破獄から数日後、ジズはよく眠った。それはそれは深い眠りだった。夢のゆの字も見当たらない、身も心も深く沈んでいくような眠りだ。
「んう……」
体の凝りはだいぶ解れたが、檻の日々の疲れはまだ後を引いている。頭がぼやつくようだ。なんだかやけに目が痛いと思ったら、水晶窓から朝日が差し込んでいるだけだった。それだけだ。ただそれだけの普通の朝だった。
「……」
寝覚めはいい。晴れやかだ。だが、自分の底の浅さを思い知らされた気分だった。
濁し美化して飾りつけた夢の世界は、あっという間に自分から離れていってしまった。自分の方から離れたのかもしれない。どちらでもいいが、夢への執着が薄れたのは確かだ。
〝入らないで! ここは聖域! 私が私でいられる唯一の空間なの!〟──立ち入り禁止の看板を立てたわけではないが、注意書きをするならこんな感じだろう。
ジズの仮説によれば、彼女にとっての夢とは、逃げ道の一つでしかなかったのだと思う。
もちろん夢は好きだ。嫌いじゃない。明晰夢であればなおさらだ。なにせ現実では上手くいかないことが簡単に出来る。檻の外を歩き回れる。劇場の蝋燭をケーキにして食べたり、雲を綿菓子にして踏み潰したりしても怒られはしないのだ。
それが一つの魅力だった。要は〝現実の自分とどれほどかけ離れたことが出来るか〟という一点だ。檻ばかり眺めていたジズにとっては、さぞや大きな救いになっただろう。
ところが今となってはどうだ。夢に潜ったはいいものの、翼も現実と同じ右片方だけ、もちろん空も飛べはしない、挙句に眉なし男のスプラッタフィルムが再生される始末で、これでは夢に逃げる理由がない。逃げるだけ損というものだ。
どうせ飛べないのならスプラッタを抜きにした現実の方がまだマシだった。お菓子を自由に食べられなくなるのは少々痛いが、煩悩を絶つにはいい機会だ。
夢と──ひいては過去と──決別するのだ。
「……」
決別。決別? これは決別と呼べるだろうか。気が早すぎるだろうか。また夢を見ないとも限らない。だがもし、もしもこのまま夢に潜らなくなってしまったら……。
これは正解なのだろうか。薔薇の陰りが自分の一部であったならば、その間ずうっと付きまとっていたこの夢もまた、自分の一部なのではないか。
なにより夢と決別したらロニアはどうなる? 理由は知らぬが、ああもかいがいしく自分に世話を焼いたもじゃ毛の天使はどこへ行ってしまうのだろう。そもそも何者なのだろう。どうして自分の夢に現れたのだろうか?
私が彼女を作ったのだろうか? 自分を認めてくれる存在が欲しいあまり、過去に囚われた卑屈な女は、天使の幻を作り出してしまったのだろうか。それは例えば、檻の中に見た陰気な自分と同じように。
理想……ロニアの姿は正しくジズが思い描く天使そのものだった。慈悲深く、誠実で、丁寧な口調で、一切の陰りを浄化するような善意の塊。良いところ全てを詰め込んだような理想像だ。ああなりたい。ジズはああなりたかった。なりたかったのだ。
とすれば、私が作り出したのは、彼女は──理想の自分?
「……んんん」
おい、翼。なんとか言ってみろ。ジズは心中で呼びかける。けれども答えてはくれない。うんともすんとも言いやしない。
「……もうわけわからんちん」
ジズは上体を起こす。また考えるのをやめた。やめてばかりだ。再開の目処は立っていない。これからがあるのだと思うと、心を脅かしていた焦りも霧散したように感じる。
肩が重い。片方だけだ。ジズは翼隠衣を外して翼を眺めてみる。
自己愛と呼ぶのかコンプレックスと呼ぶのか、背の翼はいずれにしろいい名前ではないが、ほんの少しだけ自分が知っている色に近づいた気がした。
気がしたのも束の間だった。隣で寝息を立てているチネッタの顔を覗き込むと、リアリティが溢れてきて、途端になにもかもが怖くなってしまう。
「ん……」
寝ぼけ眼のチネッタがこちらを見返す。ジズは驚きやら恐怖やらでたまらず目をそむけてしまった。なんだ? 何を恐れている? 彼女の何が怖い? なにが後ろめたくて私は目を逸らした?
目覚めの挨拶が〝おはよう〟なことぐらい、檻に閉じ込められていた少女でも理解できる。できるのだが、どうにも言葉が閊えて出てこない。なんだか頬も上手く動いてくれない。
「あ……」
昨日と今日とでチネッタが全然違う人間に見えてしまう。昨晩あれだけ喋っていた相手なのに、言葉をかけるのがどうにも怖い。顔を合わせるのも妙に気恥ずかしい。面識の浅さを差し置いてもだ。
なんだか、そう──たった一夜を隔てただけで、今までの人間関係が全てリセットされてしまったような感覚に陥る。昨日吐いた言葉と抱いた感情を、今日まで持ち越せないでいる。こと、喜びや嬉しさを。
昨日何を話しただろう? リフターのこと? 十個ずつメソッドについて? 好きなお菓子の話だっけ。それとも流行の服を教えてもらったのか……。でも、結局どれも好みじゃなかったから、話半分で聞いていて……。
駄目だ。どうにも悪いところばかりが沸いて出る。自分のやらかした失礼な発言やら、自分に刺さった言葉の棘やら。ああ、どこまでも後ろ向きなジズ。
もじゃ毛の天使に皮肉で返したのとはわけが違う。ジズは理解した。どうにでもなれという投げやりさは、ある種自分にとって後ろ盾だったのだ。どうせ夢だから、現実じゃないから、言いたいことを好き放題言っても誰に怒られるわけじゃない。誰に何を言われてもどうだっていい。気にする必要はない。だってあれは私の夢だから。私が好きなように創っていた夢だから。全ては私の願望だから。
どうせ──どうせ私は檻を出られないから。
じゃあ今は? 今はどうだ? 檻から出た上、夢も自分の物じゃなくなり、現実での〝これから〟を手に入れてしまった今はどうだろう?
何もかもが思い通りにいくわけじゃない。他人には他人なりの考えがあるのだ。衝突したりもする。片翼だとなじられたりもしよう。昨日はへらへら笑っていた寝ぼけ眼の彼女だって、裏ではジズのことをなにクソ根暗めと思っているかもしれない。
「……」
恐れがジズを覆った。その首元を押さえつけ、勇もうとする心をぎゅっと握り締めていた。中途半端に手に入れた幸せの一欠けはジズを照らした。より強く。より明るく。それゆえ影もその面積を膨らませた。
頭に檻がよぎる。フラッシュバックだ。眉なしの面構えと去りし碧。まだだ。まだ笑っていやがる。檻の中のあの女──
『多分出られないわね』
ジズだ。またジズの前にジズが出てくる。ベッドの正面、あつらえられた檻の中、つま先を眺めて一人ぽつんと座っていた。
『一生このまんま』
「やめて」
『ミイラになっても』
「黙って」
『分かってるって。こんなの、どこにでもある話だし』
「黙れ!」
ジズは声を荒げる。チネッタがもぞりと寝返りを打った。
『考えてみてよ』おどけるように、頭に両手を当てるもう一人のジズ。『自分のことでしょ。私はあなたであなたは私よ』
「私とあんたは違う」
『違わないわ』
「一緒にしないで」
『もともと一つだったのよ』
「違う……! あんたは私なんかじゃない……! 私はここにいる! 檻の外にいる! お前だけが一生そこにいるんだ! 一生そうやって檻の中で、夢の中で遊んでろ……!」
もう一人のジズは苦笑する。
『値札は貼られた? ジズ』
「あぁーお陰様でね。三〇〇〇万だよ。せいせいする」
『新しい生活はどう?』
ジズは鼻で笑ってやった。檻にいた頃のように、ひどく威圧的に笑ってやった。
「最っ高よ。きっと、これからもっとよくなる。そんな気がしてる」
『いい顔ね。その顔よ』
ジズが、ジズの顎先に触れた。
『それがあなた。性格が悪くて皮肉屋で、飛べもしないのに高いとこから斜めに構えて、愛や優しさを見下してる。それがあなた。本当のあなた。天使のような優しい口調や、お淑やかな身のこなしなんて似合わない。それがあなたよ、ジズ』
「ふざけるな」
『教えてジズ。教えて私。これからもっとよくなる気がしてるなら、何故あなたは私のことを忘れようとしないのかしら。本当に自分が変われると思ってるのかしら』
輪郭が滲んでいく。目の前のジズが少しずつ姿を変えていく。菫色の髪の女から、縮れ毛の白い女に。そのうち声まで重なり始め、そいつはとうとうロニアの姿になった。
『泣き虫なジズ。どうしてあなたは、夢にさよなら出来ないのかしら』
「その顔で言うな……!」
『あら。どうしてそんなことを言うの、ひどいわジズ。私はロニアよ』
「やめろ!」
『どう、ジズ。良いところと悪いところ、十個ずつ見つかった? きっとまだよね。それとも悪いところは全部見つけたのかしら? あなたって、人の悪いところばかり目につくタイプだもの』
ロニアじゃない。幻だ。卑屈な女が産んだ偶像に過ぎない。ロニアはこんなことを言ったりしない。天使はこんな風に人をけなしたりはしない。
ジズはそう言い聞かせた。その他なかった。それで精一杯だった。
『人と話すのが怖い?』
「うるさい」
『違うわよね。自分の思ったことを口にするのが怖いのよね。だって嫌われたくないものね。自分がどういう人間かあなたはよく知ってるもの。そしてあなたは自分自身が嫌いだもの。
だから怖いのよね。あなたは──あなたは言葉を恐れているのよね』
「うるさい……」
『自分を肯定出来たかしら? 愛と優しさの石らしくあろうとでも思ったかしら? まだまだよジズ、そんなんじゃまだまだよ。天使になんてなれはしないわ』
「……」
『だってなりそこないだもの。羽の話をしてるんじゃないのよ。愛と優しさ? 笑わせないで。自分もちゃんと愛せないような人間が、まともに人を愛せるわけないじゃない」
もうたくさんだ。うんざりする。ジズは手でジズを薙ぎ払う。だがあの時と同じようにすり抜けるだけだった。分かっている。幻に手を伸ばしているのだ。いつだって。
『あなたはね、我が身可愛さにリードをつけてお散歩してるだけなの。後ろめたさを取り除きたいだけなの。救ってくれるなら誰だっていいし、救われるならなんだっていいの』
ロニアの姿をした怪物は言った。
『卑屈な人間はね、どうあがいたって卑屈にしか生きられないのよ。
帰結するの、ジズ。最後はね、どんな悩みだろうと──自己に、帰結するのよ』
「……ああ、そうだよ」
ジズは怪物を睨みつけた。だからなんだ、それがどうした、やれるものならやってみろという風に、いつか手品師を睨んだ時と同じ瞳を向けた。
「だから、だから私は認めたんだ! 良いところ悪いところ、どっちも十個ずつ知ろうとして、そのままの背丈の自分を見ようとしてるんだ! どっちも知らなきゃ自分のことを好きになれそうにないから、だから……!」
『だから?』
「……邪魔をするな。私は、私を肯定しようとしてる。あんたは昔の私だ。一生そこにいろ、二度と出てくるな。あんたみたいな捻くれ者に構ってる暇はない」
『ひどいわ。残念よ、ジズ。それって本当に残念なこと』
影はまたジズの姿に戻る。相変わらず、視線は爪先に固定されたままで。
『私だってあなたなのに』
「……っ」
ジズの歯が軋る。自分の醜さをまじまじと見せつけられるのは何度目だろう。言われなくても分かってることを、わざわざ言葉で突いてくる。
それを最後に幻は消えた。いつもそうだ。ジズが何も言い返せなくなったら、役目を終えたとばかりに満足して消えてゆく。半開きになった三面鏡にジズの一部が映っていた。
「……最っ悪」
泣き虫なジズはまた泣いた。こうと決めた時以外には泣くものかと、そう誓ったのに、なんとも簡単に泣いてしまった。わんわん喚いたりはしないが、ぐじぐじと目をこすりながら静かに泣いた。
自分も愛せないような奴に人を愛せるわけがないだと。くそくそくそ、知った風な口を利きやがって。そんなことを言ったってどうしろというんだ。ジズは毒づいた。
静かな朝だ。聞こえるのは鳥の囀りと、ジズが鼻を啜る音だけ。
「……あんたさ」
どこから起きていたのだろうか、顔を背けて寝転がったままのチネッタが言う。
「心のビョーキ?」
「…………そうかもしれない」
「クスリでもやってんの?」
「……幻覚を見るの」
ジズは弱々しく振り絞った。
「檻の中に閉じ込められてる私が、悪いことばっかり語りかけてくるの。私の全部を否定してくる。なりたいものも、なろうとする気持ちも、今の私も、全部……。前に進もうと踏み出した足を、そいつが掴んで離さない」
「……」
「……怖くなっちゃった……」
ジズも布団に潜る。チネッタと背中合わせだ。互いの翼隠衣の先だけが重なっていた。
「これからがあるんだって思ったら……これから先、ずっと自分と付き合っていかなきゃならないんだって思ったら……どうしようもなく怖くて……」
「……」
「自分に自信がないまま……ダメな大人になっていくんだって……」
「ジ……」
「分かってる! 分かってるの、自分が変わんなきゃいけないんだよ。でも……でも、私……ずっと夢の中にいたから……嫌なことがあったら、すぐ夢に逃げてたから……」
「……」
ジズは失笑した。笑みとは呼べなかった。
「自分を愛せない人間に、他人を愛せるわけないって……あいつはそう言ってた。でも、そんなのおかしいよね……順番が逆だと思う。自分を愛してもらったことがない人間は、どうやって自分を好きになればいいんだろう」
「……ジズ」
「そんなんじゃ……一生人に優しくなんてなれない」
これはまた難儀な問題だ。チネッタには解決できそうにもなかった。
「知るかっっっッつぅー、の!」
そう言い放ち、飛び起きるチネッタ。
「そんなこと言ったって、私はアンタを愛してあげたり出来ないわよ。女の子が好きってわけじゃないし。第一、自分を愛せるようになるために人に愛してもらうなんて、馬鹿馬鹿しいにも程があるわ。相手に失礼よ。人の気持ちを冒涜してる」
尖った言い方だ。甘やかすばかりが優しさではないし、それはきっとチネッタなりの優しさの一つだったのだろう。ジズはそう思うことにした。そう思わなければやっていられない。
「あんたに何があったのかは知らないけど、まあ、待つことね」
「……待つ?」
「時が解決してくれるのを待つの。そういう時は下手に考えるよりはなにも考えないのが一番だわ。だって考えてもどうにもなんないじゃん。わかんないこといつまでもぐじぐじ考えて、それに足を引っ張られるなんて時間と労力の無駄遣いよ」
チネッタは他人事のように言って布団を飛び出し、あぐぐと喘ぎながら大きく伸びをする。続いてジズの布団の上を踏み分け、一思いにカーテンを開けた。
「ほれ、日差しよ日差し。うつの気があるわね。メロタニン? を分泌しなきゃ」
「……待ってるだけじゃ何も変わらない……」
「おーおー、大層な言葉だわ。自分で何かを変えたことがある人しか吐けない台詞ね」
「……嫌味?」
「好きにとらえて」
引き剥がされる布団。膝を抱えて蓑虫みたいに丸まっているジズを見て、チネッタは小さく笑った。
「まぁポジティブにいきましょう。時間はたっぷりあるわ。言葉は波よ。口に出したら自分に返ってくるの。コトダマってやつね。だから口に出すのはポジティブな言葉のほうがいいわ」
ジズの嫌いなたちの思想だった。根拠なきオカルティズムや労わりなき根性論によって創りあがられた、他人の弱さを汲めぬ思想家達の黄金律だ。
「ああそうだ、忘れてた」
チネッタは膝を抱くジズの両手を引っぺがす。泣きはらした瞳をまっすぐに覗き込み、とびきりポジティブに言ってやった。
「おはようござい絶頂不可避」
「……おはよう」
「昼食の準備をしましょう」
チネッタは軽快な足取りで部屋を出て行く。ジズはまたぐじぐじと涙を拭った。
背に揺れた翼は、ジズと同じく片方だけだ。片翼という見た目において彼女らの間に違いはない。同じ形をした生き物なのだ。
ならば何が彼女らを分けた? あけすけにポジティブな女と底なしにネガティブな女はどこで隔たれている? 見てくれは同じ生き物なのに、何がこうも個人を個人たらしめているのだろう? 私はどうしたら彼女のように、あるいはもじゃ毛の天使のようになれるのだろう? その場しのぎの全能感はこの煤ばみを浄化してはくれない。
ジズは自問し、そして自答する。正解かはともかく答えてはみせる。きっと私とこの女とでは、心の硬度が違うのだ。それはおおよそ産まれや生涯、環境、その全てによって培われてきたものに違いない。
だったら──だったらそんなの、どうしようもないじゃないか。
「…………」
ぱん。両頬を叩いてジズは頭を切り替えた。切り替えたつもりになった。どれを着ようかとあれこれ引き出した服の山を、面倒だからやめたとクローゼットの奥の方にしまいこむようにして、ごちゃごちゃした一切合財を頭の隅に追いやった。
言葉が怖い。一夜明ければ一段と。まだ私は檻に囚われている。夢の残り香を嗅いでいる。自分を従えられずにいる。完璧ではないのだ。何一つ。
おお、汝、病める薔薇。陰りはまだ後ろ髪を引いているか?
◆
差し迫るランチタイムを前に老婆は狼狽していた。洒落ではない。洒落にしたって笑えない状況だった。
ジズは料理など生涯で一度もしたことがない。実に五年もの間、用意されている餌を出されるがままに食べるだけの食生活だったものだから、強火と弱火の区別はおろか斧とフライパンの違いもわからない始末だった。
「ジズ! 何度言ったら分かるんだい、手首を手前に引くんだよ!」
「イエス・マダム!」
「塩入れすぎだ砂丘かクソバカ!」
「だって適量とか言われても……」
「だぁーバターは卵に入れるんじゃなくてフライパンに敷くんだよ!」
「えい」
「入れ過ぎだ馬鹿! ぬぁああああチネッタぁああああああああああああ」
マダム・クリサリスは教えを請わない。彼女が全てを教える。女として過ごした一七〇年の軌跡は伊達ではない。必要なことのほとんどは教えてやれる。老婆にはそういう自信があった。ところがそいつは今日過信に変わった。血圧も少しばかり上がった。
なに、なにも旧エウロパニアのフルコースやらアスカのカイセキ料理を作ろうというのではない。トーストとオムレツ、それから簡単なスープを作るだけだ。洗って、剥いて、切って、煮るだけだ。だけなのだが。
「呼んだ?」
リビングの陰からチネッタが顔を出す。右手に雑巾こそ握られているが、掃除の進捗は期待できそうにない。
「ジズにオムレツを教えてやりな」
ぐったりした様子でマダムは言った。
「教えるって」チネッタはきょとんとする。「混ぜてひっくり返すだけじゃん」
「いや違う。そういうレベルの話をしてるんじゃない」
「んん? なに? あ、分かった。半熟にするコツね」
「卵の割り方からだ」
「そういうレベルか……」
「私はもう疲れた」
マダムのキッチンに申し分はない。鉄鍋も石釜も薬缶も揃っている。ことジズが驚いたのは焜炉とかいう便利な調理器具だ。取っ手を捻るだけで火柱が上がる。これがもう楽しくて仕方がない。魔法使いにでもなった気分だ。
「すごい」
がっちん、がっちんとジズは取っ手を捻る。そのたび底面の石版に刻まれたアルザル文字が呼応して光を放ち、粒子の力を借りて炎をうねらせた。
「なにはしゃいでんの……よ……」
チネッタはコンロに目をやるやいなや眉をひそめた。
フライパンではバターの海が煮えたぎっている。まるで地獄の鉄釜だ。野菜の皮も剥かれていない。オオトビジャガイモも、紐で縛っていないものだから、ぴょんぴょんとまな板の上を飛び跳ねていた。
「さてはあんた」腕組みするチネッタ。「料理したことないでしょ?」
「あるよ。四回ぐらい」
「あら。ごめんあそぁーせ」
「夢の中でだけど」
「また夢? あんたそれ、中毒よ」
「そ……」
ジズは口を噤む。いい反論が浮かばなかった。
「いい? まず卵を割るの」
「馬鹿にしないで! 卵ぐらい割れる」
「だー、ただ割るだけじゃ駄目なんだって! 見てなさい。こう机の角で叩くでしょ? で、殻が入らないようにボウルの中に……」
ぐっちゃと卵が粉砕される。そこに淑やかさはない。チネッタはお構いなしでボウルに卵を流し込んだ。どうにも斑だ。殻が混ざりに混ざっている。
「……」ジズはじとりとチネッタを睨む。「……殻がなんて?」
「まあ、普通は入れないけど今回は殻を入れるほうの作り方を教えるわ」
「そのまま作るの? 嘘でしょ?」
「食べたって死にゃあしないわ」
「雑……」
「なに?」
「なにも……」
老婆は昼食を外で取ることに決めた。
シンキングタイムだ。マダム・クリサリスは食べ物を粗末にすることをよしとしない。ではこの杜撰な昼食は、いったい誰の胃袋に収まることになるのか?
『〝抜錨のオーデロナマサ〟』
「〝シシギスと暖炉〟……ビーガンです」
『おはよう。入りな』
日ごとに変わる合言葉をパスし、庭師はいつも通りの時間にマダム邸宅の門を潜った。史上最悪の昼下がりが待ちかまえているとも知らずに。
「あぁあああああ」「わぁあああああ」
キッチンの方から叫び声が聞こえる。ジズとチネッタだ。早くも帰路が待ち遠しい。
(……前はバグリスの所為だったが)ビーガンは恐る恐る覗き込む。(今度はなんだ)
「まだよ、まだ! もう少し待って、半熟になって……──そこぉ!」
「ほっ!」
ジズがフライパンを煽る。黄色い布が宙を舞う。オムレツか……にしてはやけに火の勢いが強い。傍ではマダムが胸を撫で下ろしていた。安堵しきった彼女の様とアトリエばりに乱雑な台所を見る限り、失敗した回数は両手の指では収まらないようだ。
「「出来たぁあああああ!」」
姦しい。騒いでいる女は二人だけなのに。なるほど以前とは違った方向で話がややこしい。ビーガンは解毒剤の準備に取りかかった。
「理解しました、マダム。それで彼女らはどの草を?」
「草なんか吸わせるわけないだろ」
「しかし」ビーガンは二人を指差して言った。「ラリってます」
「菜食主義者は卵を食べるのかい?」
「……なんです、藪から棒に。僕は乳菜食ですから、時折食べますが……」
「それはよかった」
よかった? 何がよかったのか。しくじった、遺書を書いてくるべきだった……ビーガンが後悔する頃には、チネッタが丸皿を片手に寄って来ていた。
「おはようビーガン。今オムレツ焼いたんだけどさ、あなたちょっと味見してみてよ」
「……これはまた大胆な暗殺だ」
「暗殺じゃねーし」
「なら過失致死だ。どっちにしろ私は死ぬ」
「合点了解。それだけ美味しいってことね。脳味噌が耐えられないんだわ」
「合ってるのは最後だけだ」
「いいから食べてよ。自信あるわよ」
「過信だな……」
「早く!」
チネッタは自慢げにビーガンへと皿を突き出す。銃口みたいなものだ。
「……あの」ジズが控えめに言った。「別に、無理に食べなくても……」
「あなたが作ったんですか?」
ジズへの質問だったはずなのに、イエス、とチネッタが挟まった。
「焼いてもらったわ」
「焼いてもらった? 待って下さい。卵を割ったのは?」
「私だけど?」と、チネッタ。
「……味付けをしたのは?」
「それも私だけど」
「なんてことだ」
ビーガンは嫌そうに、本当に嫌そうに皿を手に取った。
(……海産物か……?)
バジルと思しき草が見えている以外、見た目におかしなところはない。火が通り過ぎていて半熟は期待できそうにないが、見た限りでは普通のオムレツだ。
見た限りでは……。
(魔吸器越しだぞ。なんだこの悪臭は。呼吸器疾患持ちじゃなくたってまともに嗅げば死ぬに決まってる……)
オムレツから距離を取り、ビーガンはキッチンに目をやった。
「……フォークはありますか。中を見たい」
「あーあ、紳士なのは口だけか」にやにやと煽るチネッタ。「あーあ。紳士なら、レディーがかいがいしく作ったものを残したりしないのにナぁ」
「…………」
「頑張って作ったんだけどなぁ……何度も何度も失敗して、それでも美味しく食べて貰いたいからめげずに挑戦したのになぁ……残念だなぁ、ビーガンはそういう奴なんだ。あーあ、そう。そうかそうか、君はそういう奴なんだな……」
「えぇい鬱陶しい! 食べればいいんだろ、食べれば!」
ビーガンが魔吸器を外し、端正な口元を露にする。チネッタの目の色が女のそれに変わった。畜生、やり手だこの女め。ジズはまんまとだしにされた。
「……」
ビーガンはフォークを片手にためらった。なんだこれは。食べていいものなのか。そもそも食べられるものなのか。突き刺してみる。何かが割れる音がした。殻か? ガラスという線も考えられる。まさか水晶ではないだろうが……。
「……今、なにか……」
「なに?」ぶっきらぼうに言うチネッタ。「食べないの?」
「……」
「ほら。いただきますは?」
「お世話になりました」
ビーガンは一思いにオムレツを放り込む。最悪だ。あますところなく殻が潜んでいる。砂を噛んでいるようだった。卵がたっぷりと油を吸っていていやに気持ち悪い。おまけにハーブの香りがきつすぎて味もへったくれもあったものではない。
「どう?」
「言葉にできない」
「おいしい?」
「最悪だ」ビーガンは繰り返した。「最悪だ。火を通しすぎている」
ずきり。ジズの心に棘が刺さったが、庭師の知ったことではなかった。
「それ以前に味付けの問題だ。なにか香辛料を入れましたね? ハーブがきつすぎて味を殺してる。いや、そもそも殻だ。砂場に落としたってこんな食感にはならない」
チネッタの表情が曇る。なんとも露骨な乙女さながらに。
「そんな言わなくたって……」
「なに泣いてるんです? 泣きたいのはこっちだ。これだけ殻が混じってて何故作り直そうと思わなかったんです。ましてや来客用に出すものを──」
ビーガンはそこで糾弾を止めた。
「……ビーガン?」
呼吸がいやに苦しい。腹の中で何かがのた打ち回っている。胃袋の中身が丸ごと持っていかれるようだ。内蔵に奇妙な圧迫感……なんだ、これは。吸盤か? ビーガンはたまらず喉元を押さえ、その場に膝から崩れ落ちた。
「……く……」
「……まずいのは認めるけど」後ずさるチネッタ。「それはやりすぎじゃない?」
「……が……」
「なに?」
「い……息が……」
血走った眼と脂汗。冗談ではないらしい。チネッタの顔まで青ざめてゆく。マダムが事態を察し、ビーガンの元へと駆け寄った。
「チネッタ! あんた何入れたんだい!」
「そっ、別に変なもの……マダムに教えられた通りよ! その辺にあった魔草とか……」
チネッタが瓶の一つを手に取る。つられてジズもラベルの注意書きを覗き込んだ。
「……あぞろーち?」呟くジズ。
「えーなになに……〝魔力を吸い上げる世界樹の近縁種。誤って飲み込んでしまうと、体内で魔力を吸って急激に成長します。取り扱いには充分ご注意下さい〟……」
「……つまり?」
「……つまり……」
万歳三唱! 庭師の人生ここに眠る。二人は顔を見合わせた。
「やばい」
呟き、チネッタはビーガンの腹を蹴り出す。やけっぱちとばかりにジズもそれに倣った。
「おらぁ!」ヒールの尖端を押し込むチネッタ。「これが正解じゃあ!」
「吐き出せぇー!」
「や……ぐふっ」ビーガンは呻くしかなかった。「やめろ……」
「掃除機掃除機! マダム何してんの掃除機早く!」
「どうしようお尻も叩いた方がいいかな」
「どこでもいいから叩くのよ! とりあえず吐くまでボコボコにして……」
厄日だ。殺人未遂の次は集団リンチときた。これでは救おうとしているのかとどめを刺そうとしているのかわからぬ。やがてビーガンが大きく咳き込み、赤子の拳ほどに膨らんだ種子を吐き出した。触手と思しきものが胃液を纏ってうねうねと動いている。
「……ば……馬鹿げてる……」
さすがの優男というところか、苦しんでいるさまも随分と絵になるが、当の本人はそれどころではない。今度はチネッタが駆け寄る番だった。
「マダム大変、ビーガンが苦しそう……」
「だ……誰の所為だと……」
「ごめん……今度は間違えないようにするから……」
「二度とごめんだ……」
チネッタの膝枕に頭を預けながら、ビーガンはやっとのことで魔吸器を口に宛がった。
「……ごめんね」
しゅんとするチネッタ。いつもの勢いがどこにもない。飛ぶ鳥が落ちたようだった。どうにもそれがビーガンの後ろめたさを攻め立てる。百対一で彼に過失はないのに。
我ながら、どこまでも事なかれ……ビーガンは溜息一つを大きく吐く。
「……過ぎたことはどうしようもない。いい勉強になったでしょう。次からはオムレツに余計なものは入れないことだ」
一難は去った。胸を撫で下ろし、ジズはうぞうぞと動く種子をゴミ箱に放り込む。さすがのマダムも呆れたか、さっさと外出の準備を始めた。
「……いつもはシンプルなの作るんだけど」
チネッタは懺悔するように言った。
「あなたが来るの分かってたから、つい背伸びしちゃって……」
塩らしい言い草だ。ベッドで溶かしたチョコレート片手にマシンガントークをかましていた女だとは思えない。ジズはその二面性に恐れすら覚える。
「駄目だよね、私って……へへ……」
「……」
「……」
「……いや待てそれはおかしい」と、ビーガン。「なに感動的に閉めようとしてるんです? 殻は? 殻はシンプルなオムレツにだって入っちゃいない」
「ちっ。失敗か」
「この女……」
強かが過ぎる。ビーガンは慣れない膝枕の感触から起き上がった。そこに名残惜しさは一つもない。
「殺すつもりはなかったんだよ。あんなものだって知らなくて……」
「当たり前だ!」
「背伸びしちゃったのは本当」
チネッタは背を向けていった。
「理由のほうも本当」
「……チネ」
「でも来るのが分かってたってのは嘘。練習のつもりだったの」
ジズは退屈しながら、極力会話を耳に入れないよう無心でフライパンをこする。クソったれ。どこか別の場所でやってくれ。炊事場でフライパンをこする女の後ろでなければどこでもいい。耳が糖尿病になる。
「ごめんね。今度お詫びするから」
ビーガンは深めに息を吸った。まったく鼻持ちならない臭いだ。この女は、こういうところが心底──
「……ああクソ。もういい。お詫びなどどうでもいい。私に何か作るなら、食べられるものを作るようにしてください」
「……食べてくれるの?」
「……あなた次第だ」
ビーガンは鍋を打ち鳴らしたそうなジズを見やり、居心地が悪そうに姿勢を正した。
「さぁ。もういいでしょう。気が済んだなら仕事に……」
「なんで私と喋る時だけ、自分のこと〝私〟って呼ぶの?」
「は?」
「マダムと喋ってる時は〝僕〟って言うじゃない」
ビーガンは答えに詰まる。自覚していなかったわけではない。意識的なものだ。だが、そのまま口に出すにはあまりに愚かな理由だった。
「……ステージに立つと」
「なに?」
「……なんでもない」
チネッタは頬を吊り上げる。手ごたえありとでも言いたげだった。
「ふぅん。そう。そうなのね。なんでもないの?」
「いいから早く掃除を」
「合点了解、庭師サマ」
こっちに笑顔を向けるな。ビーガンはそう言ってやりたかった。勿論口には出さなかった。意味が正しく伝わるとは思えなかったからだ。説明するのも野暮ったい。
ステージどころの騒ぎではない。まるでリングだ。拳で打ち合う戦いの場。
その顔は──どうにも庭師のスポンジみたいな脳味噌を揺らすのだ。
「……チネッタ」
名を呼ぶ。意味はない。必要でもないだろう。だが、もうじき必要になる。庭師の勘はそう告げていた。それが良い報せか悪い報せかはともかく。
「ビーガン、後を頼むよ」
マダムの声が彼を引き戻す。夢心地の沼から、覆しようのない現実感の方へ。
これは仕事だ。ここには庭師として来ている。それ以上を求めてはならないし求められてはならない。この不本意なシッター役も時間の問題なのだ。
それに──求められたところで──こればかりはどうしようもない。
「待ってくださいマダム。ひとつ聞いても?」
「聞くだけ聞こう」
庭師はチネッタの顔を払拭して問うた。
「裏庭のネシモワモ、異様に蔦が伸びてますが──何を埋めたんです?」
◆
「ヘッロォーウ、リフタレグレンタァーニ管理官!」
お道化ながら、手品師は火柱とともに現れた。八五〇〇MgHzの波動を伝い、粒子となって空間を駆けたのだ。アンテナが電波を送受信するように。
ちょうど昼食を終えたところか、リフターは卓上の食器を下げ、現れたバグリスへと睨みを利かせた。今はコーヒーが冷めることなど二の次だ。
「用件は分かるな?」リフターが先手を取る。
「おやおや。言葉の帝王ともあろうものが、言葉なしに話を進めようとは」
「オペラを拾ったはずだ」
やはりか。バグリスは肩をすくめた。
「拾ったねえ。放っとかれたら君たちも困るだろう? あのまま天上警察へ駆け込まないとも限らないじゃないか」
「一応感謝はしておこう。拾ったことにはな。問題は売ったことだ」
リフターは目を尖らせた。だが、死人が相手では暖簾に腕押しといったところか。
「なぜ競売に出した?」
「ご立腹のようだねぇ」
「なぜかと聞いた」
「金になるからさ」
「誰が売っていいと?」
「売るなとも言わなかった。違うかい? 契約書にはこうある。〝甲は乙からの申請を受けた場合、乙が引き渡した片翼者、ならびに比翼者を競売の商品とし、速やかに里子を見つけなければならない。またそれらの片翼者、ならびに比翼者は乙の許可なく競売に出品されてはならない〟」
僕は、とバグリス。
「君からロリィタ・ジズのことを何一つ聞いていない。競売への出品可否はおろかその存在についてさえだ。つまり僕は彼女を、自分の意思で競売に出したというわけだな。君から申請を受けたわけじゃない。したがってそこに君の許可は必要ない」
「そんなものは言葉のあやだ」
「隠し事のツケが回ってきたのだよ。ビジネスライクにいこうじゃないか、管理官。僕と君は同士じゃあないんだぞ」
むしろ、とバグリス。
「感謝してほしいぐらいだね。なにせ、彼女はマダム・クリサリスの元へ引き取られたんだ。それはそう……幸運にも、偶然にも、奇跡的にも。天上警察へ駆け込まれるよりよっぽどマシだと思うが、どうかな」
わざとらしい言い草だ。ウスターシュが鼻で笑った。
「それともなにか? ロリィタ・ジズを匿ってれば良かったのかい? 金になる石をみすみす見逃せと? なめられたものだな、リフター管理官。劇場が君ごときに尻尾を振ると思ったら大間違いだ」
傘を突きつけるバグリス。見かねたウスターシュが剣の柄に手をかけた。
「君など二秒で殺せる」
「試すか?」と、リフター。
「失礼。二秒は言い過ぎたな。五秒だ。そちらのご老人に三秒もらう」
けたけたと嘲る骸骨。老人の機嫌などは彼の知ったことではない。
「リフター管理官。僕が冗談を言う時は冗談だと分かるようにしか言わない。誇張でもなんでもなく、今ここで君たちを殺すのにかかる時間は、本当に、五秒なんだ」
たわ言ではない。折れもしまい。こいつはそういう生き物だ。リフターはしばし無言のままバグリスを眺め、お手上げという様子でため息をついた。
「ウスターシュ。カーミラの資産はいくらだ?」
老躯は刃を収めた。
「正確な数字は分かりかねますが……最低でも競売で積んだ金額分は」
「三〇〇〇万足らずといったところか。ではこうしよう」
引き出しから小切手を取り出すリフター。綴られた金額は五〇〇万ゼスタ。テーブルゲームでもするように一枚、二枚と順番に並べていき、六枚揃えたところで彼は手を止めた。
「いいか、バグリス。ここに三〇〇〇万ゼスタ分の小切手がある」
「僕を買収するつもりか? 傑作だな管理官。そんなはした金で」
七枚目が加えられる。
「三五〇〇万」
「……」
続いて八枚目。
「四〇〇〇万」
「……アァー、ハァーン」
「どうだ。手札はまだ必要か? いくら足りない?」
うまいやり口だ。価格の上昇に悦びを覚えるバグリスの性格をよく理解していた。
九枚、十枚、十一枚、そして十二枚。カードプールの総額が六〇〇〇万ゼスタに及ぶ。決めあぐねているのだろう、バグリスは落ち着かない様子で机に人差し指を打ち付けていた。
なにせこいつは金銭の悪魔だ。積まれた紙幣が、そのまま寿命になるのだから。
「……分かっているのかい、リフター管理官。マダム・クリサリスの手を噛むということは、暗黙の均衡を崩すということだぞ」
「御託はいい。白か黒かだ」
リフタ=レグレンターニは値踏みするような目で言った。
「問うぞ骸骨。お前はどちらの味方だ?」
バグリスは自らの顎に触れ、そしてリフターの目を見て考えた。
おかしな話だ。自分などは死んだことでハクがついて悪魔になったようなものだが。
いるものなんだな。こういう男が──
──人の形をした悪魔なのか、悪魔の心を持った人間なのかわからないような奴が。