標本に目がいった。

「私の役目はそれだ。ここで引き取った数多の片翼者メネラウス達を、一人の人間として……一人の女として……変態させる。余計なお世話と言われればそれまでだがね」

 ほんとそれ。そう言ってやりたかった。ジズはこらえる。えらいぞ私。

 マダムはぼうっとシャンデリアを見て、ぽつぽつと呟きはじめる。

「この歳になると友達も皆死んじまってね。一人で過ごすには余生はあまりに長い。

 だから、身寄りのない子供達を引き取って育ててる。なにも一から十まで私が口を出すわけじゃない。あくまで、そう……踏み損ねた階段の分を埋め合わせするだけさ」

 埋め合わせる? この老婆が? 五年分もの階段を? どういうことだ? つまり私はどうなる? 

 考える。ジズは何度も考える。それでもやっぱり同じ答えに辿りついた。馬鹿だからこんな答えしか出ないのか、それとも誰が考えても同じ答えになるのか。

「理解したかい?」

「……なんとなく」

「難しく考えなくていい。普通に生活しな。口うるさい老婆が一人増えるだけだ」

 普通に生活。合点がてんがいった。正解だ。ジズは念押しとばかりに問いかける。

「あの」

「なんだい」

「私、ここに住むってことですか?」

「そうだ」

「料理して、家事して、買い物して?」

「そうだとも」

「それってつまり」

 とても信じられなかった。陰った自分の脳味噌がこんな答えを弾き出すとは。

 そんな、そんな普通の生活が──私なんかに許されていいのだろうか?

「家族になるってことですか?」

「拡大解釈すればそうなる」

 立ち上がるマダム。ようやっとという風に腰を叩き、彼女はかたわらの杖を手に取った。

「以上。敬語は終わりだ」

「終わり?」

「当たり前だ。家族に敬語を使う奴があるか」

 家族。いい響きだ。過去を思えば思うほどに。ジズはたまらず笑った。

 万歳三唱! 鼠の人生、ここに眠り──ここに始まる!

「着替えな、ジズ。今日からここがお前の家だ」

「いっ……」ジズは立ち上がる。「イエス・マダム!」

 チィ。鼠も元気よく返事をした。