第十四羽「ゆえにとらわれの君」

 

 

 

 

 幸運のもとに目覚めた碧玉へきぎょく比翼者ヴァイカリオス──ジャスパーは、笑うだけ笑ってみた。良くない時は大体そうだ。そうすることでなんとかなると信じている。

 信じてはいるがかんばしい状況ではない。言ってしまえば脱走ゲームのコマが振り出しに戻っただけで、四度目ともなれば警邏けいらの警戒も一層強まろう。見慣れた床石のざらつきは、ニヒルな微笑みをさえ吸い込んでゆく。それほどに絶望は深かった。

「……くそ」

 また視界がぼやける。体は石畳の上に崩れ伏したままだ。自慢の腹筋に起き上がろうと力を込めてみても、四肢ししの末端が麻痺しているようで、上手く体がついてきてくれない。

 これは、死の──石化の余波か。それとも。

 

「気分はどうだ」

 

 ぎ、と鋼鉄が鳴る。鉄格子の扉を押し開け、ウスターシュが語りかけてきた。

 しわだらけの左手には魔法瓶マフラスク。中身はうかがえない。

 唇を撫でた隙間風がやけに冷たさを主張するものだから、ジャスパーは自分がなにか飲まされたことに気がついた。枯れ草みたいなっぽいえぐみが鼻腔びこうに漂っている。

 弛緩剤のたぐいか。なるほどこの男が石化をいたのだろうが、その左手が曲刀シャムシールつかに添えられているあたり、万事解決とはいかないようだ。ただの親切というわけでもあるまい。

 どっちみち、事態が解決しようがしまいが、ジャスパーに出来るのは笑うことだけだ。

「……ジジイが橋渡しとはな」白い歯が覗く。「地獄も就職難か」

「ウスターシュだ。口の減らん若造め」

「そういう性分なのさ」

 徐々に四肢の感覚が戻ってくる。ぐっと拳を握り、そののち開いて、ジャスパーは一思いに起き上がった。

 左頬めがけて拳を振りかぶる。ウスターシュは避けない。避けるまでもなかった。グラついた三半規管が足元をよろめかせ、ジャスパーの体を再び床へ這いつくばらせる。

 一歩。半開きになった檻の扉まであと一歩……その一歩が届かなかった。

 本調子には程遠い。万全の状態であっても勝つのは望み薄な相手だ。石の羽からも応答はないし……要するに、今のジャスパーには本当にどうしようもなかった。

「あの、とろくさいグズ女は……」

 ジャスパーはごろりと仰向けになって、鉱石の天井──その赤茶けた繋ぎ目を睨む。

「ジズは……どうなった」

「君に言うわけにはいかない」

「まだ捕まえちゃいねえってことだな。死んでるのに隠す必要はねえ」

「ふん」小さく笑うウスターシュ。「捕まえたところで、別に殺すわけではないがね」

「あん……?」

 身体は動く。もう石ではない。だが石のように重い。ぼうっと蝋燭ろうそくの火を眺めて、それから自分の掌を灯りへかざし、そこでようやくジャスパーは自分の脈を感じた。

「……まだ生きてるとは……笑えねえ話だ」

「生かされているだけだ」

 視界がもやがかる。頭痛が酷い。へそで茶を沸かした覚えはないのにはらわたが妙に熱い。喉の奥から異様なハーブの香りが立ち込め、ジャスパーはたまらず嘔吐えずく。

 ウスターシュが彼の首筋を引っ掴み、雑巾でも捨てるように檻の奥へと投げやった。

「ベロニカ……」と、ウスターシュ。「濃度八〇パーセントの魔酒マキュールだ。経口摂取で神話ミュートロギア細胞さいぼうを活性化させる。そろそろ感覚も戻るだろう。この量だと、まともには動けんだろうが」

 酒。初めての酒だ。ジャスパーは苦笑した。酒が飲める歳より遥かに前からこの地下牢にいたというのに、ようやく口にした初めてが、介護を受ける歳の老体に飲まされたものだとは。報われない話だ。これではどっちが老体か分かったものではない。

 当のウスターシュは吐き気に青ざめるジャスパーなどどこ吹く風で、自らもまた檻の内側に入って鍵を閉める。かたわらの丸盆にはティーカップが二つ。そのうち一つをジャスパーの眼前へ、もう一つを右手に持ち、持ち込んだ座椅子に深く腰掛けた。

「……なんのつもりだ」

「ティータイムだ」と、ウスターシュ。「退屈だろう? まあ飲め」

「信用できるか」

「では騙されたと思って飲め」

 ウスターシュは足を組んでカップを口へ運ぶ。流石に優雅なさまだ。こうしていると好々爺こうこうやにしか見えないが、敬服すべきことに、紅茶に喉を鳴らしているこの瞬間ですら隙がない。

 さしもの自信家ジャスパーもお手上げだった。寝起きの身体に深酒で三半規管を狂わされたとあっては打つ手がない。ましてや相手は老練の剣客けんかくだ。

「……」

 壁に背を預け、ジャスパーは体育座りの姿勢を取る。湯気の立つティーカップを半信半疑のまま鼻先へ。妙な香りはない。上質なハーブを思わせる。トノサマバターをふんだんに使ったビスケットによく合うだろう。檻中に立ち込めたむごたらしい臭気さえなければ。

 罠ではない。毒も恐らく入ってはいまい。実力から見てもそうだし──人格から見ても──この老人が小細工に頼ることはないだろう。ジャスパーは彼なりの経験則に従い、一度ばかりウスターシュの面構えを見やって、紅茶を口にした。

 魔草紅茶マーブ・ティーだ。他に述べることはない。それ以上でも以下でもなかった。特別美味いわけでも不味いわけでもない。強いて言えば檸檬れもんのひとかけでも欲しいところだが贅沢は言うまい。

 しばらく無言で紅茶をすすった後、ウスターシュの方から口を開く。

「見事だった。よもや、あの出口を見抜くとは」

 意外な言葉だった。呆気あっけに取られ、ジャスパーは失笑する。

「見つけたのは俺じゃねえ。あの身の程知らずのアホな女だ」

「それは失礼。しかし、喧嘩の方も中々いいすじだった。あと十歳老けていれば、私の首は今頃ここにはなかっただろう」

「あんがとよ」と、口を尖らせるジャスパー。「正直ついでに出しちゃくれねえのかい。カビ臭くてかなわねえぜ」

「十二年もいて今更何を言う。悪いが決まりだ」

 ジャスパーがぎょっとした。

「十二年?」

「そうだ」

「……俺は十二年もここにいたのか?」

「普通ならとうに廃人だ。覚えていないかね?」

「日めくりカレンダーを置いた覚えは?」

「ないな。失礼」

「十二年だと。笑えねえ。ウラシマになった気分だ」

 懐かしい響きのアスカ語に、ウスターシュが小さく笑う。

比翼者ヴァイカリオスの身体的成長は、青年期をさかいに一度停滞する。君などまだまだ若い。なろうと思えば何にでもなれるとしだ」

「歳なぞ関係ねえ。心がなまったら老いぼれの仲間入りだよ。あんた、今いくつなんだ」

「次の月食で一五〇になる」

「ひゃ……」

 紅茶が気管に流れ込む。耳を疑い、むせ返り、ジャスパーは呆れた様子で口元を拭った。

「冗談だろ。一五〇歳の動きじゃなかった」

「元々は天上警察に所属していてね」

「警察? あんたが?」

「前にも言ったが」肩をすくめるウスターシュ。「教鞭きょうべんを取っていたこともある。免許も取得済みだ。信じられないかね?」

「というか、信じたくねえな」

「いやなに、警察と言っても」と、笑うウスターシュ。「荒事あらごと専門だ。宗教団体の小競り合いを鎮圧したり、ちんけな盗人をお縄にかけたり……」

「人身売買に手を出してる児童福祉施設を摘発したり?」

 ジャスパーがにやつき、ウスターシュの白い眉が揺れた。 

「お見事」ウスターシュが手を叩く。「知っていたのかね」

「三回も半殺しにされてんだぞ、下層は全部把握済みよ。あのガキども、ただの片翼者メネラウスだろ。随分と待遇が違うじゃねえか。こっちは檻の中だっつーのに」

「そっちじゃない。福祉施設かどうかでなく、人身売買の方だ」

「馬鹿でも分かる」

 自分の片翼かたよく……石化の余波か酒のせいか、それとも使いすぎか……ともかく、小さくしおれた碧玉へきぎょくの羽に目をやって、ジャスパーは続ける。

「なりそこないをタダで引き取るなんて虫のいい話があるかよ。俺たちの価値なんてそれぐらいだ。でなきゃ、寄付も受け付けてねえ天上宮があの景観を維持できるわけがねえ」

「なるほど。見誤っていたよ。馬鹿ではないらしい」

「だから、馬鹿でも分かるっつうの。丸裸のガキを檻に入れて飼ってんだぞ。変態のところに売り飛ばす以外にどうするんだよ。流石に普通の片翼者メネラウスまで売ってるとは思えねえが……」

 一瞬ブレるウスターシュの眼。碧玉ジャスパー慧眼けいがんはそれを見逃さない。

「ああ、売ってんのか。救いようがねえ」

「それは誤解だ。君たちが思っているほど、我々は残虐非道な悪人ではない。里親を探していると言ってもらおう」

「物は言いようってか、笑わせんなよ」

 からになったティーカップを叩き割り、ジャスパーは睨みを利かせる。

「こんな真似がいつまでもまかり通ると思うなよ。アトラス市民にバレてみろ。摘発されて、一発で終わりだぜ。天上法に照らせばてめえらは全員死刑だ」

「若造らしい言葉だ」

 ぎ、と座椅子を軋ませ、ウスターシュが両膝に肘を突く。

「完全犯罪というのはな、バレないからこそ完全犯罪なのだ」

「同意するぜ。バレた時点でそいつはただの犯罪だ」

 深い哄笑を漏らし、ウスターシュが両手を広げる。

「君が暴くというのかね? この檻の中から? 一体どうやって? 市民が摘発することなど有り得ない。そもそも知ることすらないからだ。いや、たとえ知っても──暴こうとはしないだろう」

「ジズが暴く」と、ジャスパー。「あいつがお前らのほころびだ。だから躍起になって探してる」

「幸運にすがるかね」

「経験則さ」

「さすがに若造。飲み込みが早いな」

 ウスターシュはゆっくりと紅茶を啜る。当てつけの為にでも来たつもりか。ひけらかされた余裕が、どうしようもなくジャスパーを苛立いらだたせた。

「おい。結局てめえは何しに来たんだ? 石になった感想でも聞きに来たのか?」

「別に。見ての通り、老齢としでね。たまには仕事を休みたくもなるだろう」

「ふざけてんのか。てめえさえいなけりゃ今頃……」

「失敗したさ」

 ウスターシュは言い切る。嘲笑ではない。ただ事実を述べた。

「いい加減、冷静になれ。抜け出してどうなる? 飛べもしない石の羽で、一体どこへ?」

「だから! 比翼者ヴァイカリオスは二人いれば……」

「二人いれば良いというものでもないし、それに……その比翼者ヴァイカリオスという生まれこそが、君たちをここに閉じ込めているんだぞ」

「……あぁん?」

比翼者ヴァイカリオスが、というよりは……君たち特有の難儀な性質が、だ」

 ぺ、とジャスパーはつばを吐き捨てる。こんな面倒なジジイに言われたら形無しだ。

比翼者ヴァイカリオスは石の羽を持つ。その能力が自らの心にるように。君たちはどうにも意志が強い。石のように頑固だ。決して自分を曲げない。分かるかね?」

「……頑固だから閉じ込めたってのか?」

「そういうわけではない。君たちは極端なのだ。肯定アレニョ否定ザレニョも等しく。それゆえ、一度拒絶した人間の言葉は響きづらい。君たちの自己は、自我は……肥大しているのだよ。

 決して折れない石の心を持った者たち……管理官の言葉になびかない者はこうなる宿命だ」

「さすが、変態は考えることが違うぜ。片翼かたよくのハーレムでも作ろうってのか」

 道理での天使をはべらせるわけだ。いかにもカリスマを気取りくさった、あの男らしい陳腐ちんぷな理想である。

 ウスターシュはふっと鼻で笑い、ジャスパーの口撃を跳ね退けてやった。綿毛の種でも飛ばすように。

「あのお方に悪意はない。善意でやっている」

「おい、おいおいおい、おい。てめえ、頭おかしいのか? 善意で人を監獄に閉じ込める奴があるか? 善意で自分を崇拝するよう仕向ける奴が、この世のどこにいるってんだ」

「君は」と、指差すウスターシュ。「恐らく神を信じないだろう」

「お陰様でな。それがなんだ」

「私は信じていなければとっくに死んでいた」

 ぼうぼうと揺れる蝋燭ろうそくの炎。その中心の青い輝きに、ウスターシュは目を落とす。

「自分だけを信じて歩むというのは、時としてとても恐ろしいことだ。心のどころがない者は何かにすがらなければ生きていけない。そういう風になっている」

「……なんだ? 宗教でもやってんのか?」

「何を信じていいか分からない者達の羅針らしんとなる……あのお方がやっているのはそういうことなのだ。さながら、外の人々が太陽を基準に東西を決めたように……」

「意味がわからねえ。勧誘ならゴメンだぜ。空飛ぶ眉なし変態教に入るつもりはねえよ」

 ジャスパーはひらひらと手を振る。

「俺は自分を信じる。自分しか信じねえ。何故だか分かるか? 俺を裏切らずにいられるのはそいつだけだからだ。仮に裏切られたとしても、他人に裏切られるよりはマシだね」

「君のような強がりには分かるまい」

「なんだと?」

「その剃刀かみそりに似た薄い刃は、君が隠している弱さのあらわれだ」

 強がり──耳に痛い一言だ。一五〇年も生きたとなれば、若造の心中ごときはお見通しらしい。沈黙したものの、そのうちいたたまれなくなってきて、ジャスパーは口を開いてしまう。

「……あの眉なしヤローはなんで俺達を目のかたきにする? 比翼者ヴァイカリオスになんか恨みでもあんのか? 俺たちがあいつに何したってんだ?」

 問い質すには遅すぎた話だ。ウスターシュは答えない。

「十二年だ。それぐらいは聞いたっていいハズだぜ。脱獄できようが、できまいがな」

 沈黙と、かびの臭い。ウスターシュは顎鬚あごひげに手を添え、もったいぶって毛先をいじる。そうしてしばし思案したのち、観念したように口を開き始めた。

「……比翼者ヴァイカリオスが持つ翼は、死者の魂が二つにわかれたものだ」

「?」

「旧時代において人が世界樹よりたまわった超常の力……いわゆる亞能力あのうりょく……たとえば、言刃フラッグだ。その源は、我々の中にある二十一ガリネの粒子──すなわち〝魂〟という奴でな」

 カップを目線の高さまで掲げ、ふっ、と手を離すウスターシュ。陶器の破片が散らばって、紅茶の残りが床にぶちまけられる。

 彼はまだ湯気の立つそれに人差し指をつけ、水滴をジャスパーの顔へと弾いてやった。

「……?」首を傾げ、頬の水滴をなぞるジャスパー。「何してんだ?」

「石の羽とは、その水滴のようなものだ」

 長い足を組み、ウスターシュは再び彼に向き直る。

「人間が死ぬ際に放出された魂を、近くにいた人間が受け取ることによって力を手に入れる。神話ミュートロギア細胞さいぼうの空白部分に、二十一ガリネの粒子が情報として書き込まれるのだ。いや、書き込まれるというよりは、配列を組み替えるといった方が正しい。

 神々の音素……古代アルザル文字が、ジャンクDNAとして扱われている遺伝子のブラック・ボックスを──生命の楽譜を、書き換えるのだ」

「オカルトかよ、勘弁してくれ。分かるように話せ」

「まあ焦るな。行き急げば死に急ぐ」

 言って、ウスターシュは右手の指を二本立ててみせる。

比翼者ヴァイカリオスは例外なく双子だ。そして、母体は必ず死ぬ。いや、死んだ母体から生まれた双子を比翼者ヴァイカリオスと呼ぶ……そう言った方が正しいだろう。母体が死んだ際に放出された二十一ガリネを、胎内の双生児が半分ずつ受け取り……結果として片翼かたよくで、それも石の羽を持った状態で産まれてくる」

「……ソーセージ……?」

「食べ物の方じゃあないぞ」

「馬鹿にしてんのか! 双子の方だろ、双子の!」

「そうだ。必ず、双子だ。翼を一対持っているものは、翼という魔力的形質の情報で五線譜が満たされているからな。そこには新たな粒子が書き込まれる余地がない。従い、生後も言刃フラッグを──古臭い言い方をすれば〝亞能力あのうりょく〟を──得ることはできない。

 蛇人種ナーガ鳥人種ガルーダ、あるいは狼人種ルーガル……彼ら亞人の種族的特長が、ジャンク部分に書き込まれているのと同じことだ。それゆえ旧時代で言刃フラッグを操ることが出来たのは、死別によって他人の魂を得た人間か、人間と亞人の混血……いずれにせよ、生身の人間としての要素……遺伝子におけるブラック・ボックスを持つ者だけだった」

 右から左へ馬耳東風。さっぱり意味がわからなくて、ジャスパーはぽかんと口を開ける。

「だから、どうだってんだ? 答えになってねえぜ」

「君たちは翼を一つしか持たない。つまり──細胞の部屋が片方空いていたということだ」

「……」

「石の羽の情報が、その空白に書き込まれているのだよ。本来、受け継ぐはずだった死人の魂……つまり、母体の魂……君たちの母親の魂、その半分がな」

 そこまで言って、ウスターシュは指を一本折る。

「もうわかるだろう、ジャスパー。なのだ。君たちは翼も、世界樹がもたらしたの力も、半分ずつしか持っていない。比翼者ヴァイカリオスが二人揃えば、生体水晶を通じて粒子的情報のやり取りが可能になる。お互いに足りていない半分ずつを埋めあう。

 二人そろって初めて使える亞能力あのうりょく……それが、君たちが持つ〝言羽フレッジ〟……旧時代の力である〝言刃フラッグ〟の名残なごりというわけだ」

「……」

「もはやこの状況は、君がいくら強がろうとどうすることもできない。君たちは確かに石の羽という強大な力を持ちえたが──一人では不完全なのだ。その力も、またその心もな。

 管理官は完璧だ。そして、何者にも揺るがない。君たちとは心のつくりが違う」

「忠告を頼んだ覚えはねえ」ジャスパーは鼻で笑う。「誰だって、一人じゃ不完全だ」

「そうとも」老骨も応じる。「人は足りない何かを埋めあうようには出来ていないのだ」

「だったら一人で正解だ。それは俺たちが恨まれる理由にはならない」

 もっともだ、とウスターシュが頷く。彼自身も、そういう理由のもと此処ここにいるわけではなさそうだった。

「なぜ比翼者ヴァイカリオスを目の仇にするのか……そう聞いたな」

「それだそれ。それが聞きたかったんだよ。言羽フレッジが理由だってのか? 超能力に憧れたか? 何のためにだよ。普通に生きてりゃそんなもんは必要ねえ。羨ましいってんなら理解ぐらいはしてやらなくもねえさ。けど、だからって恨まれるいわれは……」

「誰も、君たちを恨んでなどいない」

 飛び起きるジャスパー。今度は彼の方が早かった。鍛え上げられた両手が、ウスターシュのローブの胸ぐらを掴む。

 いや。老人は、避けようとしなかった──ようにも見えた。

「恨みはないだと。ふざけるんじゃねえ! だったらどうして閉じ込めた。憂さ晴らしか? 金のためか! どっちにしろただの道楽だ……!」

「必要だからだ」

 ウスターシュの白い眉はぴくりとも動かなかった。苛立ちも、怒りも、哀れみさえ。それら全てを超えたところから、便箋びんせん糊付のりづけでもするみたいに彼は続ける。

「君たちがうとまれる理由がただの恨みつらみならば──我々は、こんな大仰なことに手を出したりはしない」

「……」

「諸君ら片翼は、なりそこないだと言われるが、そもそも誰がそう決めた?」

「……」難題だ。歯切れも悪く、ジャスパーの犬歯の付け根が隠れる。「誰がって……」

「人はそれぞれ違う生き物だ。耳の形も、鼻の形も、瞳の色も。なのになぜ〝どこかが足りない〟というだけで区別される? 足が、腕が、瞳が、羽が……二つあるはずのものが片方足りないというだけで、何故人々は君達を区別する? それは魂に影響するか?

 なにか足りなければそれは不完全か? 人は完璧であるべきか? 完璧とはなんだ? 人を人たらしめているのが姿形であるならば、姿形が完璧であれば人として完璧なのか? そしてもしもそうではないのなら──どこが完璧であれば、人は完璧と呼べる?」

「……」

「どうかね、ジャスパー。一体誰が君たちを、なりそこないだと決めたのだ?」

 知ったことか、そんなもの。宿題でも出したつもりか。

 誰が……誰がって……誰がだ? 言われてみれば、誰がそう決めたのだろう。どうしてこうも、いわれなき侮蔑と嘲笑を受けなければならないのだろう。

 誰が──いや、違う──決めた?

 天のおぼしか。神とやらか。でなければなんだ。なにゆえ俺はとらわれている。

「我々の敵は」ウスターシュは斬って捨てるように言う。「なのだ」

「敵……?」

「見ておけジャスパー。管理官は成し遂げる。その時、選ぶのは君だ。我々は──」

 反撃のウスターシュ。突如、回転する視界。アスカの投げわざか。背中から勢いよく床に叩きつけられ、ジャスパーは無様に老人を睨み上げる。

「──解体かいたいし、そして再統一さいとういつする」

「……なにを」

「言葉を」

 襟を正すウスターシュ。

「宗教を。倫理を。弱さを弱さとする闇それら全てを、我々は解体する」

「……?」

「人々は言葉が刃物であることを思い出し、剥き身の心でこの世界を漂い……そうして、愛と優しさのもとに統一されるのだ。この世はまさしく、何億光年の彼方かなたへと散らばる清きによって、愛と優しさに満ちた世界へと生まれ変わる」

 ウスターシュは容赦なく檻の鍵をかける。ジャスパーが見る限り、そこには愛も優しさもなさそうだった。

「その為に、君たちが──君たちという〝電池〟が必要なのだよ」

 忠言のように言い残して、ウスターシュは闇へと消える。それきり戻ってこなかった。置き去りのジャスパーには、その穏やかではない胸の内いっぱいに、掴みどころのない曇天が広がるばかりである。

「……分かるように言えっつうの」

 また拘禁こうきんの身に逆戻りだ。相も変わらず絶望的で、考え事は増えていくばかり。

 仕方なしに寝っ転がり、ジャスパーは一人で頭を回すことにした。

 差し当たり、奴らにはいい電気屋を教えてやらねばならないようだから。

 

 

   ◆

 

 

 半壊した家の屋根は、息も絶え絶えのビーガンが必死に触手を伸ばし、半球状のツタで覆うことで事なきを得た。

 帰還するなり自分の邸宅の残骸を見せ付けられた老婆の形相たるや、口にするのもはばかられるいかめしさであった。機関銃のような罵詈雑言がビーガンを襲ったことは言うまでもない。名誉の為にここでは割愛するが──まあ、優待券を回収できたのだから、彼としてはおんの字だ。

 原型を留めていたバスルームで汚れを洗い落としたあと、一同はリビング……だった場所へつのって暖炉に小さな火を起こし、クアベルの尋問を開始した。

 存外、クアベルはすんなりと吐いたように思える。もとより粘土のような女だし、長いものに巻かれろ精神でやってきたものだから、こういう時の変わり身の早さには目を見張るものがあった。

 捕虜の身分で徹底抗戦の姿勢を取り、ぎゅっと口を結ぶだなんて真似は、彼女に言わせれば〝面倒〟以外の何物でもない。いつも通りのはかりにかけて、いい加減な答えを出しただけだ──とりあえずは、ひとまずは。

 さて、お分かりのように事態がひと段落するまでには、少女三人によるあどけないシャワーシーンというフィルムが存在したわけだが──これもここでは割愛しよう。残念ながら。本当に、残念ながら。

 なぜって、レイトショーにはまだ早いし、マダム・クリサリスの怒りをかんがみれば、汚れつちまった悲しみを水に流すことは出来ぬゆえである。

「では、まとめようか。お前への罰は後で考えよう」

 マダムはそう言って、暖炉の前に座り込んだ少女三人……その真ん中のクアベルを──極力怒りを顔に出さぬよう──見下ろした。

 ビーガンはと言えば、暖炉から少し離れて、石柱の破片に腰を落としている。心も体も満身創痍だが、とても草を吸う気にはなれない。やりきったという様子だった。

「リフターは〝再統一〟なる野望のために比翼者ヴァイカリオスを集めている。だが、天上宮の職員達ですら再統一が何を意味するか正確に理解してはいないし、どうして比翼者ヴァイカリオスが必要なのかもいまいちわかっていない……そういうことだね?」

「そうだよ……」

 ぐず、と鼻をすすって、風呂上がりのクアベルは答えた。飾り気もへったくれもない簡素なバスローブ一枚の姿で、下着もないからお腹回りがやけにすーすーする。おまけに両手はつるで縛られているときた。

 髪の乾かし方がいい加減で、まだ毛先が湿っているものだから、見るにみかねたチネッタがタオルを手に取り、頭をがしがしと拭いてやる。

「オレはただ、おチビちゃんを持って帰れって言われたからそうしただけさ」

 じと、とクアベルの目がジズを睨む。ジズもまたすみれ色の髪を乾かしながら、クアベルを横目で睨んでやった。

「お漏らし野郎……」と、ジズ。

「なんか言ったかぁ!」

「べつに……」

 空鼠そらねずみのチィちゃんがジズの右肩に飛び乗り、ぶるる、と身を震わせて水気を払った。

 つたで覆われているとは言え、隙間から漏れる天上の空気は肌寒い。ぺい、と湿ったタオルを放り捨て、チネッタは身震いしながら暖炉に手をかざす。

「なにかの間違いよ」と、チネッタ。「リフターはバベルを運営してるのよ? そんな人が、人の庭を更地にしろなんて言うはずないじゃない」

「……いや、それなんだけどさ、チネッタ……」

 クアベルがまごまごと口元を波打たせる。ちら、とマダムを見上げてみるも、助け舟は出てこない。庭師に至っては目を伏せている。

 ああ。最高に面倒だ。孤立無援に万事休す。クアベルはいつもの口調でぼやく。

「……オレが説明すんのかよぉ」

「お前の落ち度だ」と、ビーガン。「いいですね、マダム。どのみち、隠し続けるには無理のある話だ」

 また隠し事だ。口を尖らせるチネッタ。マダムが重苦しく腕を組んだ。

「いいかい、チネッタ」

「なによ」

「バベルの運営費はどこから出てると思う?」

「どこからって……投資の配当とか?」

 そらみたことか。お手上げだ。これにはみんな視線を下げ、マダムまでも肩を落とす。

「だから言ったろ、ビーガン……」

「なんなのよ!」チネッタが叫ぶ。「はっきり言ってよね! 私、あんまり頭よくないんだから、言ってくれなきゃわかんないわよ!」

 片翼者メネラウスだよ、とマダム。

「人身売買さ」

「ばいばい?」

「お前も行っただろう。あの競売けいばいだよ。天上宮は、引き取った子供達を劇場シアトルに売りつけてる。その金があそこの運営資金になるのさ」

「…………」

 一呼吸置いて、チネッタは馬鹿みたいに笑い出した。

「あっははははは! なにそれ! 人身売買! そんなの小説のお話じゃない!」

「チネ……」

「ひひっ。うひひっ。人が悪いわマダム。確かにリフターには眉がないけど! だからって、人身売買って……なはっ。そんな面白いこと言うなんて……」

 一頻ひとしきり笑い転げて、チネッタはと真顔に帰る。

「なによ。笑うところじゃないの? オーバーだった?」

「チネッタ……」マダムは眉間を押さえる。

「本気で言ってるの?」

「私がこの状況で冗談を言うと思うのかい」

「ボケちゃったのかと」

「ボケてるのはお前だし、それは平和ボケって言うんだよ……」

 チネッタの視線はついついと動いた。最初にジズ、次にクアベル、マダムにビーガン。誰も目を合わせてくれない。なんだか自分が滑ってしまったみたいじゃないか。

「そう。人身売買ね。そう。そうなの」

 納得したようにうんうんと頷き、チネッタは突然に立ち上がる。

「こんちくしょらばっちゃーーーーーい!」

 これはいけない。いつぞやのバグリスが予想した通りの展開だ。羽馬はねうまに乗って突撃するのが見えるようである。慌てたジズがチネッタのローブを引っ掴んだ。

「お、落ち着いて……」

「人身売買? そんなもん信じられるわけないでしょ! 直接リフターにたしかめてやるわ! バグリスじゃあるまいし、リフターがそんなことするわけないでしょ!」

 無理もないことだ。布団もあったし、食事も出たし、聖歌隊クワイアにだって入れるし、羽馬はねうまだって貸し出してもらえるし……。彼女にとって、天上宮はそういうところだったのだから。ジズが過ごしてきた檻とは何もかもが逆さまだ。

「嘘じゃないぜ、チネッタ」と、クアベル。「二月に一人、多いときには三人ぐらい……劇場に売り飛ばされるんだ。お前だって見たんだろ、オペラの競売……」

 クアベルの台詞を受けて、チネッタがへなへなと座り込む。

「……見たけど……そんなの嘘よ。たまたまジズが拾われただけで……私、てっきり……」

「チネッタは、競売には出なかったのか?」

「……出たけど……それは、私を引き取ったバグリスが、勝手にやったと思ってて……だから…………待って、つまりそれって……」

 は、と神妙な顔つきになって、チネッタはマダムの顔を見る。

「……私も売られてたってこと?」

「気の毒だが、そうだ」

 頷くマダム。どったん。またチネッタが跳ね上がった。

「行くわよ! 今すぐ天上宮に……」

「落ち着けって、チネッタぁ!」

「これがっ、落ち着いてっ、られるわけっ、ないでしょっ!」

「今更どうにもなんないだろ!」

「ふざっけんじゃないわよ! どいつもこいつも隠し事ばっかり! 何がどうなって何がなんなのよ! 頭が追っつかないわよ!」

 真ん丸い目玉を大きくひん剥いて、チネッタがクアベルに詰め寄る。

「いつから! いつからそんなことしてたのよ!」

「え……いや……わかんないけど」クアベルの目が泳ぐ。「多分……最初から……」

「あんた知ってたの? 人身売買してるって知ってたわけ! 馬鹿じゃないの! そんなこと許されるわけないでしょ! バベルは福祉施設なのよ!」

「えぅ……」

 アゾキアと同じようなことを言うものだ。クアベルがしゅんとする。

「だって、どうしようもないだろぉ……。そりゃあ、天上警察にタレ込むのは簡単だけど……そしたら天上宮で暮らしてる子供達は、路頭に迷うことになっちゃうし……」

 不満げに下唇を噛みながら、チネッタはビーガンを見やる。

「ビーガン。あなたも知ってたの?」

「知ってたらなんだ?」

「サイッテーよ」

「あなただって、その恩恵に預かってきたんでしょう」

 ビーガンはそう吐き捨ててやる。つくづく馬が合わない女だ。いつぞやアゾキアが言ったように、こういう部分に関しては、まだお漏らし女の方が話が分かるらしい。

「私の魔吸器マスクだって、天上宮から貸与されているものだ。カートリッジも、チューブもそう。ニチザツだってリフター管理官から貰った馬だし……」

「……」

「残酷な話だとは思いますが、しょうがないことだ」

「あんたねえ……!」

 激しくなるチネッタの剣幕。「よしな」と、見かねたマダムが杖で床を打つ。

「道徳の話はいい」

「マダムまで!」

「いいかいチネッタ。明るみに出なければそれは完全犯罪だ。犯罪なんて、要はバレなきゃいいのさ」

「ヘリクツよ、そんなの! 犯罪は犯罪じゃん!」

 周知の事実だ。彼女の青さがマダムの笑みを誘う。

「そうとも。犯罪だ。違法魔草マーブを育てるのも犯罪だし、そいつをパーティーで嗜むのも犯罪だ。競売でお前やジズを落札したのだって、もちろん犯罪さ」

「……それは……」

「お前、自分がグレーな領域の上に住んでるってことを忘れちゃいないだろうね。私は犯罪者なんだ。お前だってそれを知ってて黙認している。それとなにが違う?」

「……」

 〝良いところが悪いところを上回ったとき、あるいはその反対も……どっちがいくつあったとしても──そのときもう片方をどうするか〟……いつぞやチネッタが吐いた言葉が、そっくりそのまま返ってくる。

 そうだ。いかにも人当たりの良い老人にしか見えないものだから、ついつい忘れてしまいがちだが──それはあくまで家の中での話だ。この老婆が裏で何をしているかなんて分かったものじゃあない。

 事実、クアベルという女は生き埋めにされたのだから。

「責めてるわけじゃあない」と、マダム。「誰にも闇はあり、それによって生かされる命と、奪われる命があるというだけのことだ。お前は、たまたま生かされた」

「……」

「それが嫌ならここを出て行くことだ。まさか、犯罪者の家に引き取られるとはお前も思ってなかっただろうし──そんなこと、お前にはどうしようもなかった」

 むっとして、チネッタはマダムを睨みつける。

「だからそんなに、男を作って出てって欲しいわけ?」

「さあ。どうだかね」

「他に……他にやり方があったはずよ。私、知ってるわ。マダムがいい人だってこと知ってる。草なんか育てなくたって……人身売買なんかしなくたって……他に、いくらでも……」

「仕方なく選んだ選択肢でも、運命は決まってしまうものなのさ。私は手が届く範囲のものは救うが──手の伸ばし方をこれしか知らない」

 ジズは、伏し目がちにチネッタを一瞥いちべつする。唇がきゅっと一文字に結ばれていて、拳も石のように硬く握られていた。

 ジズにも覚えのある様相だ。いつぞや競売にかけられたとき、きっと自分も同じような顔をしていたに違いない。ああ。なら、同じじゃないか。チネッタの人生にもまた、自分の意志など介在してはいなかったのだ。

 天上宮の日々はジズからあらゆるものを奪い、チネッタには与えていった。しかし、どれもこれもが真っ白というわけではない。たとえば犯罪者の身内という肩書きなどは、チネッタの意思に関係なく宛がわれたものである。

 まったく、この天上における片翼者メネラウス──というより〝なりそこない〟と揶揄やゆされる者たちの、なんたる非力なことか。チネッタにしてもビーガンにしても、ジズにしたってそうだ。自分ひとりで生きていくこともかなわず、かといって与えられる生き方も自由に選べないとは。

 ぽかんと口を開けたまま、だらしのないつらで天をあおぎ、餌が与えられるのをただじっと待てと──鼠には、そういう人生がお似合いなのだと──さだめはそう言っている。

「……合点了解アイ・スィー

 ふう、と大きく息を吐き出して、チネッタは顔を上げた。もちろん何かが解決したわけではない。とりあえず今は、解決した気になっておくのだ。

「いいわ。リフターの悪い部分を一つ知ってしまったってことね。その時はその時。で、今がその時よ。考えを改めるわ」

「改めるって」と、クアベル。「どうするんだよ」

「……それを考えるのよ」

 考えて、それでどうしようというのか。チネッタなら後先考えずに警察に乗り込みかねない。クアベルとしては、最小限の面倒で済むように祈るばかりである。

 ──もし、もしもチネッタにまで危険が及べば、その時は……。

「そうだね」と、腕組みするマダム。「正直言って、ジズ一人じゃあ人身売買の証拠としては不十分だ。リフターが自白するならまだしも、今の段階じゃ説得力には欠ける」

 ならず者の瞳は鋭く尖った。決めあぐねているのだ。攻め方を。

「というか……」ビーガンが口を開く。「証拠を掴んで、どうするんです。まさか天上警察に駆け込むわけにもいかないでしょう。あなたの犯罪まで露見しかねない。仮に天上宮が解体されたとしても、残された子供たちの面倒は一体だれが? 対案がなければ解決にならない」

 ぽけ、とマダムが間の抜けた顔を作る。

「私が対案じゃないか」

「……養うつもりですか? 全員を? 馬鹿な。何人いるかもわからないし、魔吸器マスク羽馬はねうまの経費だってとんでもないがくになる。そんなの、新たに福祉施設を立ち上げるようなものです。いくらマダムの資産でも……」

「まあ、それは人数次第というところだが」

 〝ワグニヤ〟の先端に火を灯し、灰色の煙を鼻から吐き出すマダム。

「はっきり言って、この状態が長く続くことは避けたい。私の屋敷だって無限にあるわけじゃないし……敵の狙いがジズである以上、なにか手を打たなければ堂々巡りだ」

 マダムはクアベルを指して続けた。

「人質なんてぬるい手が、リフターに通じるとも思えないしね。で、あれば……」

「で、あれば? どうするんです」

「先手を打つ」

 そらきた。こういう人間なのだ。いよいよもってビーガンは頭を抱えたが、抱えさせたのはマダム・クリサリスだ。

「本気ですか……」

「そりゃ私だって隠居したいが。仕方ないじゃあないか」

「ですが……〝競売〟の仕組みが崩れるということは、少数派を救済する手段がなくなるということです。福祉施設を襲撃するなんて真似……それこそ犯罪だ。しかも、確実にバレる」

 付き合ってられない、とビーガンは立ち上がった。

「やるなら勝手にやってください。それは僕のあずかり知らぬところで起きたことだ。

 僕は誰の味方でもないし、たまたま今日に限ってこちらの味方だっただけのこと。天上宮の方で働いている時にもしもがあれば、僕はあちら側として仕事をします。それだけは覚えておいて下さい」

「は? ちょっと」チネッタが口を挟んだ。「なによそれ」

 口調こそ強いが、義憤や軽蔑ではない。理解が及んでいないのだ。

「じゃ、なに? あなた、バベルで働いてる時に、ジズとクアベルを取り戻して来いって命令されたら、マダムに喧嘩売るわけ?」

「……それが庭師の仕事に含まれるかはともかく」と、ビーガン。「なにかの間違いでそういうことになれば、そうするでしょう」

「意味がわかんないわ。そんなら、なんでクアベルを捕まえたのよ」

「仕事を果たしたまでだ。そして、その領分はもう終わった」

「終わったって……マダムの方でクアベルを捕まえて、リフターの方でマダムの敵になって、堂々巡りじゃない。あなた、一生そんなこと繰り返すつもりなの」

「……」

「めんどくさくならないの? 自分の立ち位置、ちゃんと決めた方がいいんじゃない?」

 マスク越しに舌打ちが一つ。また剣呑けんのんな空気が訪れたものだから、ジズはぎゅっとローブの裾を握る。

「それが私の答えだ」ビーガンは断言した。「仕方なくで選んだわけじゃない。私は庭師で、雇われの身だ。この立場ならそうするしかないし、糾弾されるいわれはない」

「ほら、そうするって言ってんじゃん」

「あぁーなら訂正する。こうするのが最善だと考えたんです」

 えらく難儀な言い草だ。口論するのも馬鹿らしくなってきて、ちょっぴり自分の選択を後悔してみたりもして、チネッタは眉間を押さえる。

「あんたねぇ……」

「自分の生活より大事なものがあれば、誰かの味方になる人生もあったかもしれない」

「……」

「人の立場というものは、なにを護りたいかで決まるものなんでしょう。私はただの庭師で、庭師としての人生が全てだ」

 逆に聞くが、と目を細めるビーガン。

「あなたは、何の為にこの家にいるんです」

「……何の為にもなにもないわ。私はここで暮らしてるだけよ」

「では、それがあなたの意志だということになる」

「……」

「違うと言うのであれば……あなただって私と大差はない。自分の意志が介在せぬ、漠然ばくぜんとした時の流れに身をゆだねたまま、せせらぎの中をたゆたう……笹舟ささぶねのようなものだ。

 あなただって、どうにもならぬまま囚われているだけじゃないですか」

 チネッタの表情が曇る。よくない空気だ。なにか、なにか言わなくちゃ……ジズはあれこれ頭を回すが、気の利いた言葉が出てこない。そのうちクアベルが突っかかった。

「物言いに気をつけろ、クソ庭師。チネッタはまだ十七なんだぜ。やりたいことを焦って見つける必要なんてない。いいじゃねえか。どう生きようがチネッタの人生だ」

「そうだ。そして僕の人生は僕の人生だ。生き方に口を挟むなと言っている」

 はん、と鼻を鳴らしてみて、クアベルは胡坐あぐらをかいた。

「オレと同じだな、お前は」

「なんだと? お漏らし野郎」

「結局よ、責任が伴うのが怖いだけなんだ。だからあの時も解決をチネッタに任せた。

 怖くないってんなら、面倒だって言い換えてもいい。オレと同じだね。そういう厄介ごとに巻き込まれるのを避けながら、長いものに巻かれて生きていく……粘土みたいな人間さ」

 鞘走る庭師の刈り込みばさみ。その切っ先がクアベルの髪先に触れる。

「それ以上御託ごたくをほざいたら、切り刻んでネシモワモの肥やしにしてやる」

「そうそう、それそれ。そういうのだよ。ムカついたんなら殺せばいいじゃねえか。立場があるからそうしないだけだろ? ご大層におべんちゃら振り撒きやがって」

 ぐ、とクアベルは身を乗り出す。刃先が頬に食い込んで、ぷつりと血の玉が浮かんだ。

「自分の惰性だせいで自分を縛って、趣味の悪い香水みたいに悲劇の香りを振り撒いてる。てめえの人生で背負うツケなんてのは、大体が自縄自縛で、自業自得なんだよ」

「貴様。アゾキアの女だからってつけ上がってると今に痛い目を見るぞ」

「アゾキアなんか知ったこっちゃないね。あいつこそ、オレの人生最大の、惰性の結果みたいなものさ。見てろよ庭師、てめえは今に後悔するぜ」

 にひ、といやらしく笑うクアベル。白い犬歯がむき出しになる。

「ちょっと頭回せばわかんだろ。こんな状況で、どっちの味方にもつかないなんて虫の良い話……神様が逆立ちしたって起こりっこねえんだよ。だからオレは、こうして長いものに巻かれてやってんのさ」

「……」

「おたくもそろそろ、どっちにつくか考えといたほうがいいんじゃねーのかい」

 無言のまま、ビーガンははさみを収めた。

 お漏らし女の言うことにも一理ある。選ばねばならない時が来るだろう。彼自身、そういう予感はしているのだ。一線を越えねばならない瞬間はいずれ必ずやって来る。その時はその時で考えればいい。

 自分の意志が人生に与える影響などは、ちっぽけな如雨露じょうろのほんの一撒ひとまきみたいなものだ。全てはなるようになる。なるようにしかならないし、しかるべき時にはしかるべき結果が訪れる。ビーガンに出来るのは、その時どちらかを選ぶことだけだ。

 問題はそれを、何に基づいて選ぶかだが。

「……行くのかい、ビーガン」

 煙を吐き出しながらマダムは問うた。別に、言いくるめようというわけではない。優待券ぶんの仕事は果たしたのだから、これ以上を求めるのはない物ねだりだ。

「安心して下さい。以前にも言いましたが……どれだけそそのかしたって、ですよ」

「言うようになったね。ああ、本当に。だが、それがお前の生き方ならば……」

 暖炉の中でまきぜる。マダムは視線を落とし、ビーガンは背を向けた。

「これ以外に」と、ビーガン。「僕は生き方を知らない」

「結構。手間を取らせたね。気をつけて帰りな」

 じく、と水晶ガラスの灰皿へ押しつけられる葉巻。席を立つビーガン。煙が徐々にかぼそくなり、後には甘ったるいバニラの香りと、四人で分かち合うには重すぎる空気だけが残される。

 脱力したようにドームを見上げて、マダムはぼそりと呟いた。

「……やはり、男の子はよくわからんな……」

 違う。男だとか、女だとか、そんなもっともらしい話じゃない。チネッタは唇を噛んでみて、それはあとだと居心地の悪さを払拭する。

「……本気なの、マダム。私、暴力はイヤよ」

「話し合いに行くだけだ。あくまで、言葉で解決する……そういうていで行くのさ」

「でも……」

「いいかい、チネッタ」

 マダムの炯眼けいがんがまたクアベルに突き刺さる。今日はよく睨まれる日だ。もう一生分睨まれたんじゃなかろうか。 

「奴が本気でジズを取り返したいなら、こいつ一人と言わずに十人でも二〇人でも連れて来るはずなんだ。市民からの信頼を考えれば、天上警察を無理やりに動かして、暗部はもみ消す、なんて真似も……まぁ、強引ではあるが出来なくはない。だが、そうしてはこなかった」

「わかるように言ってよ。私、難しいのはよくわかんない」

おどしなんだよ、これは」

 マダムの目がジズへと移る。

「〝ジズを引き渡さない限り、夜襲が延々と続くことになる〟……こちらにそう思わせるためのね。そして、奴は実際にそうするつもりだ」

「……でも」と、ジズ。「マダムが私を渡さないなら……」

「そうさ。話は進まない。だから、私は話し合いに行くしかない。派手な争いを避けたいのは向こうも同じだ。天上宮という閉鎖された場所で私を待ち構えて、あの手この手でジズの引き渡しをねだるに違いない」

 はた、とクアベルはお空を見上げた。

(……うん? そう? そうなのか……? 言われてみればそうかも……?)

 リフターのことだから、彼女が捕まることぐらいは予想の内だろう。言うなればクアベルはていのいい当て馬だ。しかるに、これは自分の性分を織り込み済みの作戦であり、巻かれるうちは巻かれておけばいい──いや、巻かれておかなければならない。

「早い話、罠だってことさ」クアベルを見るマダム。「だろう、小娘」

「……そこに気付くとはな。流石だぜ、マダム・クリサリス」 

 クアベルはがおで言う。もちろん言ってみただけである。

 しかし、これが正しければマダム・クリサリスの誘導は仕事の下準備だ。

 彼女本人が向かうのか、それともならず者を従えるのか、手段は定かではないが──天上宮に夜襲をかけるのであれば、その間、ジズの方までは手が回らなくなるだろう。

 でもって、リフターの狙いがジズを奪還することならば──狙うのはそこだ。

 つまり自分に与えられた仕事は、本当の仕事は──ジャスパーの生存をジズにチラつかせ、その愚かなる優しさを利用し、彼女を再び天上宮へと追い立てることか。

(……はぁーん。なるほどなっとく拾得じっとくナイフ。ご明察だぞクアベル。今日のオレはなんだか冴えてるな。あれ、でも待てよ。そんならババアが来る前に、ジャスパーが生きてるって知らせて、おチビちゃんを炊きつけておけばよかったんじゃ……) 

 ポンコツ頭のクアベルは、ようやく自分の役割に気がついた。そして、気付くのが遅すぎたということにも。ここで気付いただけ、ポンコツの中でもマシな方だと言えよう。

(……まぁいっか。なんとかなるなるないくるはじむ)

 クアベルに懲りる様子はなかった。このいい加減さゆえに囚われの身になったことぐらい、身に染みて──尿が染みたのはローブだが──分かっているはずなのに。

(うーむ。しかし困ったな)

 気取けどられぬよう、クアベルはほんの少しだけ首をひねった。

 当て馬として使われたということは、これから自分がどうなろうとも助けは来ないだろう。リフターはそういう男だ。自分の力のみでこの窮地をだっさなくてはならない。

 いや……きっとなんとかなる。そうとも。放っておいたって、このアホな女が──ジズが、おあつらえ向きのチャンスを作ってくれるに違いない。

「あの……」

 まごまご。もじもじ。両の指を控えめに合わせ、肩をすぼめ、ジズはようやく重い口を開いた。まさしくクアベルの思った通りに、だ。

「やっぱり出て行くから……」

「出て行く?」

 おうむ返しに訊ねるチネッタ。あっけらかんとした瞳が怖くなって──そこにはなんの悪気もないのに──ジズは目を反らしてしまう。

「だから、私が……」

「どこを?」チネッタが寄る。

「ここを……」

「どうして?」更に寄る。

「……だ、だって……」

 はん、とクアベルが鼻を鳴らした。

「そりゃあいい考えだぜ、おチビちゃん。そもそもお前が余計なことするから、こんな面倒な事態になっちまったんだ。代わりにオレがここに住めば、チネッタと二人で生活が……」

「あんたは黙ってなさいよっ」

 クアベルの頭を軽く小突いて、チネッタはジズに向き直る。

「あんた、どこ行くつもりなの? 行くアテあるの?」

「……ないけど……」

「んじゃ、どうすんのよ。ほっつき歩いて捕まったら、またバベルに逆戻りじゃない」

「……わかんないよ。どうしていいか、私にもわかんない……」

 追求に怯えながら、ジズはぎゅっとチィちゃんを抱く。

 頭の中で何度も繰り返した。どっちか選べなんて無理だ。どっちも大事なことなんだ。これでも鼠なりに──ジズなりに、持てるだけのちっぽけな勇気を精一杯振り絞って、ようやっとのことで言葉にしたのだ。

 どちらが……というより、どうするのが正解なのか、もはやジズにはわからない。わからないまま選ぼうとしている。彼女にとって理想化された自分の鋳型いがたである、愛と優しさ──判断基準はこれだけだ。ジズの意志など関係なかった。

 少なくとも、というところである。少なくとも自分が薔薇ばら水晶すいしょう権化ごんげであり、愛と優しさをその背に負って立つ清き薔薇ならば。そうあろうとするならば、自分は誰かを犠牲にするわけにはいかないのだろう。同じあやまちはもう犯せない。

 しかし、はたしてそこに自己愛なるものは……罵り名人リフターが言うところの〝自己愛〟ではなく、ロニアが言うところの〝自分への愛〟は存在するのだろうか?

 自分をないがしろにすることが自己愛への冒涜ぼうとくであり、他人を蔑ろにすることが優しさへの裏切りであるならば──

 ──私は、どちらを選んでもなりそこなってしまう。

「家出は許さないよ、ジズ」

 押しのけられるすみれ色の前髪。マダムの杖がジズの鼻先に突きつけられる。彼女の苦悩などはお見通しのようだった。

「私は投資家だ。お前に三〇〇〇万を投資した。お前がその少女時代でこの投資額をチャラにするまで、勝手にくたばるような真似は許さない」

「……」

「どうしていいかわからないなんて、当然さね」

 続いて放たれた一言が、ジズの心臓に重くのしかかった。

「こいつはもはや、お前にどうにか出来ることじゃあないんだから」

 やはり時間の問題だ。好機はそう遠くない──クアベルは内心でほくそ笑んだ。

 つくづくこの女は、薔薇に飲まれた愚かな鼠だ。どうにもならないことをどうにかしようとして、雁字搦がんじがらめになって溺れ死ぬ……そういう生き物なのだ。

 普通じゃない、とクアベルは思う。この女はあまりに怯えすぎている。そのうえ反吐へどが出るほど後ろ向きだ。神様が顔を前後逆さまに引っ付けてしまったのだろうか。檻にいた頃に見た限りでは、もう少しキレた面持ちをしていた気がしないでもないのに。

 なにゆえ。なにゆえこの女は、こうも陰りに縛られているのだろう。

 檻での日々か。それともリフターの言葉。ジャスパーの死に対する後ろめたさ。

 いや、きっとこいつの陰りは、もっと深い、遠いところに──

 ──まるで、過去にあるかのようだ。

「迎えを寄越よこす」

 真鍮しんちゅう製の魔信機マシーバーを片手にそう呟き、マダムは重い腰を上げた。

「事態が事態だ。厄介事が終わるまで、お前達には身を潜めてもらうよ。なに、心配ないさ。ただし」

 くれぐれも、と──低い、低い、圧をはらんだ声色で、マダムは念を押した。

「勝手に出歩いたりは、するんじゃないよ」

 少女達はうつむいた。しめしめと笑ったのはお漏らし女だけだ。

 さあ。うまくやれ、クアベル=ラズワイル。物臭ものぐさだってやる時はやるということを知らしめてやるのだ。

(でないと、ますます面倒なことになっちゃうからな)

 くちん、と小振りなくしゃみ。クアベルは赤らんだ鼻をすすった。